とりあえず、まったりのんびり読んでください。
「ただいま」
がらがらと玄関の引き戸を開け、同居人に声をかける。
居間のふすまから光が漏れていた。ぎしぎしと音を立てながら廊下を進み、戸を開く。
部屋の中央に置かれたちゃぶ台に、姉がぐでっと寄りかかっていた。
「おかえりー。遅かったじゃん」
「うん、バイトが長引いちゃったんだ」
「そりゃおつかれさん」
畳に鞄を置き、ちゃぶ台の傍に敷かれた座布団に座る。テレビが点いていた。
「あれ、そのドラマ、新作?」
「そうなんだけど、おもしろくないや。月九も落ちぶれたもんよね」
「なのに見てるんだ」
ちゃぶ台に置かれた急須を取り、自分の湯のみに注ぐ。ほのかに湯気が立っている。
「だって、こっから面白くなるかもしれないし」
「最近は深夜ドラマのほうがおもしろいよ」
「あー、それはあたしも思うわ。低予算だからさ、逆にはちゃめちゃなことやってるよね」
ちゃぶ台で頬杖をつき、ばりばりとせんべいを噛み砕きながら喋るOL。
それを眺めながら、緑茶を啜る。やはり、暖かい。僕の帰る時間に合わせて淹れてくれていたのだろうか。
「お茶は美味しいねえ」
「せんべいもあるよお」
がさりと、大きな袋をこちらに向ける。
「うん、いただきます」
そこから一枚の煎餅を受け取り、口へ運ぶ。
「月九って死語らしいよ」
「うっそだあ。職場でもみんな使ってるよ」
「大学じゃ聞かないな」
「まじか。怖えー」
姉弟揃って、煎餅をかじりながら、テレビの三文芝居を眺める。主人公がヒロインらしき女性にプロポーズしていた。
「うわ、展開はやっ」
「最近はこんなもんだぜ、コースケ」
「昔はもっと焦らしてたじゃん」
「昔て、あんた、何歳よ」
「はたち」
「そのトシで昔の何を知ってるっていうのよ」
「二十三歳に言われたくないなあ」
「それもそーか」
ばりん、ばりん。煎餅をかじる音が響く。
テレビはコマーシャルに移った。
「ねえ、コースケ、晩ごはんつくってよ」
ごろりと仰向けに寝転がり、ぽんぽんとお腹を叩いている。
「ねーちゃん、食べてないの」
「アンタが作ったほうがおいしいじゃない」
「変わんないよ」
「変わるわよお。だーかーら、おねがい」
「しょうがないな」
座布団から立ち上がり、台所へ向かう。
「あ、そういえばさ」
ふすまを開きかけ、ふと思い出したことを姉に尋ねる。
「なんか結界がほつれてるとか言ってたけど、直したの?」
「えー? あ、あー、わすれてた」
「…………」
「ま、ほつれてるのは視線避けのやつだけだし、だいじょぶでしょ。明日やろ、明日」
「また僕にやらせる気でしょ」
「もちろん。我が家の次の当主サマなんだから」
「はいはい、じゃーご飯作ってくるよ」
ふすまを閉じる。その向こうから声が続く。
「おねーちゃんはラーメンが食べたいなー」
ぎしぎしと廊下を歩き、少し離れた台所へ。
「昨日ので最後だよ。あと残ってるのはカレーくらいかな」
「あ、カレーもいいなあ」
「オッケー」
シンクの下の戸棚を開いて、インスタントカレーの残弾を確認し、米を研ぐ。
水と米とをしゃかしゃかかき混ぜていると、玄関から物音がした。
「ん?」
こんこん、こんこん、という音。
ノックか。珍しい。来客だ。
「ねーちゃんはテレビで気づいてないな……仕方ないや」
ボウルを置き、手を洗ってから玄関へ向かう。
「はいはい、いま出ます」
鳴り止まないノックに声をかける。すると、ぴたりと音は止んだ。
すりガラス越しに人影はある。居なくなったわけではない。
玄関の明かりを点け、扉のネジ式錠を回し、戸を引く。
「こんばんはっ」
「へ、こ、こんばんは」
唐突なその来訪者は、小さな女の子だった。
「え、えっと、どうしたのかな」
その女の子は、どこからどうみても小学生である。
小さなおさげは三つ編みで、赤いリボンでまとめられていた。そして背中には真っ赤なランドセル。いかにも、な小学生だ。
「いえで、してきたんです」
「家出?」
「そうです」
「おうちはどこ?」
「あそこです」
そう言って、彼女は左手で何処かを指差した。
靴を履き、玄関から出て、彼女の指の先を見る。この家の通りと交差した別の通りを指差しているようだった。
「どうして、家出しちゃったの?」
「おとーさんがうるさいの」
「うるさい?」
まさか、虐待か。
「おべんきょーしなさいって、うるさいの。がっこうのしゅくだいやったら、こんどはおとーさんが作ったもんだいにこたえろー、って」
「なるほど」
真逆だった。なんと教育熱心な父親か。
「お父さん心配してるだろうし、帰ったほうがいいんじゃないかな」
「いやです」
きっぱりと言い切る少女。なかなか芯がしっかりしている。
「……参ったな」
このまま追い返してもこの子は家に帰らないだろう。それに、外は今、雨が降っている。傘もささずに歩いていたのか、少女の髪は濡れていた。
「ひとばん、とめてください」
「うお、しっかりしてるな」
「えっへん」
仕方ない。とりあえず、姉に相談しよう。
「じゃあ、とりあえず、上がって」
「わあい、おじゃまします」
「コースケ、捕まるぞ」
居間のふすまを開けて早々、辛辣な姉の声が響いた。
「この子の方から来たんだよ。って、話聞いてたでしょ」
居間のテレビは切られていた。大方、聞き耳を立てていたんだろう。
「まーねー。おもしろいじゃん、泊めてあげようよ」
「ありがとうございますっ」
ぐいんとお辞儀する少女。その勢いのままランドセルが開き、中身が散らばった。
「うは、おもしれー」
姉はお腹を抱えて笑っている。
「あわわ」
がさがさと荷物を集める少女。教科書ばかりだったが、お菓子も入っていた。非常食のつもり、だろうか。
「ええと、名前はなんていうのかな」
ひときわ遠くへ飛んでいった、筆箱の中身を集めてあげながら話しかける。
「たにぐち、たえ、さんねんせーですっ」
シャキン、なんて擬音が付きそうな立派な姿勢で宣言する少女。何かと忙しい子だ。
「たえちゃんかあ。かわいい名前ねえ。よーしよし」
姉はいつの間にか少女の傍に寄り、一心不乱に頭を撫でくりまわしていた。
「きゃはは、あはは」
「わははは」
じゃれあう姉と少女。
「うちとけるの、早すぎ……」
少女の代わりに教科書をまとめながらつぶやいた。
「宮本
「宮本
たえちゃんの荷物を片付け、僕らも自己紹介する。
「きょーだいなの?」
「そーよ。あたしがねーちゃんで、あっちのがおとーと」
あぐらをかいた姉の足の上に、たえちゃんが抱え込まれている。お互いにそのポジションが気に入ったらしい。
「ことねーちゃんと、ことにーちゃん」
「うはー、ややこしー」
さっきから姉はたえちゃんの一語一句に大爆笑している。
「僕、コトスケじゃなくて、コースケだよ」
「ことにーちゃんのほうがかわいいよ」
「可愛くなくていいんだけど……」
「か、かわ、かわいいって、コースケ、が、ひゃははは」
もう、この姉は役に立たない。
「ことにーちゃん、はらへった」
「へ?」
「ばんごはーん」
さっきの姉と同じように、お腹をぽんぽんと叩くたえちゃん。
「おお、そうだよコースケ。カレーでしょ」
「かれー?」
途端にたえちゃんの目が輝く。
「おお、カレー好き?」
「うん、だいすきっ。 あ、でも、からいのはやだ……」
「ねーちゃんもやだぞっ」
「ほんと? わーいっ」
はしゃぐ姉と少女。
「ほれ、なにをしておるコースケ。とっとと作ってまいれ」
「まいれー、まいれー」
「はいはい……」
複数人の男女が集まるとき、女性のほうが多いと男性の人権は侵害されるという。
こういうケースでも、当てはまるらしかった。
「はい、できたよ。スーパー甘口カレー」
大きな皿を二つと、小さな皿一つをお盆にのせ、居間に入る。
「すーぱー?」
「そう、スーパー。ねーちゃんが辛いのダメだから、はちみつがたーっぷり入ってるんだよ」
「むはは」
「威張るところじゃないよ、ねーちゃん」
「ことねーちゃんすごいっ」
「そーだろー」
カレーをちゃぶ台に運んでも、たえちゃんは姉の膝から動く気配がない。このまま食べるのか。
「あれ、みっつだけ?」
「うん?」
運ばれたカレーを見て、たえちゃんが不思議そうな顔をする。
「あそこのおとーさんのぶんは?」
などといいながら、和室の隅を指差すたえちゃん。
僕の鞄とたえちゃんランドセルが置かれ、ちょうど隅っこが影になっている。
勿論、何も、いない。
「……ねーちゃん、ほつれたのは、人避けの結界だけじゃなかったの」
「あは、は」
どうやら、退魔の結界もほつれていたらしい。
「あー、ゆーれいかあ」
「そう、ゆーれいなの。だから、カレーはあげなくていいよね?」
「うんっ」
「…………」
僕はいわゆる霊感というやつはないが、姉には少しだけ霊感があった。このたえちゃんもそうなのか、二人は同じ場所を見ながら話している。
「おら、かえれー」
「そーだ、かえれー」
二人の視線が、部屋の隅から少しずつズレていく。
「ことねーちゃん、あいつ、かえったー」
「やったなー」
頭を抱える。いろんなことがありすぎてついていけない。
「ことにーちゃん。いただきます、するぞ」
ばんばんと机をたたくたえちゃん。それに急かされ、自分の座布団に座る。
「はいはい……。いただきます」
「いただきますっ」
「いただきまーす」
コーヒーを一口含む。
「あなた、さすがに言いすぎじゃありませんか」
妻の声。
「…………」
ことん、とカップを置く。テーブルには、まだ手のつけられていない夕飯が三人分残っていた。
「そう、だな。強要して、どうなるものでもないか」
「ええ、ええ。あの子の通信簿はいつも良いことばかり書いてあるじゃないですか。今のままでも、十分ですよ」
「……、様子を、見てくる」
椅子を引き、立ち上がる。
「はい、おねがいしますね」
妻に目で返事を返し、二階へと繋がる階段へ向かう。
娘の部屋の前に立ち、灯りが点いていないことに気付いた。ふて寝でもしているのか。
本当に眠っていたら、起こすのは悪い。音を立てないよう、そっとノブを回し、扉を開く。
「……ん?」
無音。あたりまえだ。夜で、電気も点いていないのだから。
だが、寝息すらしないのは、どういうことか。
「たえ?」
ベッドに近寄る。布団の真ん中がもっさりしていることに気づき、そっとその布団をめくる。
「なっ」
八歳の誕生日に買ってやった、キッツィーちゃんの特大ぬいぐるみが横たわっていた。
「た、たえっ。どこだっ」
部屋の明かりをつける。よく部屋を見てみると、あの赤いランドセルがない。
「どうしたんです」
声を聞きつけたのか、妻が二階に上がってきた。
「た、たえが、たえが、いないっ」
「そ、そんな、まさか」
「お、おれが、言い過ぎたばっかりに……」
がくん、と膝をつく。
「あなた、落ち込んでいる場合じゃありませんよ。外は雨です」
「いかん、探さないと」
妻の横を通り、玄関へ向かう。
サンダルに足を突っ込み、扉を開いた瞬間、ちょうど青年がチャイムを押すところだった。
「あ、谷口さんのお宅ですか」
「そうですが、用ならあとにしてくださいっ。今、ちょっと」
「ええと、その、娘さんのことで、お話が」
「なにっ」
ぎろりと青年の顔を睨む。
「貴様、娘に何を」
「あっ、いえ、ちがっ」
「あなた、落ち着いてください」
後ろから手を掴まれた。
「ぐ、ぬう」
「あの、ええと、娘さんが急にうちに来まして、泊めてくれっていうもんですから、どうしたものかと思いまして」
ぼりぼりと頭を掻きながら、ぼんやりした調子で青年が言う。
「と、泊め、とめめっ」
「あの、いや、だから」
「落ち着きなさいってば、もう。……あら、あなた、
「あ、はい、そうです。功乃の弟の功介です」
「あらあ、それなら安心だわあ。あなた、たえは大丈夫よ」
「なんだ、知り合いか」
呼吸を整えながら問う。
「ええ、功乃ちゃんのことは知ってるわ。このへんで会ったときよくお話ししてるのよ。立派に一人立ちした社会人で、弟さんと一緒に暮らしてるって話してたわ」
「そうか、お前が、そう、言うなら」
妻の顔と、青年の顔とを交互に見る。
「ごめんなさいね、ええと、こーすけくん、だったわね。一晩だけ、たえのこと、お願いしていいかしら。目が覚めたら、きっとうちに帰りたがるだろうから」
「ええ、大丈夫ですよ」
「…………頼んだ」
それだけ言って、玄関から立ち去る。
たえはもう、小学三年生だ。そろそろ、思春期、いや、反抗期なのだろうか。
難しい年頃になってくる。職場の同僚のところの娘は中学生らしいが、口も聞いてくれないらしい。たえもそうなってしまうのだろうか。昨年からもう、一緒に風呂に入ってくれなくなった。寝るのも、自分の部屋だ。
「はあ」
妻と青年はまだ何か話している。それを聞かないようにして、またコーヒーに口をつけた。
「ただいま」
本日二度目のセリフを口にし、居間に入る。
「ことにーちゃん、どこいってたのー」
「ジュース買ってきたんだよ」
「わあい」
ココアの缶を手渡す。
「ねーちゃん」
こっそり姉に耳打ちする。
「一晩だけ、泊めてやってくれってさ」
「おっけー」
聞くが早いか、またたえちゃんのもとへと駆け寄る姉。
「よーし、お風呂行こうか、たえちゃん」
「えー、ココアのみたいよう」
「お風呂から出た後に飲んだら、もーっとおいしいぞ」
「ほんと? じゃーそーするっ」
わきゃわきゃと居間から去って行く二人。
「まったく」
はあ、と溜息をつき、自分用に買ってきた缶コーヒーを開ける。
たえちゃんの家に着いた途端、あの親父さんが扉を開けたときは心底驚いた。正直死ぬんじゃないかと思ったが、とりあえず無事である。
奥さんから長い話を聞かされ、両親ともたえちゃんのことを大事にしているのはよくわかったので安心だ。
「とりあえず、退魔の結界だけでも張り直すかな」
でないと、たえちゃんが眠れないかもしれない。
姉曰く、一般的な浮遊霊は、魔術を始めとした神秘によりついてきやすいらしい。この家には僕や姉の魔力が満ちているので、簡易的であれ退魔の結界を張らないと霊が集まってくるのだ。僕はまったく見えないから問題ないのだが、姉は見えるので結構煩わしいらしい。
コーヒーを飲み干し、縁側から外に出て、敷地の隅に術式を刻む。
「……これ、全部張り直したほうがいいんじゃ」
人避け、退魔だけでなく、魔力殺しや探知の結界もぼろぼろだった。
この平屋の一軒家は、宮本家の別荘みたいなものだ。霊地の管理者たる本家は少し遠くにあり、この家は代々修行用に使われてきたらしい。が、それも先々代くらいまでで、五十年くらいは放置されていた、とかなんとか。
それに目をつけた姉が住み込んでしまい、父が「お前もついでに行ってこい」と言い、この平屋のそばにある大学に通うことになった。
それが去年のこと。以来、姉と二人暮らしすることとなった。
傘をさしながら、とりあえず退魔の結界の応急処置を施していく。浴室の傍を通ったとき、大きな笑い声が聞こえた。
「ま、楽しいのは、いいことだよな」
「おせわになりましたっ」
翌朝五時。たえちゃんが目を覚まし、家に帰ると言い出した。
「ふぁい……うん、どーもぉ」
姉が目をこすりながら、玄関でたえちゃんを見送る。
「おうちまで送ろうか、たえちゃん」
「いえっ、だいじょーぶです。すぐそこですから」
「そっか」
たえちゃんの家に目を向ける。すると、その家の扉が開き、奥さんが出てきた。
「あ、たえちゃん、お母さんだよ」
「えっ、あ、ほんとだ。おーい」
ばたばたと手を振る娘に気づいたのか、奥さんがわたわたとうちに近づいてきた。
「迎えに来るみたいだね」
「うんっ。ことねーちゃん、ことにーちゃん、ありがとっ」
「どういたしまして」
「きぃつけてねぇー……」
ほわあ、とあくびをする姉。
「ことねーちゃん、また、遊びに来てもいい?」
「へ? うん、いつでもきんしゃい」
「わあい」
「よしよし」
寝ぼけたまま、たえちゃんの頭を撫でている。
「ことにーちゃん、カレー、おいしかったよ」
たえちゃんが唐突に僕の方を振り向いた。
「えっ、ああ、ありがとう」
満面の笑みで僕を見る。
夜もよく眠れたらしい。ちょっと苦労した甲斐もあるというものだ。
「功乃さん、ごめんなさいねえ」
奥さんがうちに到着した。
「へあっ、い、いえ、だいじょーぶですよ。たえちゃんももう、帰りたいって」
「うん。ごめんなさい、おかーさん」
「まったく、家出するならするっていいなさいね、こんどからは」
「…………」
それもそれで、どうかと思うのだけれど。
「ばいばい、たえちゃん」
姉がたえちゃんに手を降っている。僕もそれに合わせて手を降った。
「またねー、ことねーちゃん、ことにーちゃん」
母親に手を引かれながら帰っていく少女。
「ことにーちゃんって、だあれ?」
家に帰る奥さんのその言葉だけが、なぜか聞こえた。