「…………」
まぶたを閉じると今でも克明に浮かんでくる光景がある。
無二の友人が築き上げた、人も妖怪も殺し合わないで済む世界。その一端をこの目で見ることができた椛は、この上ない上機嫌で今日も職務に励んでいた。
「ふんふふんふふーん」
鼻歌でも歌いたい、というか実際に歌いながら周囲を見て回っていると、同時にあの後の出来事も思い返されていく。
「よう。まあ座れ」
「はい」
胸の充実感に突き動かされるようにフワフワと交流区画で信綱たちと遊んだ後、戻った椛を待っていたのは天魔からの招集だった。
まあこれは予想できていたことだ。信綱とともに笑い合っている時からこちらを見つめる視線には気づいていた。
……千里眼を持つ自分はさておき、どうやって信綱も気づいたのかは謎だ。おまけに自分より早かった。つくづく思うが、彼は人間なのだろうか。
眼前に座っているのは若い烏天狗。艶のある黒翼を広げ、片膝を立てて座る眼差しには値踏みするような光が湛えられている。
暇だった時に眺めていた姿と同じである。以前、人里に行く際に顔合わせをしたことがあったが、あの時は老爺の姿であり、内心の驚愕を隠すのが大変だった。
こちらが本来の姿なのだろう。見た目に似合わぬ老成した空気と、一瞬の油断を見逃さず食らいつく貪欲さが見え隠れしている。
「……へぇ、オレの本来の姿を見せた奴は大体驚くんだがな。驚かないか」
「天魔様に呼ばれることが、私にとってはすでに青天の霹靂ですよ。今さら一つや二つ、驚きません」
ウソである。前から千里眼で彼の姿を知っていたからだ。前情報なしで天魔の姿を見ていれば驚きは隠せなかった。
そんな椛なりの虚勢であったが、天魔にはしっかり見抜かれているようでくつくつと楽しそうに笑うばかり。
「いやいや、なかなかどうして肝が据わっている。そのやたらと広い目をごまかす術も心得ていると見た」
「……何の話でしょう」
「今さらごまかさないで良いぜ。阿礼狂いの旦那が散々隠し通してきたお前の存在を、あそこで明かした。
要するにお前のことが明るみになってもお前に危険はないって判断したんだ」
「…………」
せめて一言事前に言って欲しいと思う椛だった。いや、もう隠すのが限界だったと言われればその通りだとうなずくしかないのだが。
とはいえ、椛と信綱の付き合いはもう四十年に迫る。半世紀に近くすらある付き合いの中で、天魔に存在が露見したのは先日だ。
彼が椛に配慮した――か自分の利益のために隠したのかは定かではないが、天魔を相手に相当心を砕いたことには容易に思い至る。
そういった目に見えない配慮は怠らないくせに、なぜ出会うとぶっきらぼうな態度になるのか。不思議なものである。
「頭が良い、というよりは慎重なんだな。文なんかはひけらかしまくったから一発でオレの耳に届いたが、お前さんのは直接的な力じゃない。だから隠すことを選んだ」
「……どうしてそこまでわかるんですか」
「ナメんな。千年以上お前らのこと考えて生きてんだ」
事もなげに言い放つ天魔に、椛は今相対している相手の大きさを思い知る。
自分の属する組織の長、なんて小さな表現ではない。彼もまた天狗の中で生まれた傑物だ。
椛は頬に冷たい汗が流れるのを感じながら、慎重に言葉を選ぶ。
「……私が隠していたのは、決してこの能力が便利なだけではないからです」
「ほう?」
「あなたの姿は見知っていたのに、相対して感じるこの感覚までは見えなかった。ずっと一緒にいた人間のこともかなり長い間見誤っていました」
「あの人間は仕方ない。やつほど自己を取り繕うのが上手い狂人はなかなかいるもんじゃない」
天魔からもそう言われてしまう信綱に、あの男はどれだけ規格外なのか首を傾げてしまう。
なんだか痛そうに胸をさする天魔。信綱に斬られでもしたのだろうか、と疑問に思っていると、気を取り直した天魔が話を再開する。
「ま、そこを詰問するつもりはない。お前がいたから、旦那はオレたちとの共存を考えてくれた。むしろ大天狗への推薦ぐらいしてやりたいぐらいだ」
「いや、良いですよ!? 私みたいなしがない白狼天狗にはとても務まりません!」
「うむ、それは見て確信した。お前さんは誰かの上に立てるやつじゃない」
褒められているのか微妙な言葉だが、天魔の目はそれを咎めるものではなかった。
が――それも次の瞬間までだ。
「とはいえ、お前さんの方向性は確認しなけりゃならん。大方、あの騒動の時に大天狗の場所を教えたのもお前だろうしな」
「……ッ!」
目を細め、眉を寄せる。天魔が行ったのはそれだけの仕草。
しかし、椛が感じる重圧は桁外れに強まり、一切の虚偽を許さないものとなっていた。
「旦那に教えることがどんな結末を招くか、お前ならわかっていたはずだ。――なぜ教えた? 答えてもらおうか」
「私、は……」
椛の一挙手一投足を見逃さない天魔の目を受け、椛はやや気圧されながらもしっかりとその目を見つめ返した。
「私は――彼の味方をすると決めました」
「どんな状況でも、か?」
「もちろん、天狗を全て裏切るつもりはありません。彼が天狗を滅ぼすと決めたら相容れなくなるでしょう」
想像するだけでも心の痛む光景だが、椛も白狼天狗の端くれとして最後の一線は譲れなかった。
しかし彼女の言葉はそこで終わることなく、続いていく。
「……ですが、そうでない限りは彼の味方をする。そう決めてあります」
「なぜ?」
「確かに彼は狂人です。誰の目にも、私の目にもそう映ります。けど、誰かれ構わず斬りかかるような人ではありません。むしろ御阿礼の子を害さない範囲なら、かなり寛容な方だと思っております」
「ふむ、道理だな。より詳しく言えば、ありゃ御阿礼の子以外がどうでも良い。どうでも良いが故に別け隔てがない。そんなところだろう」
彼にとって善も悪も大して差はない。ただ、善を行う相手なら優しさを。悪を重ねる相手なら隔意をぶつけているだけである。他人への対応としては実にわかりやすい部類だ。
椿は信綱の敵になってしまったから、これらの評価をぶち抜いた場所に落ちてしまった。
椛は敵対するようなこともなく、ゆっくりと積み重ねてきた時間が彼の信用と信頼に直結している。
「ええ、それなら彼が動くような時はどんな時か。御阿礼の子が害されるか、彼自身の命が危うくなった時です」
「続けろ」
「そうなった彼は止まりません。なら、可能な限り被害を減らす方向で動くことに間違いはあるでしょうか」
「…………」
「私は彼に首魁である大天狗様以外は殺さないで欲しいと頼みました。事実彼は殺さなかった」
「……お前ならやつを操縦できると?」
首をブンブンと横に振る。あれを操作する? 冗談でも笑えない。あれを操作できる存在など御阿礼の子以外に存在しない。
椛に対して気を許しているのは確かだが、そんな彼女であっても敵になるなら一片の情けもかけずに殺すだろう。その確信が椛にはあった。……嬉しくないことだが。
「ご冗談を。……ただ、御阿礼の子が絡まない限り、あの人は人と妖怪の共存を願っています」
それが誰のために行われていたのか、この間理解してしまった。思い返すと今でも頬に熱が集まるが、これは天魔と話している緊張のせいだということにしておく。
「私の目はそのために使うと決めました。幻想郷全体を見渡せるこの目は、共存を願い続ける限り彼のものです」
「……惚れたか?」
「最初にあの人を見出した時から、ずっと」
椿に誘われての興味本位だったが、それでも彼を友とした時間は心地良かった。
その少年が今や人妖共存を成し遂げる手前まで来る存在になったのだ。
誇りに思うなという方が無理だろう。それほどに椛は信綱に対して入れ込んでいる。
それこそ――目の前の天魔に対しても恐れることなく立ち向かえるほどに。
「……ふむ。添い遂げる、結ばれるといった形の愛ではないな」
「げふっ!?」
「惚れたか? という質問に躊躇なく答えればそう取るに決まってるだろ……」
むせた。そういう意味で受け取られるとは全く思っていなかった椛だった。
天魔は慌ててお茶を飲む椛に呆れた視線を向けて、苦笑をこぼす。
「オレの見立てでは向こうもそう嫌ってはいないと思うがね」
「ち、違いますよ! そういう関係になりたいわけじゃありません!」
「じゃ、どうなりたいんだ」
「もっと、こう……対等な関係でいたいんです!」
むん、と胸の前で拳を作って力説する椛。その姿を見た天魔もこれは愛だとかそういったものではないと確信する。
これはもう少し子供っぽくて無邪気な、一緒に同じ目的へ邁進できる同士とか仲間といったものに近い。
(旦那は……まあ、聞くまでもないか)
御阿礼の子を愛し、御阿礼の子に狂うがための阿礼狂い。誰かに好意的になることはあっても、優先順位は一切動かないだろう。
それらを鑑みて、天狗の主である天魔が取れる選択肢はいくつかある。
天魔の頭の中で取るべき行動と、その結果による未来予想図が描かれていく。
その中には椛を信綱の元に送りつけて婚姻を結ばせるものもあったが、却下した。信綱の行動が読めてしまうがために、却下せざるを得なかった。
この案の前提には双方の愛情が必須となる。椛はわからないが、信綱が有事の際にどちらを選ぶかなど考えるまでもない。
それで椛を障害とみなして殺してしまう危険性を考えると、この案はお蔵入りにせざるを得ない。万が一の危険が大きすぎた。
他にも様々な行動とそれに付随する未来予測が立つが――天狗の未来を考えるなら行動は一つしかなかった。
「……ま、お前さんらの関係に口を出すつもりはない。今後もその調子でやってくれ」
すなわち、自分たちからは手を出さないというある種の日和見である。
下手に手を加えて今の関係を崩すのは悪手。かといって信綱から全幅の信頼を寄せてもらえている椛を拘束するのも悪手。
ならばこれまで通り見守るしかない。それが最も天狗に振りかかる危険を減らすことに繋がる。
「え? それだけですか?」
「ああ。咎める点があるとすれば大天狗の話くらいだが、あれにしたってオレが勝っているんだからお前は賞賛されるべき立場だ」
勝てば官軍とも言う。それに天魔は椛を見極めるために呼びつけたのであって、罪に問うつもりはなかった。
目を丸くして驚く椛に天魔は話も終わりと立ち上がり、彼女の肩に手を置く。
「お前が天狗を裏切らない限り、オレはお前の味方だ。好きにやれ」
「天魔様……はいっ!」
感動したようにこちらを見上げる椛に、天魔は内心を読み取らせない笑みを浮かべた。
やはり彼女は多人数を動かすには少々向いていない。人の好意に素直すぎる。
そんな情報を自分の頭に書き込み、椛の元から去って一人になったところで天魔は顔を歪める。
「全く、何が政治は不得手だ。あの人間……!」
あの男、苦手だとか不得手だとかさんざん嘯いておきながら、普通に腹芸も駆け引きもこなすではないか。
椛が信綱と仲が良いことを天魔も紫も知っている。言い換えれば、人妖共存の姿をいち早く体現しているとも。
そんな彼女に今さら何かしたら、この共存を揺るがしかねない。信綱に対しても然りだ。
故に椛は誰も手が出せない。千里眼を持つ程度の白狼天狗に、天狗の首魁である天魔とスキマ妖怪が何もできない。
そんな状況を彼が作り上げた。常々自分のことを狂人と呼び、政治に苦手意識を持っているはずの信綱が。
これに関してはもはや舌を巻くしかない。武芸に関しては図抜けているというより超越しているという言葉の方が近いが、それが彼の全てではないということか。
「ああ、本当に……楽しませてくれる!!」
素晴らしい。一筋縄では行かない人間は大好きだ。
願わくば彼との付き合いができる限り長く続くことを、天魔は誰のためでもなく自分のために祈るのであった。
と、そんな面接を終えて一週間。椛の周囲は何も変わらなかった。
まだ人妖との交流自体は続いているものの、さすがに毎日行っては仕事が滞ってしまう。
とにもかくにも人と妖怪の接点を増やし、相手方を知ってもらうことが重要。これが十年二十年と続いていけば、いつかは妖怪が大手を振って人里に来れる日が来る――と、信綱は言っていた。
ならば椛はその日を信じて、今日も職務に勤しむまで。そして彼に頼まれることがあれば全力で応える。それが一番の近道だ。
そう信じて今日も今日とて千里眼を使って山の哨戒に励み――それを見つける。
「あれは……」
地底へ続く大きな穴。かつて地上を席巻し、人間のみならず妖怪からも忌み嫌われた妖怪が集まる場所。
あるものは人間に見切りをつけ、あるものは安住の地を目指し、あるものは八雲紫に封印された。
かつて地獄と呼ばれた場所。今なお怨霊が漂い、そんな場所で生きる魑魅魍魎の住処。
そんな場所へ通じる暗闇に――蠢くものが見えた。
「……ッ!!」
椛は弾かれたように天魔の座す場所へ向かう。その影が何ものであるか確かめるまでもない。
「来てしまいましたよ、この時が……!」
見張りの烏天狗を千里眼で探った死角ですり抜け、窓から文字通り飛び込むことによって部屋に転がり込む。
「曲者! って椛!? あなた、どうして!?」
「……急ぎか」
部屋にいたのは天魔の部下である文と天魔その人。
文は知り合いの白狼天狗がいきなり飛び込んできたことに目を丸くしているが、天魔は驚いた様子もない。
「え、知り合いですかお二人とも!?」
「詳しいことは後で聞け。で、どうした椛」
「は、はいっ! 地底に続く穴に動きあり!」
「――鬼の軍勢が大挙してきました!!」
その言葉を聞いて文は信じられないような顔になり、天魔は渋面を全面に広げる。
「……旦那が話していたのは本当だったか。おい、文!」
「え、あ、は、はい!?」
現実離れした内容に呆けていた文に天魔の鋭い声が飛ぶ。
それによって半ば反射的に文は身構えてしまう。天魔がこの手の声を出す時は大体本当にマズイ時と相場が決まっているのだ。
「そこの白狼天狗と一緒に人里に行け。旦那の元に着いたら以降はそっちの指示に従え。そんで向こうでの役目を終えてからオレの元に戻れ!! 足が必要ならオレの権限で適当な奴を引きずっていけ、許可する!」
「え、ちょ――はい!! ですが鬼が来たら我々は――」
文は条件反射の如く命令にうなずくが、相手が鬼とあっては尻込みしてしまう。
なにせ鬼と天狗はかつて上下関係にあった。鬼が上司で天狗は手下。階級社会である天狗にとって、鬼は逆らえない相手ということになる。
……とはいえ一度は地上を去った者たち。すでにその上下関係に意味などないが、鬼の姿を知っているものたちは皆、同様に鬼の強さも知り尽くしている。
そんな文の弱気を天魔は一声で吹き散らす。
「舵取りはオレの仕事だ。悪いようにはしないから早く行け!!」
「……ああもう! 信じてますからね天魔様! 行きますよ椛!」
「あ、ちょ、天魔様、あなたはどちらに――」
椛の襟首を引っ掴んだ文が空に飛び出していくのを見送ろうとして――
「ああ、もう来ているから心配しなくてもいいよ」
部屋の中に現れた、小さな体躯の鬼にせき止められてしまう。
「――ッ!?」
「……伊吹、萃香か」
驚愕に身を固める文と椛に対し、天魔は冷静にそれを見据える。
童女にすら見える矮躯だが、頭に生える二本角は雄々しく天をつく。手足につけられた鎖の先には重たそうに引きずられる分銅が。
そして発せられる圧力は紛れもない――鬼のもの。
「よう、天魔。しばらく見ないうちにすっかりサル山の大将に慣れたじゃないか」
「何分仲間思いでね。頭がいなくっちゃ身体ってのは上手く動かない」
萃香と呼ばれた鬼は親しげに天魔に話しかけ、天魔もまた肩をすくめて皮肉げに話す。
文と椛はその空間にすでに呑まれており、事の推移を見守ることしかできなかった。
「それで? 地底に引きこもっていた鬼が一体全体何の用で?」
「はは、ご挨拶だね。そっちも想像ぐらいできてんじゃないの?」
「覚りじゃないんだ。あんたの考えはあんたの口から聞きたいね」
「じゃあ言ってやろう。――もう一度、地上を支配したくはないかい?」
禍々しい笑みとともに萃香の口から発せられた言葉に文と椛は息を呑む。
「かつての時みたいに好きに蹂躙し、好きに生きる! どうだい、素晴らしいだろう?」
「ふざけるな!!」
椛にとって萃香の提案は到底受け入れられるものではなかった。
信綱が様々な妖怪と対話を重ね、同じ未来を見据えてようやくここまでたどり着いたのだ。
それを今まで地上と無関係を決め込んできた地底の連中が横槍を入れて全てぶち壊す? 冗談ではない。
激昂した椛が大声を上げたことに萃香はやや面白そうな顔になる。
「へえ、白狼天狗が吠えるじゃないか。誰に向かって物言ってるのか、わかってんのか?」
「誰であろうと関係ない! 今さら出てくるような奴に、私たちがあげていいものなんて何一つない!」
信綱という人間の英雄。天魔という天狗の傑物。双方が同じ夢を見てやっと形になりつつある人妖の共存。
鬼がいかに強大な妖怪であろうとも、それを壊して良い道理などあっていいはずがない。
相手が鬼であることの脅威など頭から抜けており、文が止めてくれなければ飛びかかっていたところだった。
「ちょ、ちょっと椛……!?」
「静かにしろ。今話しているのはオレと萃香だ」
「天魔様!!」
「――静かにしろと言ったのが聞こえなかったか」
しかし、椛の激昂を天魔が押し留める。声音こそ平時と変わらないものの、発せられる威圧は先ほどの比ではない。
椛はその威圧に押し黙るしかなかったが、瞳は雄弁に萃香への敵意を語っていた。
「なかなか血気盛んな部下だね。いつの間に天狗は鬼に逆らえるようになったのかな?」
「…………」
「さて、答えを聞こうか。――私らと手を組んで人間を支配しよう」
差し伸べられる小さな手。その手を取ったが最後、人間を裏切り鬼につくことが定められる。
天魔は動かない。その手を見て、何を言うでもなく沈黙を保つ。
「なんだい、私はお前さんを誰よりも天狗らしい天狗だと思ってるんだけどねえ。強いやつに媚び、弱いやつを虐げる。いやいや、私は否定しないよ。くだらんとは思うが、それもまた一つの世渡りだ」
「……確かに、あんたの言うとおりだ。オレはこいつらを生かすためなら泥だって啜るし、誰にだって媚を売る」
天魔には文や椛といった天狗を守る義務がある。彼女らを生かすためであれば誰であろうと裏切り、生き残るための手段に妥協はしない。
だからこそ天魔は決断した。
「これがオレの決定だ。――クソ食らえだ、負け犬」
突き出した貫手が萃香の胸元を抉り、心の臓を貫く。
その小さな身体を片腕で持ち上げ、天魔は鋭い目で萃香を射抜いた。
「オレたちと戦える力を持っているのに、手を取ることを選んだ人間がいる。スネて目を背けて逃げたあんたよりよっぽど強い」
「ハン、私らが逃げたんじゃあない。あいつらが逃げたんだ。勝てない相手なんていなかったのだと、目を背けたんだ」
心臓を貫かれているにも関わらず、萃香の身体からは血の一滴も流れることなく、常と変わらぬ口調で天魔と話す。
しかしその顔は親しい相手にするものではなく、すでに敵となった者を見る目になっていた。
「そんな主観はどうでもいいんだよ、事実を見ろ。人間は地上で生き、鬼は地底に隠れた。あんたたちが負けたこと以外に何の真実がある?」
「……言うじゃねえか天魔。吐いた唾は呑めないよ」
「ああ、言った。第一――」
天魔が腕を振りかぶり、萃香の肉体を全力で床に叩きつける。
「本体ですらねえのが戯れ言抜かしてんじゃねえ。片腹痛い!!」
「ハッ、ハハハハハッ!」
叩きつけられた萃香の肉体は床にぶつかることなく、雲散霧消する。
まるで最初からそこにいなかったかのように消えたそれを見て、文と椛は目を見開くが天魔は驚きもしない。
「はー、笑った笑った。いいよいいよ、見ない間にデカイ口叩くようになった。そんぐらい啖呵切ってくれる方が私らとしても気楽ってもんさ」
「どこから!?」
「疎と密を操る程度の能力。要するにこいつは自分の体を限りなく薄めたり、逆に濃くしたりできるのさ」
どこからともなく聞こえる声の主を探そうとする椛たちに、天魔が萃香の能力を説明する。
鬼として規格外の身体能力を誇り、その上この反則じみた能力。八雲紫と同等、ひょっとしたら上回りすらするであろう力の持ち主。
椛でも戦慄を隠せない。これに信綱は立ち向かうというのか?
「別に無敵ってわけじゃねえ。やりよう次第で普通に勝てる」
「言うねえ。ま、あんたが私らの敵になるってんだし、無策ってことはなさそうだ。せいぜい楽しみにしようじゃないか」
声の気配が遠のいていく。去っていくのだと理解し、天魔は最後に口を開く。
「最後に一つ。地上を知らなかったお前に教えてやる」
「なんだい?」
「お目当ての人間、あまり舐めない方が良いぞ」
「――へっ、それが鬼ってもんさ」
気配が消える。今度こそ完全にいなくなったと直感で理解した椛と文は、意図せず深い安堵の吐息を漏らす。
萃香と相対した天魔は二人の方に向き直ると、疲れた様子も見せずに口を開く。
「おら、急げ! これでオレたち天狗は鬼に宣戦布告したぞ! 旦那に伝えて足並み揃えねえと勝てるもんも勝てなくなる!」
「はいっ、わかりました! 行くわよ、椛!」
「あ、ちょ!?」
文に引っ張られる形で空に飛び出す椛。なんとか体勢を立て直して文に追従するように空を飛んでいく。
「天魔様、大丈夫なんですか!?」
「あの人が選んだことに間違いはないの! 正直鬼についた方が良いんじゃないかなーとは思ったけど、私より多くのことを考えている天魔様が人間に付くことを選んだなら従うまでよ!!」
ある意味思考の放棄とも言えるが、階級社会の天狗としては理想的な答えだろう。
なんだかんだ、この烏天狗は天魔を信用しているらしい。
椛はどちらかと言えば、信綱の方を信じていた。これは単純な付き合いの差である。
とにもかくにも、賽は投げられた。もはや天狗に残された道は鬼に負けて滅びるか、鬼に打ち勝って生き残るかの二つに一つ。
鬼の味方になったとしたら、今度は信綱を敵に回すことになる。
彼は妖怪の目から見ても正しくバケモノだ。ひょっとしたら天狗、鬼の連合でさえも打ち破る可能性がある。
そうなった場合に待つのは阿礼狂いとしての信綱に殺されるか、あるいは裏切り者の烙印を押されて生き延びる結果である。
それに人妖の共存は八雲紫も望んでいること。それを邪魔しようとする鬼たちはいわば幻想郷に楯突いているようなものなのだ。協力して万事上手く運んだとしても、鬼が頭に残ることは変わらない。
結局のところ、考えるまでもなく天狗に選択肢などなかったのだ。
そんな天魔の思考に文の理解が及ぶまで――人里に到着するまで、あと僅か。
大体わかる萃香と天魔のやり取り
萃香「YOU人間なんて裏切ってウチに来なYO!」
天魔「ノッブ敵に回すとか怖いから却下で」
天魔がノッブの何を恐れているって、彼の人望を一番怖がっています。単純な武力以上に、彼が一声かければ損得勘定を越えて協力してくれる妖怪がちらほらいる。
ちなみに椛との繋がりをバラしたタイミングの上手さは、この話を書いている途中で気付きました(暴露)