阿礼狂いに生まれた少年のお話   作:右に倣え

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たいへんおまたせいたしました(震え声)

最後の最後だけあってメッチャ悩んで色々試行錯誤しました。
時系列としては阿弥が亡くなった直後になります。つまりルート分岐はあそこで行われてました。


IFエンド そして彼らの未来は幻想に続いていく

 それは阿弥が旅立ってからしばらくのことだった。

 信綱は何をするでもなく妖怪の山に足を踏み入れては、ぼんやりと空を見上げるのが日課になっていた。

 

 通常、そんな上の空の人間が妖怪の山に入るのは自殺行為でしかない。

 しかし、心ここにあらずといった様子でも振るう剣さばきに揺らぎはなく、何を血迷ったのか襲い掛かってきた妖怪たちは全てが一太刀で存在を霧散させられていた。

 

 そんな風に自分を狙う愚か者を斬って、だが心は一向に晴れないまま信綱は今日も定位置である川辺の、腰掛けるのに丁度いい岩から空を見上げる。

 

「……今日もいましたか」

 

 そしてその状態の信綱とともにいるのが、彼とは幼馴染とも呼べる付き合いの白狼天狗――犬走椛だった。

 

「お前も来たのか」

「それはこちらの台詞です。人里にいなくて大丈夫なんですか」

「あまり騒がれたくなかったんだよ」

 

 信綱が阿礼狂いであることは周知の事実であり、同時に彼の持つ英雄としての名声も比類なきものになっていた。

 この二つが合わさっている現在、御阿礼の子が亡くなったことへの哀悼などを示してくる輩がいる。

 

 それ自体は良い。御阿礼の子の死が悲しまれないなど、それこそあり得ない。

 だが――自分に同情しようとする輩。それは許せなかった。

 

「この絶望も苦痛も、阿弥様が俺に与えた唯一のものだ。誰かに共有などさせるものか」

「……私なら良いのですか」

「お前は俺の本性を知っているだろう」

 

 下手に踏み込んでくるなら、お前であっても容赦はしない。

 言外にそう言っている信綱に椛は大きくため息をついて、信綱の隣に座る。

 

「だったら、こうしています」

「……何の意図が?」

「隣が暖かいって、結構ホッとしますから」

「……そうか」

 

 椛にそれ以上の意図はないのかもしれないし、あるいは言葉でなく信綱を慰めようとする彼女なりの気遣いがあるのかもしれない。

 しかし今はどうでも良いこと。信綱はこれ以上何かを言うことなく、再び空を見上げる作業に没頭していくのであった。

 

「…………」

「…………」

「……なあ」

「なんです?」

「……今の俺に付き合う意味なんてないぞ。自覚はあるが、抜け殻のようだろう」

「だったら、なおさら側にいないと駄目です」

「なぜ」

「抜け殻のまま、飛んでいきそうですから」

 

 上手いこと言ったと得意げな顔をする椛に怒る気にもなれず、信綱は軽くため息をついて視線を上に向ける。

 だが、次に口を開くまでの時間はそう長くなかった。

 

「……あの方は幸せだっただろうか」

「それを決める権利はあの子にしかありませんよ」

「そうだな、その通りだ。……それでもあの方に生きてほしかった」

「……私もそう思います。ただでさえ人間の一生は短いのに、なんでこんなに早く終わってしまうんでしょうね」

「俺が父であるなら、俺が先に死ぬのが筋のはずなのに」

「……はい」

 

 訥々と語られる信綱の心境に、椛は静かにうなずいて同意する。

 椛も阿弥のことは友人として知っているのだ。彼女の死に思うところは当然あるし、悲しいとも思っている。

 しかし、信綱と比べられるほどではない。己の半身どころか、全てであると言ってはばからない存在がその全てを失った嘆きに比べれば卑小と言わざるをえない。無論、比較するようなものではないが。

 

「……家族に死なれるのは悲しいな」

「はい」

「……お前にも家族はいたのか」

「私も阿弥ちゃんのことは妹みたいに思っていましたから。……正直、言い知れない感覚が胸にあります」

「そうか。……お前はもう立ち直っているのか」

 

 そう言って信綱は身体を起こし、立ち上がる。

 その姿には亡霊のごとき気配は漂っておらず、いつも通りの生真面目な空気をまとい始めていた。

 

「あの方は俺に生きろと言った。――ならば生きよう。この生命が果てるその時まで、あの方々に仕えよう」

「その意気です。ようやく調子が戻ってきましたね」

 

 誰にでもなく己の覚悟を語り、信綱は平時と同じ強い意志を宿した瞳で椛を見る。

 とはいえそれも一瞬で、次の瞬間には照れているのか彼女から視線をそらしながら感謝の言葉を告げる。

 

「世話をかけたな」

「これぐらい良いですよ。弱っている君が見られる機会なんて、そうそうありませんから」

「うん? そうだったか」

 

 椛のことは信綱も気の置けない相手だと認識している。

 自分でも無理だと思う頼み事をしたこともあるし、ままならない現状に愚痴をこぼしたこともある。

 弱みとはそういったものではないのか、と首をかしげる信綱だった。

 

「それは面倒だから言っているだけですよ。どれも自力でなんとかできるけど、他人に任せてしまいたいって心境の吐露です」

「あいにく手は二本しかないんだ。できることが多くてもやれることは少ない」

「だから私たちに任せた。でも、今回のことは違うでしょう?」

 

 御阿礼の子の死。信綱でも――万物であってもどうにもならず、不可避のそれ。

 信綱は阿礼狂いであるため、他の事象に心動かされることは滅多にない。

 ましてや打ちのめされることなど、これまでの人生にもなかったしこれからの人生にも存在しないだろう。

 言い換えれば、彼は御阿礼の子に関わることであれば容易に打ちのめされ、絶望するのだ。

 

 阿七の時、彼はより強くなるという己への誓いを支えとしていたため、弱みを見せることはなかった。

 だが今回は違う。親のように慕われ、信頼を寄せてくれた主人の死に信綱は弱り果てていた。

 意識してかどうかは知らないが、信綱はその弱みを見せる相手に椛を選んだ。

 

「ちょっと嬉しかったです。君は一人で落ち込んで、一人で立ち直ると思ってました」

「部屋にこもっていても気が滅入るだけだ。……まあ、気の向くままに動いていたらここに来たことは否定しない」

「だったら同じですよ」

 

 椛に笑われてしまい、信綱は機嫌を損ねたように憮然とした顔になる。

 真っ直ぐ自分に向けられる思いを苦手とするのは今も変わらないらしい。

 

 子供の頃から変わらない信綱の癖を見てさらに笑みを深める椛に、信綱は付き合ってられないとため息をつく。

 そしてもう一度空を眺めて、おもむろに椛の方へ向き直る。

 

「……丁度いい。お前に聞いておきたいことがあった」

「なんです?」

「阿弥様のことだ。以前、俺には相談できないことでお前に相談したことがあっただろう」

 

 信綱の言葉を受けて、椛は自身の記憶を振り返りながら首肯する。

 思い返されるのは信綱への感情に名をつけられず悩む阿弥の姿と、答えを出した阿弥の儚く美しい笑みの二つ。

 

「はい、確かにありましたけど……あれがどうかしましたか?」

「阿求様の代に同じ悩みが出ないとも限らない。そしてその時にお前が力になれるかわからない。――俺は全てにおいてあの方の力になる義務がある」

「……っ!」

「教えて欲しい。――どうして俺はあの時力になれなかった?」

 

 信綱の問いかけに椛は息を呑む。

 確かに阿弥は信綱が力になれない類の悩みを抱えて、椛や他者を頼っていた。

 とはいえそれは阿弥の感情の矛先が信綱に向いていたからであり、信綱以外に向いていれば彼に相談していたということは想像に難くない。

 

 しかし、阿求の代に同じことにならないか。信綱の疑問に対し、明確に否定できる要素を椛は持ち合わせていなかった。

 

「…………」

「答えたくない、というのは阿弥様のためだから認めてやりたいが、俺も引き下がれない。……御阿礼の子が受ける苦しみなど、少ないに越したことはないんだ」

 

 かつて、ある時期を境に阿弥が信綱と顔を合わせなくなった時期がある。

 あれは自身が不甲斐ないから起こったことであると、信綱は判断していた。

 もっと全ての悩みを聞けるよう振る舞い、立ち回っていれば避けられたもののはずだ。

 

 そんな風に己を責め立てる時期は一月ほどで終わり、阿弥はいつも通りに信綱と接するようになった。

 そう――いつも通りに、である。

 急に顔を合わせなくなって、それが終わったらである。何かありますと喧伝しているようなものだ。

 

「阿弥様が話した内容を全て語る必要はない。だが、俺に至らない点があったから阿弥様は苦しまれたのだろう。教えて欲しい」

「そんなこと! ……すみません、取り乱しました」

 

 信綱に至らない点などあるはずがない。常々、阿弥は信綱こそ最愛の家族であると胸を張って自慢していたのだ。

 そしてその最愛の家族に、それ以外の感情を持ってしまったからこそ阿弥は苦しんだ。

 もしもそれを伝えたら、信綱は自らの知らない感情を求めて遠くへ行ってしまうと思ったから。

 

「……あ」

 

 そうだ、と椛は理解する。信綱が理解しておらず、それゆえに阿弥が苦しんだものの正体を。

 だが、それは口で教えてどうにかなるものではない。彼自身が感じ取り、理解しなければ意味がないもの。

 自覚すると同時、椛は自身の頬に熱が集まるのを感じる。これを教えるということは言葉だけでなく、彼女自身にとっても大きな転機となる。

 

 言葉だけ伝えても彼には意味がないどころか逆効果になる。自身を狂人と正しく理解している彼だからこそ、その言葉の意味を理解できてしまう。

 そうなれば彼は阿弥にそのような感情を持たせてしまったとして、深い自責に駆られるだけだ。あるいは自らに側仕えの資格なしと判断して自害もあり得る。

 通常なら一笑に付すような椛の思考だが、相手は阿礼狂い。それぐらい平然とやってもおかしくない人間だ。

 

「何か思い当たるフシがあったのか」

「…………」

 

 故に、伝えるとしたら覚悟が必要になる。

 椛が知り得る感情の答えを、その身を以て教えなければならない。

 その覚悟が己にあるのか。そう自問し、椛は熱のこもった顔で信綱を正面から見据える。

 

「……どうした?」

 

 子供の時から何も変わらない仏頂面。瞳に浮かぶ意思は強く、数多の試練を乗り越えた彼の意思は幻想郷を動かすに足る輝きを宿している。

 彼との思い出を振り返ってみても、可愛げのある姿を見た覚えなどほとんどない。

 言うこと成すこと辛辣で、しかも椛を鍛える過程で何回手足をたたっ斬られたかなど数え切れないほど。

 これだけを見ればなんで自分が彼の友人なんてやっているのか、わからないと思うだろう。実際疑問に思ったこともある。

 

 しかしこれだけの人間でないこともまた、椛は知っていた。

 言うこと成すこと辛辣だが、見放したり見捨てたりはしない。手足を斬ってくるのは本当にやめて欲しいが、全ては椛が強くなるための鍛錬なのだ。

 意外なほど他人を慮っていて、誰であろうと誠実に向き合おうとする生真面目な性分を知っている。

 

 ――本当に、しょうがない。

 

 椛はこれから自分がやろうとしていることを省みて、内心で困ったように笑う。

 きっとこれは馬鹿なことだ。教えなくとも彼は勝手に進み、彼なりの結論を出して再び御阿礼の子と向き合うだろう。

 これを行う理由など、相手のためなどというおためごかしなものではない。

 結局のところ――自分はずっと、彼にこうしてやりたかったのだろう。

 

「――信綱」

「いきなり名を呼んでどうした……なぜ手を掴む」

 

 これから告げる内容は信綱にとって辛いものになる。

 彼がこれを知らない理由は阿礼狂いの一族に生まれたというだけ。

 ただそれだけで、彼は今に至るまでこの感情を知らないでいた。

 

 ずっと椛が信綱に抱いていた、大きな感情。

 椿とともに鍛錬した思い出。椿を殺した彼に向けた感情。共存を望みともに歩んだ日々。肩を並べ、背中を預けて脅威に挑んだ時間。

 目標の果てしなさにめまいを覚えた。人間と妖怪一人には重すぎる試練に笑いが溢れた。降りかかる苦難に苦悶を零したこともある。

 楽なものなど一つもなく――全てが愛おしく、楽しい時間だった。

 

「阿弥ちゃんが悩んでいたのは君が――愛を知らないからです」

 

 椛がそれを告げると信綱は怪訝そうな顔をして、次いですぐにその顔を青ざめさせる。

 やはり彼は察しが良い。今の言葉だけで阿弥が何を求めていたのか、自分は何を理解すべきなのか全て悟ったようだ。

 椛から距離を取るように動こうとする信綱だったが、動けない。そうなることを予測していた椛がすでに手を握っていた。

 

「そ、れは」

「君が悪いわけではないし、阿弥ちゃんが悪いわけでもありません。お二人の事情を知る私が断言します。全て妙なる巡り合わせの結果起きてしまったことです」

「だが!」

 

 こと御阿礼の子に関して、彼に妥協の二文字は存在しない。

 それを知らなかったことが阿弥に負担を強いてしまったというのなら、信綱は知って責任を取らなければならない。

 そんな自責の念に駆られる信綱を、椛は微笑んで見上げる。

 多くのことを経験し多くのことを知った彼であっても、知らないことに対して途方に暮れることはあるのだと思うと、どこか微笑ましかった。

 微笑みを浮かべたまま、椛はそっと自身の顔を信綱に近づけていく。

 

「私は、知ってます」

「何を……っ!?」

「動かないで。今、教えますから」

 

 椛が何をしようとしているのかわかったのだろう。信綱は無理矢理にでも手の拘束を振りほどき、離れようとする。

 だが、それも先んじて放たれた椛の言葉に硬直してしまい、上手くいかなかった。

 あるいはその瞳に何かを見出したのかもしれない。熱に浮かされ、潤んだ瞳の奥に信綱が知るべきだと感じたものがあったのかもしれない。

 

 動くなと言われ、驚愕の表情になりながらも律儀に動きを止めた信綱に小さく笑い、椛は高鳴る鼓動のままに信綱の顔に自身の顔を近づける。

 ずっと抱いていた感情に名前をつける時が来たのだ。この大きな、己の身を投げ出しても構わないと思えるほどの大きな感情に形を与える時が来たのだ。

 

 

 

 

 

 ――この感情は、誰に対しても胸を張れるもので――

 

 

 

 

 

「……伝わりましたか?」

 

 近づけていた顔を離し、椛は閉じていた目を開いて信綱を見る。

 驚愕の表情が貼り付いたままだったが、やがてゆっくりと状況を咀嚼するように何度もうなずいて、言い放つ。

 

「全くわからん」

「かなり勇気出したんですよ!?」

 

 一世一代と言っても過言ではないくらいに踏み込んだというのにこれである。

 しかし信綱も信綱で困ったように眉根を寄せており、椛の行動が心底理解できないと困惑している様子だった。

 

「そうは言うがな。口と口が触れ合って何が伝わると言うんだ」

「言わないでくださいよ恥ずかしい!?」

「どうしろと」

「もっとこう……感じ入ってくださいよ!」

 

 無茶苦茶なとぼやくものの、信綱は素直に瞑目して自身の感情を探り始める。

 やがて浮かんできたものはやはり、困惑が先立っていた。

 

「……正直な話、お前がこういうことをするとは思っていなかった」

「どうしてですか?」

「お前はきっちり人妖の線引をしていると見ていた。それが間違っているとは思わん」

 

 どれほど親しくなっても、そういった男女の関係を意識することはなかった。

 信綱にそういった機微がわかっていなかっただけ、と言われたらぐうの音も出ないが、それでも信綱は自身の見立ては正しいと感じていた。

 なにせ半世紀以上一緒にいて、彼女に感じているものは信頼のみだ。それはこの場での行動がなかったとしても終生変わらないだろう。

 信綱の指摘に椛は素直にうなずき、同意の姿勢を見せる。

 

「はい。君との付き合いはとても長いですが、私はそういったことは意識しないよう気をつけてきました。理由は二つ」

「二つ?」

「一つ目は椿さんが君のことを大好きだったから」

「…………」

 

 露骨に嫌そうな顔になる信綱を見て、椿には悪いが笑ってしまう。

 

「そこまで嫌いですか?」

「あれの好きは肉が好きとか野菜が好きとかそういった領域だ。レミリアと何ら変わらん」

「それは……まあ……確かに」

 

 信綱の言葉が全く否定できなかった。本当によくあの鍛錬を生き残ったものである。

 この話を続けても双方がロクでもない思いをするだけなのがわかったため、信綱は先を促すことにした。

 

「で、もう一つはなんだ?」

「君の信頼が嬉しかったからです」

 

 椛の言葉に信綱は疑問を覚えるように眉を寄せる。

 視線が細くなり睨むようになるものの、椛は動じない。

 こういう時の彼の行動は本心からわからない時だと決まっているのだ。本気で睨むつもりなら、視線に殺気も混ぜている。

 

「勘違いなら恥ずかしいですけど、君は私のことを一番信じている。違いますか?」

「いいや、違わない。俺が背中を預けられるのはお前だけだ」

 

 好意を表したり、友人であると認めることは恥ずかしがる信綱だが、自身の中で当たり前の事実であることを言うのは恥ずかしいことではないらしい。

 僅かな躊躇も見せずに首肯する信綱に、椛は照れたように笑って言葉を続けていく。

 

「はい、知ってます。ちょっとよく見える目以外に取り柄のない白狼天狗を信じてくれる君に背きたくなかった。私にできる精一杯で君の力になりたかった」

「十分助けられている。それでさっきの行動とどうつながる?」

「信頼に背きたくないと言ったでしょう? 今の関係を私の方から壊したくなかった。――だからこの感情に名前はつけなかった」

 

 そう言って椛は誇るように自身の胸に手を当てる。

 きっと彼女の胸の奥には、ようやく名前をもらって産声を上げた感情が暖かく息づいているのだろう。

 

「……今のを忘れろと言うのなら忘れるが――なぜ額を叩く」

「本当に君は女心がわかりませんね……」

 

 信綱としては気遣いのつもりだったのだ。

 額を小突かれたことに不服そうな顔をする信綱に、椛は呆れた目を向ける。

 次いで笑い、椛は満面の笑みで信綱を見上げた。

 

「多分、今日君がここに来ないで私に弱音も吐かなければ、こんな気持ちにはならなかったと思います」

「…………」

「先ほどの君を見て、私は自分の感情に名前をつけることにしました」

「……どんな、名前だ」

 

 信綱もここまで言われて何もわからないほど鈍感ではない。ただ、自身がその感情の矛先になるとは全く思っていなかっただけである。

 先を促すように聞かれた椛は誰はばかることなく、己が感情を謳い上げた。

 

 

 

 ――愛しています、信綱。

 

 

 

「君が――あなたが愛を知らないというのなら、私が教えます。君が死ぬその時まで」

「……なぜ」

「ずっとあなたと一緒にいたからです」

 

 今、愛と名付けたこの感情はきっと何色にも染まるものだった。

 信綱が今日ここに来なければ、この思いは友情として終生色褪せぬものとなっていただろう。

 しかし、彼はここに来た。ただそれだけの事実が、椛の抱く感情を愛情に変化させた。

 そのことを椛が信綱に伝えると、信綱は自分の行動を振り返ってほんの僅かに悔いるような姿を見せる。

 

「……ここに来たのは失敗だったか」

「嫌でしたか?」

「……よくわからん」

 

 本心だろう。愛していると面と向かって言われて、信綱は間違いなく混乱していた。

 阿礼狂いとして生きることを考えるなら断るべきだ。愛情を向けられているからと言って、自分にそれを返せる保証など皆無だ。

 このように考えてしまう辺り、自分は本当に愛情というものがわかっていないのだろう。

 信綱は胸中に浮かぶ考えに自嘲の笑みを浮かべる。

 

「お前の言うとおりなのだろう。俺に愛はわからない。……お前の想いには応えられ――」

「――るかどうか、これからの人生で見ていこうって話ですよ。あなたがなんと言おうと、私はあなたを愛し続けます」

「いや、俺がどういう出自かわかっている――」

「――から、やるんです。あなたに愛を教えるには、これぐらいしなければ到底届かない」

 

 自分の答えが読まれている。ことごとく先回りされていることに信綱は苦虫を噛み潰したような顔になる。

 長年の付き合いだけあって椛に引く様子はない。もう自分の中で出した答えに従って、信綱に死ぬまで寄り添うつもりのようだ。

 それが理解できてしまい、信綱はどうしてこうなったのだと片手で顔を覆ってため息をつき――受け入れることにした。

 

「……わかったよ。何を言ってもお前は止まらない」

「はい」

「……お前の想いに応えられるかわからない――いや、自分で言うのもあれだが分の悪い賭けだ」

「はい」

「それでも、来るんだな?」

 

 迷わずうなずく椛を見て、とうとう信綱は観念したように背中を向け、人里への道を歩き出す。

 その背中に椛は笑ってついていき、二人の姿は人里へ消えていくのであった。

 

 

 

 

 

 雲一つなく、蒼天高く澄み渡るある日のこと。

 百鬼夜行異変もすでに思い出話として笑える程度には時間も経ち良く言えば平穏な時間、悪く言えば暇な時間が再び戻ってきた妖怪の山の一角。

 

 天魔は自らの仕事場で、ごろりと横になって暇を持て余していた。

 

「ああ……暇だ」

 

 机の上に積まれていた仕事の書類に関しては部下に任せるものは部下に任せ、自身の采配が必要なものは全て終わらせた。

 あまりに暇なので、この書類を紙飛行機にでも変えて全て飛ばしてしまいたい、などというしょうもない考えが浮かぶことすらある。

 

 窓枠から見える空は綺麗に澄んでおり、見下ろす天狗の里は今日も今日で多くの烏天狗、白狼天狗が飛び交っている。

 最近は人里に買い物へ行こうとする天狗も増えつつあり、外部からの交流を取り入れることによって市場もにわかに活気づいている。

 百年単位で代わり映えのしない天狗社会なのだ。刺激があるのは良いことだ。

 

「オレもあそこに混ざってくるかな……」

 

 適当に店を冷やかして酒でも買って飲んでいようか。

 文にバレた時が面倒だが、その時はその時で彼女に怒られるのを肴にすれば良い。

 根が真面目なのに、一生懸命悪ぶろうと頑張る文の姿は天魔にしてみれば実に微笑ましい酒の肴である。

 

 天魔はしばし部屋で佇み、周りに人がやってくる気配がないことを確かめてから立ち上がる。

 

「――よしっ! サボって人里で酒でも飲むか!! 追加の仕事が来たら文に任せりゃ良い!」

 

 実に素晴らしいダメ人間の決意を固めていそいそと逃げ出す準備をしていると、窓の外から何やら声が聞こえてきた。

 

「んぁ?」

「――様!! 天魔様!! 大変ですよ大変大変!!」

 

 声が聞こえ、それが文だと理解できた瞬間、彼女が黒翼をはためかせて文字通り部屋に飛び込んできた。

 

「うぉっ!? 窓から入ってくるのは良いが、壁まで壊すなよ!?」

「そんなちっぽけなことどうでも良いですって!!」

「いや、ここオレの仕事場なんだが……」

 

 文は興奮した様子でぶんぶんと手元の紙を振り回しながら天魔に詰め寄ってくる。

 この壁は後で文の給料から差っ引こうと、風通しの良くなった自室を見て遠い目になる天魔。

 

 だがそんな風に落ち込むのも束の間。天魔は思考を一瞬のうちに切り替えて文を見やった。

 

「――で、何が大変なんだ。この間百鬼夜行が終わったばっかりだぞ? これ以上の騒動なんてまず起こらんだろ」

「起きたんですよそれが!! ほら、これ見てください!」

 

 そう言って文が叩きつけるように渡してきたのは、天魔が定期的に作るよう命じている天狗社会のかわら版みたいなものである。

 大天狗に反乱を起こされて以来、自分で部下の様子を見るだけでなく文を使って多方向から物事を見るよう心がけるようにしていたのだ。

 これもその一環であり、天魔の耳に入ってこないような些細な情報――それこそどこの誰が飲みすぎて失敗した、とかそういった話を文に集めさせていた。

 

「んー……どれもこれも似たり寄ったりだな。あんだけの騒ぎがあってすぐに騒ぎを起こそうなんて輩、そうそういるはずないだろ」

「烏天狗のとこじゃないです! 白狼天狗のところ見てください!!」

「白狼天狗ぅ? あいつらは基本哨戒内容の報告だけ……ってなんだ、婚儀?」

 

 白狼天狗が婚儀を執り行うそうで、文は鼻息荒くその場所を指差してきた。

 また珍しい、と天魔は思う。天狗社会は百年単位で代わり映えのしない社会だ。

 結婚しても良いと思えるほどに気の合うやつがいればさっさと結婚しているだろうし、逆に殺したいほど憎いと思うようなやつがいれば距離を取っている。

 

 天狗社会の変化する速度は遅くとも、対人関係を築く速度は人間と大差がないのだ。

 派閥と言ってもなんとなく気の合う奴らが一緒になっている間にできたものもある。

 

「珍しいな。幻想郷に来てから天狗が祝言とか初めてじゃないか? なんだ、お前行き遅れでも心配して――」

「そうじゃなくて!! 相手の方見てくださいよ!!」

 

 じれったいとばかりに文が紙を奪い、天魔の前に突き出してくる。

 何をそんなに混乱しているんだと思いながらも、天魔は素直に文の細くて白い指が差している場所を眺め――

 

「……はあぁっ!?」

 

 ようやく何が起こっているのかを理解し、彼もまた文と同じく心底から吃驚仰天するのであった。

 そしてほぼ同時期にレミリア、紫、萃香らもこの知らせを聞いて――あの男に妖怪の相手がいたのか!? という意味で幻想郷が震撼したのは別の話である。

 

 

 

 

 

 うららかな日差しの暖かい時分、信綱と椛は火継の邸宅にある縁側で日向ぼっこをしていた。

 白狼天狗という狼から化性した天狗だからか、彼女は外にいることを好む。

 暖かい日などは縁側で丸くなっている姿をよく見かけている。

 

 椛とともに暮らすようになって、信綱の周辺は大いに変化した。

 妖怪との共存を成し遂げた人間が妖怪と一緒になった、ということが大きいのだろう。人里のみならず、幻想郷そのものがちょっとした騒ぎになっていた。

 

 紫やレミリア、天魔らは信綱が妖怪と結ばれたと聞いて何事かとやってきて、その度に事情を説明するのが非常に面倒だと信綱は辟易していた。

 一緒にいる椛にも同等の苦労が行っている。嫌になったらいつでも天狗の山に戻ればいいとは常日頃から言っているのだが、今のところその様子はない。

 ……様子はないどころか、火継の女中と仲良くなり始めていて、人里に馴染むつもり満々にしか見えないため自分でも説得力の薄い言葉だとは思っているが。

 

「最近になってようやく落ち着きましたね」

「全く、俺が誰とどうなろうと問題ないだろうに……」

 

 強いて言えば先代との口約束になるが、信綱が言ったところ――

 

「ん? あんな口約束、本気にするほどのもんじゃないわよ」

「いや、言い出しっぺが破るのは問題があるだろう」

「あわよくばってぐらいだったし、それに会えなくなるってわけじゃないでしょ」

「……まあ、そうだな」

「これからも友達でいてくれるってんならいいわよ。結婚おめでとう」

 

 などと実に先代らしい言葉で逆に祝われてしまい、信綱がどう反応すれば良いのかわからず困ってしまうほどだった。閑話休題。

 

 ともあれ、信綱と椛は阿求が生まれる前の僅かな時間を二人で共有しているところだった。

 

「あなたの膝は暖かいですね……この場所も相まって暖かさが二倍です」

「俺は暑い」

 

 元が動物だからか、椛の身体は人より体温が高い。

 そのため信綱の膝の上はむしろ冷たいのではないかと思ってしまうのだが、椛は不思議と信綱の膝の上を好んで枕にしていた。

 今日も今日とて、彼女は信綱に膝枕をさせて縁側で丸くなっている。

 

「何が楽しいのかわからんな。というか暑くないか?」

「このぐらい平気ですよ。あ、あなたが暑かったら言ってくださいね」

「お前の身体が暑い。動物か」

「動物ですよ。元は」

「……犬を飼っている気分だ」

「何か言いましたか?」

「なんでも。……それといい加減、普通の口調で構わない。もう他人でもないだろう」

「そこはほら、慣れですよ。あなたに砕けた言葉を使うのは恥ずかしくて」

「今の状況よりか」

「今の状況より、です」

 

 何を言っても効果がないと察し、信綱がいつも通りの仏頂面になる。

 そんな信綱を下から見上げ、椛は嬉しそうに笑う。

 

 口では色々と言ってくるし、事あるごとに自分にそれはわからないと卑下するような言動が目立つが、それでも信綱は椛を拒絶しない。

 阿礼狂いとして生きることを考えるなら拒絶する方が間違いなく楽であっても、信綱にはその発想が浮かばなかった。

 

「……しかし、良いのだろうか」

「何がです?」

「阿弥様のことだ。お前の言葉と俺の推測が間違ってないなら、俺はあの方以外を愛すべきではないと思う」

 

 そもそも御阿礼の子に恋慕の情を抱かれる時点で阿礼狂い失格である。

 自分たちは御阿礼の子の幸せの一助であり、道具。

 道具は道具として彼女に侍っていれば良い。信綱はそのように、御阿礼の子が求めた役割に徹しただけだ。

 それで阿弥に悩みを負わせてしまったのだ。もしも本人が信綱に慕情を告げていたら、きっと信綱は側仕えの役割を辞そうとするだろう。

 

 ……それは御阿礼の子が愛を求めた時に、何も返してやれないことを心の何処かでわかっているが故の反応なのかもしれない。

 椛とともに暮らすようになって、信綱は薄々とそう考えるようになっていた。

 

「それであなたは阿弥ちゃんを愛せるんですか?」

「…………」

 

 だから椛の質問に対し、信綱は答える言葉を持たない。

 知らないものを軽々しく肯定はできない。人の心などわかった試しがない阿礼狂いとなればなおさらだ。

 言葉に窮する信綱を見て、椛は彼が話しやすいように疑問を投げかける。

 

「それとも、あなたは私を拒絶するべきだと思っているんですか?」

 

 信綱という男は御阿礼の子に関わることと、自身がやるべきであると判断したことに対しては迷いを持たない。人妖の共存もやるべきだと判断したからこそ迷わず動けたのだ。

 誰もが尻込みするようなものであってもやらねばならないと判断すれば迷わない。しかし、それは言い換えれば本人の意向が多分に反映されるものに対しては適用されない。

 要するに――この男はやりたいことを見つけるのがものすごく苦手なのである。

 

「……それは」

「拒絶するべきだと思ったのなら、とっくに私を追い出してますよね。それで私との関係が壊れたとしても、あなたは迷いません」

「そうだな。そうやって生きてきた」

 

 魑魅魍魎の跋扈する幻想郷で人間が妖怪と対等にやり合うには、やるべきことが山積みだった。ましてその中で誰も成し得なかった共存を願うのであれば余計に。

 その中で御阿礼の子を守り抜き、彼女らの一生を幸福に生きてもらうためには迷いなど持っていられなかった。

 

 しかし今はどうだろう。御阿礼の子の側仕えは終生行うが、それはまだ先の話。

 英雄として果たすべき役目もほぼ終わっている。全て果たしたわけではないが、今焦ってやるほどのものでもない。

 だからだろうか。今の信綱はやるべきことがなくなり、やりたいことを探している状態なのだ。

 

 信綱は何を言うでもなく空を見上げ、膝の上にいる椛の頭を撫でる。

 サラサラとした手触りが伝わると同時、椛がくすぐったそうに頭を動かして信綱の膝にこすりつけてくる。

 

「……何がやりたいんだろうな、俺は」

「探すのなら付き合いますよ」

「お前は何がやりたい――いや、失言か」

 

 今、信綱の隣りにいる。それが椛のやりたいことであると、すでに耳にタコができそうなくらい聞いていた。

 彼女が常々自分にささやく愛の意味を理解するまで、この関係は続くのだろう。

 

「はい、失言ですね。バツとしてこうしましょう」

 

 椛は微笑んで信綱の膝から身体を起こし、縁側に正座をして座り直す。

 そして自身の腿を優しく叩いて、信綱をそこに招く。

 

「私ばかりでは不公平ですからね。これでおあいこです」

「別にいい。それにお前の身体は暑いと言っている」

「さ、どうぞ」

 

 言葉と微笑みこそ優しいそれだが、実際は信綱の拒絶を考えていないものだ。

 信綱も拒絶することは問題ないと思っているのだが、断られるとは微塵も思っていない椛の顔を見ると何も言えなくなってしまう。

 

 仕方がないと諦め、信綱はそっと椛のふとももに自身の頭を預ける。

 阿七や阿弥と言った御阿礼の子からよくねだられていたため、膝枕することは慣れているがされることは慣れていない。

 彼女と一緒になって何年か経過し、その生活にも相応に慣れたと思っていても己の身を委ねるというのは緊張するものがある。

 

「緊張しなくても大丈夫ですよ。私はずっと、あなたの側にいますから」

 

 膝枕というより、膝に頭を載せているだけの信綱に優しく苦笑し、椛はささやくような声量で信綱の緊張を解そうと肩を撫でる。

 

「したくてしているわけではない。条件反射のようなものだ」

「……やっぱりやめます? あなたにとって苦痛ならやめますよ?」

「……辛いかどうかはよくわからんが、面倒だとは思っていない」

 

 明確に辛いと思ったことなど、御阿礼の子が苦しんでいる時か彼女らが旅立った時ぐらいである。

 それ以外の物事については面倒であったり厄介であるという感想を持ったことはあっても、辛いというような投げ出したくなる感想を抱いたことはなかった。

 

「お前が満足するならそれでいい。一日続けるわけでもないだろう」

「あなたが楽しいかが重要なんです。今、楽しいですか?」

「……どうだろうな。悪い時間ではないと思っている」

「だったら良かった」

 

 信綱の答えに納得したのか、椛は気分良さそうに信綱の頭を撫でる。

 信綱はそれを甘受しながら彼女の膝の上で思索に浸っていく。

 

 一緒に暮らすようになり、椛は問いかけをすることが多くなった。

 今が楽しいか。やりたいことは何か。自分に何かされることは苦痛ではないか。

 そんな信綱の心を探すような質問が増えている。

 

 信綱はその質問にどれも答えられなかった。

 物事を合理で突き詰め、情も思慮には入れるが実感はない。そんな生き方の疵瑕を突きつけられているような気分だった。

 人間は合理だけでは動かない。時に何よりも感情を優先して動くこともある。

 知識としても経験としても知っているものだが、信綱はそれを体感として知っていたのか、と言われると首を傾げてしまう。

 

 自分の行動は彼らの情を慮ったものだろうか。ただ、そうした方が向こうも気持ちよく動いてくれるという打算しかないのではないか。

 椛の言葉を聞いていると、自分の行いを振り返ることが多くなる。特にやるべきこともないからか、昔の出来事ばかりが信綱の頭に渦巻いていく。

 

「……お前は楽しいのか」

「はい、とっても」

 

 そう言って笑い、椛は信綱の頭を抱え込むようにする。

 

「暑い、狭い、苦しい」

「お嫌でしたか?」

「……嫌ではない」

「じゃあもう少しこのままで」

 

 抱え込む力が強くなる。

 まるで子を守る母親のようだな、と椛の姿を想像して思う。

 それでは自分は子供かと考えてしまい、今の状況からだとそう否定できない事実に唸ってしまう。

 

 愛を教えると宣言した白狼天狗は、今日も楽しそうに信綱の隣にいて。

 信綱は今日も自問自答をする日々を送る。

 阿礼狂いとしてではない、火継信綱自身の心を求める自問自答は彼にとって最大の難問であり、答えの出ないままに時間だけが流れていき――

 

 

 

 

 

 その日は満月の美しい晩だった。

 金色に煌めく月と夜天に輝く星々が地表を照らし、障子越しの部屋に微かな灯りを運んでくる。

 

 この場所で何が起きているのかわかっているのか、虫すら息を潜めていると錯覚するような静かな夜。

 部屋の中には一組の男女が向き合っていた。

 

「椛」

「はい」

 

 出会った時から今なお姿は変わらず、己に愛を教えるために妻となってくれた少女。

 そんな少女と向き合い、しかし今の信綱の顔に迷いはなかった。

 これから行うことはやるべきこと。そうすべきと判断したことなら、迷う理由などない。

 

「明日、阿求様に暇乞いをしてくる」

「はい」

 

 信綱の言葉に対し、椛の表情もまた不動。

 それがついぞ愛を理解できなかった己への失望なのか、それとも別の感情なのか。信綱は理解したくないと判断し、考えるのをやめる。

 

「実質、お前とも今日でお別れだ」

「はい」

 

 言うべきことが終わってしまうと、信綱は途端に言葉に困ってしまう。

 自分と寄り添ってきた妻との永の別れになるのだから、もっと何か言っておいた方が良いというのはわかるのだが、言葉が浮かんでこない。

 明文化できない何かに急かされるように信綱は口を開く。

 

「……すまない。結局、お前の言うものを俺は理解できなかった」

「……はい」

 

 信綱の口から出た謝罪の言葉に椛は初めて表情を変える。

 それは信綱の予想した悲痛なもの――ではなく、信綱に愛を教えると言った時から何も変わらない、慈愛に満ちた微笑み。

 

 なぜかその顔に罪悪感を覚えてしまい、信綱は視線をそらす。

 しかし椛はそんな信綱の頬に手を当てて、自身の方を向かせる。

 

「ちゃんと私の顔を見てください」

「…………」

「あなたがずっと考えていたのを私は知ってます」

「答えは見つからなかった。この問答もこれが最後だ」

「そうですね。でも、後悔はしていません」

 

 信綱の頬から手を離し、自身の胸に持っていく。

 そこに息づく何かを誇り、そこに息づく思い出を抱えて、椛は笑う。

 信綱が僅かに息を呑んだことは、当人すらも気づかなかった。

 

「――――」

「あなたに教えられなかったことは残念ですけど、私は私の想いに嘘をつかなかった。……あなたと一緒にいられたことは本当に嬉しい時間でした」

「…………」

 

 罵られるならまだ良かった。狂人に愛などわからないのだと言ってくれる方が気が楽だった。

 そう言ってくれるなら、信綱は自身の人間性など考えずに己の役目にだけ邁進することができる。

 笑わないで欲しい。こんな己に付き合ってなお笑っているなど、彼女の願いに応えられなかった自分が嫌になってしまう。

 

「…………」

「そんな悲しい顔をしないでください。あなたが気に病むことは何もありません」

 

 無表情を貫いているつもりだったのだが、椛にはわかったのだろう。

 労るように椛の手が信綱の頬に添えられて、そっと抱き寄せられる。

 

「あなたは十分頑張りました。隣で見ていた私が保証します」

 

 

 

 ――私はもう十分だから。あとはあなたのやるべきことをやって?

 

 

 

「…………」

 

 椛に抱きすくめられ、いよいよこの時間の終わりが見えてきていた。

 人生の一部として長い時間であり、狂人が愛を知るには短い時間だった。

 そこで初めて、信綱の脳裏にある言葉がよぎる。

 

 

 

 

 

 

 

 ――惜しい。

 

 

 

 

 

 

 

「…………ぁ」

 

 今、自分は何を思った、と信綱は目を見開く。

 御阿礼の子に関わることではない。仕方がないと割り切れることでもない。

 

 

 

 まさか阿礼狂いである自分が――この白狼天狗との時間を終わらせたくないなどと本当に思ったのか。

 

 

 

 時が来たら終わるとわかっているものではなく、たとえ御阿礼の子が彼女の死を望んだとしても、この時間を信綱の手で終わりにしたくないと、そう思ったのか。

 

「……っ!!」

 

 極限まで見開かれた目に意思が宿る。罪悪感に塗れていたものとは違う、確かな意思。

 椛に抱きしめられたことは何度もある。しかし、こちらから自分の意志で抱き返したことは一度もなかった。

 今からしても良いだろうか。今さらなどと拒絶されはしないだろうか、という逡巡はすぐにやりたいという衝動が上回った。

 

「あ……」

「――ありがとう、椛」

 

 彼女の背に腕を回し、強く抱きしめる。

 ようやく確信が得られた。探し求めていたものは本当にすぐ近くに存在した。

 故に彼女には教えなければならない――いいや、彼女に最初に教えたかった(・・・・・・)

 

 

 ――――。

 

 

 耳元でささやかれたそれに、今度は椛が大きく目を見開いた。

 しかしそれは信綱と違い一瞬のことで、すぐに感極まったように瞳を潤ませながら、信綱を抱く腕に一層の力を込める。

 

 過ぎていく彼と彼女の最後の時間を、星月夜だけが見つめていくのであった。

 

 

 

 結末は変わらない。彼は最後の最後、阿礼狂いとしての使命を果たしに行き、椛はそれを見送った。

 阿礼狂いに生まれ、阿礼狂いとして生きた少年なのだ。最期は御阿礼の子の側が相応しい。

 だが、そんな彼が人間になれた時間があったと言ったら信じるだろうか。

 幼少の頃から一緒で、阿礼狂いである彼をして相棒であると認めるほどの信頼を得た白狼天狗が、彼の人生に寄り添い続けてようやく得られた一瞬の時。

 

「ああ……」

 

 火継の家の玄関前。日も昇りきらない早朝から御阿礼の子の側仕えに向かった良人を見送り、椛は静かに深くため息を吐く。

 思い起こされるは昨夜告げられた言葉。

 あれは彼が自身の心を自覚した瞬間だった。あの一瞬が阿礼狂いに生まれた少年に与えられた人間としての時間だった。

 そこで彼なりに必死に頭を巡らせたのだろう。時間は少ないと理解していて、上手く己の感情を伝えられるかわからない不安を覚えながら、たどたどしい睦言を返してくれた。

 

 

 

 

 

 椛――多分、お前を愛している。

 

 

 

 

 

「多分、ってなんですか全く! 本当に女心がわかってませんね!」

 

 わかったのかわからないのかハッキリしない。そういう女心がわからない態度がいつも嫌いだった。

 ちゃんと理解するよう子供の頃から口を酸っぱくして言っていたのに、結局治らなかった。

 

「あんな言葉じゃ女の人は喜びません……!」

 

 目から涙がこぼれる。胸にこみ上げる歓喜がとめどなく涙を溢れさせていた。

 

「私、ぐらいしかっ……、喜びませんよ。それ、じゃあ……っ!」

 

 彼を愛してよかった。もとより見返りなど求めていたわけではないが、それでも強く思う。

 弱く幼い少年だった彼が強くたくましく育ち、阿礼狂いとしての精神に悩みながらも伴侶に対して誠実に向き合ってくれた。

 そしてあの言葉である。もう十二分だ。これ以上など何も要らない。

 

「信綱……っ! 私も、あなたを愛していますよ……!」

 

 ずっと、永遠に。

 その言葉は誰にも聞かれることなく――椛の中に永遠に残る誓いとなるのであった。

 

 

 

 

 

 そして場面は変わる。

 信綱の葬儀が終わり、御阿礼の子に新たな側仕えが就任することとなったのだ。

 

 阿求はそれを好意的に受け入れる気にはなれなかった。

 自分の側仕えは信綱ただ一人であり、それ以外を側に置くつもりはなかった。

 きっと信綱は自分の死後も考えて阿求のために心を砕いているだろう。それを無にすることを申し訳なくは思うが、三代に渡って自分たちに仕えてくれた家族の死を、そうすぐに別のものに代替したくはなかった。

 

 今日より側仕えというものを廃し、阿求が幻想郷縁起の取材に赴く時にのみ火継の護衛をつける。そういう形に変えてしまおうとすら思っていたのだ。

 そんな阿求の部屋の前に、一人の人間の影が現れる。

 

「――本日より阿求様の側仕えを任命された者になります。部屋に入ってもよろしいでしょうか」

「……それには及びません」

 

 硬い声で部屋に入ろうとする年若い青年を制止し、阿求は障子越しに青年と相対する。

 ここで阿求が自身の意向を告げれば話は終わりだ。この顔も知らない側仕えは阿求の前から消え、次に会う時は名も知らぬ護衛となるだろう。

 

 だが、それはあまりにも不義理ではないかと阿求の良心が訴える。

 阿礼狂いと呼ばれるほどに御阿礼の子に入れ込み、その一生を捧げ続けてきた一族に対し、いざ家族となってくれた阿礼狂いが死んだからもう終わりにすると一方的に告げるのは、いささか以上に酷い真似ではないかと思ってしまったのだ。

 

 決心は変わらずとも、せめて顔は合わせて話すべきだろう。

 阿求はそう考えて障子を開き――息を飲む。

 

 年の頃は阿求よりやや年上と言った程度。

 白い髪と赤みがかった双眸。白狼を思わせる面立ち。

 白狼天狗を示す耳や尻尾はないものの、完全な人間ではないということはまとう雰囲気で一目でわかる。

 そして何より――彼女の祖父を思わせる面影がそこにあった。

 

「本日より阿求様の側仕えをさせていただきます。火継(かえで)と申します」

 

 彼女の祖父、信綱を連想するとその声にも似通っている何かがあると感じざるを得なかった。

 

「……あなたの」

「はい」

「……あなたの両親を聞いても良いですか」

「はい。母は白狼天狗の犬走椛。父は先代の側仕えを務めておりました、火継信綱となります」

「どうして!?」

 

 信綱は一度もそんなことを言わなかった。

 彼の息子であれば自分にとっては兄にも近い存在であるというのに、なぜ?

 

 その疑問に対し、信綱の息子――楓は申し訳なさそうに眉尻を下げながら答える。

 

「私は父の血が強く出ています。母からの特徴は人間より少しだけ鋭い五感とこの眼ぐらい。それ以外は――阿礼狂いの血です」

「っ!」

 

 それで理解する。この少年がまだ子供の時に阿求の姿を見ていたらどうなっていたか。

 阿礼狂いとしての血に目覚めた彼は信綱に挑み、信綱は容赦なくそれを叩き潰すだろう。

 御阿礼の子の側仕えを狙うのであれば老若男女の境はない。親子であろうと等しく敵である。

 

 信綱が子供の頃、父を倒して側仕えの地位を得たように、楓もまた阿礼狂いとして目覚めていれば同じ道を辿っていただろう。

 但し相手は歴代最強の名を七十年以上維持し続けた正真正銘のバケモノ。結末など火を見るより明らかだった。

 

「故に私は本日初めて阿求様にお目通りを行っております。……なるほど、これが火継が持つもの」

 

 熱のこもった楓の視線を受けて、阿求は信綱が彼の存在を知らせなかったことに理解を示す。

 もしも信綱に子供ができたと言えば自分は会いに行っていただろうし、そうなったら彼の中に眠る阿礼狂いの血が目覚めてしまっていた。

 その果てに待つのは側仕えである信綱に挑む少年と、そんな少年を一切の呵責なしに殺す信綱の姿だ。

 

 阿求は二の句が継げなくなってしまう。

 もう側仕えの使命を廃そうと思っていたところにこれだ。

 彼に対し、自分はどのように接するべきなのだろうか、途方に暮れてしまっていた。

 

「…………」

「……父上よりお言葉を預かっております。阿求様が私をすぐに受け入れなかった時には言うように、と」

「っ、どんな言葉ですか!?」

 

 

 

 ――生きてください、阿求様。

 

 

 

「その言葉は……」

 

 信綱が死別した時と同じ言葉を聞いて、阿求の顔に呆然としたもの以外に一つの決意が浮かんでいた。

 

「阿求様が父上以外を望まないのであれば私は側仕えを辞すか、私が父上を演じましょう」

 

 あなたが望むのであれば、私が今日この時より火継信綱です。そういう楓の表情に迷うものは何もない。

 まだ少年と言っても差し支えない彼が自分の名を呼ばれなくなっても、構わないと本心から思っているのだ。

 

「……いいえ、それは必要ありません」

 

 阿求は楓の前に自身の小さな手を差し出し、微笑む。

 

「では……」

「お祖父ちゃんのことは絶対に忘れない。忘れないけど……それだけじゃダメ」

 

 楓が阿求の手を取り、立ち上がる。

 そして阿求と視線を合わせ、これから仕える主の言葉を待つ。

 

「――私と一緒に幻想郷を生きましょう」

「――それがあなたの望みならば」

 

 

 

 

 

 かくして、阿礼狂いに生まれた少年のお話は一つの区切りを迎える。

 だがそれは全ての終わりではなく、新たな始まりでもある。

 故に言うべきことは一つしかなく――

 

 

 

 彼らの未来に幻想の幸いあれ――




Q.これってどんなお話?
A.椛が押して押して押しまくるお話。

最後にふさわしいかは悩みましたが、一貫して阿礼狂いとして生きた少年が最後の最後に人間として愛を知る、というお話になりました。
ちなみに先代ルートは先代ルートでちゃんと人間になってますからあしからず。IFなんで多少の食い違いは無視してください(強弁)

椛の果たした役割は箇条書するとエライことになります。
・ノッブが死なずに力をつけて大人になるための手助け
・ノッブに人妖の共存という願いを与える
・ノッブに愛を教え、彼を人間にする(new!)

妖怪が人間にやる役割じゃない? 愛さえあればへーきへーき(震え声)

描写がワンパターンじゃね? とか言われるかもしれないな、と思ってますが、幻想郷でデートする光景もそもそも浮かばなかったのでこんな感じになりました。個人的なイメージですが先代とノッブは夜に月を眺めているイメージ。椛とノッブは日向ぼっこしているイメージです。

最後に生まれた楓少年は前から妄想だけはあった椛とノッブの子供です。
ノッブが結婚したと聞いて幻想郷が震撼し、その二人に子供ができたと聞いてもう一度震撼し、さらにその子供がノッブ譲りの才覚の持ち主であることが判明して三度震撼しています。
椛の千里眼とノッブの才覚、半妖の寿命があっておまけに阿礼狂い。ゆかりんと天魔の頭痛はもはやプライスレス。大変ですね(他人事)
椛とノッブが一緒になった幻想郷の未来では彼が阿求の側仕えであり、家族となって幻想郷の多くの異変に彼なりに立ち向かっていくことでしょう。



――これにて本当に阿礼狂いに生まれた少年のお話は完結となります。
火継信綱というオリキャラの辿っていたかもしれない道を全て書き切り、彼の物語はここに結末を迎えました。
ここまで書いてこられたのも皆様の感想や評価があってこそです。長い間のお付き合い、本当にありがとうございました。

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