「坊ちゃま、お客人でございます」
家の財政状況の確認や、当主の認可が必要な外部の家からの協力要請など、信綱が自室で書類相手に四苦八苦していると、年老いた一人の女中が入ってくる。
「わかった。……トメ、いい加減坊ちゃまはやめろ」
「ほほほ、私が死んだら聞くこともなくなりますよ」
「全く……」
乳母でもあるこの人には今でも頭が上がらない。
もう良い歳である彼女は火継の家の女中まとめのような役割を果たしており、当主である信綱に伝えるべき情報なども彼女が統括していた。
「誰が来たかは?」
「わかりません。ただ、八雲の使いだとか」
微かに目を見開く。まず連想されるのは子供時代に一緒に山を歩き、なぜか今でも付き合いが続いている子供っぽい妖猫だ。
「……小さな少女ではないだろうな」
「妙齢の女性と聞きましたが、心当たりでも?」
「……いや、忘れてくれ」
さすがに橙を人里の使いには出さなかったか。安堵したような、残念なような気分である。
客室に近づいたところでトメに目配せをする。普段なら伴ったまま行くのだが、相手が八雲の使いと来ては警戒を怠れない。
信綱の意思を汲みとったのか、無言で下がってくれる彼女に内心で感謝しつつ、信綱は客室に着く。
部屋を開けると視線の先にいたのは、見慣れたはずの黒髪すら美しく見えてしまうほどの美女だった。
「待たせて済まない。私が火継の当主、信綱になる」
だったのだが、信綱は特にそれ以上の感想は持たなかった。御阿礼の子じゃないなら眼中にない。
「いえ、私こそ突然の来訪に対応していただき感謝いたします」
信綱は上座に座り、対面の女性を軽く一瞥する。
見れば見るほど、尋常ならざる美しさの女性だ。顔立ちはもちろんのこと、身にまとう空気が尋常のそれじゃない。男を惑わす魔性の魅力というのがあるなら、それが当てはまるのだろう。
という情報をひどく冷静に処理して何かしらの確信を持ったのか、大きくため息をついて口を開く。
「……本題に入ってもらおうか。八雲藍」
「む……どこで気づいた?」
美女の姿が揺らぐ。波打つ人間の虚像という、どこか生理的な嫌悪感をもたらすそれを眺めていると、いつの間にか九尾を持つ少女へと変わっていた。服装も村娘の服から、マヨヒガで見た道士服に変化している。
「見ればわかる」
「……さすがは火継の当主、といったところか。人間も侮れない」
消去法と実際に見た印象で橙は真っ先に外れた。残るのは藍、もしくは紫になる。
紫がからかう可能性も全く考えていなかったわけではないが、彼女のいたずらを見抜ける自信はなかった。
要するに二分の一まで絞れたので、後は勘で言ってみただけである。
無論、藍に教える義理はないので黙っておく。勝手に深読みしてもらえるなら大歓迎だ。
「何の用だ。妖怪が人里に来るような事件でもあったか」
「いいや。これは歴代の火継に告げていることで、ある種の定時連絡のようなものだ」
「……定時連絡?」
訝しげに眉を寄せる。彼女らに教えてもらうようなことが何かあるのだろうか。
そんな信綱に、藍は特に溜めを作ることもなく実にあっさりとその事実を告げる。
「ああ。――間もなく、御阿礼の子が転生する」
「っ! 本当か!?」
思わず身を乗り出して確認してしまう。
その動作も藍は歴代の火継で慣れていたのか、特に驚く様子も見せずに頷く。
「ああ。これより数年の内に誰かの胎に御阿礼の子が宿る」
「それがわからないなら意味がないだろう。吐け」
「待て! その時になったら改めて来るから心構えをしろという意味だ! いきなり刀を抜くな!?」
「……数年とはどのくらいだ」
「三年以内には。転生する家への説明はそちらの役目だ」
「…………」
腹を痛めて産む子はあなたの子ではありません、産まれてもこちらで育てます、と言いに行く役割。どう考えても貧乏くじである。
だがそれで御阿礼の子に会えるのなら是非もない。信綱は迷う素振りも見せずに首肯する。
「念の為に確認するが、嘘ではないな?」
「お前たち相手に御阿礼の子が絡んだ嘘をつくなど、余程のバカだけだろう」
その通りである。例え幻想郷の管理者であろうと、御阿礼の子に害をなすなら殺す。そういう家だ。
「……わかった。その時が来たら教えてほしい。用件は以上か」
「そうだな。ここからは私事だ」
袖で腕を隠して、藍は何か見定めるような目で信綱を見る。
「…………」
「……何か? そちらの不興を買ったのなら謝るが」
「む、いや失敬。最近、橙がお前の話をよくするのでな。以前会った時とどう変わったのか見てみたかったんだ」
「そんなに変わったものでもあるまいに」
身長は伸びた。身体も出来上がった。剣術、体術もあの頃とは比べ物にならないほど成長した。
だが、それだけだ。信綱の精神はあの日、阿七を見た時から何も変わっていない。
「うむ。まあ橙の口から聞こえるのは悪口ばっかりだがな」
「……あいつめ」
今度会ったら尻尾握ってやる。
「ははは、そう怒るな。悪口ばっかりだが、お前の話をしている時は橙も楽しそうなんだ。人間に負けちゃいられないと言って修行にも身が入るしな」
「俺に勝とうなど百年早いと伝えておいてくれ」
「ははははは!」
信綱の言葉を聞くと、藍がおかしくてたまらないというように笑う。袖で口元を隠しているが、涙目になっている辺りよっぽど面白かったのだろう。
「……何がおかしい」
「いや、すまない。気を悪くしないでくれ。橙はお前がこれを知ったら百年早いと言いそうだから言わないで、と言われたのだが……まさか本当にそっくりそのまま言うとは」
「……ふぅ」
ため息をつく。あんな猫に自分の言動が読まれてしまうなど一生の恥だ。あいつと同じ知性だと思われないよう心がけねば。
「橙のことをよろしく頼むよ。あれもそろそろ人間を知るべきだ」
「知らなきゃいけないことなのか?」
「私の式として、な」
「ふむ……まあお前の思惑はどうでも良いが、来るなら相手にはなる」
幻想郷の管理者だとか、これから先の幻想郷の在り方とか、全部どうでも良い。
気にかけているのはそれが御阿礼の子の進退にも関わるからに過ぎない。
関わらないなら、どうぞこちらに被害を出さない範囲で好きにして欲しいという心境だ。
この点に関して信綱は実に一般的な阿礼狂いだった。一つ違うことと言えば――まだ誰も彼個人の脅威を認識していないということか。
今が平和な時代であることが信綱と幻想郷、双方にとっての幸いだった。
彼の実力が白日に晒される時は、もう目の前に迫っていた。
火継信綱がこの世に生を受けて――否、稗田阿七が亡くなってから、実に八年が経過した春の話だった。
「お前のせいで要らぬ恥をかいたわ」
「いたたたた!? な、何なのよいきなり!?」
春の芽吹きが聞こえ始める山に春の山菜を取りに来たところ、橙がやってきたので耳を引っ張っている次第だった。
「主の前で俺の愚痴ばかり吐いているそうじゃないか、ん?」
「な、なんでそれ知って――いたたたたっ!」
「藍にこの前会ったんだよ。全く……」
「痛い痛い痛い! 藍さま、助けてーっ!!」
無論のこと、助けは来ない。信綱は満足行くまで橙の耳を引っ張ってようやく橙を解放する。
橙は涙目で頭を抱えていたが、やがて回復すると信綱のすね目掛けて蹴りを放ってきた。
「このっ、このっ!! 当たりなさいよ!」
「嫌に決まってるだろう、痛い」
「あんた私にしたことわかってんの!?」
「はっ、ざまあみろ」
「むかーっ!!」
橙が本気を出して追いかけてくるのを適当にあしらい、肩で息をし始めたところで声をかける。
「今日は山菜を摘みに来たんだ。お前は邪魔だから帰れ」
「会うなり耳引っ張られて大人しく帰れるわけないでしょ!? 私が負けたみたいじゃない!」
勝ち負けなんてあったのか、というのが正直な感想である。
藍に笑われた恨みは晴らせたので、信綱に断る理由はなかった。
「……まあ構わんか。ほら、その鼻で山菜を探してこいタマ」
「誰がタマよ!?」
わいわいと騒ぎながら二人は山奥へ分け入っていく。その足取りに淀みはなく、橙の嗅覚に信綱の観察眼も相まってみるみるうちに山菜が集まる。
「あ、そこにタラの芽がある。ふきのとうも」
「よし、そろそろ良いだろう。これでしばらく春の味には困らない」
「ふぅ……」
橙は額にかいた汗を拭い、爽やかな労働の笑みを浮かべ――
「ってちょっと待って!? なんで私人間の仕事を手伝ってるのよ!?」
「チッ、気づかれたか」
「あんたがさも当然のように私をこき使うからよ!」
普通に命令を聞いてくれたから、手伝ってくれるのだとばかり思っていた。
とはいえ、これ以上無碍に扱うと本気で怒るかもしれない。窮鼠猫を噛むということわざもあるように、追い詰められたネズミは何をするかわからない。
「猫なのに例えはネズミとはこれ以下に」
「? 頭の中も春になった?」
「はっはっはお前は俺を怒らせるのだけは天才的だな」
「あ、ちょっ、耳はやめてー!」
山菜の入ったかごを片手に持って、橙の耳をわさわさいじる。ちゃんと手入れしているのか結構肌触りが良い。
「……時間はあるか。まだ日も高いし、少しばかり寄り道をするぞ」
「どこ行くのよ?」
「今の時期はイワナにヒメマスも美味い。雪解け水で栄養を蓄えた魚が食える。……まあ、手伝ってくれた礼ぐらいはしてやるさ」
「え、ちょっと、あんた熱あるんじゃないの?」
心配そうな顔をされた。こいつの場合、どうにも本心から心配しているのがわかってしまうため、それが余計に信綱を怒らせる。
無論、本気の怒りではなくこやつめハハハ! ぐらいの怒りだが。
「たまには早く帰ってウチの連中を揉んでやるかな」
「ああ、冗談冗談!! だから待ってお魚食べたいです!!」
「最初からそう言えば良いんだ」
橙がついてくるのを確認してから信綱は渓流に続く道を歩き始める。
ぼちぼち山に入り始めて二十年になる。もう半分庭のようなものだ。
阿七が存命の頃はともかく、御阿礼の子がいない時の働き口になるとまでは思っていなかった信綱である。
「でもどうやって釣るの? 釣り竿はないんでしょ?」
「お前はどうやって魚を取る。よもや俺と同じで釣りじゃないだろう」
「そりゃあんた、直に入ってすぱーんと……って、あんたがやるの?」
「そんな危険な真似、誰がするか」
まるで熊のような取り方だ。橙もこう見えて妖怪である以上、身体能力は高いのだろう。使い方がなってないので、信綱から見ればカモネギでしかないのが悲しいところ。
渓流の方まで歩いてきた信綱は山菜の詰まったかごを置いて刀を抜く。
そして水に足が触れる一歩手前まで近づき、水面目掛けて剣を振るう。
最初は綺麗な半月を描く薙ぎ。そして跳ねた水滴を砕くように無数の突きが放たれ――
「そら、火を用意しろ」
動きを止めた刀の先には、腹を貫かれる三尾の魚があった。
「え、ええ……」
信じられないを通り越して、バケモノを見るような目で見られる。それを無視して橙の耳に再び手を伸ばす。
「あ、ちょ、耳触るなー!」
「だったら早く用意しろ。お前だったら妖術で火を出せるだろう。魚の血でも早く洗わないと剣が錆びる」
「わかった! わかったから離れなさい!」
こいつ本当に人間かしら……という橙のつぶやきを聞かなかったことにして、信綱は刀に刺さった魚をその辺の枝に改めて刺していく。
ちょっと腹に傷がついているが、鮮度で補える範囲のはず。二尾も食べさせればしばらくはこき使っても良いだろう。
信綱の善意は基本的に打算込みである。
そうこうして用意された火に例によって魚を並べる。
なんだか最近、魚を家で食べていないなあと、しょうもないことを考えながら信綱はふと思ったことを口にする。
「……そういや、お前魚は生で食べるんじゃないのか?」
「焼いた方が美味しいでしょ? 生のままなんて非文化的よ」
「猫が文化を語るか……」
つくづく妖怪とはわからないものだ。そう思いながら信綱は橙が嬉しそうに魚に手を伸ばすのを眺めて――
「……俺とお前、そしてもう一人。この組み合わせがまたできるとは」
「んぁ、食べないの? 美味しいよ」
魚を食べることに夢中になっている橙に呆れた顔を隠さない信綱。
橙の頬についている食べかすを取ってやりながら、視線を渓流に向ける。
「お前は嗅覚だけでなくもう少し観察力を磨け。――そこの水中の妖怪! 敵意がないなら出てこい!」
「っぐ、うえぇ、いたの!?」
魚を喉に詰まらせたのか、ちょっとだけむせる橙を尻目に信綱は水面に視線を合わせる。
パチパチと火の跳ねる音と、渓流の流れに逆らう岩に弾かれる水の音。それに紛れて――人間大の何かが水に浮かぶ音が混ざる。
「うう、まだ近づこうか悩んでいたのに……お兄さん、人間?」
出てきたのは青い髪を持つ、緑の少女。要するに河童だ。
観念したように水から上がり、信綱たちの方に身体を向ける。まだ渓流の方に近いのは、いつでも逃げられるようにか。
「……なぜ出くわす妖怪どもは皆俺を人間か迷うのか。どう見ても人間だろう」
「はっ」
橙に鼻で笑われたので、とりあえず耳を引っ張る。
痛い痛いと喚く橙には目もくれずに、河童に顔を向けて口を開く。
「いつぞやの河童か?」
「うん、そう。……あの、そろそろ離してあげたら?」
「離して欲しいか? ん、嫌か。なら仕方ないな」
「言ってない、言ってないよーっ!」
適当なところで手を放し、抗議しようとしてくる橙に自分の魚を口に突っ込んで黙らせる。
色々と言いたいことはありそうだが、橙も素直に口内の魚を楽しみ始めた。とりあえず目先の楽しみを優先させるのは妖怪らしいのか、人間らしいのか。
「……仲、いいんだね」
「腐れ縁みたいなものだ」
「将来の八雲、橙さまと仲良くできるのに不遜な話よね!」
「その将来は俺の生きている間に来ないだろうが。お前なんぞただの猫で十分だ」
「表出なさいよあんたぁ!!」
ここが表である。
猛って爪を振りかぶる橙を受け流し、力を利用してこちらに背中を向けさせる。
そしてむき出しになった尻尾を握ると、橙は途端にへにょりと力を失う。
「にゃあぁ……尻尾はダメぇ……」
「弱点むき出しというのも面白い話だな……」
ひとしきり触り心地を堪能してから離す。
反抗する気力を失ったのか、橙はおとなしく自分の魚を食べに戻っていった。
その際、信綱の魚も持っていく辺り、なんだかんだちゃっかりしている。
「で、なんの用だ」
「あ、私がいたの覚えてた。てっきり忘れられたのかと……」
「別に忘れてなどいない。敵意がないならこちらも邪険には扱わん。魚、食べるか?」
「私の扱いはどうなのよ……」
橙が魚を食べながらボソッとつぶやくが、聞こえなかったことにする。
この妖怪に対しては不思議と手が出やすいのだ。信綱もよくわかっていないが、何かしらの波長が合うのだろう。
「きゅうりはないの?」
「お前に会う予定もなく山にきゅうりを持ってくるのは、相当奇特な奴だと思うぞ……」
「じゃあ仕方ないか。次は持ってきてね」
「おい猫。こいつ結構図々しいぞ」
「妖怪なんてそんなもんでしょ」
人見知りというのはどこに消えたのか。あるいは信綱と橙の二人は身内認定されたのかもしれない。
ひそひそと声を交わす二人の対面に河童は座り込み、橙に残しておいたもう一尾の魚にかぶりつく。
「いやあ、焼きたての魚は美味いねえ。よっ、お兄さんの釣り上手! ……あれ、釣り竿は――」
「あ、そういえば人間、あんた三尾取ってたのってこのため?」
「ねえ、釣り竿――」
「いや、山菜摘みに付き合わせた礼でお前に二尾食わせてやろうと……今のは忘れろ」
「……あんたさあ、そのたまに見せる優しさって計算づく?」
「釣り竿……は、無視ですかそうですか」
河童がほんのり落ち込み気味に魚をかじる。
信綱は釣り竿が手元にない以上、どうやって魚を取ったかなど見ればわかるだろうとしか思っておらず、橙はあんなものを説明しろと言われて説明できる気がしなかったためである。
「あ、そうだ人間。あの時の釣り竿、ありがとうね」
「……はぁ」
「え、そこでため息つかれる? すごい傷つく」
「いや……お前が関係していることじゃない」
思い出してしまったのだ。河童に釣り竿を渡し、橙と別れた信綱が自分の役目を果たした時の、あの夫婦の言葉を。
だが、全ては終わったこと。夫妻はどちらも父の死を心のどこかで認めていただろうし、やり場のない悲しみを向ける相手にたまたま信綱がいただけ。
それを非難するつもりはない。ただ、自分たちも木石ではないので思うところはあると言った程度だ。
今後も御阿礼の子の転生の報告など、そういった行き場のない感情をぶつけられることは増えていくのだろう。
「慰めになるかは知らんが、あの人は手厚く葬られた。俺もそれを確認した」
「そっか。……うん、ならいいんだ。お兄さんの前に姿を現したのだって、それが目的みたいなものだし」
「……あの老爺は」
「ん?」
「……すまない、忘れてくれ」
首を傾げる河童から視線をそらす。信綱自身、こんなことを聞いてどうするつもりなのか考えていなかった。
ただ――老爺は死の瞬間、後悔していたのか、など。
正しい答えなど誰も持っていない。河童に聞いたところで嫌な思いをさせるだけだ。
(……まだ引きずっているのか、俺は)
自分は阿礼狂いであり、御阿礼の子本人では決してない。かつて自分が看取った阿七が、本当に何も思うところなしに死ねたのか。
その答えは未だに得られず。自問自答を繰り返すばかりだ。
「河童、お前は……死者を思い出す時、良い思い出を浮かべるのか?」
「んー? どうしたのさ、いきなり」
「……興味本位だ」
実を言うと、信綱が打算抜きで好奇心を先行させることはあまりない。
自分と似た境遇の博麗の巫女に対して示したぐらいだ。それ以外は大体その場での道理に合わせた行動を取っている。
言い換えれば、これは阿礼狂いとしてではなく火継信綱という個人が持った疑問なのだ。
非常に稀有なものだが、あいにくと見せた妖怪らはその意味など知る由もない。
「まあ私はお爺さんとはただの話し相手だったし、四六時中一緒にいたってわけじゃないしね。お兄さんの望む答えが返せるとは限らないよ?」
「構わない」
「…………」
橙もこれには話を聞く姿勢を見せていた。魚を食べる手を止めて、河童をじっと見つめる。
「じゃあ答えるけど……大体は楽しい思い出ばかりだよ。あの時はこんなことを話した。別の時に話した内容は面白かった。寒い日にはお爺さんが用意した火に当ててもらった、とか」
「ふむ……」
「……でも、そればっかりじゃない。そういうのを思った時は大体、あのお爺さんが死んだことを考える。お兄さんは言わなかったみたいだけど」
「……悪意ある決め付けだ。言う理由がない」
老爺はお前に会いに行くために山へ行き、死んだ。理由としてはそれらしいが、本当のところは老爺にしかわからない。
河童に会うために死んだかもしれない。ただ普通に釣りをしようとして死んだかもしれない。
だから言わなかった。確証もないことを告げて、相手を悲しませることで得られる利益など何もない。
それだけの話である。
「でも言わない理由もない。だってあの時のお兄さんと私は見ず知らずの他人なんだから」
「…………」
顔をしかめる。揚げ足取りに近い言葉で、人を善人みたいに言うのはやめて欲しいと切に思う信綱だった。
あとニヤニヤし始める橙になぜか腹が立つ。
「……人をあまり曲解するな。俺はそんな善人じゃない」
「そうかもしれない。そうじゃないかもしれない」
「……おい」
あやふやなことを言い始める河童に、わずかに苛立った声を上げる。誰だって相手にされていなければ怒りぐらいは覚えるものだ。
「とまあ、これが答えだよ」
「む……?」
「私はお兄さんのことを知らない。これから知っていったとしても、完璧にお兄さんのことを理解できる時は来ない。私とお兄さんは他人だもの」
「……そうだな」
「だから私は私から見たお爺さんやお兄さんの姿で判断するしかないの。わかる?」
「……ふぅ」
諭されるような河童の言葉で何が言いたいのかを把握した信綱は、自らの不甲斐なさにため息をつく。
よもや名も知らぬ河童に説教を受ける日が来るとは。
「……わかったよ。馬鹿なことを聞いた。……相手がどう思っていたかなど、当人にしかわからないか」
「そういうこと。私は楽しくても、お爺さんは別かもしれない。
お爺さんは私を恨みながら死んだかもしれない。でも、私はきっとお爺さんは苦しまずに死んだと信じてる。これが答え。期待には応えられた?」
どうやら質問の意図まではっきりと読まれていたようだ。
「……年の功も捨てたものではないな」
「ふふん、見た目で侮ったね人間。妖怪の長命も無意味じゃあないってことさ」
「ん、あれ? 楽しいことを考えるかどうかじゃないの?」
「お前にゃまだ早い」
「耳はやーめーてー!」
橙の耳を乱暴だが、痛みは感じない程度に力を弱めて撫でる。
そうして話を終えて、魚をすっかり食べ終わった頃に信綱は立ち上がる。
「そろそろ戻るか。夕方の買い物時には店に山菜を卸すようにせねば」
「あ、次はきゅうりをお願いねー。相談に乗ったから奮発して五本はもらおうか!」
「遠慮のないやつだ……」
「よろしく、人間! じゃあね!」
肯定も否定もする前に河童は川に飛び込んで見えなくなってしまう。水中を泳ぐ速度の早さは、確かに人間とは違うことを頷かせるものだった。
特に泳ぎは身体能力が物を言う。地上でならまだしも、水中で河童に勝つのは難しいと言わざるをえない。
「河童って勝手ねえ。あれでよく人間を盟友だなんて言うもんだわ」
「盟友?」
「うん。なんか人間の生活を遠くから見ていたみたい」
「それでどうして盟友なんて出てくる」
「きゅうりでも作ってたんじゃない?」
「そんな適当な……」
それで良いのかと思うが、橙の言葉を否定する根拠も見つからない。
とりあえず河童はなんか変な思い込みを持っているということにしておく。正すかどうかは信綱の利益次第で決めよう。
「まあ良い。戻るぞ」
「はいはいっと。……あんたさあ、意外と悩みってあるのね」
「お前と違ってな」
「うっさいバカ。……私はあんたが死んだら、色々と思い出してあげる」
「どういう意味だ」
「しょっちゅう人のことバカにするし、口を開けば御阿礼の子ばっかりで、おまけに妖怪でもこき使う人非人だし、すぐ手が出るし」
橙が指折り数えるのは信綱にバカにされた回数だろうか。片手の指折りが親指から小指へ、そして小指から親指へ往復しているので、信綱が意識していないものまで数えられていそうだ。
「でも、不思議と嫌いになれない。たまに優しいし、お魚くれるし、悪いやつじゃないって思ってる」
「……優しさと魚は同義か」
「だ、か、らっ! あんたが死んだら諸々含めて、私の優秀な舎弟だったって話してあげる! 泣いて感謝しなさい」
ニパッと無邪気に笑う橙。それを信綱は眩しいものを見るように目を細め――る手前で堪える。
よもや橙が輝いて見えたなど認められるものか。バレたら何を言われるか。
「いや、それはやめろ」
「真顔で否定しないでよっ!? 本気で嫌がってるみたいじゃない!」
「本気で嫌がってるんだよ!」
にわかに騒がしくなりながらも妖怪と人間、二人の歩みが止まることだけはなかったのであった。
「いつか絶対! あんたのことぎゃふんと言わせてやるんだから!」
橙と主人公は割と腐れ縁じみた付き合いです。この二人は書いてて波長が合う。
河童の名前が出ない? 仕様です。実はこの物語が始まってから主人公は妖怪に名乗るのは幻想郷縁起を届ける時ぐらいです。
とはいえ橙は藍に名乗った時、椛は千里眼で、など知っていることもありますが、基本的に信綱は本人の前で名前は呼びませんし、妖怪もそれにならっています。
でも河童の名前が出ないのはおかしい? オリキャラにするかにとりにするかで正直悩んでいるところです(暴露)このまま名無しの河童でも美味しいかなと思い始めていたり。
次のお話で御阿礼の子の転生について書いて――揺籃の時代は終わりです。阿弥の時代は阿七の頃と打って変わって動乱が続く予定。幻想郷最後の原始的な戦いの時代が来ます。