どうでもいいんですけど、ルビ振るの、メンドクサイですね。
夜の九時。
ひかりのアパートメントの玄関のチャイムが鳴った。この時間、このタイミング。これは――
「ひかり」
「たぶんね」
確証はない。だが、可能性は高い。ひかりも同じ考えだ。
赤井さんだ。
「でも、わざわざ工房に来るなんて、よほどの自信か、あるいは……」
「あるいは?」
不穏な言葉に疑念をぶつける。
「あるいは、奥の手があるか」
そう言って、じゃらりとルーン石をポケットに突っ込み、ドアへと近寄っていった。
「はい、堀田です」
「こんばんは、赤井です」
平穏なやり取り。しかし、既にひかりは魔術回路を全開で回している。
「お話があるの。お部屋に上がらせていただいてもいいかしら」
あくまで平穏なやりとりを演じたいらしい。だが、扉の向こうから赤井さんの魔力がずんずんと流れ込んでくる。でも。
「ひかりの方が上だ」
小声で話しかける。
「そりゃラッキー」
大して嬉しく無さそうな返事だった。
「話って、なんですか」
ひかりがドアの向こうへ問いかける。
「うーん、そうねえ。ガールズトーク?」
「……もう、この部屋、
ひかりが口火を切った。
「そう。なら話は終わりね」
強烈な衝撃とともに扉が吹き飛ぶ。寸前にひかりが張ったトゥールの加護で無事だったが、どう考えても昨日のフィンの一撃からは想像できない威力だった。
「下がってっ」
ひかりが大声を出して僕に命令する。その命令に従いながら、赤井さんの魔力の纏い方を観察する。
両腕に強力な魔力の残滓があった。
「強化の魔術……?」
ひかりがうなずいた。
「赤井さん、意外と武闘派ですね」
ポケットのルーンに触りながら、ひかりが話しかけている。僕も魔術回路を回し、ひかりの援護に備える。
「あら、でたらめにやっただけよ。案外できるものね」
ずい、と、緑のコートを纏った赤井さんが一歩玄関に入ってくる。
「工房に入ってくるなんて、正気ですか」
「そこそこに正気よ。って、大した工房じゃないし。せいぜい防音くらいしかしてないじゃない」
ひかりの回路に魔力が通っている。今ので頭に来たらしい。沸点が低すぎる。
「耐魔力加工もしています。だから――」
すばやく中空にルーンを刻む、風と火の混合ルーンだ。
「ちょっと暴れたくらいじゃ、誰も来ませんよっ」
ばちんと弾かれた炎が、かまいたちのように赤井さんへ奔る。それを。
「
彼女は一文字のルーンで粉砕した。
「……そんな、はず」
ひかりが動揺している。彼女の回路が乱れている。まずい。
「ひかりっ」
トゥールを三枚ひかりの周りに張る。次の瞬間、ひかりの周囲が炎に包まれた。
「うわっ」
すさまじい火力。だがトゥールはまだ壊れていない。ひかりは無事だ。
「あら、すごいじゃない。今のあたしのアンサス防いじゃうなんて、特訓の成果?」
ひかりに向けられていた赤井さんの視線が、こちらへと動く。
「いいえ、昨日のあなたとの戦闘の賜物です」
本当はひかりにもらったペンダントのおかげだが、それを言えば目の前の魔術師は激昂するだろう。大丈夫、頭は冷静だ。魔術回路は今日一日回しっぱなしだったが、そのおかげで一瞬で臨界まで持っていける。魔力残量もまだ十分。
「そっか。嬉しいような、悲しいような」
赤井さんが目を伏せた。その隙は逃さない。
「
ひかりにかけた
「きゃあっ」
悲鳴が上がる。同時に、ひかりに放たれていた赤井さんの
「ひかり」
慌てて駆け寄る。
「ごめん、大丈夫だよ。びっくりしただけ」
ちょっと服が焦げているが、本人は無事らしい。
「あちち、あちち」
赤井さんのコートは完全に燃え上がっている。
「すごいなあ、あなたのアンサス。こりゃやばいや。ばいばいっ」
脱兎のごとく逃げ出す赤井さん。
「待てっ」
それをひかりが追う。
「ちょっと、ひかり」
追わなくても、という言葉をかけようと思ったら、既にひかりは玄関から飛び出していた。
「くそっ……」
昨日とは逆の展開だ。だが、優勢なのはこちらだった。
ひかりは魔力を全開に巡らせたまま。後を追うのは容易い。だが速度が異常に速い。
「そうか、脚力を強化してるのか」
全力疾走しながらやっとそのことに思い至ったが、そのころには二人に追いついていた。
距離を取り、二人が話している。赤井さんに気づかれないよう、電柱の影に身を潜める。
「あーあ、コート燃えちゃった」
燃えカスになったコートが赤井さんの足元に落ちている。
「それ、礼装だったんですね」
「そうよ。知り合いにもらったの」
「それは、誰ですか」
「あたしのお師匠様」
それだけ言うと、彼女は今までの比ではない速度で魔術回路を回し始めた。ひかりは気づいていない。
フィンが来る。昨日の何倍もの一撃が。
「わがままなひとなんだけど、たまに助けてもらうんだ」
照準はひかりに。やはり狙いは彼女か。
「あなたが悪いのよ。あなたが彼に暗示をかけるからっ」
そのセリフを言い終わるかどうかのタイミングに、電柱の影から、三つのルーンを中空に刻む。
「
ひかりに禁じられた
「なっ」
「ひゃっ」
二人の声が重なる。ひかりの声は驚きを、赤井さんの声は痛みを表していた。
夏の夜の道路の隅。
それは、まるで花火のように。
一瞬、紅い炎が、まばゆい輝きを伴って。
一瞬、四つの人影を明滅させる。
「ぐぅ…っつぅ……」
赤黒く変色した腕。それを押さえながら赤井さんが呻く。
三重のルーンは成功した。この上なく。
「そんな……」
成功しすぎた。せいぜい前腕がやけどする程度だと思っていた。
ルーンの炎は彼女の腕をえぐり取り、肩まで包み込み、その熱を叩き込んでいた。
上腕はまだいい。だが、前腕はちらちら骨が見えている。
「赤井さん」
駆け寄る僕を、ひかりが腕で止めた。
「どうして、防がなかったんです」
それでも赤井さんに問いかける。さっき、ひかりのルーンに使った
「だめ、なの。さっきのコート、がない、と、ルーンは、上手く、使え、ないんだ」
自嘲するように笑い、ひかりへ視線を戻す。
「……赤井さん、わたしは彼に、暗示なんてかけてないです」
うずくまる赤井さんに、ひかりが冷たく話しかける。
「彼はわたしのことを好きだと言ってくれました。そのことに魔術は関係ない。だからこそ嬉しかったんです。暗示なんて、かけるわけないじゃないですか」
赤井さんが恨みを込めた目でひかりを見上げた。
「……彼に、暗示がかかってる、のは、本当よ」
「しつこいですね、わたしはそんなこと……」
「じゃあ、別の誰か、ね。とても、とても、強力な暗示」
ひかりの表情が険しくなる。
「……いつから」
対して、赤井さんは皮肉な笑みを浮かべる。
「はじめて、会ったときから」
赤井さんは救急車で運ばれた。ひかりがすぐに呼んだが、腕が元に戻るとは思えない。
「……使わないでって、言ったのに」
僕らはとりあえずひかりの部屋に戻った。
「ごめん、でも、あのままだとひかりが」
「わたしがなに。それで、そんなので、あなたが人を殺していいわけないじゃない」
大きな目には涙が浮かんでいる。
「……ごめん」
そうだった。彼女は、そういうのが嫌いで。
「……でも、そのきもちは、受け取っておくね」
彼女は、そういうのが好きだった。
「また、暗示か」
ひかりの部屋の扉を直しながら言う。蝶番が壊れたくらいなので、一応扉としての機能は果たすだろうが、すぐ買い換えたほうが良さそうだ。
「ご両親のかもね」
ひかりは浴室だ。服が焦げたし、随分と走ったので先にシャワーを浴びている。そのひかりへ言葉をかける。
「僕はそんな自覚ないぞ」
「そりゃそうだよ。忘却の暗示なら、忘れたことすら忘れななきゃ」
「なるほど」
「でも、あたしも気づけなかった。まさか暗示なんてシンプルなものだったなんて」
ならば、なぜ赤井さんは気づいたのか。彼女は僕の暗示を「最初に会ったとき」から気づいていたと言っていた。
彼女と最初に会ったときの記憶を紐解く。おどろおどろしい看板、お札の貼られた扉、山のような呪いグッズ、同じような見た目の女性たち……緑のコートの赤井さん。
「ひかりっ」
「えっ、な、なに」
つい強い声が出た。でも、続ける。
「赤井さんのコート、あれ、どういう礼装だったんだ」
「ああ、あれ? 切れ端持って帰ったから調べてみたんだけど、すごかった。視線避けとか、耐魔力とか、魔力隠しとか、基本的な防御の効果は完璧に揃ってた。ちょっと古かったから、性能は落ちてるみたいだけど。あと……」
ふう、と一息ついて、彼女が続ける。
「あと、ルーン魔術の増幅効果、みたいなのがあったかな」
ルーンの増幅。それで、あの
「……そっか、あの礼装で暗示を見破ったんだ」
真実を見抜くルーン。それを増幅すれば、暗示程度見破るのはわけないだろう。
からくりは解けた。
「赤井さん、大丈夫かな」
「大丈夫だと思うよ。腕はだめかもしれないけど、命に別状はないはず」
ひとりごとのつもりだったが、聞こえてしまったらしい。
「わたしとしては最初のルーンで帰ってもらう予定だったんだけどね。あの礼装、すごいや。誰のなんだろ」
「派手だったけど、すこし古そうでもあったね。家宝とかかな」
「あはは、それにしては現代的だね」
明るい声が浴室に響く。
いつものひかりが帰ってきた。
「まあとりあえず、解決、かな?」
「……そう、だね」
返事をして、時計を見る。十一時を回っていた。
「疲れたでしょ。今日は泊まっていっていいよ」
「うん、そうするよ」
彼に焼かれたのは前腕。上腕は軽いやけどで済んだが、前腕は切除するほか無かった。
あそこで逃げず、フィンを撃とうとしたのが敗因か。彼の魔力探知の能力を侮っていた。
「派手にやられたな」
女性の声が病室に響く。
「ごめんなさい。コート、燃やされちゃいました」
しょんぼりと話しかける。
「ああ、あんなのは別にいいんだ。随分と昔に作ったものだからね」
病院内は禁煙だとそこら中に書いてあるというのに、お構いなしに煙草を吸っている。
「性能も落ちてただろう。彼のアンサスに燃やされたのは道理だな」
「……そう、ですか」
魔術師としては彼は未熟だった。だが、その才能は私の遥か上を行っていた。
「まだ、あの子たちを襲う気か?」
「いえ、暗示をかけてないっていう、堀田の話は本当だと思います。なら、もう私には、どうすることも……」
そういって下を向く。涙を止めることが出来なかった。
彼をとられたのが悔しい。
彼が幸せそうなのが悔しい。
彼があそこに居るのが、悔しい。
「腕、見せてごらん」
煙草をもみ消し、師匠が近寄る。
「ふむ、これならすぐにでも」
そう言って赤い鞄から、ずるり、と右腕を取り出した。
「いいんですか」
「不出来な弟子の面倒を見るのも、師匠の仕事だ」
そう言って眼鏡を掛け、ごそごそと取り出した腕をいじる。
「……ありがとうございます、橙子さん」
「はいはい、どういたしまして」
打って変わった、愛想の良い声。
あとはかちゃかちゃと、人形の腕をいじる音だけが響いていた。