信綱は外につながる門前に立ち、手だけを里の外に伸ばす。
手に紅い霧がまとわりつき、しかし手に色が残ることはない。
「……ふむ」
魔力がこもっている。但しそれは人に害を及ぼすものではなく、ただ単に霧に色をつけるだけのもの。
長時間浴びても影響はないだろう。霧であることは確かなので、身体が濡れて気持ち悪いくらいだ。
「どうですか?」
紅霧が幻想郷を覆ったのを知らせに来ていた椛が聞いてくる。
信綱は軽くうなずいて、得られた情報を椛に伝えていく。
「人間に害がない霧だ。妖怪にも害はないだろう。博麗の巫女が解決するのを待てば良い」
「そうですか。天魔様は静観の姿勢を決めているみたいですけど、君も静観するんですね」
「いつまでも爺がでしゃばるものではない」
というか自分と天魔は仕掛け人側である。これで自分たちが解決したら自作自演にしかならない。
何も知らない椛は何やら感心したようにうなずいて、一つ大きな伸びをする。
「じゃあ騒がなくて良いってことですか」
「そうなるな。不安がっている者たちに適当な説明をしておく必要はあるが」
「どんな説明を?」
椛は人里の周り――不思議と霧が漂っておらず、お椀に覆われたようにこの場所だけ霧から免れている現状を見て、尋ねてくる。
「博麗の巫女が事前に結界を張った、とでも言えば良い。良い箔付けだ」
自分がやっておいた、でも良いのだが老い先短い老人の名声より、これから先がある霊夢の信頼につなげた方が建設的である。
「天狗の方はどうだ?」
「気にしてませんね。むしろ烏天狗の皆さんは新聞を作る良い機会だと張り切ってました」
「情報は鮮度が売りとも言うからな……」
言い換えれば、情報しか売らないとも言う。
天狗はもう自分たちが当事者にでもならない限り、周辺をうろちょろして情報を集める賑やかし以上にはならないだろう。
……あの集団が本気で動き始めたらそれはそれで恐ろしいので、賑やかしに留まってくれるならありがたい話だ。
「お前はどうして?」
「いや、君が動かないにしても周りの情報はほしいかな、と思いまして。君はこの異変を誰が起こしたのか、知っているんです?」
「昔を忘れたか。こんな真似をする輩など一人しかおるまい」
信綱がそう言うと、椛は困ったように笑う。
椿を手にかけ、吸血鬼を切り刻んだあの時のことを思い出してしまったのだ。
あの時と今は状況が違うとは言え似ていることに間違いはないのだから、連想してしまうのは許して欲しいところである。
「あはははは……確か、吸血鬼の人とは人里を襲わせない約定を交わしたんでしたっけ」
「そうだな。これもその一環だろう」
信綱はそう言って、人里を覆っている――逆に言えば、人里にはこれっぽっちも入っていない――紅霧を眺め、小さく息を吐くのであった。
人里以外の場所を紅霧で覆う。それがレミリアの起こした異変だった。
普通に考えるなら人里に異変の黒幕がいることを真っ先に疑われてもおかしくない状況だが、幻想郷の主だった強者は揃ってそれを否定する。
人里には鬼より怖く、天狗以上に知恵の回る人間が居座っているのだ。そのお膝元で彼の目をかいくぐって異変を起こそうとする猛者など幻想郷にはいない。
それにその人間も紅霧を出すような奇術妖術の類は扱えない。よって犯人は半世紀前にも同じことをしたレミリアであると容易に判別できた。
「……あの吸血鬼は懲りないな」
そのことを告げに椛を伴って慧音の家に向かうと、彼女は頭痛を堪えるように額に手を当てる。
「昔のようにはならないでしょう。今はもうスペルカードルールが普及しております」
「ああ、聞いたところによると妖精も使うようになったとか。どうやって知らせたんだろうな」
「私には思いもよらない手法でしょう。それより人里としての対応はどうします?」
「……まあ、実害が出ているわけでもないし、一日二日程度で作物に大きな影響があるわけでもない。異変は早めに解決するに越したことはないが、お前に動く気はないようだ」
無言で笑う。もう七十も後半の爺に異変を解決させるようなら、それは次代の連中が育っていないことを憂うべきことなのだ。
それに霊夢なら大丈夫だろう、という楽観もあった。まだまだ未熟ではあるが、ことスペルカードルールに関しては凄まじいものがある。
「私に動くつもりはありません。博麗の巫女を動かした方が早いですよ」
「やれやれ、その割には精力的に動いているじゃないか」
「不安は少ない方が良いですから」
信綱の話ではない。人里の住民の話である。
全ての事情を知っており、よしんば予想外の事態が起こったとしても対処できる自信のある信綱は良い。
信綱に及ばずとも力のある慧音、椛もまた大概のことでは動じない。
だが大半の住民は違う。人里の人間とは本来力なき民であり、知識なき民だ。
彼らにはこの霧が自分たちを舌なめずりしている獲物の嘲笑にしか見えないかもしれない。何の知識もないまま触れるのは危険であると考えるかもしれない。
そして異変を引き起こしたのが妖怪である以上、妖怪への隔意が生まれるかもしれない。
「と言っても、人里の方たちも妖怪との交流が始まってから、図太い人も増えましたけどね」
椛の言葉に慧音、信綱も同意する。特に子供の頃から妖怪を見慣れている若者たちは、今さら紅い霧が出たくらいで動じたりはしないようだ。
しかし不安を全く感じていない者ばかりというわけではない。信綱は慧音の出したお茶を飲み干すと、立ち上がる。
「では行くぞ。自警団に説明して、あとは先生の方に向かうように話しておきます」
「わかった。私の方も普段通りに生活して不安を持たせないようにしよう」
「お願いします。あまりに解決が遅いようでしたら、私が博麗の巫女をせっつきに行くつもりですから、そちらもお伝え下さい」
「はは、了解。……あの子も私の教え子だ。無理はしないよう伝えておいてくれ」
「確かに伝えておきます」
そう言って信綱は椛を伴い、再び人里の外に戻っていく。
寺子屋を出ると隣を歩く椛が信綱に声をかけてくる。
「君も大変ですね。表舞台を退いたと思ったら、今度は裏方ですか」
「しばらくの辛抱だ。博麗の巫女がなんとかしてくれる、という信頼さえ得られれば後は寝ていられる」
逆に言えばそれがない今は、信綱が動く必要があるということである。
霊夢の怠け癖だけが心配の種だが、異変が起きたら速やかに解決するよう口を酸っぱくして言ったので、効果があると信じたいところだ。
「さて、自警団には俺の部下が行けばいいし、人里で伝えるべき相手には伝えた。後は結果を待つだけだ」
「そうですね。じゃあ行きましょうか」
「お前は戻って天狗の仕事をしたらどうだ」
「これも仕事の一環ですよ。一緒に暮らす相手の安全を守らないと、私たちも立ち行かなくなります」
「……全く」
ため息を一つついて、それを無言の抗議としてみるが椛は取り合わない。
椛はそんな信綱の様子に笑いながら昔のことを思い出していく。
「あはは、こうしていると思い出しますね。吸血鬼異変があった直後のことを」
「あの時は山の稽古場で会ったか」
「ええ。それが今や人里で堂々と会っても誰も不思議に思いません。たった半世紀で変わったものです」
「お前は人里でも長かったからな」
阿弥が亡くなり阿求が生まれるまでの間、彼女には人里で天狗側の存在として自警団に協力してもらっていた。そのため異変が起きている今でも、誰かに疑われることなく人里に来れる。
「俺はそろそろ阿求様の側仕えに戻る。お前の相手はできんぞ」
「別にいいですよ。阿求ちゃんとお話でもしてます」
「…………」
そういえばこいつは阿弥様の友人だった、と信綱は渋面を作る。それはつまり、阿求とも友人になれる可能性が高いということだ。
なぜか椛と阿弥が一緒になると、自分が蚊帳の外になる可能性が高かった。阿求の時も同じようになるのだろうか不安でならない。
阿求が望むなら是非もないが、そうでないなら椛は遠ざけたい。御阿礼の子と一緒の時間が削られるのは勘弁である。
「……阿求様が望んだらな」
「もちろん、無理にとは言いませんよ。ダメなら潔く諦めて茶屋で休みます」
「働け」
「千里眼って便利ですよね」
椛も図太くなってしまった。一体何が彼女をこんなにしたのか、と信綱は嘆かわしげにため息を吐く。
……思い当たる無茶振りがいくつかあったため、この思考を切り捨てることにする。悪い方向に転がったわけではないので大丈夫なはずだ、きっと。
そうして二人が稗田邸に足を向けた時だった。椛と信綱の視線が同時に動き、一点に集中する。
信綱の顔には珍しく驚愕のそれが張り付いており、状況に対する強い困惑が見えた。
椛も同様に幻想郷のほとんどを見渡す千里眼を持っていながら、それを見抜けなかったことに驚きを隠せない。
そう――何もなかった空間に一瞬で一人の少女が現れたのだ。
見慣れないが、信綱には女中の着る服のようだと連想させる異国の服に身を包み、嫌でも夜を想起させる月光の如き銀髪が頭を垂れる少女の顔を隠している。
「――お初にお目にかかります。噂はかねがねお嬢様より伺っておりました」
上げられた顔は予想以上に若く、信綱から見たら幼いとすら表現しても良いものだった。
おそらく霊夢や魔理沙とそう歳は変わらない。せいぜい二、三の差だろう。
「……紅魔館はいつから人間まで住むようになったんだ」
最近は紅魔館に顔を出しておらず、レミリアとの顔合わせも紫らとの会合で済んでいた。
おかげで気づけなかった。まさか彼女にこんな鬼札があったとは。今の自分に感知できないものなど多くないと自惚れていた。
「私が来たのはつい最近です。そうですね……五年ぐらい昔、ということにしておきましょうか」
馬鹿にしてるのか、と信綱は眉をひそめるが、少女の顔は至って真剣なもの。
本人も覚えていないのか、思い出したくない過去なのか、あるいは――
「……お前がいつから幻想郷にいるのかなどどうでも良い。……いや、人里の出だったら根の深い問題がありそうだから困るが」
信綱に感知させない手段――確実に何らかの能力を所持しており、なおかつ少女と形容してもおかしくない年齢で紅魔館に所属している。
どう考えても楽しい事情があるとは思えない。事情の根が人里にあった場合、信綱は彼女に謝罪しなければならないかもしれなかった。
「お優しいのですね。ご安心を、私は外の世界出身です」
信綱の思考をどこまで読んだのかはわからないが、少女は口元に手を当てて楽しそうに微笑む。
どうやらここで事を構えるつもりはないようだ。これまでのやり取りからそう判断し、念のための確認を行う。
「椛」
「大丈夫です。重心にも動きはありませんし、懐や腿に仕込まれているナイフにも手が伸びる気配はありません。さっきのあれがもう一度あったらわかりませんけど……」
「タネに見当はついている。後手になるが対処は可能だ」
具体的にどういった原理が働いているかはわからないが――任意で行える類の能力であることは確実だ。
であれば、この状況に対して彼女の取りうる行動を予測すれば対処は難しくない。
信綱は落としていた重心を持ち上げ、煩わしいことが増えたというため息をこれ見よがしにつく。
「……で、何のようだ」
「お嬢様より言伝を預かっております」
「いらんから帰れ」
「それでは私が困ってしまいますわ」
口元に手を当ててクスクスと笑う。その姿だけ見れば年相応の少女なのだが、言葉は信綱の顔をしかめさせるに十分なものだった。
「どうせ異変の黒幕は私だ、とか早く博麗の巫女を動かせ、とかそんなところだろう」
「ご慧眼の通りです。そしてこうも言っておられました――私の言うことを予想できるということは、私に対して愛があるに違いな痛い!?」
「すまん、あまりのおぞましさについ拳が」
「君も大概あの人に対してひどいですよね……」
本当に思わず、と言った体で拳が出てしまい、余裕綽々の態度を取っていた少女の目尻に涙が浮かぶ。
もう半世紀も経つというのに、未だにレミリアへの対応は辛辣の二文字だった。
そしてもののついでと言わんばかりに信綱は少女の首根っこを引っ掴み、その身体が逃げられないようにしてしまう。
「あ、あら?」
「黒幕の部下がここにいるのも何かの縁だ。――痛い目見たくなかったら持っている異変の情報を洗いざらい話してもらおうか」
拒絶したら本当にひどい目に遭わされるのだろう。それが容易に想像できてしまい、少女の頬を冷や汗が伝う。
レミリアが絶賛していたからどんな人間なのかと思いきや、ここまで手が早い人間だとは思っていなかった。
「……すみません、そこの白狼天狗さん」
「……はい、なんでしょう」
「この人、怖くないです?」
「割りと昔からこうですよ」
とりあえず敵には容赦しません、と椛が言うと少女は諦めたようにうなだれるのであった。
「茶屋で話を聞くだけ菩薩の対応だと思っているのだが」
「問答無用で捕まえてそれは通らないと思いますよ? あ、私はあんみつで」
「全くです。それに私は本気ならいつでも逃げ出せますから。それはそれとしてみたらし団子でお願いします」
なんて図々しい奴らだ、と信綱は場所に茶屋を選んだことを後悔し始める。
これなら火継の家にでも連れ込んで石でも抱かせてやれば良かったか、などと非道なことを考え始めると少女がブルリと寒そうに両肩を抱く。
「……なんでしょう、急に悪寒が」
「霧のせいだろう。おかげで日照が減って肌寒い」
嫌味を言ってみたものの、少女に堪えた様子はなかった。
「あ、そうそう。私、十六夜咲夜と申します」
「すごい今更な自己紹介!?」
「火継だ。名前は主人にでも聞け」
「君も自分を崩しませんね本当に!」
相手に合わせる時など尊敬できる相手か、そうした方が利益のある時だけで十分である。
信綱は咲夜と名乗った少女に対し、微かに眉根を寄せたしかめっ面のまま話しかけていく。
「さて、この霧について知っていることを話してもらおうか」
「パチュリー様が出した霧である、ということぐらいしか。お嬢様は私たちに全ての思惑を話してはくれませんでしたから」
当然だろう。スペルカードルールを広めるために全て仕組んだものです、とバカ正直に言える者はいない。
信綱も人里の守護者としての体裁を保つため、咲夜から事情を聞かねばならないのだ。
「あとはそうですね……あなたのこととか、お嬢様から耳にタコができるほどに聞かされましたよ?」
「ロクなことではないだろう」
「あなたがいかに凄烈に自分を倒したか、どれほど凄絶な戦いを繰り広げたか。そしてその過程で芽生える信頼とかにも――」
「後半部分は嘘だから信じるな」
「あら」
レミリアのことだ。話している間に興が乗ってついついあることないこと織り交ぜたのだろう。
彼女を倒したことがあるのは本当だが、それは決死の戦いの果てに、というわけでもなければ剣を交えて彼女に対して理解が深まったとかもない。
ただ先手を取って刻み続けた。それだけの話である。
「……全く、来るなら門番の方にしてほしかった」
「妬けてしまいますわよ? そちらの白狼天狗が」
「え、私!? いや、私に振らないでくださいよ!?」
「すみません、話題に乗り切れていないようだったので」
「この人の話を途中で遮ると後が怖いんですよ」
「後で覚えておけよお前ら」
「ほら!」
「大変ですね」
「あなたもですよ!?」
咲夜という少女と話してわかったことは、彼女が微妙に天然の混じった性格であることと、大した情報は持ってなさそうということである。
今まで会ってきた妖怪とは別の方向で面倒だ、と信綱はこの歳になっても減らない気苦労に癖となってしまったため息を吐く。
「……お前はどうして紅魔館に?」
口から出たのは純粋な疑問だった。
彼女の能力が強力なのは言うまでもなく、だからこそ殊更に疑問だった。
「ああ、それでしたら単純な順番です」
「順番?」
「ええ。私がこちらに流れ着いて初めて会ったのが紅魔館の面々でしたので」
「……なるほど。それに外の世界からわざわざ一人で来る理由も限られるか」
「ここに来たことまで含めて、偶然と幸運が重なったようなものですよ」
咲夜の口ぶりから大体境遇が読めてきた、と信綱は腕を組んで彼女を見る。
外の世界と幻想郷の違いは一概にわからないため何とも言えないが、彼女の言葉から察するに外の世界で良い扱いは受けなかったのだろう。
さらに外の世界は人間の世界になっていると紫が漏らしていた。人間の世界で良い扱いを受けない、となれば人間以外の存在に惹かれるのもうなずける話だ。
「俺はいいのか? お前が嫌っている人間だろう」
「別に嫌ってはいませんよ。思うところが皆無というわけでもありませんが、振り返ってみれば私を厭う声にも納得はしています。それにあなたはなんだか人間という気がしませんから」
「八十間近の爺を捕まえて言うことがそれか」
「老人は私が反応できない速度で首根っこを掴んだりしませんわ」
うんうんと横でうなずく椛に腹が立ったので、そっと耳の毛を逆なでする。
すぐに気づいた椛は非難轟々といった様子で信綱に叫ぶ。
「あ、何するんですか! 毛づくろいは大変なんですよ!」
「あら、マイ櫛をお持ちで」
咲夜は椛が懐から櫛を取り出していそいそと毛づくろいを始めるのを、興味深そうに眺めていた。
「白狼天狗が珍しいのか?」
「ええ、まあ。幻想郷に来てからというもの、大体紅魔館の中にいましたから。おかげで妖精と吸血鬼は嫌というほど見慣れましたけど」
「別に出歩くことを禁止されていたわけでもないだろうに」
「見ての通り、メイドですから」
そう言って咲夜は頭のプリムを指差す。信綱はわかったようなわからないようなあいまいな気持ちだったが、とりあえず相槌を打っておく。
「人里に来たのも初めてでして。お嬢様の口から度々出ていましたけど、天狗を見るのは初めてですわ」
「この異変が終わったら紅魔館に大勢来ると思いますよ。今の彼らは新聞作りで頭が一杯ですから」
「ふふ、楽しみにします」
話題が途切れ、咲夜と椛が甘味を口に運ぶ時間が訪れる。
椛と自分はもう慣れた人里の菓子を、咲夜は興味深そうに食べていた。
視線に気づくと、咲夜はやや照れ臭そうにしながら言い訳のように口を開いた。
「い、いえ。紅魔館の食事は私が受け持っているので、これは研究の一環です」
「まだ何も言ってないぞ」
「あ、それならあそこのお店が美味しいですよ。研究のためなら一度行ってみて損はないかと」
咲夜の言葉に反応したのは椛だった。人懐っこい彼女は大体の存在と知り合いになれる上、今回は同じ店で甘味を食べているからか妙な仲間意識も持っているようだ。
信綱はさっきまで警戒していた相手によく声をかけられるな、と呆れた顔になるものの、止めることはしなかった。
紅魔館の従者と来れば長い付き合いになるのは目に見えている。それならなるべく良い印象を持ってもらうに越したことはない。それはそれとして異変の黒幕の一味でもあるため警戒は怠らないが。
「……念のために確認するが、人里を害するつもりはないんだな? レミリアの意向だけでなく、お前の意思としても」
「ご安心を。主が傷つけぬと決めている存在を傷つけるなど、メイドの誇りに反しますから」
その言葉には仕えるものとしての矜持を感じさせるものであり、咲夜もまた自らの忠誠をはばかることなく唱えていた。
信綱はそれを見てようやく肩の力を抜いて、咲夜への警戒を最低限のものに切り替える。
「従者として、か。それなら信用できそうだ」
「ええ。私は犬ですから。犬は主には忠実なんですよ?」
ちょっと休憩しすぎました、とやや慌てた様子で立ち去っていく咲夜を見送っていると、椛が気になっていたことがあったと口を開く。
「ちょっと意外でした」
「何がだ」
「あの人への警戒をすぐに解いたことです。従者であるってそんなに重要なことですか?」
「一つの指針にはなる」
「指針と言うと?」
「俺と同じかそうでないか、だ」
信綱にとって誰かに仕えるとはその身命は言うに及ばず、望むなら倫理も心も全て主に捧げることだ。
さすがに自分がおかしいのは理解しているが、他の人も自分ほどではなくても似たようなものだろうと思っていた。
……一応は従者の役目でもある美鈴辺りが聞いたら全力で首を横に振る内容だった。彼女もレミリアへの忠誠は本物だが、それで信綱と同じ献身を求められても困るだけである。
「つまりあれは死んでも主の不利になることはしないはずだ」
「その理屈はおかしいと思います」
椛にそれを伝えたら馬鹿を見るような目をされてしまった。
だが、信綱は自分の見立てが多少は外れていても、極端にズレていることはないと睨んでいた。これにはそれなりの根拠も持っている。
「いや、おかしくない。――人間が妖怪の下に傅く理由など、単純な力で脅されているか、妖怪の力や性格に心底から惚れ込んだ場合ぐらいしかない」
「む……そう言われると確かに。人間が妖怪の下僕になることはありませんでした」
「真意はレミリアのみが知っているだろうがな」
咲夜の能力を惜しいと思ったか、と考えるがこれはすぐに切り捨てる。
彼女はまともな損得勘定をきっちり行った上で、自分のやりたいように動く性格だ。理由の一部にはなるかもしれないが、本質には至らない。
単純な気まぐれかなにかだろう、と信綱は考えを終える。どうせ異変が終わったらレミリアの方から咲夜の自慢に来るはずだ。
「これも変化の一種だろう。共存の形は一つではない」
「お互い満足しているなら良いんですかね。君は妖怪を下僕につけたいと思ったことはあります?」
「山のようにある」
人間より知恵も体力もあって、個人で優秀なものも多い。手足に使えるならどれだけ便利かと考えたことなど数知れない。
というか阿弥の時代に殆どの妖怪を一人で対応した頃を信綱は忘れていなかった。もう一度やれと言われたら言った奴の首を落としてでも拒否する。
それを椛に伝えると、やや意外そうな顔をされた。
「君はなんでも一人でやりたがる方だと思ってました。実際できていましたし、問題ないのだとばかり」
「任せられる人がいたらそうしていた。だがあいにくと昔の人里に魔法使いはいなかったし、博麗の巫女は異変の予防には動かせなかった」
手足のように使える妖怪がいたらどれほどありがたかったか。
しかし現実は厳しく、信綱があの当時に動かせそうだったのは頼りにならない妖猫と白狼天狗が一人だけ。
あの当時を思い返して信綱は隣を歩く椛に視線を向ける。
「……? どうかしました?」
当人に自覚は薄いかも知れないが、彼女にはかなり助けられている。
もしも一人、自分の手足にできる存在が選べるとしたら椛を選ぶだろう。実力の高低はさほど重要でなく、信綱にとって信頼できることが何より大きい。
「……なんでもない。お前は変わらないと思っただけだ」
「? はい、妖怪ですからそうそう変わりませんよ」
そういう意味ではないのだが、懇切丁寧に説明するつもりはなかった。
信綱は肩をすくめて返事とし、椛を伴って人里の中を再び歩き始めるのであった。
「……それと後で稽古やるぞ」
「しまった茶屋での一件を覚えてた!?」
このようなやり取りもあったが、それはまあ些細なことだろう。
咲夜さん登場。出すタイミングを考えていたら原作が始まっていたため、もうこの流れでいいやと登場させました。やや天然入っているけどおぜうへの忠誠は本物なイメージ。おぜうが語るノッブ相手だったので態度も丁寧め。
次回で霊夢の尻を引っ叩いて異変解決に動かし、後は阿求と人里で過ごして異変は終了しそうです。異変解決は基本ダイジェスト。焦点は終わった後になる。
それとこれは余談ですが、ノッブと椛が組んで戦うと軽く悪夢になります。背中を任せられる相手がいるのでノッブは全神経を攻撃に注いでますし、かといって椛を狙うと意外と戦える白兵能力で粘られている間にノッブがやってきて死ぬ。
両方とも遠距離の対策がないことが弱点ではありますが、弱味を二人とも理解しているため、魔法の詠唱などが見えた時点で椛が千里眼で発見し、ノッブが接近して潰すという流れに。
ノッブ一人だと死ぬ可能性が消えない相手は幻想郷トップクラスにちらほらいますが、椛と組むとその可能性が消えます。なので意外なほどのキーパーソンだったり。本人に自覚はありませんが。