阿礼狂いに生まれた少年のお話   作:右に倣え

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人と妖の交わる場所

「今日の稽古はこんなところか」

「鬼……」

 

 なぜ自分が稽古をつけた者は、皆同じ台詞を言うのだろうか。

 鬼は加減ができずに殺してしまうと言っているのに。

 博麗神社裏手の稽古場で一歩も動けないとばかりに疲労困憊状態の霊夢に、信綱は淡々と課題を伝えていく。

 

「今後も俺はお前に身体の動かし方を教える。術に関しては母親に聞け。そちらは俺も専門じゃない」

「嘘言うんじゃないわよ! あんた私より結界上手いじゃない!?」

「基本ぐらいなら簡単だろう」

 

 ちなみに先代に見せたところ、無言で殴りかかられたのは別の話。

 さすがに彼女と同等の強度はないが、術の精度や構築速度にはある程度迫るものがあるようだ。

 

「簡単だけど! 爺さんどんだけ強いのよ!」

 

 そして霊夢も信綱と同等に近い才覚の持ち主。基本的に信綱にできることは彼女にもできる。

 

「基礎の訓練を怠らないことだ。霊力はあれで奥が深い。精度を上げる修行は毎日行え」

「えー……」

「俺が毎日やっているんだ。同じことをしなければ俺に勝とうなど夢のまた夢だぞ」

「ぐっ……やってやるわよ」

 

 負けん気が強くて結構なことである。下手に諦められてしまうと乗せるのが面倒になるのだ。

 

「その意気だ。さて、身体を動かすのはここまでにしよう」

「もう休んでいいの!?」

「部屋で座学に決まっているだろうが戯け。出した課題はやっておいただろうな」

「鬼! 悪魔! 鬼畜! ロリコン!」

「やってないのか?」

 

 どこで覚えたのか聞きたいような単語で罵倒してくる霊夢だが、信綱は無視して確認を取る。

 

「やったわ、やったわよ! でももう一歩も動かない! 疲れたーっ!!」

 

 もはやヤケになったのか、霊夢は仰向けに寝っ転がってジタバタと駄々をこね始めた。

 いかに才気煥発と言えど彼女は子供。それも信綱のように気狂いではなく実に真っ当な感受性の持ち主。

 人間、ムチばかりでは動かない。ではどうすれば動かせるようになるのか。

 答えは実に簡単で、アメを与えてやれば良い。

 

「そうか。終わったら人里で菓子でも買ってやろうかと思っていたが、要らないか」

「……人里に行けるの?」

 

 むくりと身体を起こす霊夢。動かないとは何だったのか。

 

「お前もここに一人は暇だろう。ああ、疲れているなら仕方がない。お前も動けないようだし、今日はここで座学と行こうか」

「い、行く行く! 人里行きたい!」

「だったらまずは勉強だ。早く終わらせたらその分だけ人里を見る時間も増えるぞ」

「買ってくれるお菓子とかは増える!?」

「夕飯が食べられなくなるまでは買わんぞ」

「やったーっ! 爺さん大好き!!」

 

 この調子の良さは先代譲りかもしれない。そしてあれだけ厳しくしてもお菓子を買うだけで好きに転がってくれるのだから安いものである。

 部屋に駆け込んでいく霊夢の後ろ姿を眺めて、信綱はそっと息を吐く。

 

「……慧音先生より上手く教えるようにしよう」

 

 そして自分の通ってきた道と同じ轍を踏まないよう、肝に銘じるのだった。

 

 

 

 かつてない集中力を発揮した霊夢の底力によって、あっという間に課題を終わらせた二人は人里の方に来ていた。

 

「はぐれるなよ」

「目立つ服だからわかるんじゃない?」

「小さいからなお前は」

「これから大きくなるのよ! だからあれ買って!」

「全く……」

 

 自分の周りには自分にたかろうとする少女が多い。霊夢は仕方ないが、橙や椛も気づいたら信綱にたかろうとする。

 他に金銭を使う用途があるわけでもないので、別に構わないと言えば構わないのだが。

 小さめの大判焼きを一つ買い、霊夢に渡す。

 

「熱いから気をつけろ」

「だいじょうぶだいじょうぶ……あちっ!?」

「言わんこっちゃない。見せてみろ」

 

 小豆まみれの口内を見て特に火傷していないことを確かめると、信綱は霊夢の手にある大判焼きを半分に割る。

 

「これなら冷めるのも早くなる。気をつけて食べろよ」

「わかった、ありがと爺さん」

「……次からは母親と来た方が良いぞ」

「でも爺さんの方がいっぱいお菓子買ってくれそう」

「…………」

 

 先代はケチなのだろうか。別に言ってくれれば金ぐらい渡すというのに。

 そうやってしばらく色々なものに興味を示す霊夢を連れ歩き、人里を歩いていると慧音が道の向こうからやってくるのを見つける。

 

「む、信綱。阿求の世話は良いのか?」

「よく動き、よく眠る子です。今は眠っておられますよ」

「爺さん、この人は誰?」

 

 無言で霊夢の頭にげんこつを落とす。

 

「痛っ!?」

「初対面の人にはどうするんだったか」

「……この人はどちら様ですか」

「うむ、よくできました。私は上白沢慧音と言う。人里の寺子屋で教鞭を執っている」

 

 げんこつの落ちた場所を押さえながら涙目で聞いてくる霊夢に、慧音は目線を合わせて柔和に微笑んで自己紹介をする。

 

「信綱、この子は? お前の子ではないだろう」

「博麗の巫女ですよ。先代に頼まれて教育しているんです」

 

 ちなみに稽古の方向性は信綱が必要だと感じたものを全て教え込む形になっている。教養も覚えさせようとしているのはそのためである。

 彼女の才能は恐らく信綱が一番理解できる。自分と同等の領域まで至れと言うつもりはないが、せめて自分の教え子として恥じないだけのものを身に着けて欲しいのだ。

 

「そうかそうか。君、名前は?」

「……博麗霊夢」

「うむ、霊夢か。良い名前だ。時に信綱、霊夢の学校はどうするつもりだ?」

「私と先代で教える方針ですが」

「それは良くないな。この年頃の子なら同い年の子と遊ぶことも勉強の一つだ。それに二人とも誰かに教えた経験は少ないだろう。ここは私に任せてだな……」

 

 あなたに任せると不安が残る、とは言えない信綱だった。

 何を言うべきか迷っている信綱の内心を見抜いたのか、霊夢がそっと手を引いてくる。

 

「私はどうでも良いけど、爺さんはどうするの?」

「……ちょっとこの子と話しますね」

「ああ、いくらでも待つぞ」

 

 慧音の了承を得て、信綱はしゃがみこんで霊夢と顔を合わせる。

 

「……この人は良い人なんだ」

「見ていてなんとなくわかったわ。きっと楽しいんだってことも」

「それは否定しない。お前も同い年の友達が欲しいか?」

「どっちでも良いけど退屈なのは嫌」

 

 要するに欲しいということである。寺子屋に入る前の歳のくせに、なぜこうも言い回しが素直でないのか。

 ……自分も椿に対しては似たような言葉遣いだったかもしれないと思い返すと、あまり注意する気にもなれなかった。

 

「毎日は難しいがたまになら考えよう。しかし――」

 

 信綱はそこで深刻な顔になり、霊夢はそれに慄いたように固唾を呑む。

 

「しかし、なに?」

「……寝ないようにしろ。俺から言えるのはそれだけだ」

「は? どういう意味?」

「良いからうなずけ、な?」

 

 いつになく真面目な顔で言われてしまったため、霊夢はコクコクと首を縦に振るしかなかった。一体あの慧音という温和そうな人に何があるのか。

 

「話はついたか?」

「ええ。折を見て連れて行きます」

「そうしてくれ。ではな霊夢。君が来るのを楽しみに待っていよう」

 

 自然な所作で霊夢の頭を一撫でして、慧音は去っていく。

 撫でられた頭を押さえて、仄かに顔を赤らめた霊夢は彼女の背中を見つめる。

 

「……撫でられた」

「そうだな」

「母さんにもよく撫でられるけど、違った感じ」

「そうか。嫌だったか?」

「……ううん」

 

 存外、この博麗の巫女は色々な人に愛されるようだ。

 先代みたいに境内の砂利を数えて暇をつぶすような巫女にはなってほしくない、と思いながら信綱は霊夢の手を引いて人里を歩いて行くのであった。

 

 

 

「――というわけで今度寺子屋に連れて行ってくれ」

 

 そして事の次第を先代に報告するのが暗黙の了解となっていた。

 霊夢に稽古をつけさせるための方法が彼女にとって許しがたいものだったようで、今度から逐一彼女に報告することが義務付けられてしまったのだ。

 面倒なことこの上ないが一度引き受けたことを放り投げるのも気が引けるため、信綱は彼女と晩酌を傾けながら霊夢と過ごした時間のことを話すのであった。

 

「はいはいっと。あんたもかなり面倒見が良いわよね。あの子、私が行くと爺さんに何買ってくれたって自慢をするのよ?」

「それ以外にもあるだろう」

「まあ八割以上はあんたが鬼のように厳しいって愚痴ばかりだけど」

「だろうな」

「でも嫌っている様子じゃなかったわ。案外子供に好かれるのかもね、あんた」

 

 ケラケラ笑いながら酒を呷る先代に信綱は何も言わず、自分の分の酒を飲む。

 

「……でも、博麗の巫女が人里に受け入れてもらえるなんてね。私の時は誰も来てくれなかったわ」

「…………」

 

 そう言って信綱を流し見る先代の目には、どうして私の時には来てくれなかったのか、という思いが込められているように見えてしまう。

 

「……今は俺がいる。それでは不満か?」

 

 過去の話をされてもどうしようもないので、信綱は今この状況について語ることにした。

 確かに彼女の過去は決して良いものではないだろう。だが途中で死ぬこともなく無事に役目を終えることができたのだ。その時点で先々代の巫女よりはまともな人生である。

 信綱がそれを伝えると、先代は呆気に取られたような顔で信綱を見てくる。

 

「なんだ」

「いや、あんたが慰めてくれるのは珍しいなって」

「家内を気遣うのはおかしいか?」

 

 そう言うと、彼女は杯に顔を隠してしまう。はて、何かおかしなことを言っただろうか。

 

「……勘違いしそうになるでしょ。あんたが私を好きになったって」

「それはないから安心しろ」

「うっさい。乙女の夢を壊すな」

「乙女……?」

 

 杯を持つ手が裏拳として凄まじい勢いで迫ってきたので首を傾けて避ける。ここにいるのはいつ死んでもおかしくないような爺婆しかいないと認識していたのだが。

 霊力を使える影響か、今でも二人の容姿に顕著な老化は見えていない。強いて言えば信綱の髪に最近、白髪が混じりつつあることくらいである。

 

「はぁ……なんか昔のことを考えるのがバカバカしくなってきたわ。今はまあ、それなりに幸せだし」

「なら良いだろう」

「……ん。ほら、もうちょっと付き合いなさいよ」

「二日酔いにはならないようにしろ。酒癖の悪い母親などあの子も嫌だろう」

「気をつけるわ。……ね、もう少しそっちに近づいても良い?」

 

 信綱が返事をする前に先代は立ち上がり、改めて信綱の隣に座り直す。

 何を言っても来るのではないか、と信綱はため息で了承の返事とする。

 

 肩と肩が触れ合う距離まで近づいた先代としばし無言で酒を飲む。

 

「……こんな時間が過ごせるんだから、博麗の巫女も悪くないのかもしれないわね」

「そうか」

 

 やがて彼女がポツリとつぶやいた言葉にうなずいて、信綱は酒気の混ざった息を吐く。

 そうして、二人の時間はゆっくりと流れていくのであった。

 

 

 

 

 

「当主様、お客人が尋ねておられます」

 

 部屋で書物に没頭していた信綱を、女中の声が現実に引き戻す。

 

「入れ」

 

 書面から顔を上げずに、信綱は無造作にそれだけを言う。

 

「……は? お客人は今、外の方で待たせてありま――」

「化かされる経験が多くてな。この家にいる存在の発音と仕草の癖は全て覚えてある」

「…………」

「――天魔。暇なら正面から来いと言ったはずだがな」

「……参ったねえ。というか旦那、前より人間離れしてないか?」

 

 変化の術を解いて入ってくるのは、天狗の首領である天魔。

 信綱とはしばらく顔を合わせていないのだが、相変わらず楽しそうな笑みを浮かべている。

 

「なんの用だ。見ての通り俺は忙しい」

「そうそう。まずは御阿礼の子が転生したことを寿ぎに来たんだ。おめでとう」

「その言葉が本心なら受け取ろう」

「信用ねえの。まあ良いさ、本命は別だ」

 

 信綱が書物に注意を向けているため、天魔は自分で適当な場所にあった座布団を引っ張ってきて座る。

 目の前の男はちゃんと礼を尽くせばそれなりに礼を返すが、そうでない場合は全くもって冷たくなる。変化の術で化かそうとした今回、彼の優しさは期待できない。

 

「本命とは?」

「おう。貸しておいた天狗をそろそろ返してもらうってのが一つ」

「その後のことは考えているのか? 今の人里はもうどこでも妖怪が見られる場所だ。人間の自警団だけでは抑止になり得ない」

「人間の自警団に貸しておいた天狗を返してもらって、天狗の警備団として人里には協力させてもらう。要するに所属をハッキリさせたいってだけさ」

 

 天魔の言い分には納得できる部分があるので、うなずいておく。

 そこでようやく信綱は書物から目を離し、天魔の方に視線を向ける。

 

「椛はどうする?」

「一旦山に戻ってもらって、そこからはあいつの自由だ。命令で人里に行かせて、問題を起こされるくらいなら向こうから募る形にする」

「数が集まらなかったらどうする」

「文に任せる」

「憐れな……」

 

 サラッと面倒な仕事ばかり任される文に同情の気持ちが湧くが、それだけだった。

 

「まあそこは旦那の気にすることじゃあない。なんだかんだ人里に馴染んだ奴もいるだろうし、ひょっとしたら愛し合うような奴も出てくるかもしれん」

「まだ二十年と少しだろう」

「二十年もありゃ好いた腫れたは十分だ。天狗社会は代わり映えしないからなあ……」

 

 妖怪の社会であれば百年二百年だろうと世代の交代がない。だからこそ天魔がずっと山を治めているし、世代が変わらないから託せる者も出てこない。

 

「いい加減楽になりたいもんだ。遊んでなきゃやってられんよ」

「お前は割りと天職な気もするが……」

「天職であっても、千年以上続けてりゃ飽きるってもんだ。その点で考えればスキマは本当にすごいと思う」

「そういう観点もあるか」

 

 妖怪にしかわからない価値観だろうが、千年以上同じことを続けられるというのは一種の才能だろう。信綱なら途中で飽きて投げ出す自信がある。

 御阿礼の子が絡んでいたら? 万だろうと億だろうと兆だろうと飽きることなどあり得ない。

 

「そうそう。顔ぶれが変わらないからやり取りも変わらない。やり取りも変わらないし、相手の知恵もわかっちまうから、考えることも変わらない。うんざりする」

「俺にはわからん感覚だ」

「わかられても困るさ。旦那は特に長命種になったら色々と不味い」

 

 儚い人間という言葉が嘘に見えるくらいに信綱は力を付けた。この力を保ったまま長命種にでも転身したら、八雲紫が死ぬほど頭を悩ませることだろう。

 彼が存在を許されているのは成し遂げたことへの実績と、彼がもうすぐ死ぬ人間であるからという二点である。そうでなければ幻想郷の大半の勢力を敵に回して勝てる可能性のある人間など放置するものか。

 

「なる気もない。俺は一生人間だ」

「知ってるよ。……全く、長く顔を合わせれば嫌になるってのに、それでも好敵手になりそうな人間が死ぬのは堪えるね」

「俺が死んだら面倒事が減るだろう」

「面倒事、大歓迎。妖怪なんてそんなもんだよ」

 

 つくづく妖怪というのはわからない存在だ。状況が混沌としている方が楽しいなど、信綱には一生理解できない感覚だ。

 

「話はそれだけか?」

「ん、こんなもんだ。一番重要なのは天狗を一旦返してもらうのと、その後新しく組織した面子でそっちの警備に回らせるってこと。あと個人的に旦那と話したかった」

「……いつもの油断ならないお前はどうした。お前なら自分の感情だろうと計算に入れて状況を動かすだろう」

「それができるからって、いつもやってるとは限らないだろ? オレだってたまには感傷に浸りたくなるし、四六時中面倒くさいことを考えているわけじゃない」

 

 面倒くさいという点には同感の信綱だった。特に天魔や紫との交渉は気を抜くと容赦なく自分たちに有利な条件をつけてくるため、一字一句聞き逃せない神経をすり減らすものになる。

 もう一線から退き、自分の言葉にも大した意味がない今となっては気にする必要もないことである。最悪、この場で素っ首を落として行方不明にすれば良い。

 

「……なんか寒気がしたんだが、なにか物騒なことでも考えなかったか?」

「いつも考えていることだ。問題ない」

「物騒な考えであることと矛盾しないよなそれ!?」

 

 さすがに細かい、と信綱は舌打ちでごまかす。

 天魔は信綱の出会った時から変わらない態度に苦笑しながらも、部屋から出て行く気配はない。

 

「……そろそろ出て行って欲しいんだが」

「そんな冷たいこと言うなよ。ちっとは旧交を温めようぜ」

「お前と友誼を結んだ覚え自体がない」

「相変わらずひっでえなあ」

 

 信綱のにべのない返答も予想の範疇だったのか、天魔は笑って受け流す。

 その図太さには見習うべきところがあるのかもしれない。見習ったらいけない部分かもしれないが。

 

「……何が望みだ?」

「お、そうこなくちゃ。ちっと外で歩こうぜ」

「まあ良いだろう。部屋にばかりいるのも気が滅入る」

「変化するけど誰が良い? 希望があるなら聞くぜ?」

「可もなく不可もない男か女」

「適当でかつ難しいところを狙ってきたな……」

 

 今日の夕飯に何が良いと聞かれて、なんでも良いと答えられた子供のような心境の天魔だった。というより範囲が広すぎて希望が全く読めない。

 

「じゃあとりあえずこれで」

「…………」

「待て、冗談だから無言で刀に手を伸ばすのは待て。嫁に化けたのは悪かったって!」

 

 先代の顔になったのでとりあえずその顔をそぎ落としてやろうと思ったら、慌てた天魔が普通の人間の男に変化しなおす。

 ちなみにこれが御阿礼の子だったら本気を出して殺しにかかっていただろう。さすがにそんな見え透いた虎の尾を踏む気はなかったらしい。

 

「旦那、意外と情に厚いよな。認めた相手には気遣いもするみたいだし」

 

 外を歩く天魔の脳裏によぎるのは、彼と最も親しい友人である椛の存在だ。

 ある意味最も容赦がなく、そしてある意味最も信頼されている彼女は、自分の立場がどれだけ貴重なものか理解しているのだろうか。

 天魔の思考を読んだのか、隣を歩く信綱は憮然とした顔で答える。

 

「最低限の礼儀さえ守るなら、こちらも礼を失する真似はしない。それだけだ」

「はは、堅物だねえ。もっと肩の力を抜いた方が長生きするぜ?」

「憎まれっ子世にはばかるという言葉を知っているか?」

「繊細な奴より図太い奴の方が長生きってことだろ。ひどい話だよな。オレほど繊細な心を持っている奴なんて二人といない」

「心と神経は別だからな」

 

 他者の心の機微が理解できなければ群れの長など続きはしない。その点で言えば天魔は繊細な心の持ち主だろう。それはそれとして鋼の神経を持っているが。

 

「手厳しい。まあそれはさておいて……すごいもんだな」

「何がだ?」

「こうして歩いていることだよ」

 

 天魔の指し示す方には人も妖怪も区別なく歩いており、それぞれの営みを形成している光景が存在した。

 最近は人里に移住を考える妖怪も多いようで、彼らに対しての働き口なども検討されている段階だ。

 信綱が交流区画を整備して二十年と少し。妖怪にとっては短い時間だとしても、人間にしてみれば子供が大人になるには十分な時間である。

 

「人間の動きに合わせると変化も目まぐるしい。目が回りそうだ」

「俺はむしろ遅い方だと思っていたが」

「殺し合って、断絶して、お互いに顔も合わせないで。そんな期間が幻想郷の時間の大半だったんだぜ? それを二十年で変えちまった。オレやスキマ、吸血鬼の姫さんと色々時節が重なったにしろ、中心は旦那だ」

「お門違いだな。俺は人間と妖怪の共存にさして価値は見出していない」

「ほう、初耳。そんじゃ何が一体旦那を――」

 

 と、そこで天魔は顔を上げる。

 視線の先には見回り中の天狗がいて、彼女は二人の見知った白狼天狗――犬走椛だったのだ。

 彼女は信綱の姿に気づくと、親しそうに手を振りながら駆け寄ってくる。信綱もそれを見て軽く手を上げることで応えた。

 

「よう、しっかり働いているようだな」

「はい。君は散歩ですか?」

「そんなところだ」

 

 天魔はそっと信綱の影に隠れようとする。

 今の自分はただの村男。信綱は英雄であるが人里の住人。人間と一緒に歩いている姿など不思議でもなんでもない。

 

「で、天魔様はどうして化けてるんですか?」

 

 しかしそんな希望を椛は意識せずあっさり破壊する。

 

「て、天魔? 誰ですかそれは? 私はちょっと英雄様に用があって――」

「いえ、歩き方が明らかに天狗特有のそれでしたし、手足の筋肉の動かし方が天魔様と同じでしたよ。僅かに背中に体重がかかる歩き方は翼を持つ天狗特有です」

 

 天魔は驚いたような顔を演出し、自分は潔白だと言おうと思ったら椛に遮られた。しかも言っていることの内容が天魔をして絶句せざるを得ないもの。

 ちょっと目端の利く天狗程度にしか思ってなかったが、いつの間にこんな一芸を身に付けたのか。

 ここまで見抜かれているのにごまかそうとするのもバカバカしい。天魔は苦笑しながら、村男の雰囲気からいつも通りのものに変わっていく。

 

「参った参った。人混みの中なら文にも気づかれないと思ったんだが。とんだ大穴だ」

「ああ、やっぱり天魔様でしたか。君は気づいて?」

「話し方でな。音の聞き分けは別としても、喉の動きに注目すればわかることもある」

「なるほど。覚えておきます」

「お前ら怖えよ」

 

 率直に言って変態だと口を滑らせそうになりながら、天魔はなんとかそれだけを絞り出す。

 椛は何を言っているのかとばかりに首を傾げていた。もしかして今の観察眼は彼女にとって特別なものではないのだろうか。

 

「……なあ旦那。椛ってあれぐらい普通にできるのか?」

「そこまで難しくないだろう。慣れれば簡単だ」

「わかった、旦那に聞いたオレが馬鹿だった」

 

 あの洞察力を四六時中発揮しろなど天魔でも無理がある。不可能ではないが、恐ろしく疲れるだろう。

 天魔は椛の方を見て、自分がいかにすさまじいことをしたのか全く理解していない彼女の頭を軽く叩く。

 

「いたっ」

「お前さんは哨戒が天職かもしれんな。もうちっと頭が回ってたらオレもヤバかった」

 

 ちょっと本腰据えて椛の処遇を考えねばならなかっただろう。

 これだけの洞察力を備えているなら、少し信綱から教われば人心掌握ぐらい容易く行えるはずだ。

 そうなっていたら彼女の影響力の高まり具合を危惧して、何かしらの対策が必要になっていた。最悪、殺すことも視野に入れねばならないほどの。

 

「は、はぁ……」

「お前はそのままでいいということだ。それよりお前も来い。少し三人で歩こう」

 

 信綱は天魔の僅かな言葉からそれを見抜いたようで、さり気なく話題を変えて歩き出す。

 椛もそちらにつられていく。それを見て天魔も内心で信綱に感謝しながら後ろを歩く。

 

「あ、はい。でも珍しいですね。最近は天魔様、大体天狗の山にいたと思うんですけど」

「お前がオレの動向を知っていることが怖いが……まあ、今は文の動きの管理や河童共の見張りとかで忙しいからな」

「河童の見張りをお前がやっているのか」

「あんまやりたがる奴がいないんだよ……」

 

 誰が好き好んでちょっと目を離したら爆発事故を起こしかねない奴の見張りがしたいのだろうか。信綱だってゴメンである。

 河童に知己のいる椛は、やや煤けた気配を発している天魔に困ったように笑いかけることしかできない。

 

「大っぴらに人里で商売できるようになったからだな。人の流れが活発になるのは良いが、同時に見張りの目も光らせなきゃならん」

「天狗の里でも問題を起こしたことが?」

「あるある。全自動羽つくろい機とか作って、その実羽をむしり取りまくる機械とかもあったんだぜ? あれは痛かった……」

 

 こいつも被害者かよ、とは信綱と椛二人の感想。河童の創造力には舌を巻くものがあるが、同時にその傍迷惑ぶりも度肝を抜くものがある。

 二人がなんとも言えない顔で天魔を見ていることに気づいたのか、天魔は軽く咳払いをして視界に広がる人妖の共存を見つめた。

 

「まあ――昔より今の方がよっぽど楽しそうだ。そう思わねえか、椛?」

「――はい。代わり映えのしない日々に倦んだ人たちも、息の詰まりそうな閉塞感も、今は感じません。幻想郷の全てが光っている」

 

 もはや交流区画のみならず、人里全体で当たり前のように繰り広げられる人妖の日常。

 それらを見つめて目を細める椛の脳裏には何が去来しているのか。

 椿の死を知って、共存を決意した瞬間のことかもしれないし――もしかしたら、場所を区切っての人妖の共存が成し遂げられたあの日のことかもしれない。

 

「天魔」

「うん?」

「あの日、共存と答えた俺に賛同してくれたこと、感謝している」

「……そりゃこっちの台詞だ。あのどうしようもない閉塞感を打ち破ってくれるような奴を待っていたんだ。感謝したいのはオレの方だ」

「珍しいな。お前がそんなことを口にするなんて」

「今はただの村男。村男は腹芸も演技もしないっての」

 

 肩をすくめる天魔の姿に信綱は軽く笑う。

 信綱は椛の隣に立ち、天魔にも手を差し伸べる。

 

「ほら、行くぞ。お前が見たかったものを見せてやる」

「……ハハハッ、あんたはやっぱり人誑しだよ!」

 

 何を言っているんだ、という信綱の顔とその隣で苦笑する椛。どうやら彼女も信綱の言葉に翻弄された口のようだ。

 天魔は信綱の隣に並び、そのまま三人で人里の中を歩いていく。

 

 

 

 ――人間一人と天狗が二人。奇しくも、信綱にとって最も馴染みのある人妖の姿がそこにはあった。

 

 

 

「……椛」

「はい」

「満足したか?」

「……いえ、まだまだです。これから幻想郷はもっと良くなっていく」

「そうか。だったら見届けないとな」

「はい。――あなたがいなくなっても、私は変わらず幻想郷を見続けます」

 

 椛がポツリとつぶやいた言葉に、信綱が返事をすることはなかった。

 ただ、一言だけ。

 

「お前になら、託しても良いのだろう」

 

 椛にも聞こえない声量で、その言葉は虚空へと溶けていくのであった。




子供なので最低限の加減をしつつ、色々と教えこむノッブ。やるからには手抜きとかしない人です。

そして天魔。適当に生きているように見えて、色々と考えている。でも色々考えているけど適当。
彼もきっとスペカルールが制定された後の幻想郷でも適当にのらりくらりと生きていくことでしょう。いきなり山の中腹にドカンと神社ごとやってくるとかなければ。

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