天狗の里に向かう当日、信綱は阿弥と共に人里の外を訪れていた。
「父さん、天狗が私たちを送ってくれるって本当?」
「ええ。私どもに歩いて来いとは言ってませんでしたよ」
「阿夢の時以来かあ……」
信綱の手を握った阿弥はしみじみとつぶやく。
「覚えておいでですか?」
「私が忘れるはずないよ。それにあの時は……」
何かを思い出す――否、思い出すのではなく、過去に手を伸ばすような目だった。
信綱もその時代に起きた事件のことは知っているが、阿弥のように見た記憶までは持っていない。
どのような事件だったのか。気にはなったが、聞いて良いのか躊躇ってしまう。
彼女にそれを聞くということは、阿弥の記憶でなく阿夢の記録を見たいと言うようなもの。
あまりにも阿弥を蔑ろにしてしまうのではないか。そう考えると、信綱は口を開けなかった。
「……父さんは」
「はい」
「父さんは、私に何かあっても無茶をしないでね?」
すがるような目で阿弥に見られ、信綱は言葉に窮する。
そして阿夢の時に何があったのかも薄々理解してしまう。
阿弥がこのようなことを言うのなら、それはつまり――
「……阿夢様の代の我らは、もしかして」
「何とか戻っては来れたけど、そこで倒れて……」
大天狗の片翼を斬り落とし、阿夢を連れて逃げ切り、そして死んだ。
信綱の持つ情報とまとめるとこんなところだろう。
阿礼狂いが御阿礼の子の心身、名誉を守るのは当然だが、そのまま死ぬとはなんと情けない。
自分たちは御阿礼の子のために存在する一族。それが御阿礼の子を悲しませるなど、笑い話にもならない。
沈んだ顔を見せる阿弥の頭に手を置いて、サラサラとした髪を優しく撫でる。
「ご安心ください。阿弥様にそのような思いなどさせません。私はあなたの剣ですが、同時にあなたの父でもあるのです。父が娘を置いて死ぬ道理などございません」
不安に震える瞳を見て、優しく微笑む。
ちなみに死ぬ気がないだけであって、阿弥が貶められたり危ない目にあったら躊躇なく剣を抜くつもりである。
「……ありがとう。えへへ、なんだか父さんに頼ってばかりね、私」
「悪いことではありません。子供が大人を頼るのは当然のことです」
御阿礼の子が背負う重荷を少しでも軽くするために自分たちがいるのだ。頼ってもらえない火継こそ火継の名折れになってしまう。
なので今の状況はむしろ願ったり叶ったりなのだ。
二人は手を繋いで文との待ち合わせ場所に赴く。
信綱と文が会合場所として使っている廃屋の前に立つと、上空から風を切る音が二人の耳に届く。
「わっ」
「あやややや! どーもどーも、清く正しい射命丸文でございます! そちらが御阿礼の子でしょうか?」
「――そうだ。稗田阿弥様だ」
阿弥を風からかばい、現れた文の前に立つ。
今回は縁起の取材でもあり、同時に対等な立場による交渉でもある。
舐められないためにも気を張る必要があった。
「ほほう、まだお若いどころか子供ですか。とはいえ御阿礼の子、ちゃんと丁重にお出迎えいたしますよ」
「――初めまして、文様。信綱さんよりご紹介に預かりました、稗田阿弥と申します。本日はよろしくお願いします」
風からかばった信綱の前に出て、阿弥が人里を代表する御阿礼の子として文に挨拶をする。
「あやや、ご丁寧にどうも。天魔様の使いで参りました、射命丸文と申します。この度はお二人の水先案内人を務めさせていただこうかと」
そう言って文は信綱に視線を向ける。
「まだ言葉遣いはいつも通りで構いませんよ。あなたも私に敬語は使いたくないでしょう?」
「……阿弥様」
「向こうが良いと言っているのだから、お言葉に甘えても良いと思います」
阿弥の許可を受けてから信綱は文に口を開く。
「では失礼して――俺たちを天狗の里に連れて行くとは言うが、どのようにして連れて行くつもりだ?」
「ああ、お伝えしていませんでしたね。私としたことが失礼しました」
「よく言う。大方、何も聞かれなければ黙っておくつもりだったのだろう」
「あやや、相変わらずお鋭い。私、そういう人は嫌いじゃないですよ?」
「黙れ処女」
「その言い方いい加減直してくれない!?」
文と信綱のやり取りを阿弥はぽかんとした顔で見ている。
阿弥と話す時は常に従者としての立場を崩さないため、こうして砕けた口調で話す彼が新鮮だったのだ。
そんな阿弥の視線に気づいた信綱が彼女の方に振り返り、視線の高さを合わせる。
「阿弥様が気になるようでしたら、戻しますが」
「あ、ううん! 嫌とかそういうのじゃないの! ただ、父さ――信綱さんがそんな話し方をしている姿は、阿七の時にも見たことがなかったから」
「確かにそうですね。阿弥様の前が初めてかもしれません」
「そっか……私が初めてかあ……えへへ」
阿弥は何やら噛み締めるようにつぶやき、口元を緩ませる。
その理由に思い当たる点が見当たらず、信綱は首をかしげるが、後ろの文は微笑ましいものを見る目で二人を見ていた。
「あやや、お二人がそうしている姿を眺めるのも悪くないのですが、そろそろ話を戻しましょうか」
「そうだな。で、どうやって連れて行くんだ?」
「私がお二人をぐいっと……いや、冗談じゃないです本気です! だからその汚らわしい手で阿弥ちゃんに触れるなとでも言わんばかりの顔やめて!?」
「どうされます、阿弥様」
「……えと、信綱さんで」
遠慮がちに袖を引かれ、屈んで阿弥の矮躯を抱き上げる。
「これでお前が俺の背中を持てば良いだろう。安全に頼むぞ。阿弥様に何かあったら……わかるな?」
「わかりました! わかったからその目は本当にやめて!? 怖い!」
「……父さん、どんな目で見てるの?」
「ははは、自分の目つきなど気にしたこともありませんので」
「うぅ、結構長い付き合いなのにまだ慣れない……」
ちょっと触りたくないものに触るような手付きで文が信綱の背中を持ち上げる。
さすがに烏天狗と言うべきか、少女一人を抱えた大の大人を苦もなく抱えて空に飛び上がる。
「きゃっ!?」
「阿弥様、ご安心ください。ほら、良い景色ですよ」
「無理ー!? 父さん助けてー!」
「大丈夫です。私がちゃんと支えてますから」
「高いところは苦手みたいですね。楽しめるようなら遊覧飛行も悪くなかったのですが、少し飛ばしますよ!」
阿弥が信綱の胸にすがりついてくるが、信綱は全く動じた様子もなく景色を楽しむ。
背中の文が速度を上げ、信綱の身体が揺らいでも阿弥に振動が行かないようにするなど、およそ恐怖というものを感じていないのではないかと思うほどの態度だ。
乾いた大地の薄茶色と日を受けて輝く木々の緑。流水が岩に砕ける飛沫の白で構成された自然の絵画。
およそ三色でしか構成されていないものだが、心を震わせる何かが存在した。
人間で空を飛べる知り合いは巫女しかいない。彼女はこのような景色をいつも見ていたのだろうか、と思うと少々羨ましく思ってしまう。
それに腕の中で怖がっている阿弥にも見てもらいたい。高所への恐怖など一瞬でなくなりそうな風景だ。
「阿弥様、少しだけでもご覧になりませんか? 壮観の一言です」
「ううー……落ちたりしない?」
「私の腕が信じられませんか?」
信綱がそう言うと、腕の中にいる阿弥は信綱と目を合わせる。
穏やかに阿弥を見つめる信綱を見て、自身の側仕えに寄せる信頼を思い出したのだろう。
やがて意を決したように、ちらっと首を動かして地上を見下ろし――
「わぁ……!」
「良い景色でしょう?」
「すごいすごい! こんな景色、私以外の誰も見たことがない!!」
怯えていた姿から一転して、阿弥は食い入るように瞳を輝かせて眼下の景色に圧倒される。
信綱を抱えて空を飛ぶ文も阿弥の歳相応の姿に頬を緩ませ、茶化すように言う。
「あやや、これなら速度を上げなくても良いかもしれませんね。ゆっくり行きます?」
「はい! こんな楽しい体験、すぐに終わるのは勿体無いです!」
先ほどまでの怖がりっぷりがウソのようだ。
調子の良い言葉に文は笑い、信綱も阿弥が見せてくれた屈託のない笑顔に心が満たされるのを感じる。
やはり御阿礼の子には笑っていて欲しい。
そうしてしばしの遊覧飛行が終わり、再び徐々に高度を上げて天狗の里へ向かう途中、阿弥がふと信綱の顔を見上げる。
「――父さん」
「なんでしょう、阿弥様」
「父さんは私たちに知らないことを教えてくれる。阿七には家族を。私には父を。そして今もこんな素敵な光景を見せてくれた」
阿弥の手が信綱の胴体に回る。背中まで回りきらず、脇腹で止まってしまうが、それでも阿弥は信綱を抱き締める。
そして密やかに、文には聞こえない声量でそっとつぶやいた。
「ありがとう、私の大切な父さん」
「……身に余るお言葉です」
天狗の里に到着するまでの時間、二人は微笑みを浮かべながら景色を堪能するのであった。
天狗とは、空を飛べる妖怪である。烏天狗は言うまでもなく、白狼天狗もまた然り。そこに例外はない。
だからこそ妖怪の山の頂上付近に里を作り、今日に至るまで暮らしている。
そしてそこでは当然、地を歩く人間の配慮はなされておらず――
「ふむ……やはり様式が人里とは一線を画するな」
「うわ、凄い。崖と崖の合間に家が建ってる」
空を飛び交う天狗が、崖と一体化するように建てられた家から家へと行き来する光景が阿弥と信綱、二人の目に入ってくる。
手に買い物袋のようなものをぶら下げている辺り、ここは市場のようなものなのだろうと推測できた。
「ここで買い物が?」
「人里と大して変わりはありませんよ。取引をするのが河童というだけで、八百屋もありますし肉屋もあります」
「ではあの崖と一つになっているような家が店か?」
「その通りです。もう少し奥が深い家もありますよ。あまり天狗は住みたがりませんけど」
文を見ると、困ったような顔で頭をかいていた。
「崖の中を繰り抜いた形の家なんですけど、やっぱり私たちは空を飛んでいたい種族でして、いまいち不評なんですよ」
「ここまで人妖の違いを見せつけられると、考えさせられるな……」
「父さん、とにかく紙に書いて書いて! この光景は宝の山だよ!」
「すでに書き記しました」
信綱は全く違う妖怪と人間の文化に感心しきりだが、阿弥はこの光景の意義に興奮していた。
歴代の御阿礼の子でもこの光景を見た者はいないのだろう。今代の幻想郷縁起は天狗の項目が充実するに違いない。
「さて、ちょっとした観光案内はこのくらいにして、ぼちぼちお屋敷に行きましょうか」
「これと似たような景色が続くのか?」
「さすがに居住区や大天狗様らの家はもっと広い場所にありますよ。山の頂上と言っても、崖しかないわけじゃありません。狭い場所を活用しようとしたらこうなっただけです」
だったら広い場所に移れば良いと思うが、彼女らにこの頂上は譲れないのだろう。
「また私が抱えて行きましょうか?」
「阿弥様、どうされます」
「どうって……文様を頼らない方法があるの?」
「こう、私が抱えて跳躍すれば普通に」
家が建てられるほどしっかりしているのだ。むしろ足場だらけで移動には不自由しない。
岩の中を繰り抜いた家もあるというし、この空間内なら天狗だろうと翻弄できる自信があった。
そんな意味を含ませて言ったら阿弥と文、双方に引かれた。解せぬ。
「父さん、人間は崖から崖に移動はできないのよ?」
「彼もこの飛行で感覚がおかしくなったんでしょうかね?」
「その羽根引きちぎるぞ貴様」
文はともかく、阿弥がそう言うなら仕方がないと、信綱は再び阿弥を抱えて文に頂上付近へと連れて行ってもらう。
次に降ろされた場所はどこか静謐な気配のする森の中で、降りた場所から良く均された道が続いていた。
「この先に我ら天狗の集会場があります。ちょっと歩きますがそこはご勘弁を」
「ふむ……阿弥様、私の側を離れぬよう」
「――はい。行きましょう、信綱さん」
「御意のままに」
先ほどまでは文の目溢しもあって一人の少女としていられたが、ここからは御阿礼の子としての時間だ。
信綱もそれにならい、静かに彼女の後ろに下がる。
無論、警戒はこれまでの比ではない。幾つもの視線が自分たちを見ていることにも気づいていた。
「……ジロジロと見られるのは気分がよろしくありませんな」
「あはは、ご容赦ください。天狗も一枚岩ではないんですよ。お二人に興味津々な方もおられます」
「あまり良い意味ではないのでしょうね。信綱さん、我々も気を引き締めましょう」
そういう阿弥だが、手が微かに震えている。
きっと今にも信綱の袖を掴みたくてたまらないのだろう。
それはそうだ。どこで誰が狙っているのかわからないような状況に、十にも満たない少女が放り込まれて平気なはずがない。
さり気なく阿弥の後ろから隣に立ち位置を変える。
物騒な気配も感じるのだ。阿弥をここに連れてきたのは間違いだったかと後悔しつつあるくらいだった。
椛から得た話をまとめる限り、天狗の里では人間に対する見方が真っ二つに分かれているはず。
過去に火継の人間に翼を斬られた大天狗が革新派の長を務めている――言い換えれば、対立する派閥もあるはずだ。恐らく正反対の穏健派とも言うべきものが。
文、天魔の意向はわからないが、信綱と交流を持とうとした辺りそう悪くは見られていないはず。
彼らも人間を支配すれば良いと考えるなら、信綱の脅威を野放しにせず暗殺するなり何なりしていただろう。
だが革新派が派閥として存在する以上、自分たちを疎ましく思う天狗が一定数いるのも事実。
護衛に文を付けているとはいえ、彼女もどこまで本気で自分たちを守ってくれるかは未知数な部分がある。
あまり期待はできないだろう。下手に期待して裏切られるより、最初から戦力として数えない方がいくらか気楽だ。
(……椛に世話をかけるかもしれんな)
無駄になれば良いと思いながらも、仕込んでおいた下準備が役立ちそうで泣けてくる。
信綱は一瞬たりとも気を抜くことなく、文の案内する集会場へ阿弥とともに足を踏み入れるのであった。
「さて、ではここで天魔様が来るまでお待ちください。来たらお呼びしますので」
「わかりました。案内、ありがとうございます」
「いえいえ、個人的にはあなたも面白い子ですから、楽しめましたよ」
慇懃に一礼して去っていく文を見送り、二人になった阿弥はほっと一息入れる。
案内された部屋は応接間とも、休憩室とも言うべき一室だった。
建物の中身はさすがに人里と大差ないようで、見慣れた畳張りの和室にどこか安心感を覚えてしまう。
阿弥に座椅子を勧め、信綱は窓の外を一瞥してから阿弥の隣に控える。
「阿弥様、お体は大丈夫ですか?」
「阿七みたいに体が弱いわけじゃないけど……慣れない場所だから、少し疲れたかも」
「休まれたらよろしいかと。まだ天狗が集まっている気配もありません」
「ん……でも、誰か来たら……」
阿弥は気を張っていようとしているが、視線が信綱の膝に向いて目がトロンとしてきている。
「その時は起こしますので、今しばらく休んでください。私が見ていますから」
「ん、ありがとう、信綱さん……」
「誰も居りませんから、好きに呼んでいただいて構いませんよ」
信綱は阿弥に父と呼ばれることに慣れてしまった自分に、そっと忍び笑いを漏らす。
阿弥は信綱の腿に頭を落とすと、コロリと身体を仰向けにして見下ろす信綱と目を合わせる。
「ん、阿七と同じ景色だ」
「……ゆっくりお休みください。あなたが起きるまで、私はずっとここにいますから」
阿七も信綱の膝の上を好んでいた。そのことを思い出しながら、阿弥の目元を手で覆ってやる。
くすぐったそうに身じろぎをするが、静かな寝息に変わっていくのはすぐだった。
穏やかな笑みを浮かべて阿弥の髪を一撫でした後、信綱は険しい――妖怪と対峙する時と同じ表情になって廊下に通じる襖へ視線を向ける。
「そこの天狗、入ってくるなら静かに入って来い。阿弥様が眠っておられる」
「……嘘だろ。気配は消したつもりだったんだが」
信綱の言葉に従い、静かに襖を開いて入ってきたのは若い男性の烏天狗だった。
厳しい顔つきの信綱と違い、爽やかで精悍な顔立ち。今でこそ頬が引きつっているが、見るものに敵意を感じさせないその姿に、しかし信綱は一層の警戒を強めた。
(文が仕事をしなかったか……あるいは)
「天狗の首魁ともなれば、さすがに隠し切れない気配がある」
「……なんでそう思った?」
「護衛が離れた瞬間にやって来れるのは、護衛を命じた存在も選択肢に入るものだ」
「亡き者にしようとする間者や襲撃者は?」
「わざわざ阿弥様が眠るのを待ちはしないし、もっと狙いやすい時があった」
「……クックック、こりゃ予想以上だ。文のやつ、美味しい役目を持っていったな」
信綱の対面に腰を下ろした天魔は、実に楽しいと言うような笑みを浮かべて信綱を見据える。
姿そのものは文と同じ、若い青年の姿にしか見えない。信綱と並んで他人が見れば、彼の方が若く見えるくらいだ。
だが、信綱はこの青年に八雲紫と同じ気配を感じ取る。
彼もまた、天狗の山の首魁を務める怪物である、と。
「……なんの用だ」
「オレも公の場では取り繕うからな。妙な誤解を与える前に顔見せと、話でもちょっとしておこうと思ってな」
「阿弥様が眠る前で、か」
「御阿礼の子の使命は幻想郷縁起の編纂だ。そっちは後で体裁を整えてから話す。だが、お前さんとの交渉はあまり横槍を入れられたくない」
確かに、信綱も阿弥に人里の運営に関わる話を聞かせたくなかった。
彼女にとっては青天の霹靂だろうし、何より御阿礼の子も火継も人里や幻想郷の政治には深く関わらないように生きてきたのだ。力になれるとも思えない。
英雄として名を馳せ、妖怪からも目をつけられている信綱が例外なのだ。
……ただ単に誰もやりたがらない火中の栗を拾わされているとも言うが。
「わかった。但し条件がある」
「なんだ?」
「……阿弥様がお休み中だ。声を静かに」
「……ああ、懐かしいねこれは」
くつくつと楽しそうに――ちゃんと声は潜めて――笑う天魔。
その様子を見ながら、信綱は片手で阿弥の頭をそっと撫でる。とても落ち着く。
「さて、オレはお前さんと一度話がしたかった。こうして会えて嬉しいよ」
「そうか。用件を言え」
「せっかちだねえ。とはいえ長話もできんし、簡潔に行くか。――お前さんはオレらにどうして欲しい?」
天魔の言葉に少々考えこむ。信綱の脳裏に浮かぶのは、慧音や椿にレミリア、そして椛と言った人妖の在り方を考えたことのある存在の言葉。
慧音は表面では受け入れているが、そこには妖怪の理不尽に対する怒りが押し殺されていた。
椿はなかなか本心を明かさなかったが、あの戦いで触れた一端では古来より続いてきた、人と妖が戦う世界を望んでいた。
レミリアは自らを高貴な吸血鬼として、人のことは有象無象と言いながらも無為に虐げることもないだろうと確信できる高潔さを伺わせた。
椛は椿とは対照的に、もはや人妖の争う時代は終わったと言っていた。信綱と椿が殺し合ってしまった、今の幻想郷を嘆いていた。
そして人と妖怪が争わなくて済む世界にしたいと願っていた。
この中で信綱が最も共感でき、また同じ方向を向きたいと思わされたのは――
「――共存を。今までとは違う形で、人と妖怪が暮らせるようにしたい」
あの日、涙を流しながら自分にすがってきた、椛以外にいないのだ。
「へぇ?」
「これまで通り不干渉を貫くのが一番無難だろう。だが、それではいつまで経っても何も変わらない」
合理的に考えて不確実な選択だ。そんなことは信綱にもわかっている。
少なくとも不干渉なら、表面的な問題は自分の代には噴出しないだろう。
それでお茶を濁して後のことは後の世代に任せてしまうのが、信綱にとって一番面倒が少ないと思える道だ。
――だが、それだけではいけないことを信綱は阿七から教わっている。
人妖の共存の形など、これまで行われてきた不干渉という在り方しか知らない。
人も妖怪も交わる幻想郷の姿など、ひょっとしたら誰も想像できないのかもしれない。
しかし、それでも誰かがやらなければならない。できなければ未来は先細るだけだ。
そうなっては後世の御阿礼の子にも悪影響が出かねない。それに人間の脅威である妖怪を逆に味方に付けられるのなら――阿弥に振りかかる苦難を格段に減らすことにも繋がる。
言い訳に近い屁理屈だが、敵を敵のままにするよりは味方に引き入れる方が後々の脅威が減るのも事実。
なにせここは幻想郷。この狭い世界の中でくらい、いがみ合わずに済んでも良いではないか。
信綱は椛の願いと自身の意思。双方を乗せた瞳で真っ直ぐに天魔を見つめる。
「で、具体的にはどうするつもりだ?」
「それをこれから一緒に考えるのだろう。どうやら同じことを考えていたようだし」
「……なぜそう思った?」
「わざわざ文を遣わせた意味。天狗の情報までくれた意味。こうして直々に話したい意味。総合すれば簡単に出る答えだ」
「――良いねえ。文句なしだ。オレが見てきた中でも最高級に良い人間だ」
片口を釣り上げ、天魔は性格の悪そうな笑みを浮かべて信綱を称える。
その顔に信綱は顔をしかめ、相手は自分を見定めに来ただけだと理解する。
「そう怒りなさんな。褒めてんだぜ? それに御阿礼の子が起きねえ間だけって制限もあったしな」
「そうか。――ここが公の場でない以上、ここからの対応には素の自分で判断してもらいたいものだが、どう出るつもりだ」
公人としての会合なら、一方的に自分のことを話した信綱が悪いで済まされるし、そこで恨み言は言わない。
しかし今はお互い私人としての時間だ。その対応如何で、信綱は天魔がどのような人格であるか見定めると言っているのだ。
要するにちょっとした意趣返しである。
「性格の悪さはお互い様だな。まあ――オレは同じ視点を持っているとだけ言っておこうか」
そう言って天魔は立ち上がり、部屋の外に出ようとする。
「思いのほか有意義な時間を過ごせた。この後の会談でまた会うことになるが、その時はせいぜい威厳を出すさ」
「阿弥様を怖がらせたら誰であろうと殺す」
「ハッハッハ、わかりやすくて大変結構。じゃあ、また後でな」
立ち去る天魔を見送り、信綱は知らず背中に汗をかいていたことに気づく。
顔にまでは出ていない。万に一つ阿弥に垂れたら火継失格である。
話すことにより一層、あの天魔が底知れない相手であると確信が深まった。
もう少ししたら阿弥が彼と話すのだ。何事もなく、恙なく話が終わることを祈るばかりである。
「……阿弥様、頑張ってください」
これから待ち構えている阿弥の受難を、信綱は最初から受け止めることができない。
その悔しさに比べれば、自分がその後に人里や幻想郷の行く末を左右しかねない会談に臨むことなど些事だ。
本当にどうか、どうか――彼女に困難を与えないでくれ、と信綱は誰にでもない何かに祈るのであった。
共存を願う二人の邂逅。これが幻想郷における一つの転換期になります。
ノッブは阿礼狂いであるという前提以外は、色々な人の影響を受けています。
阿七の言葉を受けて情に理解を示し、そこから派生して様々な人妖の考えを受け止め、自分の中で蓄えていきました。
そして決定打が椛の願いという。彼女が心から願った人妖の共存できる幻想郷という思いこそ、阿礼狂いでないノッブが共感した願いとなり、今の姿に繋がります。
今の性格になった全ての起点は阿七。そして人も妖も見て、情も理も理解した彼が選ぶのは椛の願った人妖の共存。
物語を始めた当初のプロットにはこんな繋がりが生まれるとは書いてありませんでしたが(というか椛の躍進も書いてない)、割りと上手くつながったなあと自画自賛しています。
まあ阿礼狂いが前提なのは変わらないんで、阿弥に危険が迫ったらぶん投げますけど(本末転倒)