信綱が椛を伴って稗田邸に戻ると、阿弥は大層驚いた様子でそれを出迎えた。
「こんにちは、阿弥ちゃん。お久しぶりですね」
「椛姉さん!? え、今日も父さんに何かされたんですか?」
「天魔からの要請で彼女を預かることになりました。しばらくは人里に常駐させる予定です」
細かい説明は省いて、椛が当分の間人里を活動拠点にすることを信綱が告げる。
椛がなんだか遠い目をしていたのがちょっと気になったが、とりあえず阿弥は嬉しいという自分の感情に素直になることにした。
「じゃあいつでも会えるんですね、嬉しいです!」
「そう言ってもらえると私も嬉しいですよ。この前は引きずられて来ましたけど……」
「別に良いだろう」
「君は少し反省しなさい!」
「……何を?」
少し前に交流区画で遊んでいた椛を無理やり連れてきたことだろうか。しかし阿弥が信綱の手助けなしで料理をしようとしていたのだ。
ならば万全の対策を取るのが信綱の役目である。相手の都合? 御阿礼の子以上に優先されるものなどない。
反省の色がないどころか、どこが悪いのかすら認識していない様子の信綱に椛はため息をついて肩を落とす。
こういう人間だとわかってはいるが、些細な部分で常人と違う点を見せられると思うところがある。
「彼女に話があると仰っておりました。私は席を外しましょうか?」
「お願い、父さん。あ、自警団の人が呼んでたから行ってあげて」
「かしこまりました」
恭しく頭を下げ、完璧な所作で下がっていく信綱を椛は今でも信じられないものを見るような目で見送る。
自分の前では礼儀? なにそれ美味しいのと言わんばかりの態度を取るくせ、阿弥に向ける態度は別人のようなそれだ。
椛の視線に気づいたのか、阿弥が困ったように笑いながら話しかけてくる。
「あはは……私にはあれが自然なんですけど、椛姉さんには珍しいですか?」
「そりゃもう。ついさっきまで私の手足を斬り飛ばした人とは思えません」
「何やってるんですか!?」
「稽古です。ほら、妖怪は色々頑丈ですし」
それ含めても信綱のやり方には凄まじいものがあるが、強くなっているのも事実なのであまり強くは言えない。
「……後でお説教ね」
「程々にお願いしますね? それぐらいやらないと強くなれないんですよ私も彼も」
「……大変なのね、椛姉さんも父さんも」
「彼は人間で、私はしがない白狼天狗ですから」
尋常の鍛錬では尋常の結果しか生み出せない。百鬼夜行の主をも打ち倒してみせた道理を蹴飛ばすような実力は尋常ならざる鍛錬に身を置き続けるしかないのだ。
「それより話とは何ですか? あの人にできないものだということはわかりますが……」
「あ、そうでした。私の部屋に来てください」
椛の手を引いて阿弥が自室へと案内していく。
かつて見た時はあどけない少女だった阿弥だが、今の彼女には椛の語彙では上手く表現できない何かがあった。
無理に例えるなら、どこか憂いを帯びたことによって生まれ来る色気のような何か。そんな雰囲気があるのだ。
そうして招かれた部屋は墨の香りが漂う空間だった。
信綱が見栄えを整えているのだ。チリ一つ残っていない部屋だが、それでも墨の香りがしてしまうほどこの少女は書物と親しいのだろう。
阿弥に促されて座布団に座り、対面に座る阿弥を見る。凪のように落ち着いているようで、しかしその瞳には揺れる何かがあった。
「何か、困ったことでもありましたか」
「……どうして私の周りには察しの良い人が多いのかしら」
「私はほら、よく周りを見ていますから。それにあの人はあなたしか見ていませんし」
場を和ませようと信綱のことを話題に出した一瞬、阿弥の顔が悲痛に歪んだことを椛は見逃さなかった。
信綱が関連していることだ、と当たりを付けた椛は出されたお茶を飲みながら彼女が話すのを待つ。
彼が阿弥を悲しませるような行動を取るとは思えない。というか取ったら腹を切って詫びようとするだろう。あれが望むのは阿弥の幸福ただ一つであり、それを阻むものは自分であろうと排除するはずだ。
ならば必然、彼女が思い悩むことは限られてくる。例えば――彼女自身の心の問題とか。
「……お話したいことというのは、父さんのことなんです」
「ふむ」
まあ想定の範囲内である。というより、椛と阿弥の共通の話題は彼ぐらいしかない。
何やら決意を秘めた様子の阿弥に、椛はどんな質問が来るのかと身構え――
「単刀直入に聞きます――椛姉さんは父さんのことが好きですか!?」
「ゲフッ!? ゴフッ、けほ、けほっ!」
むせた。天魔に人里の常駐をいきなり押し付けられたことと言い、なんだか最近は驚いてばかりである。
しかし阿弥は椛の驚愕を気にする余裕すらないのか、真っ直ぐにどこか追い詰められた様子すら浮かべて椛を見つめている。
「答えてください。父さんのこと、どう思ってるんですか」
「いや、それは、その、ええと……友人だと思ってますよ。はい」
「異性として見たことはないんですか? あの人の腕に抱かれたいと思ったことは?」
「ないです」
「そ、そこはハッキリ答えるんですね……」
関係を訪ねた時は頬を赤らめてしどろもどろな答えだったのに、次の質問に関しては即答だった。
あの男の本質である阿礼狂いに最初に気づいたのは椛だ。それ故、彼が御阿礼の子以外を愛さないことも知っている。
その彼に抱きしめられる? 背中に隠した刃で殺される懸念をすべきだろう。あの年中仏頂面な男の口から睦言が出るとか想像もできない。
椛の即答の早さに思わずたじろいでしまった阿弥に、今度は椛が声をかけていく。彼女が聞きたいことはもう理解しているつもりだ。
「阿弥ちゃん。……あの日に尋ねてきた感情の答えが出たんですね」
「……はい。私はあの人が好きなんだって、気づきました」
切なげに胸を押さえる様子は信綱を求める恋する乙女のそれであり、椛はこの場にいない信綱のことを考える。
恋を自覚したのなら言えば良い。だが、こうして椛に相談をしに来るということは何かしら理由があるのだろう。
そもそも、それなら椛に信綱を懸想しているかなど聞く必要がない。恋敵を増やしたいのかという話である。
……まあ、椛は自分があの男になびくとかあり得ないと思っているが。人間として見ればこの上なく信頼していても、そういう対象に見られるかは別問題だ。
「なぜ、彼に言わないのか聞いても良いですか」
「……父さんの一族がなんて呼ばれているかは知っていますか?」
うなずく。一時期は信綱の傑出した活躍によって霞んでいたが、百鬼夜行異変の際にその名を多くの人妖に知らしめていた。
阿礼狂い。昔から今に至るまで一秒たりとも彼は英雄の名誉に酔うことはなく、御阿礼の子に狂っている。
成長はしているだろう。阿七から教わったことや多くの人妖と触れ合い、人と人のつながりを重要視したり調和を尊ぶ心は決して阿礼狂いのままでは得られなかったものだ。
しかし、優先順位の変化はない。ここまで積み上げてきた人妖の共存でさえ、彼にとっては御阿礼の子が望めば容易に手放せるものに過ぎない。
「あの人たちは絶対に私たちを守ってくれます。阿礼の時からずっと、変わりなく。でも、本来なら私たちの転生周期はもっと長く、同じ人が私たちに仕えることはなかった」
「…………」
「父さんだけが例外。子供の時から阿七に仕えて、そして私まで守ってくれて――多分、阿求の代までお願いします」
「……あの、話が――」
「それはあの人にとって何よりも辛いこと」
話が見えない。そう言おうと思った椛の声を遮り、阿弥はそれを言ってしまう。
いつか訪れる別れであり、信綱が再び絶対に癒えぬ傷を背負う瞬間を。
「あ……」
言われて椛も気づく。阿礼狂いにとっては価値基準も判断基準も全てが御阿礼の子を至上とする。
ならば、御阿礼の子の死は彼らにどんな意味があるのか。
考えるまでもない。自分の身が八つ裂きにされるより苦しいことであると容易に想像できてしまう。
「父さんはもう阿七の時に一度それを受けているんです。そして私もそれを味わわせる。……そんな醜い女が、あの人に告白なんてできるわけありません」
「……それは」
何も言えない。阿弥と信綱の関係は、例え長い付き合いであっても外側からの第三者である椛が何かを言ってはいけない気配があった。
ずっと自分に傅き続けてきた人に恋をしてしまった阿弥の想いは阿弥にしかわからず、そんな阿弥に仕え続ける信綱の気持ちもまた彼にしかわからない。
「私はあの人に幸せでいて欲しい。いつか酷い約束をさせる私以外の人なら、と思って椛姉さんに尋ねてみたんですけど……」
「阿弥ちゃん、それは違います」
「え?」
今度は椛が阿弥の言葉を遮り、断言する。
虚を突かれて呆けたようにこちらを見る阿弥に、椛は静かな意思を乗せた表情で口を開く。
「あの人が幸せを感じられるのは、あなたの側にいる時だけです。例え最期に彼に酷い仕打ちをするとしても、それでもあの人はあなたとの時間を否定することだけは決してありません」
椛は彼と一緒の時間を過ごして長いが、彼の口から御阿礼の子に関する愚痴を聞いたことは一度もない。
死別してしまった阿七のことは傷として残っているだろう。しかし、彼はそれで阿七と過ごした時間を全て決めるほど真っ当な性根はしていない。
「…………」
「彼はあなたがどんなワガママを言っても笑って受け入れますよ。そりゃあ死別は泣くかもしれませんが、必ず立ち上がってあなたの願いを叶えようとするはずです」
「……そうですね。椛姉さんの言うとおりです」
だから彼と話し合って――と言おうとした瞬間、椛は自分が何か失言をしてしまったことを察する。
儚げな笑みを浮かべた阿弥は椛の言葉にゆるゆると首を振り、伏せられた相貌から一筋の涙が零れた。
「あの人は私を全部受け入れてしまう……きっと、この想いも。でも――それは彼の意思ですか?」
「……っ!」
阿弥が何を悩んでいるのか。その本質に椛はとうとう思い至る。
狂気の域に達した忠誠を捧げ続ける一族の人間に、一人の個人としての意思を求めることの無慈悲さが。
阿弥の質問に答えられる者は誰もいない。それこそ当人である信綱にすら、阿礼狂いでない意思がどこにあるかなど知る由もない。
当人ですら存在を証明できない火継信綱自身の心。阿弥が熱望しているのはそれであり――心優しい彼女は、それが手を伸ばして良いものでないこともわかっていた。
手を伸ばしたが最後、彼は見つかるはずのないものを見つけようとして彼女の手から離れるだろう。
少なくとも今のように家族ではいられまい。阿弥が信綱に求めているものを彼は正確に理解してしまうが故に、阿弥に代替行為を許さない。
椛は全てを理解した。何がいけないとかそういったことではなく巡り合わせの妙であり、悲劇であると。
狂人とそれを求める少女の関係に呑まれてしまった椛に対し、阿弥は儚い笑顔を向ける。
「だから私はこれで良いんです。これはこれで好きなんですよ? あの人は父さんと呼ぶとどこか戸惑ったような顔になりますけど、呼ばなきゃ寂しそうな顔にもなるんです」
「……ふふ、それは見てみたいですね」
何かを言おうとして、しかし椛は何も言うことなく阿弥の言葉に笑みを浮かべる。
彼女なりに悩み、苦しみ、考えに考え抜いた末での決断なのだ。第三者でしかない椛に言えることなど何もない。
想いを告げても信綱は自身が阿礼狂いとして彼女の想いに応えられないことを呪うだろうし、阿弥はそんな信綱を見て自身の行動を悔やむだろう。
ならば告げないのも一つの道ではないだろうか。残り少ない時間なのだ、静かに過ごしたいと願う阿弥の選択を誰が責められる。
御阿礼の子と阿礼狂い。しがない白狼天狗を自認していたのだが、この二人に頼られるようになる時が来るとはあの頃の自分では想像もできないだろう。
瞑目して言いたいことをまとめていく。
それで良いのか、と確かめる段階はすでに過ぎている。ならば問うべきことは一つしかなく。
「……阿弥ちゃん」
「はい? なんですか?」
「今、幸せですか?」
その質問に対して、阿弥は椛が見惚れてしまうほど、綺麗な笑みを浮かべるのであった。
「――はい。もちろん」
そして時の人である火継信綱その人は――
「ハッハッハッハッハ! お固い性格かと思いきや意外や意外! 結構イケる口じゃないか!!」
「っぶはぁ!! 鬼が博麗の巫女ナメんじゃないわよ! あんたこそ着いてきなさいっての!」
「…………」
盃になみなみと酒が注がれ、それを一息に飲み干す飲兵衛――彼女らの面目を保つ意味でこの言葉はやめておこう――酒好きな少女二人が樽ごと乾かすのではないかと言う勢いで酒を飲んでいる光景を眺めていた。
目の前で繰り広げられている光景に頭痛を覚えてしまう。
ここ数年で特に問題も起きていないため、徐々に広げている交流区画の中。自警団に呼ばれた所用を片付けた後、妖怪と人間が入り乱れる光景に物珍しさを覚えないほどに見慣れた場所を歩いていると、店で騒ぎが起きているのが見えたのだ。
今は日も高い時間。酔漢が喧嘩をするにも少々時間が早いと考え、妖怪と人間がまたぞろ何かを起こしたのか、と思いながら信綱は騒ぎの元へ向かう。
騒ぎがあったら自分に伝えるように言っているのだ。騒ぎを見つけたら無視はできない。
「何事だ」
「へ? 誰……って、英雄様!?」
「喧嘩か? 妖怪同士なら私が仲裁するが……」
仲裁すると書いて無力化するとも書く。無辜の民に血しぶきの舞う光景を見せるわけにはいかないので、後頭部を強打して意識を奪うくらいだが。
信綱に話しかけられた青年は恐縮したような困惑したような、どちらともつかない表情で道を開く。見た方が早いということだろうか。
青年が動いたことで群衆の視線が信綱に集まり、皆一様に困った顔になる。
喧嘩の類なら助けが来たと言わんばかりに輝くのだが、今日は違う。一体何がどうしたというのか。
そうして店の中に入り、話は冒頭に戻る。
「…………」
ガバガバと酒を飲み干していくのは、かつて信綱が首を落とした星熊勇儀と仕事熱心なはずの博麗の巫女。
お前ら何やっているんだ、という文句も今は浮かばない。酔っぱらいに絡まれるのが面倒なことであるというのは、人生経験上身に沁みている。
二人とも酒を飲むのに夢中で信綱には気づいていない。信綱は入口側の席に陣取っている博麗の巫女の背中を呆れた顔で見ながら、看板娘に熱いお茶を用意するよう小声で頼む。
「済まない、熱い茶をくれ。酔いも冷めるようなものを頼む」
「わ、わかりました……でも、お二人に飲ませるにはちょっと……」
無謀だと言いたいのだろう。信綱もバカ正直に正面から向かう気はない。酔っぱらいはいつだって道理や事情を蹴っ飛ばして来る。
「まあ任せておけ。気づくのが遅れて悪かったな」
「い、いえ! 店中のお酒を飲んでもらえるなら、お金もいっぱい入りますから!」
たくましいことである。尤も、巫女と勇儀が金を持っていればの話だが。
そうして熱い茶の入った湯呑みを受け取ると、信綱はそれに口をつけることなく軽いものを投げるように巫女の後頭部目がけて投げる。
それは精妙な力加減によって中のお茶を零すことなく巫女の後頭部へと吸い込まれていき、すこーんと良い音を立てる。
「ごぶっ!?」
「んぁ?」
後頭部に走る衝撃に巫女は咳き込み、何事かと勇儀の顔が盃から上がる。
彼女の眼前には、巫女の後頭部を湯呑みの底に掠めるように当たって回転し、茶の入った面を向けている湯呑みがあり――一本角に引っ掛かってその中身を顔面にぶちまけた。
「熱っ!? うおっ、あちちちちちち!?」
「痛っ! 頭が割れるように痛い!?」
「…………」
沸騰寸前のお茶が目に入って悶える勇儀と、それがたっぷり入った重たい湯呑みを後頭部に受けて悶える巫女。二人とも酒どころではない。
そんな二人の首根っこを引っ掴み、呆然と見ている看板娘に謝意を込めて軽く頭を下げる。
「騒がせたな。金は後でこいつらからせしめて持って来させる」
「い、いえ……ありがとうございます」
「ああ。こいつらには節度というものを教え込んでおくから、次来た時は拒まないでやってくれ」
コクコクとうなずく看板娘と野次馬を押しのけて、信綱は外に出る。
適当なところで曲がって視線を外すと、信綱は辟易した顔で二人を地面に放った。
「……で、お前らは何をやっていたんだ」
すでに回復していた勇儀がニヤリと笑い、どっかと地面に座り直す。
「何って、酒場で鬼がやることなんて一つしかないだろう」
「じゃあお前だ。博麗の巫女の仕事はどうした」
「妖怪に舐められちゃあ黙ってられないわよ。でも殴り合いの喧嘩なんてやったら大騒ぎだし、そうならない穏便な方法を選んだだけって痛っ!?」
「大騒ぎになったわ阿呆」
巫女の頭を叩いて、勇儀の方に向き直る。
「……まあお前であろうと悪さをしなければ文句はない。金はあるんだろうな」
「へ? そんなもん、あの看板娘をちっと脅せばタダに――ぐぉっ!?」
手加減無しの蹴りを顔面にぶち込む。さすがに倒れ込んだ勇儀に容赦なく追撃を加えていく。
「お前には、貨幣経済、というものをっ、根幹から、教えるっ、必要が、ありそうだ、なっ!!」
「ちょ、待って待って冗談だって! だから蹴るのはやめろって! 痛い!?」
ゲシゲシと蹴ってくる信綱に、慌てて勇儀は懐から取り出した金銀財宝を見せる。鬼の首魁だけあって、かつて大江山にいた時に貯めこんだ財宝も相応にあるようだ。であれば後は謝罪して渡せば良いだろう。
さて、と信綱は巫女に視線を向ける。後頭部を二度も叩かれてブツブツ言っていた巫女だが、信綱と視線を合わせると気まずそうにそらす。
「…………」
「…………」
「……まさかとは思うがお前」
「う、うるさいわね! 良いじゃない、そこの鬼がおごってくれるって言うんだから! 私だってちょっとくらい肩の力を抜きたかったのよ!」
「博麗の巫女が鬼にたかって良いのか……?」
この巫女はなんだかんだ真面目でまともな価値観を持っていると思っていたのだが、と信綱は呆れて頭痛のする頭で二人の処遇を考える。
「おい一本角、お前は何か騒ぎを起こすつもりはないな?」
「うん? そりゃ売られた喧嘩は買うけど、そうじゃなきゃ私からは仕掛けんよ。喧嘩になっても手加減ぐらいするさ。お前さんに負けたことを他の人間に八つ当たりするつもりはないね」
「……なら良い」
妖怪は人間である信綱には訳のわからない価値観を持っていることが多いが、同時にその価値観から逸脱する行いはしない。
二十年以上前の約束をレミリアが未だ愚直に守り続けるように。彼女らは交わした約束と自分を打ち倒した人間に対しては誠実だ。
「行っていいぞ。あまり店に迷惑はかけんようにな」
「へいへいっと。お前さんも戦っている時とは別人だねえ、今度一緒に酒でも飲まないかい?」
「気が向いたら考えてやる」
すでに手に持っている盃で酒を飲み始めている勇儀が立ち上がって信綱に背を向けて去っていく。
百鬼夜行で刃を交えたものの、勇儀は信綱に対して正面から向かい、交わした言葉に嘘はなく誠実だった。
異変を起こした相手として警戒は怠っていないが、生粋の鬼として嘘をつかないことは信用できると判断していた。どこぞの阿弥に手を出した鬼畜生とは大違いである。彼女は今頃どうしているのだろうか。
考えても詮なきことを思いながら信綱は巫女に向き直る。酒が抜けてきて自分の行いを省みたのか、その顔は不貞腐れているように見えながらも反省の色が伺えた。
「……何よ」
「……いいや、なんでもない」
本人が反省しているなら何も言うことはない。彼女も良い年の人間だ。今さら信綱が小言を言う必要もないだろう。
その信綱の態度がまた癪に障ったのか、子供のようにそっぽを向く巫女。これで見た目が若々しくなかったら吐き気すら覚える挙動である。
「帰るぞ。博麗の巫女が里で酔い潰れたなど、醜聞以外の何ものでもない」
「良いわよ。人里にはあんたがいるんだし」
「俺は阿弥様にだけ仕えていたいんだ。それ以外の面倒事はゴメンだ」
地べたに座り込んでいる巫女を立たせ、博麗神社の方角へ歩こうとすると巫女に止められる。
「待って」
「どうした」
「……私、そろそろ巫女の役目が終わるかもしれない」
「そうか。帰るぞ」
「もう少し反応しないそこは!?」
「いや、別に博麗の巫女の代替わりはどうでも良い。お前もお役御免でせいせいするだろう」
人里に被害が来なければ好きにしてくれというものである。紫とて次代の当てがないまま博麗の巫女を解任はすまい。
全く興味を示さずさっさと歩き出した信綱を追いかけて、巫女も並んで歩き始めたところで信綱が口を開く。
「そろそろということは、今はまだ巫女なのか」
「あー……まあそろそろって言っても紫の言葉だし、まだ巫女は続けるけどね」
「妖怪のそろそろなんて当てにならんぞ。あと十年近くはありそうだな」
「う、そう言われるとそうかも……」
わかっていなかったのか、と呆れるがそれだけ巫女にとっては嬉しいことなのだと思い直す。
信綱が十代の年若い頃から巫女をしていたのだ。すでに三十年以上が経過しているだろう。
幻想郷が何かと騒がしい時代で死ぬこともなく巫女の役目を果たした彼女が、ようやく訪れる役目の終わりにハメを外すのも無理はない。
が、それはそれとして人里に迷惑をかけて良い道理はないので、最低限の小言は言っておく。
「……お前の気持ちには理解を示そう。しかし、まだお前は博麗の巫女なんだ。あまり変な騒ぎは起こさないでくれ」
「わかったって。あんたは私のお母さんか!」
「やりたくてやっているわけではない。誰も言わないから俺が言っているんだ」
説教というのは教えを説くと書く。教えとは人の道理だ。そして人の道理とは常人にとっての道理である。
ならばその道理に背を向けている阿礼狂いは、説教をする資格から程遠い人間であると言うことができた。
説教をする役目は慧音など、本心からその人間を思っている者がやるべきだ。信綱のように表面だけ取り繕っている狂人がやるべきことではない。
「…………」
「……どうしたの?」
「……なんでもない。神社に帰るぞ」
自分の狂気と説教との関係の遠さを彼女に説いても詮なきこと。それに思い悩むのなら説教をする前にやるものである。
そうやって割り切ろうとしていた信綱の背中に、巫女の意外な声がかけられた。
「そう。……あー、その、なんていうかありがとね、怒ってくれて。あんまそういう人っていなかったからさ、嬉しかった」
「…………」
この巫女の勘の良さというか、間の良さは天性のものである。
柄にもないことをやったと自己嫌悪しているところにこれは、もはや狙っているとしか思えない。
しかし素直に感謝するのもなんだか巫女の手のひらの上にいるような気がして腹が立つ。
なので信綱はいつの間にか隣に並んでいた巫女の背中を強めに叩いてごまかすことにした。
「痛っ!?」
「そんな寂しいことを考えている暇があるなら友人の一人も増やすことだな。俺のような変人にばかり構っていても、良いことはないぞ」
「お生憎様、私も人里じゃ十分に変人の扱いなのよ」
屁理屈だ、と言おうとしたところで巫女が浮いているのがわかった。見送りはここまでで良いようだ。
「それじゃ、今度はあんたが神社に来なさい。いつの間にか覚えた霊力のことも聞きたいし」
「俺があまり強くなっても困るんじゃないか」
「今更よ」
信綱の言葉に巫女は苦笑する。百鬼夜行異変で鬼の首魁二人を打ち倒した彼に敵う相手など、幻想郷全体を見ても数えるほどしかいないだろう。
それに彼の人間性はなんだかんだ見極めているつもりだ。御阿礼の子に対して手を出すことさえしなければ、彼は人並み以上に懐の深い性格である。御阿礼の子に手を出した結果はレミリアと萃香が身を持って教えてくれた。
「じゃ、またね。約束は忘れないように」
信綱の反応を許さず、巫女の姿が空の向こうに消えていく。
十年以上も昔に交わした口約束。あれは彼女の中で今でも意味を持っているらしい。
その意味するところは信綱も理解している。四十を迎えた頃からパッタリと途絶えていた婚姻話が今になって現実味を帯びてくるとは、人生もわからないものである。
「物好きなことだ……」
お互い老齢に差し掛かろうとしている者同士としてはお似合いなのかもしれない。鍛えているからか、どちらも比較的若さを保っているのも共通項と言える。
しかしわからない、と信綱は彼女の好みに首を傾げる。
自分は阿礼狂いであると再三言っているのだ。阿礼狂いは御阿礼の子以外を愛さず、家に迎え入れても家族になどならないというのに。
一体何が彼女を自分のような狂人に向かわせるのか。信綱には皆目見当もつかない。
自分が並の人間より優れている自覚はあるが、人を愛するのに必要なのは能力ではない。
力がなくとも、誰かを誠実に愛せる人間はそれだけで信綱より上等な人間だ。あの巫女にはそういった人物の方が似合うと思っていたのだが。
と、そんなことを考えることのバカバカしさに自嘲しながら帰路につく。どうにも自分は女心がわからないらしい。この推測も巫女に語ったら鼻で笑われるのだろう。
稗田邸に戻ると、椛が出てくるところだった。彼女と目が合い、椛はなにか驚いたように目を見開く。
「どうした。俺の顔になにかついているか?」
「……い、いえ。なんでもありません」
そんなぎこちなく首を横に振られて、なんでもないという言葉が信じられるわけがなかった。
信綱は微かに目を細めるが、椛は何も言わないのでため息をついて流すことにする。
彼女が阿弥を泣かせているとは思っていない。その可能性をわずかでも考えていたら、稗田邸を離れない。
「……まあ良い。内緒話でもしていたのだろう」
「……そうですか。ありがとうございます」
「別にいい。お前なら何も言わん」
これが紫とかだった場合、信綱は阿弥に出て行くように命令されても彼女の側を離れようとはしなかっただろう。
それより今は阿弥のことが重要だ。所用も終わらせてきたのだから、彼女との時間を改めて大切にしなくては。
そう思って椛の横を通り過ぎ、屋敷に入ろうとした時のことだった。椛に呼び止められたのは。
「信綱」
「……ん?」
椛が自分の名前を呼ぶとは珍しい。慌てている時か、何か特別な時ぐらいしか呼ばないというのに。
振り返ると、椛はどこか真剣味を帯びた声で一つの質問を投げかけてきた。
「――阿礼狂いであることを疑問に思ったことはありますか?」
「ない」
「……即答ですか」
考えるまでもない質問である。
自分の人生を迷うことなく捧げられる目的が、生まれた時から存在するのだ。これ以上の幸せなどどこにある。
「質問はそれだけか? お前ならわかっていただろうに」
「……はい。すみません、つまらない質問をしてしまいました」
椛は馬鹿げた質問をしたことを謝罪し、同時に阿弥の言葉の意味を理解する。
これは確かに。御阿礼の子が阿礼狂いに恋をしたなど言えるはずがない。
信綱が悪いわけではない。彼は徹頭徹尾、自らの役目と願いに忠実であるだけで、そこに阿弥を貶める意図は一欠片も存在しない。
阿弥も当然、悪いわけではない。生まれた頃より共にいる異性であり、そして彼女のために生きる男性に恋をしてしまうことの何が間違いなのか。
誰も悪くなく、誰も間違っていない。ただ、最初から無理だった。阿弥は生まれた時から御阿礼の子で、信綱は生まれた時から阿礼狂いだった。
彼らが普通の男女だったなら、結ばれる未来もあったのだろうか。そんな詮なきことを考えてしまい、椛の顔に儚い笑みが浮かぶ。
「……おい、どうした?」
その笑みを見た信綱は訝しむように、そして微かに心配するように椛の顔をのぞき込む。
彼がもっと冷徹に、感情を排した阿礼狂いだったら今のようにはなっていなかっただろう。何か一つ歯車が噛みあわなければ生まれなかった状況。
椛は阿弥のために。そして信綱のためを願って一つの言葉を口にする。
「どうか――どうか、最後まで阿弥ちゃんと一緒にいてあげてください」
「……? 言われずともそのつもりだ」
「ええ、それが聞ければ十分です」
椛の目尻に光るものが浮かんでいたが、信綱が言及する前に飛び上がってしまう。
振り返ることも別れの挨拶も告げることなく去っていく椛を見送って、信綱は言葉の真意を考えて首をひねる。
変に思い詰めたような顔をしたと思ったら、
少しの間考えて、思考を切り上げる。結局のところ、椛の願いは信綱が阿弥と共にいることに集約される。
ならばこんな場所で無駄なことを考えてないで、彼女の側にいよう。
もう阿弥の時間は残り少ないのだ。今は一分一秒が惜しい。
そして最期の時が来るまで彼女の側に侍り続ける。それが自身のあるべき姿だ。
「ただ今戻りました」
「あ、お帰りなさい父さん!」
廊下の向こうから聞こえる愛しい主の声を耳に、信綱は主にだけ見せる笑みを浮かべて歩いていくのであった。
話が進んでないと思うじゃろう? 次から一気に進めます(このままじゃ終わらん)
人の感情は表現するのが難しい(吐血)
ですがまあ、阿弥は告白することだけが幸せのカタチだとは考えず、彼に笑っていてもらえることが一番であると考えていることだけ伝わっていれば十分です。
GW中にもう少し更新したいですけど、勉強が忙しい場合は無理なのであしからず!