山で釣りをしていると、大体色々な存在が寄ってくる。
「やっほ、盟友! 今日は何を狙ってるんだい?」
「山女魚だ。新鮮なうちなら刺し身にもできる」
川面から顔を出した河童に信綱は特に驚くこともなく応対する。もういい加減一人の時間がないことには慣れてしまった。
家では先代が大体何かしらしているし、人里では衆目が集まる。外に出ても妖怪の目が鬱陶しい。
しかし、気心の知れた相手であればある程度は許容しようと思えるようになっていた。いつの間にか自分も変わっていたのだろう、と自身の内でつぶやく。
「んー……今日はこの辺に山女魚がいないよ?」
「…………」
「あ、ちょっ、やめっ! 無言で釣り針飛ばさないでよ!?」
何が釣れるかわからないまま釣り針を垂らすのが醍醐味だというのに、この河童は風情というものが全くわからないらしい。
しかめっ面で釣り竿を操って針を動かしてしばし河童と戯れた後、信綱はため息をついて再び針を垂らす。
「あれ、山女魚はいいの?」
「本気で狙うなら釣り竿を使わない方が早い。今はこの時間そのものを楽しんでいるんだ。これがわからないからお前は河童なんだ」
「なにその罵倒!?」
水場から上がり、信綱の近くに腰を下ろした河童――にとりはゴソゴソと背負っている荷物をあさり始める。
「いやあ、だけど会えて良かったよ。今日はちょっと見せたいものがあってね」
「見せたいもの?」
「うん。ミミズ君百七十二号がちょうど……」
「待て、今袋から見えたおよそミミズとは思えない巨大なものはなんだ」
というより、この前の三十五号からどれくらい進んだというのかが謎である。まだあれから数年程度しか経過していないはずだが。
「ん、これ? ミミズ君の新作。ちょっと欲しい機能詰め込んだら釣り針に刺さらない大きさになったけどまあ良いよね!」
「良くないに決まっているだろうが戯け」
もはや本末転倒である。相変わらずこの河童は手段と目的がすぐに逆転してしまう。
この調子では自分が死ぬまでぎゃふんと言わされることはないだろうな、と思いながら信綱はにとりを見る。
「あ、見たい?」
「遠慮しておく。それよりどんな機能を詰めた?」
「え? 腕が伸びたり飛んだり爆発したり……まあ普通の機能だよ、見る?」
「遠慮しておく」
その機能は釣具に必要なのか問い詰めたいところだが、どうせ夢中になっている間に気づいたら付けていた、という答えしか返ってこないだろう。
釣り竿の重みが増える感覚が指に走ったと同時、指の力を微細に操って巧みに竿を動かす。
魚との格闘は全て釣り針を通して行われる。指先に神経を集中させて、釣り針から抜けないように体力を奪ってやらなければならない。
「よ、っと」
信綱はもはや熟練と呼んでも過言ではない手さばきであっという間に釣り上げてしまう。
丸々と肥え太った魚が一尾、元気よく岩の上を跳ね回っている。それを見てにとりが信綱に拍手を送ってきた。
「よ、名人! 相変わらず手慣れたもんだねえ」
「一応、これで日銭を稼いでいるのでな」
尤も、信綱が働く必要はもうないのだが。
しかし何もするなと言われたら暇すぎて死ぬ自信がある。働き続けた影響か、何もしていない時間が耐えられなくなってしまった。
「んじゃこれも店に卸すの?」
「ああ。様子見も兼ねて霧雨商店に行くつもりだ」
「様子見?」
にとりの疑問に答えず肩をすくめるに留める。
魔法の森で出会った仮名森近霖之助のことが気になっているのだ。
今の幻想郷で人と妖怪が一緒に働いているのは珍しくあっても不思議なことではないので、噂話にもなっていないが気になるものは気になる。
……あまり考えたくない可能性で、あっという間にクビになったという説もあり得ると思えてしまうのがあの男の特徴だろう。正直、商売人に向いているとは今でも思っていない。
「俺が紹介した男が働いている。上手く行っているか、という様子見だ」
「へえ、盟友もそういうの気になるんだ」
「ただ人を右から左に動かすだけなら全く気にしないがな……」
紹介した相手は友人の店なのだ。これでやつが店に大損害を与えたとあっては、信綱も引け目の一つは覚える。
「上手く行っていることを願うばかりだ。……さて、よくよくお前とあいつは縁があるな」
「んぁ? あいつって誰さ」
信綱の言葉ににとりが怪訝そうな顔をした瞬間、茂みから勢い良く何かが飛び出してくる。
「お魚――ふぎゃっ!?」
魚にかける嗅覚と執着はさすがの猫、とも言うべき橙が飛び出してきて――信綱にその頭を掴まれて地面に押さえつけられる。
「いきなり飛びかかるな。危ないだろう」
「いや、盟友の対応の方が危ないんじゃ……」
しかもにとりの目から見て信綱の顔に焦りも驚愕も全くなかった。恐らく橙の接近にはもっと前から気づいていたのだろう。
それがわかっているなら自分から声をかけるなりできるはずだが……このような対応になるのは、良く言えば彼にとってこの猫に遠慮はいらない存在と見るべきか。
「頑丈な妖怪だ、問題はない」
「痛いことに変わりはないって……」
「離せーっ! お魚寄越せーっ!!」
この子はこの子で元気だなあ、とにとりは暴れる橙を見てしみじみ思う。
全くへこたれた様子が見えない辺り、信綱の対応でよかったのかもしれないと思ってしまう。
「全く、いきなり飛び出すなと何度言えばわかるんだ。俺も人間なんだ。突き落とされれば死ぬかもしれないんだぞ」
「あんたがそのくらいで死ぬわけないでしょ? 馬鹿なの?」
「ごめん盟友、私もその猫の言葉に同意する」
「人間と妖怪を隔てる壁は未だ大きいようだ。嘆かわしい」
「もっと違う何かだと思うけど……」
どちらかと言えば常識の範疇にいるか、そうでないかの違いである。にとりも橙も妖怪として見れば標準的な存在であるのに対して、信綱はその範疇からあまりにも外れている。
とはいえそれぐらいの存在でなければ幻想郷の変革を成し得なかっただろうし、ある意味時代が求めた寵児であるのかもしれないが。
馬鹿を見る目と変なものを見る目に晒され、信綱は口元を不満そうに引き結ぶ。しかし釣り竿は相変わらず巧みに操られ、またも魚が釣り上げられる。
「そんな顔をするのなら魚をやらんぞ」
「ああ、冗談冗談! あんたも私の子分にしては優秀よね! 褒めてあげるわ!」
「やめろ鬱陶しい」
「褒めたのに!?」
だからといって童女にしか見えない彼女に頭を撫でられると無性に腹が立つ。しかも下心が見えているだけにタチが悪い。
「で、お前は魚に釣られて来たのか? 大きな釣果だ」
「この場所で釣りをしているなんてあんたぐらいでしょ? 友達のところに来ちゃ悪い?」
「……子分なのか友人なのかどっちなんだ」
「友達で、子分! なにかおかしいところがある?」
「…………もう良い」
自信満々の笑みとともにそのように言われてしまい、信綱も抵抗する気が失せてしまった。
大仰なため息をついて、橙の方に釣れた魚をいくらか渡す。
「ほら、持っていけ」
「やたっ! ねえ、何か火を熾せるものある?」
「その辺の葉でも使え」
釣り竿から視線を外すことなく、信綱が片手で葉が山のように積まれている場所を指差す。
風などで葉が積もることはあるが、それにしても少々不自然なほどの盛り上がりである。
「……ねえ、盟友。もしかしてあの葉っぱってさ……」
「…………」
にとりの言葉に信綱は答えないが、彼がやっていたことは明白である。
恐らく魚の匂いに釣られて橙がやってくることまで予期して、彼女が魚を焼くのに使うであろう葉を集めていたのだ。
「盟友もさ、その優しさをもう少しハッキリ示したら良いと思うよ」
「何のことかわからんな。たまたまだろう」
にべもない返事だが、彼なりの照れ隠しだと思えば微笑ましい。老人と呼べる年齢になっても変わらないものはあるのだと、彼が少年の頃から知っているにとりも笑みが深くなる。
あるいは優しさを見せてしまって、橙と昔のように悪態をつくことのできない関係になるのを嫌がっているのかもしれなかった。
「おさかなおさかなー」
「相変わらず魚のことばかりだなお前は……っと」
またも一尾釣り上げる。橙が目を輝かせてそれを見るが、取り合わないで魚籠にしまう。
「ああ……」
「三尾やっただろう」
「え? 一人一尾じゃないの?」
「……全く」
魚籠にしまった魚をもう一尾橙の方に放り投げる。
妖怪の動体視力と言うべきか橙は投げられたそれを見事に枝に刺して受け止め、喜々として焚き火にかけていく。
知り合った頃から何ら変わらない橙の様子に信綱の視線が和らぎ、その様子を目ざとく見つけたにとりが肩を突っついてくる。
「ほらほら、優しいってことを認めれば楽になるんじゃないの痛ぁっ!?」
「すまん、手が滑った」
「盟友が今さら手を滑らせるわけないだろ!?」
白々しい台詞とともに竿が急に動いてにとりの頭を叩く。
頭を押さえたにとりが非難の目で見つめてくるが、無視して釣りに戻る。
にとりも信綱が反応を返さないことが面白くないのか、再び彼の隣で魚が釣り上げられるのを眺め始める。
入れ食い、というほどでもないが食いついた魚は必ず釣り上げているため、舞うような魚の動きは見ていて飽きない。
しばしそうしていると、後ろの方から魚の焼ける良い匂いが漂ってくる。
その匂いを嗅いで、ふと何かを思い出したように信綱が竿をにとりに渡して立ち上がる。
「少し持っていろ、すぐ戻る」
「へ、あ、ちょっと?」
信綱は老人とはとても思えない身軽な体捌きで、ひょいひょいと岩を降りて川岸に降りる。
岩陰に隠れて見えなくなってしまった、と思いながらにとりが釣り竿を持っていると信綱は宣言通りすぐに戻ってくる。
その手にはにとりがこよなく愛する緑で長いアレ――要するにきゅうりが握られていた。
「お、おお!? きゅうり! きゅうりじゃん! なんで!?」
「来ると思ったから用意しておいた」
にとりに会えなければ帰りにでも食べれば良いのだ。損をすることはない。
「魚焼けたよー」
「わかった。お前も来るだろう?」
当たり前のように手を差し伸べてくる信綱に、にとりはなんだか胸の詰まる気持ちになる。
妖怪と人間の付き合いというのは破綻することが多い。価値観の違い、死生観の違い、もっとわかりやすく、変化するものとしないものの違い。
信綱も人間の例に漏れず成長し、老いているというのに、出会った時から見た目の変わらない妖怪に対して何も言わない。
ある意味彼が常人とは違う精神を持っているからこそ成立するものだろう。彼にとって妖怪も人間も大差はないのだ。
彼のように振る舞える人間は今後増えるかもしれないし、そうではないかもしれない。
どちらにせよこの時間は貴重なものである。そのことを胸に刻みつけて、にとりは笑うのであった。
「……へへっ、もちろん!」
「はい、あんたの分」
「いつも俺の分はいらんと言っているだろう」
「皆で一緒に食べた方が美味しいってこと、知らないの? 知らないわよねあんたみたいな仏頂面じゃイタタタタ!?」
「余計な一言が多いんだよお前は」
最初の言葉だけなら自分も何も言わなかったというのに、と信綱は橙の耳を引っ張る。
「ん?」
「痛い痛い……って、どうかしたの?」
ふと違和感を覚えた信綱は橙の耳を握ったまま橙の顔を見る。
彼女もいつもと違うやり取りに不思議そうな顔で信綱の顔を見上げてくる。
「手触りが悪いぞ。体調でも悪いのか?」
「え? そんなことないはずだけど……昨日は自分でやったからかも」
「……ふむ」
わさわさと信綱の手が橙の耳を撫で回す。普段引っ張っている時と比べると僅かに指に引っかかる感触があった。あまり触っていて良い気持ちにはならない。
仕方がない、と信綱は内心でため息をついてその場に腰を下ろす。
「ちょっと座れ」
「あ、ちょ!?」
橙の頭を押さえて強引に座らせる。信綱の膝の間に強制的に座らされた橙は非難の目で見てくるが、取り合わずに手櫛で彼女の耳を撫でていく。
「あは、あはははは!? くすぐったいからやめなさい!」
「頭を動かすな、手元が狂う」
最初の方はくすぐったそうに身をよじっていた橙だが、信綱の指先はすぐにコツを掴んだようでさほど時間をかけることもなく心地良さそうな顔になる。
「ん、もうちょっと右」
「ここか」
「そうそう、そこそこ……あふぅ」
橙は緩んだ顔のまま魚に手を伸ばし、もむもむと幸せそうに食べ始める。
耳の毛を整えることに集中している信綱はいつも通りの無表情だが、どこか穏やかに感じられる空気をまとっていた。
そんな二人の様子ににとりも思わず顔をほころばせてしまう。普段は悪態をつき合っているが、やはりなんだかんだ言って仲は良いのだ。
「ほら、こんなところでいいだろう。次からは気をつけろ」
「ん、ありがと。あんたも次からは私の耳を引っ張らないようにしなさい」
「お前が調子に乗らなければ考えてやる」
「ほんと、爺になっても口が減らないんだから」
「面倒な奴らの相手ばかりしていたからな」
人里でも自分たちの家をより盛り上げたいと思う輩と腹の探り合いをし、更には信綱以上に政治に長けているであろう妖怪を相手に策謀を巡らせたこともある。
自分はそういった時勢の見切りが苦手であると自負しているのだが、自分以上にできる者もいなかった。
今にして思えば自分が表に出ることなく、根回しや遠回しな言葉だけで相手を操ってしまえば良かったのだと理解している。
……そこまで考えて、今の自分の思考が八雲紫のそれと似通っていることに気づいてしまい、顔をしかめたのはここだけの話だ。
「お前たちだと面倒なことを考えないで良いから楽だ。これからも脳天気なままでいてくれ」
「あんた私のことバカにしてるでしょ?」
「お前の性格は珍しいと言っているんだ」
貶してはいないが、褒めてもいなかった。この辺りの言い回しは海千山千の連中とのやり取りで覚えたものである。
橙は自分の分を食べた後も信綱の膝から離れようとはしなかった。
彼女も自分がなにもしなければ信綱が耳を引っ張ってくることも、暴力を振るうこともないといい加減学んでいたようだ。
信綱も彼女のことは気にせず自分の魚に手を伸ばして食べ始める。にとりも幸せそうにきゅうりを頬張って、食事に集中することで生まれる静寂が訪れた。
「……ねえ」
静かに、しかし熱心に何かを食べる音が微かに聞こえる空間を破ったのは橙の声だった。
それが自分に向けられていると察した信綱は魚を食べる手を止めて、橙の声に応える。
「なんだ」
「あんた……さ、今何歳?」
「六十二だ」
もう阿弥が亡くなって六年になる。先代となった巫女と結ばれ、森近霖之助を名乗る怪しい半妖に出会い、相変わらず信綱の周りでは退屈とは無縁の時間が流れている。
橙は信綱の答えが聞きたくないものだったのか、顔が一瞬だけ悲痛に歪む。
「……あんたも死ぬのよね」
「そうだな。そこの河童と初めて会った時のような土左衛門にはならないようにするが」
「ん、そっか。もうそんな付き合いか。人間ってのはあっという間に成長してあっという間に死んでいくねえ」
にとりはすでに死別という事実を受け入れているのか、寂しげに微笑むもそれだけだった。
「あんたは死ぬのは怖くないの?」
「なぜ死を恐れる必要がある?」
「なぜって……」
「俺がどういう人間なのかわかっているだろう。俺の命は御阿礼の子が望めば簡単に終わらせられるものだ」
死ぬことで自分という人間が永遠に消える? そんなちっぽけなことで御阿礼の子が喜ぶのなら笑って死ぬ。それを寸暇の迷いすら抱かず選べる人間が阿礼狂いだ。
橙の目には信綱の常と変わらぬ無表情がさっきまでの暖かみのあったものと違い、どこか無機質に見えた。
「……私は嫌よ。子分が死ぬなんて」
「別に子分になった覚えはない。……そうか、藍が俺に言ったのはこのことか」
まだ信綱が少年の頃。橙、藍と初めて知り合った時に言われたことを思い出してしまう。
あの子をよろしく頼む。そろそろ人間を知るべきだ、という趣旨の言葉を。
人間と妖怪の価値観、死生観の違いに耐え切れず人間が離れていくのを見せて成長を促すつもりだったのか。
はたまた一緒に居続けて死ぬ姿まで見ることによって、人間と妖怪の違いを実感させるつもりだったのか。
真相は彼女の胸の中。信綱には彼女の心中まで理解することはできないし、できたとしてもどうしようもない。人妖の寿命の差は厳然として存在し続けるのだから。
信綱は橙の耳を再びゆっくりと撫でる。さざ波の立っているであろう彼女の心を落ち着かせるように。
「――思い出せば良い。その方法を俺は伝えたはずだ」
信綱は阿七のことを忘れない。彼女から贈られた硝子細工を大切にし続ける限り、自分の中に彼女は存在し続ける。
他の連中だって、彼女らからもらったものがある限り忘れることはない。忘れろという方が無理なほどデタラメな連中ばかりだが。
良い機会か、と信綱は橙を膝の上からどかしてその手を取る。
前振りもなく立ち上がらせたため、目を白黒させている橙の顔を見て口を開く。
「お、お?」
「人里に行くぞ。鈴でも首輪でもおむつでも買ってやるからそれを見て思い出せ」
「誰がおむつなんて買うか! 一言多いのはあんたも同じよ!」
「どっちもどっちだと思うけどなあ……。あ、盟友、私にも今度ね!」
「あの時の釣り竿では足りんか」
「足りないね。盟友と会った瞬間は思い出せても、過ごした時間を思い出すには足りないよ」
得意げな笑みとともに言われてしまい、信綱は肩をすくめるしかなかった。
いつか彼女の機械も自分の部屋に並ぶ時が来るのだろうか、と少しだけ考えるもののすぐに諦める。
信綱が催促でもしなければ一生できないだろう。今度会った時に手近なものを分捕ってしまうか。
少々物騒なことを考えながら、信綱と橙の二人は人里への道を歩いて行くのだった。
「よう、景気はどうだ」
橙を伴って霧雨商店を訪れると、もうすっかり店長の貫禄が出てきた弥助が朗らかな笑みを浮かべて出迎えてくる。
「あ、信綱様! 本日は……妖怪の子と一緒ですか! どんな御用で?」
「ちょっとした雑貨を見に来た。それとこれを。そろそろ飯時だろう」
魚籠に入っている新鮮な魚を見て、弥助は嬉しそうな顔になる。ここでは大半のものを取り扱っているため、夕食前のおかずを考える主婦にちょうど良いと思っているのだろう。
「ありがとうございます! お礼は……」
「後で取りに来させる。今日は客としてでもあるし、火継の人間としてでもある」
「んぁ? なんかあるの?」
公人としての役目でもあると言った信綱に興味を持ったのか、雑貨を興味深そうに眺めていた橙が聞いてくる。
そんな橙に信綱は見慣れない銀髪の男が近寄っていくのが見えた。
「妖怪の少女か。人里も本当に様変わりしたなあ。ところで君、その商品に興味があるのかい?」
「え? あ、うん……」
いきなり横から出て、しかも橙から見れば結構図体の大きい男。信綱のように見慣れた相手でもない銀髪の男――霖之助に対して橙はあっという間に気圧されていた。
「お目が高い。それ自体は何の変哲もないものだけどね、それが道具として作られた時期には相当古いものがあるんだ。当時の人が何を考えていたかまではわからないけど、推測ならできる。僕なりの見解としては――」
どうやら語りたがりなのは本当らしい。橙が全く相槌を打っていないというのに、霖之助の口から流れ出る薀蓄は留まるところを知らない。
ある意味相手が無反応だからこそできることだ。信綱なら殴って黙らせるか完全に聞き流す自信があった。
橙はチラチラと信綱の方に助けを求める視線を寄越してくる。
仕方がないと信綱が一歩を踏み出して霖之助を止める声を出そうとした瞬間、横から信綱より早く動いた影があった。
「おい霖之助! お前また根も葉もない薀蓄流してんのか!」
「うわ、親父さん!? っと……あなたも?」
「俺より店長の話に耳を傾けたらどうだ。橙、こっちに来い」
「あ、うん……」
霖之助が説教をされる場所に居合わせても何の面白みもないので、信綱はとっとと橙を呼び寄せて別の方を向かせる。
「何か適当に見繕ってこい。さっきの男は俺がこの店に紹介した男でな。一応、あれの様子を見る義理がある」
「わかった。……類は友を呼ぶって本当なのねってイタタタタ!?」
「あれと一緒にするな」
珍しく信綱の声音に本気の色が混ざっていた。どうやら霖之助と同類に扱われるのは本心から嫌なようだ。
橙の耳を適度に引っ張って解放した後、信綱は説教が続いている弥助と霖之助の方に足を向ける。
「弥助、ちょっとそいつを借りたい」
「信綱様、こいつになにか話でも?」
霖之助に説教をしていた弥助だったが、信綱が声をかけるとすぐに笑顔になって応対してくれる。
見上げた商売人根性だと思うが、どうせなら説教なんて人の見えないところでやって欲しいというのが本音だった。
……それを言ったら霖之助の教育をしっかりしろという話にもなるので、あまり強くは言えないが面倒である。
「ああ。そんなに時間は取らせない。説教なら後でたっぷりとやってくれ」
「助かった……わけでもないのか。でも僕に話って一体?」
霖之助はこれから待つ憂鬱な未来に肩を落としながらも、信綱と話をする姿勢を見せてくれた。
そんな彼に信綱は険しい顔で口を開く。
「この店に紹介したのは俺だ。お前の様子ぐらい見知っておく義務がある」
「あなたは真面目だね。でも心配はいらない。ちょっと悪癖が顔を覗かせることもあるけど、僕は全ての修行に真剣に取り組んでいるよ。誓っても良い」
弥助の方を横目で見ると、同意するようにうなずいていた。
同時にあの語りグセさえなけりゃ……とつぶやいてもいたので、彼もなんだかんだ霧雨商店には馴染んでいるようだ。
「店の話は?」
「最初にしたよ。そういうのを言わないのは後々での不義理につながるからね。親父さんも了承して稽古を付けてくれるし、本当に頭が上がらない」
「長く居られても困る人材だろうからなお前は……」
霧雨商店を任せるには少々不安が大きすぎるというのに、霖之助は妖怪としての寿命も持っている。
長く居着かれて霧雨商店を任せようなんて話が出たらそれこそ終わりである。弥助の判断は英断と言えた。
「自覚はあるよ。残ってくれと言われても残るつもりはない。人里に根付きすぎるのは性に合わないからね」
「その方が良い。お前は人間と一緒にいるよりは一人でやっていく方が向いている」
人間の集落で長命種がやっていくには、それこそ慧音のような献身と人徳が必要になる。
信綱には真似ができないことだし、目の前の男は言わずもがなである。
霖之助も信綱の言葉に困ったように笑うしかなかった。
「……でも、あなたには感謝しているよ。僕は人混みが苦手なだけで人間が嫌いなわけじゃない。僕が自分の店を持つことになっても人間との関わりが途絶えることはないだろうし、その時は是非あなたにも来て欲しい」
「気が向いたらな」
「ではあなたの気が向くような商人になるまで努力するとしようか。人をその気にさせるのが上手い人だ」
そんなつもりで言ったわけではない、とツッコムのは非合理的だったので黙っておくことにする。
弥助に話が終わったから存分に説教していいぞ、と目線で伝えてから信綱は橙の方に戻る。
「良いのは見つかったか?」
「……これ」
妙に恥ずかしそうにしている橙が差し出してきたのは涼やかな音の鳴る鈴だった。
「これ買って」
「わかった。お前が食い物以外を頼んでくるとは少し意外だな」
橙が真面目そうにしているのがおかしく感じられてしまい、憎まれ口も兼ねたからかいの言葉を口にする。
彼女もらしくないことをしていると思っていたのか、顔を赤くしてそっぽを向いてしまう。
「ふん! これが終わったらまた買ってもらうんだから! この前よりもいっぱいね!」
「腹を壊しても知らんぞ」
「大丈夫よ、本当に辛かったらあんたは助けてくれるでしょ?」
「自業自得なら助けん。というか大将が子分に助けを求めるな」
それはどうなんだ、と信綱が言うと橙はきょとんとした顔になる。
「え? 大将って何でもできなきゃ駄目なの?」
「……全てが完璧に、というのは難しくてもそう在るべきだろう」
「私は違うと思う。大将ってのは子分を守れれば良いのよ。それで子分が大将を支える。それが群れの長ってことだと思う」
「……お前は俺を守ったか?」
「だってあんた、守ってほしいなんて一度も言わなかったじゃない」
「言えるか阿呆」
橙に助けを請うなど末代までの恥だ。自分に子供はいないので、火継の跡継ぎはいても信綱の血を継ぐものという意味では自分が末代なのだが。
「じゃあダメよ。守ってほしいって一言言えば、きっといろんなやつが助けてくれたわよ?」
「……そうか」
明確に助力を請うたのは椛ぐらいだったかもしれない。それ以外は言うことを聞かざるを得ない状況にするか、レミリアのように自らの矜持に背かない存在を使うかのどれかだった。
他者の力を借りるのではなく、利用することに長けていた。橙のような在り方もまた一つの形であると、信綱は目を細めて彼女を見る。
「……なによ?」
「いいや、なんでもない。ほら、大切にしろよ」
正面から言ったらまた調子に乗られるだけだ。
信綱は胸に抱いた感想を言うことなく、彼女の手に鈴を乗せる。
橙は大事そうにそれを胸に持ち、仄かに赤らんだ顔で信綱の顔を見上げた。
「……大切にする」
「なら良い。行くぞ、あまりここにいても店主の説教が聞けるだけだ」
「あ、じゃあアレ食べたい!」
切り替えの早いやつだ、とすでに駆け出している橙を眺めながら信綱は呆れた顔になる。さっきまでのしんみりした雰囲気はどこに行ったのやら。
だが橙はあれで良い。あの脳天気で底抜けに明るい声がないとどこか調子が狂う。
「ほら、早くお金出しなさいよー!」
「……自分で払う姿勢を見せるくらいはしろ」
しかし底抜けに明るくても調子に乗られると困るのが彼女でもある、と信綱はため息を一つついて彼女の方へ歩いて行くのであった。
もう出ることもないだろうし、今のうちに出してしまう裏設定。
橙に弱音を吐くと大将として頑張ろうとする。もう休んでいいから私に任せなさい! と言って頑張ってくれる。結果? 言うまでもないが可愛いに代えられるものはない(真顔)
なおノッブは基本他人に弱みは見せないため、お蔵入りになった設定。
最近椛エンドの草案ばかりが浮かんでくる。書く……いやそれをやったら本編のEndingが辛くなる……。
というかEndingは両方共浮かんでいるんだ。後はそこまでたどり着くだけなんだ(血を吐くマラソン)