「阿七様、このような場所でよろしいのですか?」
「うん、ここがいいの」
「しかし……見るべきものがあるわけではありませんよ?」
「いいのよ、ここが」
困った顔をする信綱と、そんな彼の手を取りながら歩く阿七。
すでに身長差は逆転し、以前は姉弟のように見えた二人も今では普通の男女にしか見えない。
だが、阿七の中で信綱はずっと弟のままだろうし、信綱自身も彼女に対して特別な感情を持つことはないのだろう。
狂信、盲信と呼ばれる類なら持ち合わせているが、それとて表に出なければ平和なものである。
さて、そんな信綱が現在困っているのはその主である阿七についてだ。
転生の支度も終え、幻想郷縁起の確認も終わった。つまり阿七はほんの僅かな時間かもしれないが、本当の意味で自由な時間を過ごせるのである。
尤も、病弱なことに変わりはないのであまり遠出することは難しい。
しかし、それでも今の阿七は非常に活き活きとしていた。
その楽しげな顔のまま、信綱の部屋が見たいと言われては断れないのだ。
「阿七様、お手を失礼いたします」
「ん、どうぞ」
現在いるのは信綱の家――つまり火継の邸宅である。
他の火継に見られるのも癪なので、稽古の時間にずらして阿七を案内していた。
「ここが火継の家です。阿七様でしたら知っておられると思いますが」
「記憶にはあるけど、こうして自分の目で見たのは初めてよ。……どこか物悲しい、かな」
「そう見えますか……」
人間性を投げ捨てた連中の集まる家だ。そう見えてしまうのも無理はないのかもしれない。
「こちらへ。私の部屋に案内します」
「うん。ノブ君の部屋がどんなものか、私が見てあげる」
「人に見せるものではないのですが……」
黙殺された。諦めた信綱は阿七の手を引いて自分の部屋に案内する。
「ここです。最近、部屋が変わりましたので何もありませんが」
以前の部屋に物があったわけでもないが、一応の言い訳をしておく。
そして開いた部屋は最も広い――いわゆる家長の部屋だった。
「あれ、信義さんは? ここは家長の部屋だったと記憶しているけど……」
「私の成人と共に、私が当主を受け継ぐことになりました。父上は今頃、道場で汗を流しておられるでしょう」
煩わしい外の出来事なども今後増えていくだろう。面倒な話だが人里で生きていく以上、無縁ではいられない。
今にして思うと、父から託されたこの当主という立ち位置は貧乏くじを引かされた気がしてならない。
「…………」
「どうかした? ノブ君」
座布団に膝を折りながら、阿七がこちらを見上げてくる。
「今からでも父上に当主の座を返上できないかと考えてました」
「ダメよ? どこかで次の世代には繋がないといけないんだから」
「……世知辛いものです」
阿七の守護だけをしていれば大丈夫な世界とかないだろうか。
人付き合いとはかくも面倒なものかと、信綱は阿七の隣に腰掛けながら思う。
「ところで……ノブ君、私物はどこにあるの?」
「いえ、これが全部ですが」
「……これで全部?」
阿七が改めて部屋を見渡す。
最低限の座布団や座椅子などはあるが、私物に類するものが一切ない。
釣られた信綱も自分の部屋を見て、首を傾げる。
「……何か問題がありますか?」
「うーん……どう言えばいいかな……」
阿七は悩んだ様子で目を閉じる。
その様子を見た信綱は直ぐに口を開く。何で側仕えの部屋に悩んでいるのかはわからないが、主を煩わせる側仕えなどあってはならない。
「何か置物でも置きましょうか。そうだ、父が育てている盆栽があります」
「ダーメ。そういうのはいけません」
阿七の手が信綱の額を軽く叩く。彼女の信綱をたしなめる時の癖だ。
座っていても背丈に差が出来てしまったので、額に手を伸ばすには手だけでなく体全体を動かす必要があるのだが、阿七はこの動きを変えようとはしなかった。
「むぅ……」
「ちゃんと自分の趣味とか持たないと。女の人を楽しませられないよ?」
「人を楽しませるものではない気がするのですが……」
またも無視された。阿七は指を立てて信綱に教授していく。
「いい? 私が見たいのは君の部屋だけじゃなくて、君の心なの」
「はぁ……」
よくわからない。部屋には心が出てくるものだろうか。
「例えば、物臭な人の部屋が片付いていると思う?」
「そうは思いません。……ああ、なるほど」
理解はすぐだった。阿七のように見聞きしたもの全てを覚えるというわけではないが、信綱も頭の回転は非常に速い方なのだ。
「言われてみれば、確かに。私もこの部屋に戻るのはたまに寝る時ぐらいでした」
「あれ? でも私、そんなに忙しいことお願いしたかしら?」
阿七は活動的な方ではないため、家の中にいる時はほぼ四六時中話し相手になったり、庭の散歩に付き合ったりと、遠出をするようなことはない。
「いえ、そうではありません。ただ、もっと精進せねばと腕を磨いておりますゆえ」
暇さえあれば自己鍛錬に余念がない少年でもあった。
何かあった時、最終的にモノを言うのは力であることが多いのだ。
「ノブ君は熱心ね。私はそれに付き合えないけど……」
少し残念そうな顔をする阿七に、信綱はゆるゆると首を横に振る。
「阿七様に危険が迫った時のために私がおります。――ですが、危険なことなど起こらないに越したことはないのです」
そう告げると、阿七は驚いたように目を丸くする。
そんなに不思議なことを言っただろうか、と信綱は首を傾げた。
「……ノブ君の口からそんな言葉が聞けるとは思ってなかったわ。ちっちゃな頃は私に護衛だって思ってもらえないのを不満そうにしていたから」
「わかっていたのですか。阿七様もひどいお方だ」
信綱は口元に手を当ててくつくつと笑う。側仕えに任命されたばかりの頃はどうにか阿七の力になれないか、試行錯誤したものだと思い返す。
「ええ。信義さんみたいに大人の人ならまだしも、ノブ君は子供だったから。それに可愛かったんですもの」
そう言って、阿七は信綱の肩にもたれかかる。
昔は逆だったな、と子供の頃を思い出しながら信綱は口を開いた。
「……あの時の自分は、あなたのお役に立てていたでしょうか」
「もちろん。心から信頼していない人に肩を預けるほど、私は安い女じゃないわ」
小太刀しか握れず、阿七の話し相手ぐらいにしかなれなかった未熟な自分であっても、彼女にとって意味はあったようだ。
良かった、と深く静かに息を吐く。
「……恐悦至極」
「ふふっ、照れてる」
いくつになっても阿七には敵わない。信綱は観念したのか、力を抜けた笑みを浮かべる。
「……次来る時には、当主の部屋じゃなくてノブ君の部屋を見せてね」
「約束します。色々と考えてみます」
「ん、よろしい。じゃあこれ、お姉さんからのご褒美です」
阿七が着物の袖から取り出した硝子細工の花を受け取る。
花びらの細部に至るまで繊細に作られたそれは、障子越しの淡い陽光を浴びて虹色の輝きを放っていた。
「これを飾るだけじゃダメだからね?」
「承知しております。気をつけましょう」
信綱は軽く笑い、阿七がくれたそれを細心の注意を払って扱い、机の上に飾る。
「ひとまずはこれで。さて、これからどうされますか」
「ん……もう少し、このままで」
阿七の頭が肩から下がり、信綱の膝の上に収まる。
「誰かにこうしてもらうなんて、初めて……。ふふ、意外と硬い」
「一応、鍛えていますから」
壊れ物を扱うような手付きで、信綱は阿七の髪を梳いてやる。
阿七はくすぐったそうに目を細めるが、手が払われることはなかった。
「……疲れたのでしたら、このままお休みください。私はずっとおりますから」
「疲れたわけじゃないけど……こういう時間、素敵だなあ……」
まどろみに身を委ねた阿七が小さく欠伸を漏らす。
「ノブ君がいなかったら、こんな時間を知ることもなかったと思う。そういう意味では、君が子供の頃に私のところに来てくれて良かったかな」
「……これでも、小さな頃は悩んでいた時もあったのです。阿七様の話し相手にはなれていたけれど、それはただ単にあなたの近くにいた子供が自分しかいなかっただけなのでは、と」
それで構わないと開き直るまで少々時間がかかった。あの頃の自分は阿礼狂いとしても未熟だったのだろう。
「そうかもしれない。でも、ノブ君は私のそばにずっといてくれた。私が苦しい時も支えてくれた。楽しい時は喜んでくれた。護衛の役目を果たしてくれた人は大勢いたけれど、家族になってくれたのは君が初めて」
「……過分なお言葉です」
阿七は信綱の膝の上で仰向けになり、見下ろす信綱の頬に手を伸ばす。
「私がお姉さんで、君が弟。弟って言うには、色々と頼りすぎちゃっていたけど」
「私の方こそ、阿七様にご迷惑ばかりおかけしていました。早く大人になれば阿七様のお手を煩わせずに済む、と思ったことも一度や二度ではききません」
思えば必死に走ってばかりだった。阿七の決して長いとは言えない一生の一部を、少しでも支えられるようにとひた走り続けた。
結果として阿七に家族と思ってもらえるのだから、望外である。
「うふふ、ノブ君が最初から大人だったら、今みたいに頼ったりはしていなかったわね。だから子供でありがとう、かな」
「……複雑ですけど、ありがとうございます」
話すこともなくなったのか、阿七は静かに力を抜いて信綱に身を委ねる。
誰かに寄りかかるということは、その誰かへ全幅の信頼を置いていなければ出来ない、と何かの本で読んだことを思い出す。
「もう少し、このままでいてもいいかな……?」
阿七の声は眠気に負けつつあるのか、とろんとした小さなそれだった。
「ええ。あなたが望む限りいつまでもこうしていますから。どうか安らかにお休みください」
穏やかに微笑み、阿七の目元を手で覆う。するとすぐに小さな寝息が聞こえ始めた。
阿七が起きたら足のしびれは適当にごまかそうと思いながら、信綱は時間がゆっくりと流れてくれればと思うのであった。
――遠くない未来において、信綱は理解する。
次に来る時というのは、阿七の時間ではないということを。
「あ、慧音先生」
夏が終わり、秋に向かいかけている日のことだった。
山に分け入って阿七に出すための魚を釣った帰り道で、信綱の手には釣り竿と魚籠がぶら下がっていた。
「む、信綱か。久しいな、息災だったか?」
「はい。先生もお変わりなく」
「ははっ、お前もそんな大人の言葉遣いを覚えたか」
朗らかに笑う慧音。会うのはだいぶ久方ぶりなのだが、慧音は全く変わっていなかった。
詳しいことは知らないが、後天的に妖怪の属性を得ることによって寿命を伸ばしているとかどうとか。
その方法がわかれば何代もの御阿礼の子を守護することが出来る……が、物事はそう上手く行かない。
慧音が妖怪の力を宿したのは彼女自身も物心ついて間もない頃であったため、半妖になる方法を彼女自身も知らないのだ。
「お前は釣りの帰りか?」
「ええ。そろそろ甘露煮が美味しくなる季節ですので」
「そうか。阿七も喜ぶだろう」
当り障りのない話をしていると、ふと慧音が真面目な顔になって信綱を見てくる。
「……どうかしましたか、先生」
「いや、なに。お前も成人したから言うが、お前の家のことは知っているつもりだ」
「はあ」
寺子屋時代から気づいてました、とは言わないでおく。というより、人里で最も長く生きてきた人が火継を一切知らないということはあり得ないだろう。
「お前は確かに強いのだろう。そして今後、危険なことがあれば真っ先に向かうのだろう」
「……まあ、人里に被害が出るのは阿七様にとっても悪影響ですから」
それに火継の人間が人里に期待されているのは、その卓越した身体能力から生まれる戦闘力だ。
今でこそ平和な時間が続いているものの、今後もそうであるとは限らない。
博麗大結界が生まれて間もない以上、今は幻想郷の過渡期とも言える状態なのだ。
特に信綱はすでに妖怪と打ち合えるだけの実力を持っている。それぞれの勢力の頭目や幹部級でないと一騎打ちで止めるのは難しいほどに。
何かあれば出張ることになる。危険な妖怪相手に戦う時も来るだろう。
「うむ、私もそれを止めるつもりはない。人里が人里として在るために必要なことだ。……だが、お前を心配する人は多いことを忘れるな」
「はい。肝に銘じておきます」
「ならば良し。さて、あまり長話をしても魚が悪くなるな。ではな信綱。次会うときは私にも何か土産を用意しておいてくれ」
そう言って去っていく慧音に善処しますと曖昧な答えを投げかけておく。
そして歩みを再開するのだが、それもまたすぐに足を止めることになる。
「お、伽耶。久しぶりだな」
「ノブくん、久しぶり。元気だった?」
「体調管理はしっかりしている」
子供の頃、勘助より贈られたかんざしを付けた伽耶が信綱に微笑みかける。
「伽耶は何を?」
「お父さんのお手伝いで荷物を届けていたの。弟も大きくなってきたし、私はそろそろお嫁さんかなあ」
もうすぐ十六になる手前での婚姻はさすがに早い部類に入るが、珍しい話というわけではない。
特に伽耶の家は商家のため、見合いによる結婚も有り得る話だった。
「もう見合いが?」
「お父さんがポツポツ零してるってぐらいかな。ノブくんの家も大きい方だけど、どうなの?」
「ん……」
跡目がいなければ火継も絶えてしまうので、女手が必要になる時はあるのだが――どこから来ているのかまでは知らなかった。
多分、必要になったら話として上るのだろう。
「よくわからないな。うちで女中以外の人を見た覚えはないし、そもそもうちがどう呼ばれているかはわかっているだろう。男衆は皆阿七様に首ったけだ」
その並み居る男衆を倒して信綱が隣りにいる。
天狗にも教えを受けている彼にとって、もはや火継の人間であっても物足りないぐらいだった。
「どのくらいそうなの?」
「暇さえあれば阿七様の側仕えになろうと誰も彼も修練に励んでいる。というかそれ以外のことをしている身内を家で見たことがない」
「思いを暴走させて、とかはないの? そんなに一心に想う人なら、さらってしまおうって考えが出てもおかしくないと思うけど」
「ないな」
尤もと思われる伽耶の質問に、信綱は即答で否定する。これに関しては自信を持って断言できた。
「俺たちはひたすらに与える側だ。側にいられれば、それが叶わなくとも何かの力になれれば構わない。皆そう思っているだろうし、そう思ってない奴は火継ではない」
言い切る信綱に伽耶は困ったように笑うしかなかった。これは阿礼狂いと呼ばれるわけだ。
「あ、あはは……すごいんだね」
「狂ってると言って良いぞ。原因は知らんが、うちの男は皆そうなる」
「環境とかじゃなく?」
「不思議なことにな」
親の教育、環境、そういったものに関わらず火継の男は御阿礼の子に全てを捧げる。
それがどうしてなのか、など考えたこともないし、今後も考えられることはないだろう。
彼らにとって御阿礼の子が全てであり、自分の状態などどうでも良いの一言なのだ。
「で、話を戻すが伽耶の見合いはどうなるんだ?」
「さあ? いざとなったら勘ちゃんにもらってもらうから。私は別に跡取りってわけでもないし、なんとかなると思う」
そう言って伽耶は愛しそうに頭のかんざしに触れる。
その様子を信綱はなんとも言えない顔で見ていた。友人同士の色恋沙汰とかどんな顔をすれば良いのか。
伽耶の意外なたくましさを見た気がする信綱は、この話を終わらせるべく口を開く。他人の惚気を聞く趣味はない。
「そ、そうか……。まあ、頑張ってくれ。不幸な結末にならないことを祈るぐらいはするから」
「うふふ、ありがとう。ノブくんもお仕事頑張ってね」
伽耶の背中が遠のくのを見ながら、信綱はそう遠くない未来で伽耶に絡め取られるであろう勘助を思い、そっと心の中で手を合わせるのだった。
(相思相愛っぽいし大丈夫か)
二秒でバカバカしくなった。そんなことより阿七に魚を届けることの方が重要だ。
信綱は思い直したように稗田の家への道を急ぐのであった。
秋が始まる頃のこと。信綱がこの世に生を受けて十六年目を迎える日のことだった。
今日も今日とて阿七の話し相手となっていた信綱は、阿七と共に稗田邸の縁側に並んで座っていた。
「秋晴れの良い天気ね。空が透き通ってる」
「ええ。もうじき紅葉が美しい季節になります。食欲の秋とも言いますし、あの季節は美味い物が多い」
「ふふふ、ノブ君は食べ物の話が多いわね。食べ盛りなのかしら?」
阿七に栄養あるものを食べさせようとなると、必然的に秋が重要というだけである。動物や魚は冬に備えて脂を蓄えるし、栗なども採取することが出来る。
「私的には読書の秋を勧めたいかな。ノブ君は何か本を読む?」
「歴代の幻想郷縁起は一通り読みました。あとは必要と感じた知識に関するものを少々」
御阿礼の子が書いた幻想郷縁起は火継の人間にとって聖書に等しい。
その上で信綱は阿七の体調管理に良いと判断した医学書や、薬に関わる書物を読み漁っていた。
「楽しい本だったかしら。特に幻想郷縁起は今と昔じゃ全然違うわ」
「阿七様が書かれた幻想郷縁起、未だに見ていないのですが……まだ見てはいけませんか?」
すでに公開はされているので見ようと思えば見る手段はあるのだが、阿七が見るなと命じている以上、信綱にその命令を背く理由はなかった。
「ダーメ。身内に見られるのって案外恥ずかしいのよ?」
「父上とかは……」
「あの人は頼りになったけど、どこか一線を引いていたから。信用も信頼もしていたのは確かよ。でも、ノブ君とは違ったかな……」
遠い過去を思い返すように阿七は虚空に視線を投げる。
信綱もそれに付き合って視線を空に向けると、肩に暖かな重みを感じた。
「阿七様?」
「歴代の御阿礼の子はね、皆あなたたちのことを信じていたの。絶対に自分を裏切らなくて、絶対に自分を待ってくれる。
転生を繰り返す私たちにとって、あなたたちが変わらない姿を見せてくれることはある種の救いだった」
阿七の言葉に信綱はどう返事をすべきかわからなかった。
こうして過去の――否、前世の記憶を話してくれる阿七の姿を、信綱は初めて見たのだ。
「まだ妖怪と人間が殺し合っていた頃も、ずっと変わらずあの人たちは私たちを護ってくれた。信義さんも、他の皆も」
「……阿七様、私は――」
何かを言わなければならない。
そんな自分でもよくわからない情動に突き動かされて開いた口は、阿七が首を横に振ることで遮られる。
「私たちが見た中でも、あなたが例外なの。ちっちゃな子供の頃から、ずっと変わらず私の隣にいてくれて。家族になってくれて嬉しかった」
「……それなら良かった」
「ねえ、ノブ君――いいえ、火継信綱さん」
「……なんでしょう。阿七様」
これから来る質問に備え、信綱は真剣な顔で阿七を見る。
――私が死んでも、あなたは後を追わない?
「…………」
とっさに答えることはできなかった。が――答え自体は決まっていた。
「待ちます」
「あ……」
「死んで黄泉路に付き合うのも悪くはありません。ですがあなたは転生できる。その時まで待ちます」
稗田の火が絶えることはない。転生に転生を繰り返し、いずれ新たな火が灯るのだ。
その火を守り抜く。それこそ火継の人間の役目である。
「もう一度。私が今よりも成長し、あなたが子供になるとしても。必ず会える」
「ノブ君……」
感極まった阿七が信綱の身体をかき抱く。
謝罪するように、懺悔するように、そして何よりも大きな感謝を込めて、阿七は信綱を抱きしめた。
「ごめんなさい、ありがとう……!」
「謝ることなど何もありません。あなたの願いが私の願いです。それに……」
阿七が涙に濡れた目を向けてくる。
いつまでもそのような姿を見たくないと思い、信綱は慣れない冗談を口にした。
「次の代であれば、私があなたを子供扱いできるでしょうから」
「……ふふ、あははっ。ノブ君、気にしてたんだ」
ぽかんとした顔になった阿七を見て、失敗したかと思った信綱だったが、どうやら杞憂に終わったようだ。
「そりゃあもう。早く大人になりたいと何度も思ったものです」
「あんなに可愛かったのに、今ではすっかりたくましくなってしまったわね」
「食べ盛りなものですから」
「あははははっ」
そう言うと、阿七がまた笑ってくれた。
これで良かったのだと信綱は信じることにした。真意は阿七にしかわからなくても、今笑ってくれるなら十分である。
ひとしきり笑った後、阿七は涙を拭って信綱の膝に頭を乗せる。最近のお気に入りのようだ。
「あんなに声を出して笑ったのは久しぶりよ。それもノブ君に笑わせられるなんて」
「もっと早くこうしておけば良かったかもしれませんね。真面目な態度ばかりがあなたを安心させられるわけではない」
「ノブ君はそれでいいのよ。今から冗談ばかり口にするようになっても困っちゃうわ」
「そうでしょうか」
「ええ、そうなの。これからしばらく、顔が見れなくなるのだから」
「…………」
阿七の言葉に何も答えず、信綱は阿七の髪をすくことに没頭する。
「……止めないのね」
「十年、あなたと共にいました。だからあなたの様子はわかるつもりです」
「――ありがとう。あなたは私にとって最高の家族だった」
「身に余る光栄に存じます」
「照れて……る? 短い言葉を使う癖があったはずだけれど」
「羞恥以上に、今は胸に迫るものがあります」
互いの手が互いの頬に触れる。駄目だ、まだ涙は流すな。
「そう。――ねえ、少し眠くなってきちゃったわ」
嗚呼、時間切れになってしまった。まだ話したいことは山程、それこそ一生分あるというのに。
「楽にお休みください。必要ならば布団を敷いてきます」
「ううん、ここが良いわ」
「そう、ですか」
声よ、震えるな。今ここで自分が動揺しては、阿七が安らげないだろう。
「私はずっとここにおりますから、どうか安らかにお休みください」
「ええ。――信じているわ。信綱さん」
静かに阿七の手が信綱の頬から離れていく。その手を握りたい衝動に駆られながらも、手は動かない。
手が床に降りる前に信綱がその手を取り、阿七の胸に添える。動く気配は――ない。
もう、この人が目覚めることはないのだ。
信綱は動かなくなった阿七の頭を膝に乗せて、静かに空を見上げる。
その目からは止めどない涙が流れていたが、阿七が濡れないように袖で端から拭っていく。
「あなたが願うなら、いつまでも……っ! こうしていますから……っ!!」
唇を噛みしめ、嗚咽が零れるのを防ぐ。阿七が眠れないから。
「だから、どうか……どうか……っ! 心安らかに、お休みください……っ!!」
五体がバラバラに引き裂かれるような悲しみだ。
阿七はこれをもう一度味わう可能性のある未来に、信綱が向かうようお願いした。
自害して彼女の後を追いかけられるならどんなに幸福か。しかし、残酷なことに彼女はそれを願っていない。
ならば生きよう。再び会うであろう御阿礼の子に、成長した自分を見せてやらねばならない。
それこそ、阿七の罪悪感が吹き飛んでしまうほどに。
強くなる。今度こそあの人を安心させられる自分になるために。
ああ、これはそのためには不要なものであり、無駄でしかないことぐらいわかっている。
すでに膝の上の肉体に魂はなく、目を開くことも永劫に訪れない。
だけど今だけは。今だけは彼女の死に涙を流す弱さを認めて欲しい。
声を殺して、涙を拭って、身体の震えも押さえ込んで、信綱は静かに泣き続けていた。
「ん、来たか。どうだった、人生は?」
「素晴らしいものでした。これまで家族とは縁がありませんでしたが、ようやく家族ができたんです」
「そいつは良かった。ささ、乗った乗った。閻魔様のところに案内するよ」
「はい。行きましょうか」
「そんじゃ出発! っとその前に」
「? 何かありましたか?」
「仕事の決まり文句みたいなもんさ。言わなきゃ仕事をした気がしない。
――お前さん、幸せだったかい?」
「――ええ、もちろん」
これにて阿七の時間は終了となり、信綱は独りになりました。これより十数年、人里で生きていく時間になります。
まあ幕間の時間に近いので、ザックリ飛ばすときは飛ばすかもしれません。そんな大きなイベントは年中ありません。ある時は集中してありますが。
ちなみに火継という苗字ですが、これは古事記の元になった帝紀の本名称。帝皇日継(ていおうのひつぎ)を元にしています。勢い半分でつけた苗字ですが、御阿礼の火を絶やさないようにするという意味では割と合っていたり。
今回はギリギリ一週間で投稿できましたが、リアルの修羅場状態は変わっておりません。なので遅くなりそうでしたら活動報告に乗せますので、そのつもりでお願い致します。