阿礼狂いに生まれた少年のお話   作:右に倣え

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友との語らい

 その言葉は、楽隠居状態の爺同士で旧交を温めようと誘ってきた勘助の言葉だった。

 

「外に行きたいんだ」

「今まさに外にいるだろう」

 

 霧雨商店で飲んでもいいのだが、そこだと勘助は伽耶に酒量を制限されてしまうらしい。信綱は自分からはあまり飲まない上、飲んでも酔わない体質なので特に何かを言われたことはなかった。

 

 なので二人は人里の中にある適当な店に入って飲んでいた。

 もう今や共に一線を退いた二人の老人だ。信綱は今でも刀を腰に差して歩いていれば道行く人からすぐにわかってしまうが、武器を持たずに服装も簡素な着流しに変えればすぐに人混みに紛れる。

 そうして二人は焼き魚や焼き鳥を肴に酒を楽しんでいたところ、冒頭の言葉に戻る。

 

 唐突な勘助の言葉に首を傾げながらも、信綱はそのままな言葉を返す。

 

「そうじゃなくてよお。人里の外に出たいんだって」

「里の外?」

「おう。子供の頃に自警団で外の見回りするくらいだろ? おれとかはさ」

「大半の人間がそうだろう。別にお前だけという話じゃない」

 

 信綱のように頻繁に里から出る方が稀なのだ。一人で外を出歩くには、今でも残る妖怪の脅威に対抗する手段が必要になる。

 博麗の札やお守りを使うのが一般的だが、あれは使い捨て。使い捨ての道具に命を預け切って外に出ることを生業にしたがる者はなかなかいない。

 いなくなるとなるで困るのがクセモノとも言えるが、その時は火継の人間が仕事にすれば良い。命の危険くらい特に気にしない一族である。

 

「まあそうだけどな。でもお前がいるんだし、行ってみたいものは行ってみたいんだよ」

「ふむ……」

 

 あるものを使おうとする姿勢はまさしく商人のそれである。

 信綱は内心で感心しながら、彼の意見に応えられる場所を頭の中に書き出していく。

 

「……伽耶も連れて、か?」

「おう。子供の時みたいに、ってのは無理でも三人で遠出がしたい」

「となると危ない場所は無理だな。無縁塚とかあの辺りは危険過ぎる」

 

 外敵から守るだけならなんの問題もないのだが、あの場所は長時間いると精神が蝕まれる。いかに信綱の武芸が優れていても、彼らの心までは守れない。

 

「さすがにその辺は行きたくないぜ。霧の湖とか妖怪の山とか……、そんな感じの場所でいいんだよ」

「だったら妖怪の山だな。俺もあの辺りは慣れているから案内もできるし、付近の妖怪は襲ってこない」

「本当か? 意外とおとなしい妖怪もいるんだな」

「いや、襲ってこなくなるまで殴り倒した」

 

 信綱としては殺さないだけ温情だと思っている。襲ってこなければ採ってきた山菜や魚を一部渡しているので、共生はできていると言えるだろう。きっと、多分、向こうの恐怖の上に成り立っていても。

 

「……お前に驚かされるのは一生続くみたいだなこりゃ」

 

 それを聞かされた勘助はもう驚くのも通り越した苦笑いを浮かべる。

 思えば寺子屋に通っていた頃から信綱には驚かされていた。

 最初の頃はその出来の良さに。ちょっと大人になってからは彼の精神に。そして大人になってからは彼の輝かしい活躍に。今は彼の築き上げてきた伝説と呼んでも過言ではない逸話の数々に。

 どれも今となっては誇らしいものだ。自分が生涯の友人と呼ぶ目の前の男は、幻想郷の誰にもできなかったことを成し遂げたのだ。

 そのことを伝えると、信綱は心外だという顔になって首を横に振る。

 

「俺は火継の人間だ。強いのが当然の家に生まれ、なるべくして強くなった。俺はお前の方がすごいと思っている」

 

 勘助が信綱を尊敬するように、信綱もまた勘助を尊敬していた。

 阿礼狂いである自分と友人であり続けられる精神の強さ。農家に生まれ、商人など経験したこともないだろうに、見事に霧雨商店を人里でも一番の店にしてみせた手腕。そしてその中にあってなお失われなかった彼の快活な性格。

 どれも信綱にはないものであり、彼のような人間こそが最も尊ばれるべきだと心から信じていた。

 信綱がそれを伝えると今度は勘助が違うとばかりに首を振る。

 

「強くなったのはお前が誰よりも頑張ったからだろ。そりゃ確かに才能とかあったかもしれないけどさ、一番大切なのはそれだ」

「だとしても。それで磨いた力は役に立ったかもしれないが、後に残せるものではない。お前のように形に残るものの方がよほど立派だ」

 

 今後の幻想郷において信綱の磨いた力は無意味になる。ならなければならない。

 暴力と闘争が振るわれた忌まわしい時代の中を生き延びた力というのは、誰にも負けない暴力に他ならないのだから。

 互いに譲らないことがわかると、信綱と勘助は同時にため息をついて酒を呷った。これでおあいこという意味である。

 

「……これ以上はやめよう。なんか喧嘩になりそうだ」

「そうだな。で、伽耶も連れて行くとしたら妖怪の山だな。良い釣り場も知っているし、山菜採りの場所も知っている。綺麗な滝のある場所も知っているぞ」

 

 帰り道も把握しているし、はぐれても椛がいれば探すこともできる。

 食事は適当に魚なり山菜を採ってくれば良い。霧の湖で妖精に気配を尖らせながら散策するよりよほど楽しそうに思えてきた。

 

「よく知ってるなあ。よし、じゃあ今度そこに行ってみようぜ!」

「わかった。三人で行くんだな」

「……おう。三人で遊びたいんだ」

 

 三人で、ということを強調する勘助に信綱はどこか得心が行ったようにうなずく。

 

「今日は前祝いだ! 乾杯!」

「何を祝うと言うんだ……」

「孫ができたことに決まってんだろ!」

「そういう大事なことは最初に言え!?」

 

 珍しく信綱がツッコんだ瞬間だった。

 

 

 

 そして当日。信綱は待ち合わせの場所に定めた人里の門前に立っていた。

 早朝の少々肌寒く、日光に暖められていない風が吹き抜けていく中、信綱は腕を組んで立ち尽くしている。

 少々早く来すぎただろうか、と暇なので頭の中で現在手を付けている本の内容の精査を始めた。

 一読しただけの本などはさすがに難しいが自分で書いている本だ。一言一句覚えておくことくらい造作もない。

 

(奴に渡すことも含めて……まあ良しとしよう。残りは一つ)

 

 自分の回顧録、というほど立派なものではない。ただ自分が生き延びてこれた要因の一つである武術について、可能な限り詳細に書き残しただけのものである。

 無論、中には信綱以外に真似のできないものも多々ある。言っていることはわかるが実行は無理だと言うような滅茶苦茶なものも含まれている。

 

 とはいえいつかはそれができる者も出てくるかもしれない。

 自分という存在が生まれたのだ。他には生まれない理由もないだろう。

 

 故にそちらに問題はない。どのみち活用されるのは死んだ後の話なのだ。あまり信綱が気を揉んでも仕方がない。

 もう一つ、問題は別のところにある。こちらは信綱が死ぬまでには是が非でも完成させたいもの。

 実を言えば阿弥が亡くなった時から調べていたことでもある。それは――

 

「よう、悪い悪い! 待たせたな!」

 

 と、そこで信綱は思考を打ち切る。顔を上げると視界の先に勘助と伽耶が寄り添って向かってくるのが見えた。

 ふと、もう半世紀以上昔になる子供の頃の姿が幻視された。

 なかなか背が伸びないことに悩んでいた信綱と、子供の頃から体格の良かった勘助。そしてそんな勘助の影に隠れていた伽耶の姿。

 あの頃はそれが当然で、それ以外の知り合いもほとんどいなかった。あれからすぐに信綱は阿七の側仕えに就任し、椿ら天狗の手ほどきを受けるようになったから三人でいられる時間は思いの外短かったのだが。

 

「お待たせ、ごめんね。勘ちゃんがなかなか起きなくて」

「良いさ。お前もこいつと一緒になって苦労したのではないか?」

「うん」

「初耳だぞそれ!?」

 

 信綱も適当なからかいの言葉だったのに即答されて驚いていた。長年連れ添った夫婦の仲に亀裂を入れてしまったかもしれない。

 

「でも、勘ちゃんと一緒にやる苦労なら楽しいよ。どこに行っても、何をやっても楽な道なんてないんだから」

「伽耶……」

「よし、行くぞ」

「浸らせろよ少しは!?」

 

 親友同士の夫婦仲がより深まる場所を見せつけられても反応に困るだけである。

 外に繋がる門の警備をしている歳若い自警団の青年たちに一声をかけてから外に出る。

 その際、前に稽古をつけた時のことを思い出したのか顔を青くして敬礼していたのが特徴的だった。

 

「ノブ君、何かしたの?」

 

 山に続く道を先導して歩いていると、後ろから伽耶が話しかけてくる。

 顔を真っ青にしていた自警団の者たちが気になったようで、ほんの少しだけ視線に力がこもっていた。

 

「稽古以外には何も」

「こいつの稽古とか滅茶苦茶キツそうな気がするぜ……」

「失礼な。俺が本気で稽古をつけるのはできると判断したやつだけだ」

 

 他のも矢面に立たざるを得ない相手などには真剣に鍛錬を施していた。鍛錬で流した汗の分だけ実戦で流す血の量が減る。

 鍛錬で血を流すかもしれない? 身体を鍛えるのに生傷はつきものである。

 

「あいつらにつけた稽古なんて大したものではない。第一、勘助にも付けたことがあるだろう」

「いや、あの時はおれが自主的に頼んだものだし、お前も最低限だったよな?」

「当たり前だ。生兵法は怪我の元と言う。最低限の護身以外教えるものか」

 

 教えるとしたら本気で教えるし、最低限で良いなら最低限で済ませる。

 信綱が教えたからといって妖怪を相手にするには十年以上の歳月が必要だし、いざ実戦で出しゃばられても困るだけだ。

 

「それより。お前たちの方こそ良いのか? 孫ができたんじゃないのか」

「弥助のかみさんの腹にいるってわかっただけだよ。あいつも一人の親になるんだ。ここが踏ん張りどころってやつさ」

「……継がせる気なのか?」

「まあな。伽耶と弥助に苦労させたくないって一心であそこまでやったんだ。残せるものは残すさ」

「でも、まだまだ甘いって思ってるみたい。勘ちゃんだってあのくらいの歳には色々大変だったのにね」

「あ、言うなよ!? それを言ったらこいつの方が大変だったろ? なにせ幻想郷を動かしてたんだぜ?」

 

 勘助が信綱の方を指差してくるが、信綱はその言葉を否定するように首を振る。

 

「何をもって辛いと感じるかは人それぞれだ。俺は俺の苦労があったが、お前の苦労と比べることなどできないし、意味もない」

「……大人びているというか真面目というか。昔っから変わらないな」

「でもそれがノブくんの良いところだと思う。真面目だけど杓子定規ってわけでもなくて、話せば意外と理解してくれるところとか」

 

 狂人であることの隠れ蓑として使っている規律の範疇で考えているだけである、と言おうと思ったがやめておく。

 その隠れ蓑にしてももう半世紀以上の付き合いだ。馴染み過ぎて自分の一部になっていても驚きはない。

 

「あ、それは思った! 普段はむっつりした顔なのに、話すと意外とちゃんと答えるんだよ! 子供の時とか慧音先生に頭上がらなさそうだったし!」

「生徒が教師を敬うのは当然だろう」

 

 結果として今でも頭が上がらなくなってしまったのはご愛嬌だ。というか成人とみなされるようになって、あの人がいかに偉大な人か思い知らされた。

 自分の生きた年数の倍かそれ以上。それだけの間、人里に奉仕を続けて真っ当に笑っているのだ。

 人間への愛という点において、彼女ほど深い人はいないだろう。人間の生も死も一緒に見続けて、自分だけが取り残されて、でもまた笑って。

 幻想郷への愛情なら八雲紫に及ぶものはいないが、人間への愛情ならば慧音が頂点に立つだろう。何かと比較するようなものではないが、信綱はそう思っていた。

 

「さて……そろそろ道が険しくなってくる。辛くなったら言ってくれ、休憩を取る」

 

 三人の視界の先には人間の踏み均した道などどこにも見えない。細い獣道すら見えないそこは、生い茂る木々さえも人間の出入りを拒んでいるように見えた。

 その中を信綱は気負った様子もなく踏み込んでいく。不思議と信綱が足を伸ばした場所は人間が通れる程度の幅が存在し、まるで彼の歩みに合わせて山が道を作っているようにすら感じられた。

 

 手慣れた、というよりは日課をこなすように淡々と歩いて行く信綱の後ろを続きながら、勘助が声をかけてくる。

 

「お前は普段大丈夫なのか?」

「今回は平坦な道を選んでいる」

 

 信綱一人なら強引に身体能力に物を言わせて通る道もいくらか存在する。が、今回はそれを使うと大惨事にしかならないので封印していた。

 

「では行くぞ」

 

 その言葉とともに信綱の身体はどこに何があるか全てわかっているように、その身体と身にまとう服を汚れさせることなく山道を進んでいく。

 太陽の光も届かない薄暗い空間で慣れていなければ――否、慣れていても装備無しでは自殺行為にも等しいその場所を、信綱は二人の安全も確保しながら先に進む。

 

「おお……ノブがひょいひょい歩いて行く……」

「間近で見たことがなかったけど、とても同い年とは思えないね……」

「なるべく俺の歩いた場所を通って欲しい。そこは安全が確保されている」

 

 ある程度進んだら二人が来るのを待ち、そして再び信綱が安全確認も兼ねて先行する。

 勘助と伽耶の二人も老齢であるというのに息を弾ませて着いてくる。まだまだ足腰は健康なようだ。

 

「意外と体力あるな。俺もあまり他人とは比べないが」

「ノブと……一緒に……するなよ! 結構一杯一杯なんだから……さ!」

「勘ちゃんや弥助の面倒を見るなら……このぐらいの体力はないとね!」

 

 立派なものである。信綱は感心しつつ、そろそろ目的地に到着することを告げる。

 

「この先に一先ずの目的地がある。とりあえずそこで一息入れよう」

「汗一つかかないのな、お前……」

「慣れだ」

 

 半世紀以上通っていれば嫌でも慣れてしまう。それにこの場所でひたすら岩を括りつけて走り回るなどもやったものだ。

 二人が信綱の通った後を必死に歩いて行くと、不意に視界が光に満たされる。

 

「眩し――」

 

 思わず手で日陰を作って、半ば反射的にその光景を視界に収めようとする。

 次に浮かんだ感想は、言葉では言い表せないものだった。

 

「わぁ……!」

 

 彼らの感激には理由として人里からほとんど出なかったことが挙げられるだろう。

 他にも鬱蒼とした薄暗い森の中を歩き続けていたこともある。

 

 だが、そんなちっぽけな理由を吹き飛ばしてしまうくらい、彼らにとって自然が生み出す光景は胸に迫るものがあったのだ。

 

 せり出した岩がゴツゴツと並び、それらを縫うように流れていく澄んだ清水。

 ぽっかりと開けた空間故か、太陽の光が淡く降り注いで木々の緑は翡翠のように透き通っている。

 

 生まれてこの方、人里から外に出たことのない二人にとってその光景は絶景と言うに相応しいものだった。

 

 二人が感動に立ち尽くしているのを横目に信綱はその中に踏み入っていき、近くの岩場に二人を手招きする。

 

「ほら、こっちで座って見た方が良い。ここいらで少し休もう」

「あ、ああ……」

 

 二人の足取りはどこか夢見心地のようで、自分がこのような空間に来られたことをまだ受け入れ切れていないようだ。

 そんな二人の様子をおかしく思ってしまい、信綱は小さく笑う。

 

「はは、そんなに珍しいか」

「珍しいなんてもんじゃないぜ! お前はずっと前からこの景色を知ってたんだろ? 羨ましいなあ」

「うん。でもこれがノブくんの役得なのかもしれないね。外に頻繁に出る人たちはみんなこういうのを知っているのかなあ」

「さてな。あまり景色まで楽しもうという人は少ないかもしれん」

 

 景色を楽しむとは余裕があるということである。もはや勝てない妖怪の方が少ない信綱はまだしも、他の者たちにその余裕があるとは限らない。

 その点で言えば勘助と伽耶も非常に貴重な体験をしていると言えた。なにせ彼らを守っているのは、幻想郷で最も強い存在の一人。

 彼で守り切れない事態があったら、それはもう幻想郷そのものが危ない状況である。

 

 そうして三人は景色を楽しみながら散策を始める。

 信綱は普段まじまじと見ることのない景色を見るという行為を、二人の守護も行いながらやっていく。

 しかし彼にとって大事なのはどちらかと言えば勘助と伽耶の二人の方だった。

 仲睦まじく手を取り合って歩き、景色を楽しんでいる夫婦を信綱は目を細めて見守る。

 

 なんの因果か自分も彼らと同じ夫婦になってしまったが、あれは別である。大事にするという点では特別な意味があるが、彼女を勘助や伽耶と同一視はできない。

 

「メシはどうすんだ?」

「今用意する。少し待て」

 

 信綱が魚を素手であっさりと川面から採ってきたことには二人とも苦笑いをしていたが、まあ些細なことだろう。元より彼が色々と人間離れしていることを知った上で今まで友人を続けてきたのだ。

 

「おお、美味い! 釣りたて……とはちょっと違うけど、採れたてってこんなに美味いのか!」

「思えば、私たちが口にしている魚ってノブくんたちが採ってきたものなんだね。なんだか面白い」

 

 自然の中での昼食を堪能した後、三人は焚き火を囲んでこれまでのことを思い出すように話し始めた。

 

「あの時は大変でさ。皆が助けてくれなかったら店たたんでたかもしれねえ」

「そんなに不味いことがあったのなら教えてくれれば良かっただろう」

「それじゃダメだ。お前だって大変だったんだし、おれはおれで頑張らなきゃお前に胸張れないからな」

「……そうか。だが何も教えてくれないのも友達甲斐がない。どうしようもない時は教えてくれ」

「いくつになっても男の子だねえ。勘ちゃんも」

「けじめの問題なんだよ、これは」

 

 信綱が力になってやれなかった苦労話を悔いていると、なぜか勘助が少しだけ対抗するような顔になったりもした。そして話は続き――

 

「俺の時は……そうだな。一番面倒だと思ったのは人里に人妖交流の区画を用意することだったな。今ある場所を広げるにも時間がかかる。かと言ってもともとある場所を使うのは反対が激しい」

 

 殴れば言うことを聞くだけ妖怪の方が楽だとすら思えた部分だ。

 信綱も人里に属する人間のため、何かとしがらみが多い。

 

「ああ、なるほど……で、どうやったんだ?」

「入念な下準備と懇切丁寧な説得」

 

 議決が行われるような場合は予め味方を増やし、そうでない時は信綱に動かせる利益と事業そのものの将来性を説いて回った。

 あの時ほど慣れないことをした覚えはない。正直、適当に事故か何か装って葬ってしまった方が後腐れがないと思ったことさえある。

 それでも成し遂げることができたのは――信綱の名がすでに妖怪にも知れ渡るほどの名声を持ち得ていたことだろう。人里でも英雄として名高かった信綱の頼みを断ったとあれば、彼らも困るはずだ。

 ……そのことを利用して脅しに近いこともやったが、結果として利益は出たのだ。遺恨は残らないよう苦心したから大丈夫だろう。

 

「伽耶は何が大変だった?」

「弥助を育てていた時かな。もう子供が二人に増えたみたいだった」

「その子供っておれか!?」

「ははははは! 伽耶も言うようになったな」

「母親だもの。もうおばあちゃんだけど」

 

 伽耶も結婚してたくましくなったものである。かかあ天下と言うべきか、母の肝っ玉は妖怪なんぞ歯牙にもかけないのか。

 三人で一緒に何かをやったことこそ少なくても、彼らは確かにそれぞれの道に邁進していた。形は違えども苦しい戦いを乗り越えてきたことを確かめるように会話は弾んだ。

 

 やがて日の高い時間も終わり陰りが見え始めた頃、信綱は不意に焚き火を手頃な棒に移して即席の松明を作る。

 

「ん、そろそろ帰るのか?」

「いや、最後に見せたいものがある。そろそろ頃合いだ」

「頃合い?」

「ああ。ここから少しだけ歩くぞ」

「あ、この前話していた滝のこと?」

 

 伽耶の言葉に首肯だけを返し、信綱は可能な限り平坦な道を探して歩き始める。

 どこを歩いているかもわからない山の中よりは楽な道だが、それでも人の手の入らない自然の道。

 山道に歩き慣れていない二人は息を切らし、それを信綱は励ましながら登って行く。

 

「まだ……着かないのか?」

「いや、もう目の前になる。……俺のとっておきだ」

 

 信綱にしては珍しく相手が驚くのを楽しみにしているような言葉だった。

 

「うお――」

 

 そしてその言葉はすぐに現実となる。

 この場所に来た時にも言葉を失ったが、眼前に広がる光景は夢幻にすら思えてしまうほど美しかった。

 

 話に出ていた滝が大きな音と共に澄んだ水を吹き散らし、水底まで鮮明に見える鏡のような水面に小さな飛沫を立てる。

 人の手も妖怪の手も入らない。自然のみが作り出した光景に――太陽の光が加わる。

 

 半分だけ顔を覗かせる夕日が滝を照らし、雲霞のごとき滝の流れが一面夕焼け色に染まる。

 鏡の水面は黄昏時の光を存分に蓄え、全てのものをその光で橙色に染め上げている。

 目に映るもの全てが同じ輝きに染まる空間で、ただただ二人は圧倒される。

 

「ここだけは見せておきたかった。阿弥様がご存命の時にも連れて行ったものだ」

「す、げえ――」

 

 得意げな信綱の言葉にも反応が返せないほど、二人はその光景に目を奪われていた。

 信綱は彼らの感動に水を差すことなく、静かにその場に佇んで二人が正気に戻るのを待ち続ける。

 やがて日の暮れが本格的になるとともにその光景はゆっくりと輝きを失い、夜の帳に隠されようとしている辺りで信綱が改めて声をかける。

 

「……そろそろ帰ろう。俺一人ならまだしも、二人に夜の山道は危険だ」

「あ、ああ……」

 

 こくこくと今でも夢から帰っていないような動きでうなずいて、二人が信綱の後ろについてくる。

 さすがに暗くなりつつある山道でそれは危険なので、山に入る辺りで二人の額を小突いて気付けをしておく。

 

「うぁっ」

「きゃっ」

「あれを見た感動が大きいのはわかるが、そろそろ戻ってくれ。俺が二人とも抱えて帰れば良いのか?」

 

 ちなみにやってやれないことはない。人間二人ぐらい、持ちにくいということ以外は特に苦労もない。

 だがそれを聞いてようやく普段の状態に戻ったようで、勘助は首を大きく振って気合を入れる。

 

「おっとっと……悪い悪い。でもお前も人が悪いぜ? あんな隠し玉があったなんて」

「あれを初めて見た時は俺でも心動かされたからな」

 

 景色に感動したことなど皆無と言っても良い阿礼狂いが、である。それだけで自然の凄まじさがわかるというものだ。

 そうして三人は家路につき、何事もなく人里の方まで戻っていく。

 里の中へ続く門をくぐり、三人は移動の疲れをほぐすように大きな息を吐いた。

 

「妖怪に本当に会わなかったな……」

「睨むだけで帰る雑魚ばかりで助かった」

「あ、いたの?」

「言えば怖がるだろうと思って黙っていた」

 

 そう言って信綱は肩をすくめ、彼にしては珍しく稚気のある笑みを浮かべる。

 

「孫に話す土産話ができたな。俺からのお祝いとでも思ってくれ」

「おっと、それとこれとは話が別だぜ。ノブには孫の面倒も見てもらわないとな」

「うんうん。ノブくん、口では色々というけど面倒見が良いし」

「解せぬ」

 

 わかっていますよとばかりにうなずかれるのが妙に腹立たしかった。

 しかし何を言っても聞いてくれそうにない。信綱は肩を落とし、せめてもの負け惜しみを口にする。

 

「……手が空いて、弥助からも求められたらな」

「それで十分だよ。多分、おれはそこまでいられないから」

「私も。きっとノブくんより長生きはできない」

「…………」

 

 なんとなく。根拠も何もないただの勘。しかし信綱がこの面子の中で最も長く生きると思っていたように、二人もまた信綱が一番長く生きると理解していた。

 だが、それは信綱にとって親友とも呼べる存在との別れを意味しており――彼は小さく、深いため息をつく。

 

「……そうか」

「と言っても、まだまだ死ぬ予定はないけどな! 孫に爺ちゃんって呼んでもらうまで絶対死なん!」

「ふふ、じゃあ私はお婆ちゃんって呼ばれるまで頑張ろうかしら」

「そうしてくれ」

 

 まだ時間はある。けれどそれは確実に減っており、もう残りは少ない。

 御阿礼の子の死には及ばない。涙を流すことはないだろう。しかし、それで何も思わないかと言われれば違うわけであり。

 彼らの死を想像してもあまりに動かない自分の心と、それでも生まれるなんとも言い難い不快な感情。

 

「…………はぁ」

 

 信綱はそれらの感情に名前を付けることなく呼気に隠し、静かに吐き出していく。

 

 

 

 新たな時代の足音が迫るということは、古い時代の終わりということでもあり――彼らは着実に終わりへと向かっているのであった。




そろそろ霊夢出そうと思っていたのに、気づいたらノット東方キャラのみのお話になっていた。

じ、次回は確実に出すから(赤ん坊だけど)

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