Ⅰ
実の所を言えばどうするべきか迷っていた。
司の言葉に全面的に納得したわけじゃない。
しかし心に引っ掛かるものがあったのは事実だった。
金一は自分がいわゆる選ばれた側の人間であることを自覚している。自覚しているからこそ、司の言葉になるほどと共感してしまう部分も確かにあった。
所詮、天才に凡人の気持ちなどわかりはしない。
病を抱える者の苦しみを健常者は理解できないように。
泳げない人間の気持ちを泳げる者はわからないように。
持つ者には持たざる者のことなどわからない。
そして逆もまた然り。
どれだけ上辺で綺麗ごとを並べてもこれが真理。
だから緋沙子を追いかけて会場を出たものの、いざ見つけた時にどうするかについて金一は答えを持ってはいなかった。慰めるのか、それとも何も言わないのか、あるいはいっそ見守るだけに留めておくのか。
頭の中をぐるぐると駆け廻る様々な答え、アイディア。
しかしそんなものは緋沙子の姿を見た瞬間に全て吹き飛んだ。
……そうだったな。
金一は自分がとんでもない思い違いをしていたことに気付いた。自己満足だとか偽善だとか義務だとか、そんなものはどうでもいい。
大事な妹分である緋沙子が泣いている。
ありきたりな言葉をかける理由なんてそれで十分ではないか。
だから「緋沙子」と金一は優しくその名を呼んだ。
「兄様……」
「試合、見てたぞ」
そう言うと緋沙子は再度俯く。華奢な体が小刻みに震えているのを瞳に映しながら、金一は穏やかな顔で言葉を紡いだ。
「いい試合だった。よく頑張ったな」
ピクリと緋沙子の指先が動くのが視界の端に見えた。
だがあえてそれに気付かないふりをして、金一は更にありきたりな言葉を重ねていく。
「今日までの緋沙子の努力と想いが全て詰まった様な一皿だった。いい料理を作るようになったな」
「いい料理……?」
「あぁ。素晴らしい料理だった」
その言葉が引き金だった。キッと緋沙子が顔を上げる。その顔は未だ涙に濡れていながらも、先までにはなかった激情の炎が滾っていた。
「ですが勝てませんでしたっ!」
悲痛な少女の叫びが二人だけの広場に広がっていく。こんな風に緋沙子が恥も外聞もなく叫ぶのも珍しければ、金一に対して声を荒げるのも初めてだった。
そんな初めての妹分の反応に金一はどことなく嬉しそうに頬を緩めた。
「気楽にやれって前に言わなかったか?」
「私はっ! 勝ちたかったんです! 昨年の兄様のように優勝してっ! えりな様の従者に相応しいことを―――兄様に相応しい私であることを証明したかったんです!」
だが、
「負けましたっ! 全身全霊の―――自分の全てを籠めた料理を作ってもあいつには、葉山には届きませんでしたっ!」
まるで倒れ込むようにして緋沙子は金一に寄り掛かった。
言葉の熱に反して力ない拳が分厚い胸板を何度も何度もたたく。
「勝ちたかった! 何としてでも勝って、兄様に褒めてほしかった! さすがは緋沙子だと誇ってほしかった。兄様の期待に応えたかった………」
後半はもう殆ど言葉になってはいなかった。
握られていた拳は今や弱弱しく金一のシャツを握り、先にも増して零れ落ちる涙が彼の胸元を濡らしていく。
金一は今にも消えてしまいそうな妹分の身体をそっと抱きしめた。ぽんぽんと自身よりも遥かに小さな背中を優しく叩くその姿は我が子を慰める母親のそれにも似ていて。
肌と肌を合わせることで感じる人の温もり。
金一はそっとささやいた。
「よく頑張ったな、緋沙子」
「……はい」
か細いながらも確かな返事。これでもう緋沙子は大丈夫だと確信したその時だった。
前方から聞こえた小さな物音。
未だ緋沙子をその胸に抱いているため金一は顔だけをその音源へと向けた。
噴水を隔てた反対側。そこには金一と緋沙子がやって来た方向とは真逆の方向に走っていく一つの後ろ姿が。いささか距離こそあったがあの輝かんばかりの黄金の髪は、
「お嬢?」
◇
……うそ。
わけがわからなかった。
なぜ金一があそこにいたのか。
なぜ緋沙子と二人きりで会っているのか。
―――そしてなぜ、緋沙子とまるで恋人のように抱き合っていたのか。
わからない。
何もかもがわからず、理解できず、気が付けば薙切えりなは二人に背を向けて走り出していた。どこに向かっているのかなど本人も知らない。
ただただ今はあの場所から、二人から離れたかった。
……うそ、えぇ、嘘よ。
額にじんわりと汗が滲む。呼吸は荒く、何の準備運動もなく急に走り出したその身体は既に重くなっていたが彼女がその足を止めることはなかった。
踏みしめる地面がいつしか舗装されたコンクリートから土へと変わり、周囲の風景に緑が溢れだす。そこはかつて一度だけ通ったことのある自然道。
つい半年ほど前まで金一が使用していた通学路。
えりなは大きな樫の木の前で動かしていた足を止める。
途端に溜まっていた疲労が内から噴き出してきたが、そんな些末なことよりも未だ脳裏にクッキリとこびり付く映像の方が遥かに苦痛だった。
「……どうして?」
そもそもえりなは緋沙子を励ます気だったのだ。
確かに緋沙子は葉山アキラに敗北したが、その健闘振りは主人であるえりなとしても中々に目を見張るものがあった。いったいどれだけ悩んだのか、どれだけ努力と工夫を積み重ねたのか。誰よりも緋沙子の実力を知るからこそ、料理の中に秘められた秋の選抜に対する強い想いが透けて見えた気がした。
結果だけ見れば初戦敗退である以上、大っぴらに賞賛は出来ない。しかし10年近く自分の傍にある従者の頑張りを無下にするほど冷淡でもない。
またここ最近はいささか緋沙子に冷たくあたっていたこともある。
その謝罪の意も込めてというわけではないが、何かしら主として励ましの言葉ぐらいはかけようと考えたのは事実だった。だからこそ大会の運営という十傑としての大事な職務を一時的に放棄してまで緋沙子を探して会場を出たのだ。
全てはきっと一人で落ち込んでいるであろう従者を励ますために。
しかし色々と探し回ってようやくえりなが噴水広場でその姿を見つけた時、そこにいたのは想像とは違い緋沙子一人ではなかった。
もう一人。
えりなのよく知る男子生徒の姿があった。
「どうして……金一が…」
もしも金一が緋沙子と一緒にいたのを見ただけなら、えりなはここまで取り乱さなかったに違いない。想定していなかった光景とは言え少し考えれば容易に辿りつける答えでしかないのだから、多少不機嫌になる可能性こそあるものの、少なくともその場から逃げるように立ち去るなんて真似はきっとしなかっただろう。
しかし実際にえりなが目の当たりにしたのはまるで少女漫画のヒロインのように抱きつく従者と、それを慈愛に満ちた顔で受け止めるヒーロ―(幼馴染)の姿だった。
「金一が緋沙子と……抱き…合って……」
恋人という単語がぽつりと浮かぶ。
続いて愛、恋愛、告白、結婚と言った単語の羅列が瞬く間に脳裏を駆け廻っていく。
それはこれまで緋沙子が制限してきたことの弊害。
実体験が極めて乏しく、かつプラトニックな少女漫画からしか恋愛の知識を蓄えてこなかったえりなにとって、いくら親しい間柄とは言え家族でもない男女が抱き合うなどそういう関係以外の何物でもなかった。
これがもう少し世の常識に慣れていれば―――せめて人並み程度に恋愛経験や知識があれば状況は変わっていたのかもしれないが、それを言った所で詮無きこと。
すぅっと頬を一筋の滴が伝っていくが、その理由もえりなにはわからない。
どうして自分は泣いているのか。
この喪失感は何なのか。
なぜ張り裂けそうな程に胸が苦しいのか。
今はただただ持て余すしかない感情の奔流に押し流されるしかなかった。
虫の鳴き声や風の音すらない静まり返った緑の世界に少女の嗚咽だけが音を作る。
感情の濁流に呑みこまれならも、えりなは思う。
なぜこんなことになってしまったのか。
何を間違えたのか。
どうすればよかったのか。
こんなことになるぐらいならいっそ、
「閉じ込めていれば良かった」
それは内からではなく、外から聞こえてきた。
「えっ」と素直に疑問の声を漏らし、えりなは身体を反転させる。
聞き覚えのある声だった。
ここ数年は耳にしていない―――だが忘れられよう筈もない冷たい声だっだ。
その声を聞き、そしてその人物の顔を認識した瞬間、えりなの肢体は金縛りにあったかのように動かなくなった。
まだまだ残暑が残る季節だというのに黒のダークスーツに黒の手袋。余りにも季節にそぐわない格好だというのに、不思議とその男は汗を掻いてはいなかった。
目鼻立ちがハッキリとした整った容姿にすらりと伸びる長い脚。まるで海外のファッション誌にでも登場しそうな小さな靴音と共に一歩、また一歩とえりなとの距離を詰めていく。
「本当に欲しいものは、手放したくないものは鳥籠に閉じ込めてしまいなさい。そう教えたよね、えりな?」
「おとう……さ…ま…」
Ⅱ
逃げなければ。
硬直した思考の代わりに経験が、本能が警報を鳴らす。今すぐここを離れろと、一刻も早く目の前の男から逃げろと全身に命令を送る。けれど反して身体は動かない。
蛇に睨まれた蛙のようにただただ固まり、全身を震わすことしか出来ないえりな。
そんな少女の頬にかつて父と呼んでいた男は優しく手を添えた。
「久しぶりだねえりな。少し見ない間に随分と大きくなった」
「あ……う…」
言葉にならなかった。
どうして遠月を追放された筈の人物がここにいるのか。
今更自分に何の用なのか。
聞かねならないことは数あれど、どれ一つとして発せられることはなかった。
その間にも男の指は頬から顎へと移り、まるでドラマか何かのようにえりなの顎が持ち上げられる。重なり合う視線と視線。
逸らすことは、出来なかった。
男はしばらくの間えりなの瞳を覗き込むと、微笑を浮かべそっと指を離した。
「それにどうやら恋の味も覚えたみたいだ」
「こ……い?」
そこで初めてちゃんとした言葉を話すことが出来た。
どこか呆然としたえりなの呟きに、男は「おや?」と怪訝そうに眉を動かした。
「自覚はなかったかい? ふむ、確かにその手の知識は教えていなかった。あの堂島銀の息子というのはいささか引っかかる所だが……えりなもいい料理人を選んだね」
「金一を…選んだ?」
「そうさ。えりな、君は堂島金一に恋をしているんだ」
「私が……金一に…恋を……」
父親の言葉をうわ言のように繰り返す。
その時にはもう全身の震えは止まり、体の自由もある程度は聞くようになっていた。
逃げ出そうと思えばできただろう。成功するかどうかはともかく、少なくともチャレンジすることは出来た。
しかし、しなかった。
えりなは執拗に“恋”という単語を口にし続ける。
その心に浮かぶは幼馴染の顔。
アリスに聞かれたときはわからなかった。
海へ出かけた時も結局ハッキリとした答えはでなかった。
でもあの二人を見て、逃げ出して、泣いて、そして父親に言葉にされて今ようやく確たる形となった。しっかりとした想いとなった。
「私は金一のことが……好き」
そうだ。どうしてこんな簡単なことがわからなかったのか。
どうしてもっと早くに気付けなかったのか。
今更気づいたところで、
……緋沙子と金一は、もう……
俯く娘を前に父親は口元を歪ませる。そして片膝を折ると今度は自分からえりなと視線を合わせ、優しく囁いた。
「欲しくはないかい?」
「えっ?」
「彼のことが本当に好きなのであれば彼の全てを手に入れたいとは思わないかい?」
「それは……」
男の言葉は明確な形となった少女の願望を的確に言い当てていた。
そう。欲しい。
その鋭い視線を独占したい。
その広い心を一色に染め上げたい。
その才に愛された料理を囲い込んでしまいたい。
堂島金一の、その全てが欲しい。
傍から見れば狂気の沙汰だろう。だが歪んだ愛情を注がれて育ってきたえりなはそんな歪んだ形でしか人を愛する術を知らない。愛することはそういうことだと、無意識の内に刻み込まれていた。
だからこそ強く想う。
金一が欲しいと。
けれどそれが叶うことはない。
なぜなら、
「金一は…もう……」
既に別の人間の手によって奪われてしまったのだから。
人のモノを奪ってはならない。それは誰もが知る常識。
本能を抑えつける社会の鎖。
そんな鎖を、
「大丈夫、まだ間に合うさ」
「おとうさま?」
「私に任せなさい」
男は引きちぎった。
どこまでも優しく微笑み、男はゆっくりと言葉を紡いでいく。
「えりな、君は有象無象とは違う真に選ばれた人間だ。そんな君がこんなにも想っているというのに報われないのは余りにも理不尽だとは思わないかい?」
「理不……尽…」
「そう。そんな不条理はこの世にあってはならないんだよ」
「理不尽……不条…理」
男の言葉がえりなの中に心地よく染み渡っていく。その内容は客観的に見ておかしな点だらけだったが、今のえりながそれに気づくことはなかった。
男は微笑んだまま僅かに目を細めた。
「間違いは正さなければならない。だから彼の目を覚まさせてあげよう。鳥籠に閉じ込め、君の想いを伝えればきっと彼も目を覚ます。えりなのことしか見れなくなる」
「私のことしか…見れなく……」
すっと男は手を差し出した。
「さぁ。私の手を取りなさい。そうすれば全てが手に入る」
それは悪魔のささやき。
理性のどこかではその手を取ってはならないとわかっている。
けれどえりなは、
「―――はい。お父様」
その悪魔の手をとってしまった。
最初はもっとシンプルなラブコメを書くはずだったのに、なぜこうなった……