「ふむ、このような場所で会うとは奇遇ですね」
「……それはこちらの台詞だと思うのですが」
信綱が日課となっている交流区画の見回りをしている時のことだ。
この日は天気も良く、阿弥も最近は縁起の資料確認や編纂に追われて忙しそうにしていたため、彼女の散歩も兼ねてのことだった。
現状、人と妖怪の間で揉め事が起こる気配もない。百鬼夜行異変の折に行われた宴会で多少は距離も縮まったものの、未だ完全に互いの日常に溶け込んでいるとは言い難い。
そして非日常の存在と触れ合う時、警戒をしてしまうのは人も妖怪も変わらない。
警戒をしていれば騒ぎなどそうそう起きるはずもない。起きたとしてもお互いに立場がわかっていれば小規模なもので済むし、少ない騒ぎが起これば信綱の耳にも届く。
将来的には人里全体に場所を広げて行う予定なので、その時になればいい加減信綱の役目も終わりだ。
今のような見回りは信綱の身体が動く限り続けなければならないが、信綱の手が届かない場所もいずれ出てくるだろう。
そうなった時、人も妖怪もそれぞれが同じ目的で動けるか。それが人妖の共存に必要な最後の分水嶺と言えた。
こればかりは策を弄しても、信綱がいくら頑張ってもどうにかなるものではない。信綱も幻想郷に生きる一人の人間でしかなく、幻想郷を作っていくのは普通の人間と妖怪なのだ。
……とまあ、人里が歩むべき道を提示した辺りでそろそろ視点を現実に戻そう。
今、信綱と阿弥の前にいるのは一人の少女だ。服装も地味で質素な和服で悔悟棒も持たず、そこいらにいる年頃の少女と見た目は何ら変わらない。
しかし信綱と阿弥、双方にとっての知り合いでもある彼女の姿に、二人は揃って口元を引きつらせるのであった。
その少女――簡単に言ってしまえば閻魔大王である四季映姫その人が二人と相対して口を開く。
「映姫様がなぜ!?」
「なぜ、と言われましても閻魔大王の仕事は交代制ですし、休暇もあります。長が休まなければ部下に示しがつかないでしょう」
「えっ」
生まれてこの方、休みらしい休みをした覚えがない信綱には青天の霹靂だった。
阿礼狂いである彼は御阿礼の子と一緒にいる時が休暇であるが、他の阿礼狂いに休めと命じた覚えは一度もない。
まあ休みを与えたところで側仕えになるための修行しかしないだろうが。
「……ふむ、火継信綱。あなたは一族の当主でありながら、あまり部下を大事にしていないと見ました」
「……相違ない、です」
つい先日、一人捨て石にした身としては強く否定できなかった。
それに彼らは部下であるが、同時に獅子身中の虫でもある。隙あらば虎視眈々と側仕えの座を狙っている連中なのだ。
そんなことを考えている間にも映姫の説教は続いていく。
「うむ。指摘を認められる柔軟性は尊ばれるべき美点です。――しかし、いくらあなたと同じ穴のムジナと言えど彼らも人の子。あなたが手を尽くしてこそ芽は成長します。ゆめゆめ、気をつけることです」
「肝に銘じます」
信綱が素直にうなずくと映姫は満足気に笑う。
質素な服に身を包んでいても、仮にも人外の存在。その容姿には目を見張るものがある。
そんな彼女が微笑んだことに周囲の視線が集まるが、映姫は気づかないまま話を続けていく。
「よろしい。全く、他の者たちももっと素直に聞いてくれれば良いものを……」
「……何をしていらしたんですか?」
「辻説法です。私は衆生により良く生きてもらいたいだけだと言うのに」
ふう、と溜息をつく姿は本心から彼らのことを悲しんでいる様子に見えた。
なんだかんだ、この閻魔は幻想郷に生きている存在を愛しているのだろう。ただその愛がやたらと口うるさくて、敬遠されがちなだけで。
どうしたものか、と阿弥と視線を交わす。それだけで阿弥のおおよその意思を察し、信綱は口を開いた。
「少し場所を変えて話しませんか? 阿弥様もあなたと話したいようですので」
「ふむ、良いでしょう。御阿礼の子とこうして現世で言葉を交わすのは久方ぶりになります」
「私は初対面ですけどね」
困ったように笑って阿弥がつぶやく。彼女の記憶に映姫のことはよく残っているが、それでもまだ死を迎えていない阿弥は映姫と会うのが初めてになる。
そのことを映姫は耳聡く聞きつけ、軽く頭を下げる。
「失礼。これまでの御阿礼の子とあなたを同一視するのは無礼に当たりますね。改めましょう」
「い、いえ、そんなかしこまらなくても……」
「そういうわけにはいきません。御阿礼の子との付き合いは長いですが、親しき仲にも礼儀ありです」
「…………」
二人のやり取りをそっと眺めて、信綱はこの映姫という閻魔は寺子屋の教師である慧音より堅物かもしれない、と思うのであった。
その茶屋では妖怪も人間も分け隔てなく受け入れている店であり、中では天狗が人間お手製の団子に舌鼓を打っていた。
信綱の顔を見てサッと頬を引きつらせた者もいたので、騒乱の折に剣を交えた相手かもしれない。あるいはサボっていたか。
信綱がじっと顔を見ているとそそくさと席を立って外に出ていくので、どうやらサボりで茶を飲んでいたらしい。
「全く、働かない奴がいるのは人間も妖怪も変わらん」
「人の上に立つものとして、多くの者たちの模範であることがいかに大切かわかるでしょう。天魔も人前では取り繕っていますが、彼の本性が下々の者にも伝わるのです」
「天魔様とも知り合いですか?」
「幻想郷の指導者に連なる者たちとはある程度顔を合わせていますよ。阿弥も彼の知り合いですか」
「私が……というより、信綱さんですけど」
感心したような顔で映姫が信綱の方を見てくる。
「あれは相当な食わせものです。彼と話してこの場所を作ったとすれば、あなたもなかなかやるようになりましたね。彼岸で顔を合わせた時とは見違えました」
「信綱さん、映姫様とも知り合いだったんだ……」
「は、はい。それが何か……?」
おかしい。やましいところなどこれっぽっちもないのに、なぜか阿弥の視線が痛い。
そんな阿弥の視線に気づいたのか、映姫は相好を崩して微笑む。
「あなたがそのような少女らしい感情を出すとは、先代より仕える火継は良い従者のようですね」
「え? あ……お恥ずかしい、です」
「気にすることはありません。あまり長く生きられない影響か、あなたは良くも悪くも達観していた。仕方ない一面だと思いながらも、歯がゆく思っていたものです」
そう言って映姫は手元の葛切りを口に運ぶ。もぐもぐと口が動き、こくりと白い喉を嚥下していく。
信綱からしてみれば八雲紫以上に超然とした存在である彼女が、このようなものを食べる光景には少々驚くものがあった。
「甘くて美味しいですね。お二方は食べないのですか?」
「阿弥様、何か食べられますか?」
「あ、じゃあお団子をもらおうかな」
「かしこまりました」
信綱が看板娘を呼び止めて阿弥の注文を済ませ、映姫の方を振り返ると面白いものを見るような目になっていた。
「……何か?」
「いえ、あなたのことは彼岸でも話題になっておりますよ。裁いた鬼や妖怪があなたのことを覚えていました」
そう言って映姫は楽しそうに笑う。
その反応の意味がわからずに隣を見ると、阿弥も困ったようなおかしいような不思議な笑みを浮かべていた。
「人間も妖怪もね、死んじゃったらその時点で記憶がほとんどなくなるの。私みたいに求聞持の力があったり、よっぽど強い意思を持っていれば話は別だけど……」
「意外と死んだ直後の記憶というのはないものですよ。それでもあなたが手にかけた妖怪は例外なく覚えてました」
「…………」
褒められているのか責められているのか判断がつかない。
妖怪を多く殺したことを問題視でもしているのか。しかしそれにしては映姫の表情は穏やかで、誰かを詰問する雰囲気は見えない。
「ああ、責めてはいませんよ。妖怪は人を襲い、人は妖怪を退治する。古来より続いてきたこの掟に則っただけです。あなたも必要以上は手にかけていないようですし」
「……何が言いたいのですか?」
「今言ったことが全てですよ。――古来、妖怪と人は相容れない。これは歴史が証明した事実だとかそういったものではなく、そういうものです。理屈も理論も必要ない。人間が呼吸することを当たり前と受け入れるように、これは太古の時代から変わらぬ形でした」
映姫の目が信綱を射抜くように見据える。
彼の行ったことは彼女の言に則るならば、摂理に弓引く所業である。
人と妖怪は相容れないという世界の掟を、人間が打ち破ってしまったのだ。
「問いましょう、火継信綱。あなたはこの光景の先に何を見据えていますか?」
「いえ、別に何も見てませんが」
「あ、あら?」
信綱の返答が予想外だったのか、映姫も僅かに面食らった顔になる。
最初にこの光景を願ったのは信綱ではなく、それに信綱が作ったのは土台だけである。
そこからどんな社会ができあがるのか、それは信綱にはわからないことだった。
「確かに私は人と妖怪が共にいられる空間を作りました。ですが、私はそこで人妖に共存しろと強制しているわけではない」
「む……では今の姿はあなたが願ったものではないと?」
「私一人が願った程度で実現するものなら、とうの昔に誰かがやっていますよ」
天魔も信綱も場所を作った。願うのは他の人妖だ。
人間は妖怪を知りたいと願い、妖怪は人間を知りたいと願った。それが今の結果につながっている。
いかに傑物の二人といえど、その場所に住まう個人の好き嫌いまで動かすことはできないのだ。
「それにそのことを問うなら相手が違うかと。私はある妖怪の願いを受けて動いたに過ぎません」
「ではあなたの意思はここにないと?」
「全くない、とも言いませんよ。敵と味方、増えて嬉しいのがどちらかと言われれば味方ですから」
その上で色々と時節が上手く絡み合った。信綱からしてみればその程度の話であった。
それに、と信綱は阿弥の顔をチラリと横目で見る。
自分が戦うのは、いついかなる時でも彼女のためだ。
人と妖怪の共存を作り上げて、阿弥は喜んでいる。ならば他に言うべきことなど何もない。
信綱の答えを聞いた映姫は神妙な顔でうなずくと、器に残っていた葛切りを全て口に運び、一息に食べてしまう。
「んぐ。よくわかりました。かつてあなたを見た時がありましたが、本質は何も変わっておりませんね」
「失望しましたか」
「いえ、むしろ得心しましたよ。阿弥、あなたは良い従者を持ちました」
「はいっ! 私の一番大切な人です!」
目を細め、柔らかな眼差しで阿弥を見る映姫。その目は先ほど信綱に向けていたものとは違う、慈愛に満ちたもの。
映姫は歴代の御阿礼の子を知っている側の存在だ。人里で辻説法を行うほど人妖への愛を持つ人物であれば、それなり以上に入れ込んでいるのだろう。
「すみません、少し阿弥と話をしてもよろしいでしょうか」
「私ですか? てっきり信綱さんに会いに来たのかと……」
「それが要件の一つであることは否定しませんが、本来の目的はこちらです」
「む? それは私が聞いたら不味い類ですか?」
「そうですね。あなたが聞くのは望ましくありません」
「…………」
映姫のことを信用していないわけではない。幻想郷の閻魔で、転生を繰り返す御阿礼の子との付き合いは信綱を遥かに凌ぐ。
だが、それでも信綱と離れて阿弥と話すとなると、一瞬でも警戒心が生まれてしまうのは無理のないことだと思いたい。
一瞬の感情を見抜かれたのか、映姫に苦笑されてしまう。
「見ていることは構いませんよ。話を聞かれるのが困るだけです」
「……それでしたら、先に店の外に出ております。阿弥様もそれでよろしいですか?」
「わかった。……信綱さん、大丈夫よ。少しお話するだけだから」
「それでも心配するのが従者の務めです」
そう言って信綱は立ち上がり、映姫の分の支払いも済ませて店を出て行く。
残された映姫と阿弥は顔を見合わせると、映姫の方が頭を下げた。
「申し訳ありません、彼に集る意図はなかったのですが……」
「良いですよ。あの人、自分のことではあまりお金を使いませんから」
誰かと歩いている時の食事に費やすか、時たま彼の友人である霧雨商店の店主と飲みに行く時くらいである。それにしたって阿弥の用事があれば断っているので、頻度が多いわけでもない。
武器の手入れや服に関しても妖怪に対しての人里の顔でもあるのである程度取り繕っているものの、それは彼個人の資金から出るものではない。
「清貧、というわけではなさそうですね。ただ単に消費に興味が薄いだけですか」
「あはははは……」
擁護のしようがないので阿弥も笑ってごまかすしかない。人里の情勢に関してはかなり詳しいのに、彼自身が社会を回そうとはあまり考えていないようだ。
「まあそれは良いでしょう。いえ、立場あるものが全く使わないのも問題ですが、今日の要件はそちらではなく」
「私にと仰ってましたね。何かありましたか?」
「いえ――転生の準備は進んでいるのかと」
「え――」
阿弥の顔から血の気が引いていく。すっかり忘れていた――否、見ないようにしてきた事実を一息に指摘され、阿弥の顔が青ざめる。
その様子を見て、映姫は済まなそうな顔になりながらも言うべきことを告げていく。
「……その様子では手を付けていないようですね。あるいは彼があなたを一人の人間として扱いすぎたか」
「……私の寿命は、どのくらいなんですか?」
首を横に振る。それを告げるのはいくら映姫が彼女に対して入れ込んでいても、やってはいけないことになる。
「あなたの質問には答えられませんが、私から言うべきは一つ。――転生周期を元に戻してはいかがでしょうか?」
「え?」
阿弥が顔を上げる。阿七、阿弥と続いて十年弱で転生ができたのは博麗大結界が張られた直後の歴史を記すべきだと、八雲紫が手を回したからだ。
恐らく次の代までそれは続くと阿弥は考えていたため、映姫から告げられた言葉は驚愕に値するものだった。
「あなたの役目は理解しております。そしてここからが幻想郷にとって極めて重要な時期であることも。ですが、それを記すのはあなたでなくても良いのではないでしょうか?」
「……なぜ、そのようなことを言うのですか。幻想郷縁起の編纂は代々の御阿礼の子に課せられた使命。それを果たすことが私たちの生きる――」
目的であると。阿弥は確固たる使命感を持ってその言葉を言うつもりだった。
だが、それも映姫が次の決定的なそれを告げるまでの儚い気持ちだった。
「あなたは――彼が旅立つのを見届けたいのですか?」
「――」
今度こそ顔が蒼白になる。これまでの御阿礼の子では考えもしなかった事実を突き付けられ、改めてそれが酷く寂しいものであると実感したのだ。
「彼ももう良い年でしょう。あなたが生きている間はまだしも、次の代まで見送る役目を果たせるとは思えません」
「それ、は……」
なんと答えるべきか、阿弥にはわからなかった。
生まれた頃から一緒にいて、いつだって自分の側にいてくれた彼が、死ぬ?
百鬼夜行すら退けた彼が死ぬ姿など想像もできないが――それでも彼は人間。百年も生きられない儚い命なのだ。
もう阿弥の年齢は二十歳を過ぎようとしている。三十まで生きられるとしても、転生の準備を含めれば自由な時間はあと僅か。
阿弥が三十で死んだら信綱は五十六。もういつ死んでもおかしくない年齢だ。
次の御阿礼の子への転生がどのくらいかかるかわからないが、それでも間に合った場合――間に合ってしまった場合、その御阿礼の子は阿七、阿弥と二代に渡って仕えてくれた男の死を見届けることになる。
それはとてもとても悲しいことであって――かつて阿七が信綱に味わわせた痛みでもあった。
「……構いません」
それらを考えて、その上で阿弥は転生の周期を早めることを選んだ。
顔色こそ未だ蒼白だが、その瞳には強い意志がこもっていることに映姫は興味深い顔になる。
「ほう?」
「確かにあの人と永遠に会えなくなる日が来るのは怖いです。想像しただけで震えそう。……でも、それでも私はあの人と少しでも長く一緒にいたい」
「彼はあなたが願いさえすれば人であることをやめる決断も下すでしょう。それはどうするつもりです?」
「私がさせません。そんなことは悲しすぎる」
悲しい、という表現に映姫は疑問を覚えた。確かに彼が永遠を手にした場合、御阿礼の子が転生の役目から解放される時まで彼女の側に居続けようとするだろう。
それは彼にとって至上の幸福のはず。阿弥もそれはわかっているはず――
「そうなったら、想像だけで震えるこの痛みをあの人はずっと背負い続けることになってしまう」
「……ふむ」
「私たちは転生しますけど、阿七と阿弥は別人です。もし、あの人がずっと私たちに仕えるようになったら、それら全てを分けて一個の個人として扱い、そしてそれぞれの死を悼むようになってしまう。
……ですが最初にワガママを言ったのは
彼なら笑って受け入れると甘えてしまった。彼が御阿礼の子の死で嘆かないはずがないというのに。
そして今もなお、阿弥は彼に看取ってもらうことを願っている。
この上さらに彼に苦渋を舐めさせ続ける決断を強いることなど、阿弥にはできるはずもなかった。
「私はあの人と一緒に死ぬことはできない。だったらせめてあの人の死を見届けたい。それはワガママでしょうか?」
「……いいえ、あなたのそれは尊い思いやりに満ちた決断です。申し訳ありません、私はあなたに辛いことを聞いてしまった」
「いえ、映姫様が尋ねなければ気づくのはもっと遅くなっていました。気づかせてくださり、ありがとうございます」
阿弥の言葉に映姫も心なしか表情が明るくなる。
閻魔以前に個人として御阿礼の子に入れ込んでいるが、それでも彼女は閻魔。もしも阿弥が間違った道を選ぼうものなら、魂の裁きを任されている者として手心は加えられない。
そんな慈悲も情けもない結末にならぬようにとの忠告だったが、阿弥には不要だったのだろう。
映姫は軽く微笑んで席を立つ。
「では転生の準備を進めておいてください。そしてできることなら、あなたも長く生きてください」
「ええ。ええ――本当に、長く生きたいものです」
阿弥の微笑みの意味に映姫は気づかなかった。あるいは短命である御阿礼の子特有の自虐の意味も込めた冗句と受け取ってしまったのだろう。
映姫は彼女の真意に気づくことなく、しかし会話の節々から読み取ることのできた阿弥から信綱への特別な感情を見ての感想を、店の外で待っていた信綱に告げようとする。
外にいた彼は腕を組み、目をつむったまま大樹のように微動だにしていなかった。
しかし映姫は知っている。阿弥に転生の話を持ち出し、彼女の顔色が変わった時に彼が紛れもない害意を飛ばしてきたことを。つまりこの格好は彼なりの自制の表れである。
「……来たか」
「全く、実に久方ぶりに背筋が冷える感触を味わいましたよ。あなたは少し過保護に過ぎる」
「そう言われても困る。手を出さなかっただけ堪えた方だ」
憮然とした顔のまま、信綱は敬語も捨てて映姫と話す。阿弥の顔色を変えさせた時に彼の中で映姫は注意すべき存在になっている。あの場面で阿弥が泣いていたら抜刀も辞さない覚悟だった。
そんな信綱に対し、映姫は呆れと喜びが綯い交ぜになった表情を浮かべる。
「……あの子は、大切に思ってくれるあなたのことを心から信頼しているようです。その信頼に背かないよう、ゆめゆめ気をつけなさい」
「俺があの方の信頼に背を向けることがあるとでも?」
「愚問でしたね」
彼の迷いのない返答に微笑みが浮かぶ。
しかし忘れてはいけない。阿弥が転生のことすら遠くに追いやって、そして未来の自分が悲しむことを覚悟すらしているのは、ある意味彼の責任でもあるのだ。
これぐらいは閻魔としての領分からも逸脱しないだろう、と映姫は内心で自己弁護しつつ彼の額を軽く小突く。
「むっ?」
「――あなたは少し完璧に過ぎる。もう少し不完全なら、今みたいなことにはなっていませんでしたよ」
「……?」
言葉の意図がわからず眉をひそめる信綱だったが、映姫は笑ったまま答えない。
「ふふ……では、私はこれで失礼します」
映姫の後ろ姿はそのまま雑踏に紛れてしまう。やがてその姿も見えなくなり、信綱はこの疑問をどう解消すれば良いのかわからないとため息を吐く。
「全く、好き勝手言うだけ言ってどこかに行くのは妖怪特有の癖か何かか……」
八雲紫に通じるところのある部分だ。八雲紫と四季映姫はあまり相性の良くない相手同士だと睨んでいるのだが、意外な場所が似ているのかもしれない。
まあ、そんな考えても答えの出ないものに懊悩するくらいなら阿弥を迎えに行く方が百倍マシである。
思考を切り替えて茶屋に再び入って、信綱の帰りを待っていた阿弥が笑って迎えてくれることに多幸感を覚え――
「……阿弥様、どうかされましたか?」
「え?」
彼女の笑みに違和感を覚える。なにせ生まれた頃より彼女の笑顔は見続けてきたのだ。それが心からのものかどうかぐらい、読み取ることはできる。
そんな信綱の目に、彼女の笑みは心からのそれとは映らなかった。むしろ何か心配事を悟られたくないという、気遣いの笑みに見えた。
「先ほどの閻魔になにかひどいことでも言われましたか?」
「……どうして? 私、笑えてたはずだよ?」
声が震えている。そのことを指摘せずに、信綱は机の上に置かれていた阿弥の手を握り、冷えてしまっているその手を温めるように持つ。
「ずっとあなたを見てきました。それに主の悩みを解消するのが従者たる私の役目です。……どうか、そのようなお顔をされないでください。私はあなたに何のしがらみもなく笑っていて欲しいのです」
そう言って微笑む。信綱は阿弥の重荷を少しでも軽くするためにいるのだ。
どんな些細なことであっても、彼女の力になれることこそ、人妖の共存を成し遂げることより意義のあることである。
そんな思いで信綱が口に出した言葉を聞いて、阿弥の瞳にみるみるうちに雫が溜まっていく。
そして信綱が握っていない方の手で口元を覆い、嗚咽を堪えるように阿弥は泣き出してしまう。
「っ、ごめ、なさ……!」
「あ、阿弥様!? どうしたのですか、どこか痛むのですか!?」
「ごめん、なさい……! ごめん、なさい……!」
慌てた信綱が何を言っても届かない。阿弥はうわ言のように謝罪の言葉を口にし続け、涙を流すばかり。
映姫に何か言われた可能性しか考えられないが、それにしたって阿弥の様子は少々異常に過ぎる。
信綱は失礼しますとひと声かけてから、泣き続ける阿弥の身体を抱え上げて茶屋を飛び出し、稗田邸へと走っていくのであった。
当然、阿弥が泣いている理由などわかるはずもなく――それがわかるのは、まだ先の話であった。
阿弥が映姫に言ったこと。それが全てであった。
彼女が口にした転生という言葉。それを聞いた時、阿弥の胸に去来した思いは一つである。
――あの人ともっと一緒にいたい。
彼と同じ時間を生きて、彼と同じ時間に死にたい。そんな思いが生まれた瞬間、阿弥は自らが信綱に対して抱いている感情を全て理解した。理解してしまった。
阿七の時とは別人のように成長し、生まれた頃より阿弥の側にいてくれて、いつだって自分のことを理解してくれる、自分の全てを任せても良いと思える大切な人。
子供の頃より少しずつ大きくなっていたこの思いに気づいた瞬間、阿弥は全てを悟る。
火継の人間と深い関係にならないようにしてきた御阿礼の子の考えも、転生の周期が百年以上ある理由も、全て。
(ああ……私は、この人のことが――)
好きなのだとわかった瞬間、この想いは禁忌であると理解してしまった。
彼ら阿礼狂いは御阿礼の子の願いに例外なく応える。そこに彼の意思があるのかどうかすら定かではなく。
これでは想いを告げたとしても人形遊び以上のものには成り得ない。
好きだと言えば彼もそう返すだろう。当然だ。なにせ彼は生まれた時より
だが、愛していると言えば聡明な信綱のこと。彼は阿弥が自分に何を求めているのかを正確に理解し、戸惑ってしまうはずだ。
個人の愛情に対し、愛情を返すにはその人自身の意思が必要不可欠となる。
なのに、阿礼狂いは御阿礼の子に対してそれを持ち得ない。彼女らの言うことは全てが正しく、全てがあらゆる物事に差し置いて優先されるべきもの、という刷り込みがすでに成されている。
その彼に自らの想いは言えない。言ったら彼はきっと叶えようとするだろうが、その果てに阿弥と共にいられる保証がない。
(私は、彼に――人間になって欲しいと願ってしまっている……)
阿礼狂いでない、火継信綱自身の感情で稗田阿弥を選び、そして愛して欲しいなどという浅ましい願い。
言えるはずがなかった。彼がずっと一緒にいてくれるのは火継の人間だから。それをやめた時、彼が自分のところに来ることなんてない。
故にこの想いは封印しなければならない。言ったが最後、御阿礼の子と阿礼狂いの関係は破綻してしまう。
なんと愚かで身の程を知らぬ願いだろう。彼ほど立派な存在が自分のところにいてくれるのは阿礼狂いであるからこそなのに、自分はそれ以上を求めてしまおうとしている。
ああ、しかし。子供の頃より抱いてきた想いをようやく自覚できたというのに、この結末はあんまりではないか。
阿弥は信綱の腕の中で止めどなく涙を流しながら、一つの選択をする。
――ごめんなさい、父さん。
彼と家族であり続けよう。もう感情の正体を知ってしまった今、それでは物足りぬと思うかもしれないけれど。
それでも自分の死を看取ってもらう上、彼に人間になれなどというワガママを言うよりはマシだ。
不幸中の幸いは自分の時間が残り少ないことだ。想いを告げられるのなら共に生きたいに決まっているが、言えないのなら時間は短い方が良い。
精一杯家族として振る舞って、そして消えよう。それが抱いてはいけない想いを持ってしまった自分への戒め。
決して報われない想いを胸に、阿弥は静かに涙を流すのであった。
映姫さまがノッブに言ったことが大体全て。『彼は少し完璧に過ぎた』
・百鬼夜行を退ける力があって
・海千山千の妖怪とやり合える政治力もあって
・八雲紫の悲願であり、彼女の要請で縁起を編纂していた御阿礼の子も願っていた人妖の共存を成し遂げて
・その影響か色々な知り合いがいるけど、自分だけを優先して自分だけを見てくれる。上記の所業も全部あなたのためだと真顔で言い切れる
そんな人が自分の生まれた頃よりずっと側にいた阿弥の男性ハードルを答えよ(配点:ノッブが阿弥の恋人候補に課す予定の試練)
が、これが悲劇になってしまう。そこまで一個人として完璧でも、彼は阿礼狂いであって、真っ当な人間ではない。
椿の時にも言った台詞ですね。惚れた相手が悪すぎた。生まれも関係しているので、今回ばかりは彼が全て悪いというわけではありませんが。