阿礼狂いに生まれた少年のお話   作:右に倣え

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稗田阿弥という少女

「阿弥様、少々よろしいでしょうか」

 

 信綱は襖越しに声をかけ、主の返事を待つ。

 あの日、映姫と言葉を交わして以来、彼女は部屋にこもって転生の準備にばかり追われている。

 確かに阿七の時にもそのような時間はあったが、それでも阿七は暇を見つけては縁側に出て外の空気を吸いたがり、その度に信綱をハラハラさせたものだ。彼女が倒れやしないかという意味で。

 

「……なんですか?」

「そろそろ部屋にこもりっきりになって一月が経ちます。少し外の空気を吸われてはいかがですか?」

「不要です。今は転生の準備が忙しいので」

「今のようにかかりきりになるくらいでしたら、私も手伝って良い範囲で手伝います。これ以上は阿弥様のお体に障ります」

「いりません。食事はそこに置いてください」

「……かしこまりました」

 

 襖越しの会話に、信綱は不承不承うなずくしかなかった。もうずっとこの調子である。

 食事はしっかり食べているようなのでそこは安心だが、顔が見られないというのはやはり不安がある。

 陽の光も浴びず、ずっと準備にかからなければならないほど転生の準備は忙しいものだっただろうか。

 

 ずっとこの場所にいても阿弥が落ち着かないだろう、と思って信綱も立ち上がる。

 今や信綱と阿弥を繋ぐものは食事だけだ。それだけはせめてと滋養のつくものを選んで作っているが、気休めにしかならない。

 

 せめてちゃんとした理由を言って欲しい。転生の準備というのも嘘ではないだろうが、それだけでここまで無理をすることはないはずだ。

 顔もここ最近は見ることが叶わない。自分に至らないところがあったのなら言ってくれれば全力で直すし、信綱と顔を合わせることすら嫌だと言うほどに嫌われてしまったのなら、潔く側仕えを退くつもりだった。

 

「……あの方の好物だけでも用意しておこう」

 

 笑顔を見ることが叶わなくても、せめてあの方には笑っていて欲しい。

 自分がその隣にいられれば言うことなしだが、そうでなくとも阿弥の幸せこそ信綱の幸せ。

 その考えこそが阿弥を苛むものであることに一切気づくことなく、信綱は真摯に阿礼狂いとして阿弥の幸せを願い続けていくのであった。

 

 

 

「……行ったかな」

 

 信綱が立ち去るのを足音で確かめると、阿弥はそっと襖を開いて廊下に出る。

 転生の準備にかかりきりというのは間違いではなく、信綱と一緒の時間が楽しすぎて後回しにしていたツケを支払っているのは事実だ。

 それ以外にもようやく答えの出た感情に対する自分なりの折り合いや、信綱との今後の付き合い方を考えている間に一月が経過してしまったというのが正しい。

 

「……うん、もう顔を見ても泣かないよね」

 

 自問自答に対し、軽く笑みを浮かべる。何度も姿見で信綱が疑わない笑顔の練習はしてきた。

 もう自分も二十歳。短命でない人間の尺度でも大人の年齢だ。短命な御阿礼の子で計算すれば、およそ人生の三分の二が経っている。

 つまり常人が六十年生きると計算すれば今の自分は四十――これ以上考えるのは乙女的に不味いのでやめよう。

 

 ともあれ自覚した感情であるとはいえ、いつまでもそれに振り回されてもいけないのだ。

 想いを告げることができなくても彼と一緒にいたいという願いは嘘ではない。家族として共にいられるだけでも、阿弥にとっては幸せである。

 

「大丈夫、大丈夫……」

 

 自分に言い聞かせるようにしていた時、阿弥は足元にある食事に気づく。

 そういえばさっきここに置いてくださいと言ったっけ、と考えながらそれを見ると、どれも阿弥の好物ばかりで構成されていた。それでいて栄養価も考えている辺り、彼の気遣いには頭が下がる。

 

 それを見ていると腹の虫がくう、と可愛らしく鳴く。誰かに聞かれてはいないかと赤面するが、この家に普段からいるのは屋敷の掃除などをする女中と信綱ぐらいだ。

 阿七の頃はもう少しいたのだが、信綱が成長して一人で多くの仕事をこなしてしまう現在、資料の編纂なども彼がやっていた。

 ……阿弥でも時々、彼が分身か何かしているのではないかと思ってしまうのは内緒である。

 

 ともあれ食事を済ませ、美味しかったと労いの言葉をかけよう。ずいぶんと彼には心配をかけてしまっているのだ。それぐらいはしてもバチは当たるまい。

 

「あら?」

 

 そう思って持ち上げた盆には食事の他に一枚の紙が添えられていた。

 何かと思って持ち上げてみると、微かな香りが漂ってくる。どうやら押し花が挟まれているようだ。小さな花をいくらか集めて作られている。

 押し花を挟む紙にも文字が書かれており、せめて香りだけでも外を感じて心を休めて欲しいという、信綱の心遣いが感じられた。

 

 阿弥は自分の心臓が高鳴るのを自覚して、頬に熱が集まるのを自覚する。彼とは家族でいようと決心した途端にこれだ。

 もう大丈夫だと言い聞かせていたつもりだが、そんな気構えが何の意味もないほどに彼はこちらの心を心地良く揺さぶってくる。

 

「本当に……困った人」

 

 彼に何の隔意もなく身を寄せられた日々が遠く懐かしく感じる。今やったら心臓が破裂してしまうだろう。

 あまりにも身近にいたから、どれほど彼の気遣いに浸っていたか理解していなかった。彼はいつだって本当に真摯に自分のことを想ってくれているのだ。

 ……そして、それが今は何よりも痛い幸福を阿弥に与えてくる。

 

 きっとこれからもこの感覚は続くのだろう。なにせあの男は子供の時からずっと側仕えを続けてきた阿礼狂い。御阿礼の子のことなら阿七や阿弥以上に理解していると言っても過言ではない男だ。

 彼の前でいつも通り振る舞わなければならない。それがいかに難しいかは理解しているつもりであるが、いきなり出鼻をくじかれそうになってしまった。

 

「……大好きです、信綱さん」

 

 押し花の紙を片手に、阿弥は信綱がいないことを確かめてから静かにつぶやくのであった。

 

 

 

 

 

 一方、信綱は阿弥に対して何かできることはないかと慧音の家を訪ねていた。

 そうやってひたすらに阿弥を思った行動を取ること自体が、彼女にとって嬉しくも辛い心境にさせるなど夢にも思っていない。

 

「……という次第です。先生なら何かわかるかと」

「ふむ……。いや、確かに私は歴代の御阿礼の子を知っているし、付き合いもあるが……。二代に渡って側仕えをしているお前よりあの子がわかるとは口が裂けても言えんぞ」

「それでもお願いします。あるいは俺が男だからわからない問題かもしれません」

「その手の問題じゃないと思うがなあ……」

 

 慧音は困ったように頬をかく。

 確かに男に相談しづらい悩みというのは存在するが、信綱は阿弥と親子に近い関係を築いていたはず。むしろそのぐらいなら阿弥も相談しているのではないだろうかと思ってしまう。

 

「……慧音先生でもわかりませんか」

 

 とはいえ、普段は毅然と英雄として振舞っている信綱が目に見えて落ち込む姿を見せられては、なんとか力になれないものかと思ってしまうのも人情である。

 そもそも彼はよくやっているのだ。幻想郷縁起、幻想郷の歴史書双方において名を刻むことが確実なほど、信綱は人里と幻想郷に尽くしてきた。

 阿弥の幸せこそ信綱の本心からの願い。それぐらいは彼に世話になった者として助けてやりたいのだ。

 

「ううむ……一つだけ心当たりはあるが……済まない、お前には言えない」

「どういう意味でしょうか」

「阿弥が私に持ちかけた相談があってな。今の悩みもそれに関係があるのかもしれない」

「教えてはいただけませんか」

「阿弥の悩みだと言っただろう。私からそれを言うのは彼女にとって不誠実だ」

「…………」

 

 そう言われては押し黙るしかない。阿弥の不利益になりかねないとあっては、信綱も強く出られなかった。

 未練がましい視線で見つめてみるも、慧音の表情は動かない。相談相手自体は間違っていなかったものの、上手く聞き出せるものではなかったようだ。

 

「……わかりました。お時間を取らせてしまい申し訳ありません」

「力になれなくて済まない。ただ、おそらくは心の問題だ。お前から急かさず、あの子が話したくなるのを待つ方が良い……かもしれん」

「かもしれんって……」

 

 自分でも無責任なことを言った自覚はあるのか、慧音は恥ずかしそうに視線をそらす。

 

「私から言えるのはそれぐらいだということだ。今のお前を前に御阿礼の子は語れんよ」

「……そうでしょうか」

「お前ほど長くあの子の側にいる火継を私は知らん。少なくとも私が何かを言うより、お前が考えた行動の方があの子のためになると思うぞ」

「……参考にします。それでは失礼しました」

 

 丁重に礼を言って慧音の家から外に出る。

 今日も寺子屋前では多くの子供たちが遊んでいる。自分が子供の時から変わらない光景にほんの少しだけ気が楽になった。

 信綱が落ち込んで阿弥の気が晴れるなら地の底まで落ち込むが、それをしたところで今の阿弥が根を詰めるのは変わらないだろう。

 気を取り直して何か考えよう、と気分を切り替えた時だった。

 

「あれ、おじさん? 寺子屋に何か用ですか?」

「……弥助か。お前こそどうした?」

 

 百鬼夜行の頃より落ち着いた雰囲気を出すようになって、大人への階段を登り始めている友人の息子を見て、信綱は頬を緩ませる。

 自分は血のつながった子供こそいないが、友人の子や阿弥を見ていられるのだ。それはそれで素晴らしいことである。

 

「ちょっと親父……親方に言われて手伝いです」

「ふむ、お前は勘助の後を継ぐつもりか?」

「まだハッキリと決めたわけじゃないですけどね」

 

 困ったように笑うものの、彼の目に迷いは感じられなかった。

 弥助の前に提示されている道はいくつかあるだろう。人妖の共存が始まりつつある今、自警団や妖怪と積極的に関わる仕事はいくらでもある。

 それに彼は勘助いわく、英雄を目指していたと聞くがその辺りはどうなのだろうか。

 

「……百鬼夜行の時におじさんの戦いを見てわかったんです。自分にあれはできないって」

「そう卑下したものでもないぞ。三十年も修行すれば……うむ、それなりには行くんじゃないか?」

 

 今から信綱が稽古をつければ二十年もあれば烏天狗の一人ぐらいは倒せるはずだ。

 途中で死ぬ危険? 修行とは危ないものである。

 信綱の危険な思考が漏れていたのか、弥助は心なしか顔を青ざめさせながら否定する。

 

「中途半端な慰め……のような変な自慢やめてくださいよ!? そりゃ、見せつけられた時は辛かったですけど、立ち直れたのもおじさんの言葉なんです」

「俺の言葉? お前を立ち直らせたのは親じゃないのか?」

「そっちも皆無じゃありませんけど、おじさんにできないことでおれにできることがある、って言葉が嬉しかったんです」

 

 確かにそんなことを言った覚えがある。

 あの時は百鬼夜行が迫っていたので割りと適当に言った気もするが、彼が喜んでいるのなら黙っておくべきだろう。美しい思い出をわざわざ汚す必要はあるまい。

 

「そうだな。確かに俺は多くのことを成したのだろう。だが、それらを形作っていくのは勘助たちであり、お前たちだ。……商人の修行、頑張れよ」

「はい! それじゃあ……っと、話がそれてた。おじさんはここで何を?」

「む、話を戻すか。実は……」

 

 丁度良いので話を聞いてもらうことにした。阿弥と同年代である彼なら何かわかることがあるかもしれない。

 

「はぁ……いきなり泣いて謝りだして、何事かと思っていたら今度は顔を合わせなくなったと」

「うむ。まあ家にいる以上、全く合わせないというわけでもないんだが、とにかく会話が減った」

 

 話術も彼女を楽しませるのに必要な技能であるためそれなりに磨いているのだが、話しかけられること自体を拒んでいる彼女の小さな背中を見ては何も言えなかった。

 会話を望まないならせめて食事や目で何かを楽しんでもらおうという心遣いだが、少しでも阿弥の心が軽くなっているのなら幸いである。

 

「嫌われたのならそうと言ってくれれば潔く退くつもりなのだが……」

「いやあ、それはないと思いますよ? 父さん父さん言ってべったりだったじゃないですか」

「子供の頃と今は違うだろう」

「案外変わらないものもありますよ。おれが今でも母ちゃんのおはぎが大好きみたいに」

「それと一緒にされても困るな」

 

 弥助の例えに少し笑ってしまう。食い意地と阿弥の悩みが同列ならばどんなに楽か。

 しかし笑ったことで僅かではあるが気が軽くなった。そんな信綱の様子を見て、弥助は我が意を得たりと破顔する。

 

「そうそう、笑った方が良いですよ。笑う門には福来る、って言いますから」

「お前も言うようになった。……血筋かね、これは」

 

 勘助も弥助も、笑顔に不思議な力があるような気がしてならない。

 その顔を見ているとなぜか知らないが、どうにかなるような気になってしまうのだ。

 

「やるだけやってみるよ。お前も寺子屋に用事があるんだろう? 頑張れよ」

「おっと、話しすぎました。慧音先生! 寺子屋の教材の件で伝言があります!」

 

 寺子屋に入っていく弥助を見送って、信綱は帰り道を歩き出す。

 このまま阿弥が外に出ない時間が続くようなら、多少強引にでも連れ出そう。少しは陽の光も浴びなければ身体に毒である。

 顔を合わせられないことは信綱にとっても辛いが、自分の幸不幸など阿弥の健康に比べれば些事である。

 というより、自分が報われないことは別に良いのだ。阿弥が今後一切、自分を見向きもしなくなったとしても、彼女がそれで笑ってくれるのなら喜んで道化になる。

 

 今回は嫌われることを覚悟して強引に行くべきだ。転生の準備が必要なのは否定しないが、それで身体を害するようでは元も子もない。

 そう決心して、稗田の家に戻っていく。

 すでに時刻は太陽が眠りかかっている黄昏時。差し当たって夕食後に月明かりの散歩でも進言してみようと戸を開くと――

 

「あ、お帰りなさい、父さん」

「阿弥様?」

 

 一ヶ月、ほとんど顔を合わせていなかった愛しい主が玄関にいた。

 身体を冷やさないための肩掛けを羽織って佇むその姿は、かつて信綱を弟のように扱ってきた阿七を思い起こさせる。

 年齢もほとんど同じであることに奇妙な縁を感じてしまう。信綱がもう老年に差し掛かってすらいることだけがあの時とは違うところだ。

 自分の時間は無情に流れ、御阿礼の子はあの時のままここに留まっている。

 そんな錯覚を覚えてしまい、信綱は微かに目を細める。

 

「? 父さん?」

「……いえ、久方ぶりに阿弥様と顔を合わせることが嬉しいだけです」

「もう、父さんったら大げさね。部屋に行きましょう。これからの転生の準備について話したいことがあるの」

「かしこまりました」

 

 淡く微笑んで部屋に戻っていく阿弥に信綱も笑顔を返そうとして、ふと妙な感覚を覚える。

 

「阿弥様」

「ん? なあに?」

 

 振り返る彼女の様子に変なところは見受けられない。信綱が懸念していた顔色も良い。差し入れていた食事はきちんと食べていたのだと内心で握り拳を作る。

 服装もいつも通り、可愛らしい少女らしさと清楚な女性らしさの同居した素晴らしいもの。歳も少女と大人の境を越え、身にまとう儚げな空気が彼女の美しさを一層際立たせる。

 少し話は変わるが、信綱の御阿礼の子に対する評価は最高以外にないのであまり当てになるものではない。閑話休題。

 

 ではどこに違和感を覚えたのか。呼び止めた信綱にも理由がわからず、心の中で首を傾げる。

 

「……私の気のせいでしたら申し訳ありませんが、何か無理をしておられませんか?」

「あはは、変な父さんね。ここしばらくは放ったらかしだった転生の準備にかかりきりだったのよ? 無理なんてしてないわけないじゃない」

「……そう、ですか。申し訳ありません、後ほど葛湯でも持って行きます」

 

 違和感は拭えぬまま。しかし阿弥の言葉を否定する確たる理由もないまま否定することはできず、信綱は曖昧にうなずくに留める。

 全ては後で考えるとして、今は阿弥を部屋に導くのが仕事である。信綱は従者としての役割で阿弥の前に立ち、振り返って笑いかける。

 

「では行きましょうか。阿弥様、お手を」

「……良いわよ、そんな。子供じゃあるまいし」

 

 ふい、と阿弥は伸ばされた手を取ることなく信綱の隣に立つ。

 いつもなら阿弥が信綱の手に自分の手を重ねてきたのだが、それがないことに僅かな戸惑いを覚える。

 

「そ、そうですか。失礼しました」

「それより部屋に戻ったら編纂の資料で確認したいことがあるのよ。ちょっと長くなるけど良いかしら」

「無論。私はいついかなる時でもあなたのものです」

 

 阿弥の要請ならば何ものに代えても達成すべき案件である。

 そんな意思を込めてうなずいたところ、阿弥は一瞬だけ何かに耐えるような顔になったのを信綱は見逃さなかった。

 

「……阿弥様、どうかされましたか?」

「あ、ううん! なんでもないの。ちょっと疲れちゃっただけだから」

「それなら良いのですが……今日はもう休まれてはいかがです? ここで無理をして後々に祟っては元も子もありませんよ」

 

 ずっと部屋にこもりきりだったから月光浴にでも誘おうかと思っていたが、この調子ではやめた方が良いだろう。自分の浅慮で御阿礼の子が体調を崩すなど、側仕え失格である。

 それに信綱が顔色を確かめようと視線を合わせたところ、頬の赤みが確かに増していた。これは少々熱があるのかもしれない。

 

「だ、大丈夫だから! うん、今日は早く寝ることにするわ! だ、だからちょっと顔が近い……!?」

「……本当に、大丈夫なのですね」

 

 信綱が心底からの不安をのぞかせてつぶやくと、阿弥はまだ顔を赤らめながらも落ち着きを取り戻した様子になる。

 

「ええ、本当に大丈夫。でもちょっとだけ、体調は良くないかもしれないわね」

「……わかりました。ですが今日はもうお休みください。夜に目が覚めるようでしたら夜食を用意しておきますゆえ」

「そうするわ。父さんもこの一月、私のお世話ばかりで疲れたでしょう? 父さんも休んだ方が良いわよ」

「私は大丈夫です。あなたの顔が見られたのですから、疲れなどありません」

 

 阿礼狂いにとっての特効薬は御阿礼の子の笑顔である。これさえあれば首が切り飛ばされても動く自信がある。信綱の首が切り飛ばされて笑っていられるかという疑問はあるが。

 

「……父さんは父さんだね」

「む?」

 

 真顔で言い切った信綱を、阿弥は頬を赤らめながらもジットリとした湿度の高い目で見る。

 はて、そんな目で見られるような変なことを言っただろうかと首を傾げるが、答えはわからない。

 信綱が疑問に答えを出せないでいると、阿弥は困ったように笑いながら信綱から離れていく。

 

「ん、なんでもない。おやすみなさい、父さん」

「ええ、おやすみなさい。良い夢を」

 

 自室に戻っていく阿弥を見送り、信綱はふと不安に襲われる。

 

 彼女と共にいられる時間は残り少ない。そして恐らく次の阿求を待つ頃、あるいは生まれてしばらくした頃に自分は死ぬだろう。

 これは信綱が人間である限り逃れられない定めだ。御阿礼の子が望むなら人を辞める方法も探す必要が出てくるが、望まないなら人間として死ぬつもりである。

 

 人間を辞めるというのは、阿礼狂いであることを辞めることにも繋がりかねない。

 自分たちの狂気がどんな条件の元に成立しているかもわかっていないのだ。迂闊に手を出して人間に戻ってしまったら、物心ついた時から今も変わらず胸に息づいている炎が消えてしまうかもしれない。

 そうなった時、御阿礼の子のために全てを捧げる決断を迷うことなく行えるのか、信綱にも自信が持てなかった。

 

 現状を変える必要があるのなら躊躇わないが、必要がないことをする理由もない。ないはずなのだ。

 だというのに、阿弥の様子を見ているとその自信が揺らいでしまう。

 一月も部屋にこもったかと思えば、急に出てきて不自然なまで(・・・・・・)にいつも通り振る舞おうとしている。

 なぜなのかは聞いても教えてもらえないだろう。信綱に原因があるのなら言って欲しい。それがどんなものであれ、彼女の願い通りに変えるつもりだ。

 

「……阿弥様」

 

 彼女に笑っていて欲しい。それだけが信綱の願いである。

 そっと漏らしたため息は誰に聞かれるでもなく、空気に霧散していった。

 

 

 

「父さんは……来てない、と」

 

 阿弥は部屋に戻り、襖を閉めて大きく息を吐く。

 一月かけてちゃんといつも通りになったつもりだったが、相手は予想以上に難敵だと思い知らされるだけだった。

 異性として改めて見るようになってしまい、そしてその想いを封印するつもりであるというのに、あの従者は全く意識せずこちらの心を揺さぶってくる。

 ……というより、あれを平然と受け止めていた以前がおかしかったのかもしれない。どうして自分はあの状態に疑問を覚えなかったのか。

 

「大変だなあ、これから」

 

 しかし、不思議と阿弥の口元に浮かぶのは笑みでもあった。

 想いを吐露できない切なさはある。だが、どんな形であれ彼と共に生きることができる喜びも確かにあった。

 

 通常の男女が行う好いた腫れたとは全く別種だろう。

 とはいえ、御阿礼の子と阿礼狂いなのだ。どちらも常人とは一線を画す存在である以上、こういった形も悪くはないはずだ。

 

「……あ、そうだ。椛姉さんに今度会いに行こう」

 

 自分の感情に答えが出たことの報告と――自分がどんな道を選んだのかまで伝えるのが、相談に乗ってくれた彼女へ通すべき筋だろう。

 ひょっとしたらあの時、すでに椛の中では阿弥が信綱に対して持っている感情を知っていたのかもしれない。その上で阿弥が答えを出すのを待ち、その結果を祝福したかったのかもしれない。

 

 そう考えると椛には悪いことをしてしまう。阿弥は信綱に対して恋をしているという答えを出していながら、それを告げることを諦めたのだから。

 しかし諦めることがすなわち不幸であると言うつもりはない。想いを告げられない辛さは確かにあるが、それを言って信綱を困らせたくないという気持ちも存在するのだ。

 

「まあ……うん」

 

 信綱からもらった押し花を見て、最初に浮かぶ気持ちは嬉しいということ。

 次いで僅かに胸を締め付ける気持ちが生まれるが、それも嬉しさに勝るものではない。

 

「あの人と一緒にいられるなら――それで良い」

 

 彼は阿礼狂い。自分が彼と共にいることを願い続ける限り、彼はその願いを叶えてくれる。

 これから彼に途方もない重荷を背負わせるのだ。それ以上を望むのは酷というものだろう。

 

 あの人にはまだまだ生きていて欲しいのだ――それこそ、自分がいなくなった後も。

 阿七は彼にどんな気持ちで後を任せたのだろうか。御阿礼の子が目の前で消えることが彼にとってどれほど辛い仕打ちであるかなどわかっていただろうに。

 

 それでも――それでも、阿七は阿弥に彼を教えて上げたかったのだろう。火継信綱という、阿七の弟であり、家族である少年を。

 

 今度は自分がそれをする番だ。自分もまた、彼に次の御阿礼の子を任せたいと思っているのだ。

 きっと彼は悲嘆にくれるはずだ。阿七、阿弥と二代に渡って御阿礼の子の死を見届ける火継など前代未聞である。

 泣いて、悲しんで、嘆いて――最後は御阿礼の子の願いを叶えようとする。

 

 

 

「ごめんなさい、父さん」

 

 

 

 それは言葉に出来ないワガママを持つ少女の懺悔であり、彼女が願う幸せの形でもあった。

 

 

 

 

 

 ――阿弥が残酷な約束をする時まで、残った時間は少ない。




ノッブ「あなたが笑ってくれるなら自分は道具で構わない(真顔)」
阿弥「そう言うあなただから告白できない(涙目)」

ノッブが阿礼狂いとして完璧だからこそ、彼女を追い詰めてしまうジレンマ。鈍感無自覚系主人公(自己評価が阿弥の道具で一貫しているため、自分に恋しているなど考えてすらいない)

でも阿弥も阿弥でノッブに自分が死んだ後を任せる気満々なので、一緒に死ぬことを許さないという点では阿弥もワガママであったり。

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