青子の表情も良かったですが、暗示の言葉がとても綺麗でした。
あれを書けるきのこは天才だと思います。
昨日完成した「橙子さんの眼鏡もどき」の出来は上々です。
そこらじゅうをふよふよしている浮遊霊の皆さんを見ることはほとんどなくなりましたし、眼鏡を掛けている間は意識せずともおしとやかな自分で居られます。
幽霊を見るのも、おしとやかに振る舞うのも、どちらもとても疲れることだったのですが、今掛けているこの眼鏡のおかげでその両方から開放されました。
ビバ・橙子さん。
直接作り方を教わったわけではないけれど、たかが眼鏡で性格を切り替えるなんて常人の発想ではありません。
あとはなぜあんなに若さを保てるのか、という謎も、そろそろ解明しなければなりませんね。
私よりも一回り以上歳が違うはずだというのに、あの若々しさ。もはやそれこそ魔法の域な気がしますけれど、美容テクニックをフルに活用すればそれに近いことが可能なようなので、彼女自身のたゆまぬ努力の血晶なのでしょうか。
「それにしたってあれはなあ」
くるくるとパスタを巻いていると、つい言葉がこぼれてしまいました。
「なにか言った?」
一緒に昼食を摂っていた同僚の、訝しげな声。
「ううん、なんでもないよ」
それに、笑顔を返して誤魔化しておきました。
同僚の名前は
彼女は兎にも角にも、女の子らしい女の子です。普通の家庭に生まれ、普通の環境で育った、ちょっとおっとりした箱入り娘。本当に箱入り娘として育てられたわけではないのですけれど、雰囲気がなんとなく箱入り娘っぽいのです。
可愛くて、おとなしくて、真面目で、か弱くて、それでも芯はしっかりしていて、およそ女の子に必要とされる要素は網羅していると思われます。趣味はお菓子作り、特技は裁縫。ここまで徹底していると、親御さんとか何者かの意思を感じる気がしますけれども、彼女はふわふわと生活しながら、自らの意志でそれらの要素を身に付けてきたのです。
でも。
「はっちゃん、カレシできないよねえ」
「うう」
そうなのです。初乃(私は「はっちゃん」と呼んでいます)はどういうわけか恋人が居たことが無いのです。
そのへんも含めて「女の子らしい」のですけれど、彼女がモテないわけではありません。
はっちゃんは学生の頃から超モテモテです。職場の男性陣はほぼ皆彼女の癒やしオーラにメロメロでです。そして私の無言の圧力に怯えているのですが、それは置いておきます。
「そろそろいいんじゃないの」
「そろそろも何も無いけど……。なんか、こわいなあって」
彼女に恋愛願望が無いわけではありません。無いどころか、その溢れんばかりの恋する乙女オーラは、私をも圧倒するほどの質量を持って彼女の周囲をふよふよしています。
ただ、意中の人がいても、自分からアタックをかけることが出来ないらしいのです。学生時代は恋路を外れそうな彼女を全身全霊で引き回した結果、私が恋路を外れてしまいました。
「なんかこわいなあって、別になにもこわくないよ」
スプーンとフォークを使って丁寧にパスタを巻くはっちゃんは、しょんぼりしながら私の言葉に返事をしました。
「だって、みんなカレシがどうのこうのって愚痴ばっかり言ってくるんだよ。楽しいこともあるみたいだけど、それならわたしは、優しい男の人とお友達で居れたらいいよ」
「はっちゃんは聞き上手だもんねえ。そーいうの、まだ言われるんだ」
「まだ、どころか、最近どんどん増えてるよ。どうしよう」
「そりゃどうしようもないね」
「うう」
はっちゃんが食器を置いてしまいました。あんまりにも話しやすいので、ついつい口が滑ってしまいます。
「ごめんごめん。うーん、そうだなあ、はっちゃんのそういう愚痴を言える相手が、カレシなんだと思うよ」
「じゃあコトちゃんがカレシになるけど」
「あーもうそれでいいわ、あたし」
「世間体がそれを許さないよ。あと弟くんとか」
「確かに」
ガールズトークが盛り上がりを見せてきたあたりで、店内の時計が休憩時間の終わりを虚しく告げようとしていました。
「コトちゃん、早く食べなきゃ」
「うげ、マジか。今日休憩入るの遅かったからなあ……。クソ課長め、話が長すぎるっての」
「そういうことは言っちゃいけません」
「はいはーい」
ずぞぞぞぞ、と勢い良くパスタを食べる私に対し、はっちゃんは相変わらず丁寧な仕草でパスタを巻いています。
「はっひゃん、ふぁにあふぁなふなふよ」
「え? ……ああ、大丈夫、間に合うよ」
確かに彼女の皿の上にある明太子パスタは空になりそうでした。
「まほーみたい」
「えへへ」
「戻りましたあ」
「同じく」
「おう、ちゃっちゃか働けー。宮本、これコピーな。二十でいいから」
「はい、分かりました」
課長から数枚の資料を受け取り、コピー機を動かします。
私やはっちゃんの仕事はこういった書類の準備やらお茶くみやら、一昔前のOLのイメージそのままの仕事です。「うわあドラマみたい」なんて二人して言っていましたけれど、こんなことばかりやるのもなかなかツライですね。
とは言え、最近では違う仕事も増えてきました。資料をただコピーするだけだったのが、校正を頼まれるようになり、数字を打ち込むようになり、そろそろ文章まで作るように頼まれそうです。
お仕事が増えるのは良いことです。けれど、やっぱりまだまだOLらしい頼まれごとが多いです。
ぐいんぐいんとコピー機を回していると、コーヒーを淹れていたはっちゃんがトコトコとこっちに来ました。
「ねえ、コトちゃん」
こっそり、周りに聞こえないように耳打ちするはっちゃん。
「はい?」
「眼鏡なんて、急にどうしたの」
「む」
さすがははっちゃん。学生時代からの友人は、やはりお目が高いですね。
「なんて言いますか、仕事効率アップのおまじないみたいな」
「あはは、変なの」
手を口に当てて笑う仕草は、やはり女の子らしいです。女子力ってヤツで言えばきっと五十三万はありますね。
「それ、弟にも言われました。みんなひどいです」
「だって、敬語使うのはヘンだもん。なんか距離があるみたい」
そう言われると、ちょっと言葉に詰まってしまいます。
「……やれやれ」
掛けていた眼鏡を外し、はっちゃんに向き直りました。
「ほれ、これでいいかな?」
「うんっ。コトちゃんは、そうじゃないと」
満足したふうにはっちゃんは振り返り、デスクへと向かっていきました。
「お疲れ様です。コーヒーですよー」
「おお、ありがとう初乃ちゃん」
「いえいえ、あ、課長もどうぞ」
「ああ、そこに置いておいてくれ。うん、ありがとう」
明るくコーヒーを配るその姿は、さながら妖精のよう。
「……いいなあ」
私の眼鏡の暗示は、本当は彼女のようになりたくて掛けたのですけれど。
少し間違えてしまったようです。
とんとん、とコピーした資料を揃えます。
「これでよし」
さっきの、はっちゃんの言葉。
眼鏡の暗示がキツすぎたのでしょうか。
弟やはっちゃんをはじめ、職場で働く人々も、ちらほらと「眼鏡を掛けた私」に違和感を感じていました。それだけ、私のことをよく見てくれているということなのでしょう。
個人的には眼鏡を掛けている自分の方が、本来の自分に近いと思っています。弟に「それはゼッタイ無いよ」なんてひどいことを言われてしまいましたけれど、ここは譲れません。
でも、さすがに家族や友人に敬語を使ってしまうのはやりすぎでした。ちょっと調整しないといけませんね。
「課長、コピーです」
「おう。あ? 眼鏡はどうした」
「レンズが外れました」
「何言ってやがる、お前のは伊達だろうがよ」
びっくりです。まさか課長が私の視力を把握していたなんて。
「よくご存知ですね。その通りです」
「ふん、
デスクに置かれたディスプレイとにらめっこしながらそう言う課長の顔には、なんとなく、疲れ、のようなものが見えました。
確か課長はそろそろ五十歳。
「タイヘンですねえ」
「お前にそう言われるようじゃ、そろそろやべぇか」
「む、セクハラですか」
「全然違ぇだろ」
「あはは」
「……おら、自分のデスク戻れ。次の資料送ったから、次の会議までに仕上げとけよ」
「なんの資料です?」
「見りゃ分かるだろ。行ってこい」
「はあい」
どさりと書類を置き、自分のデスクのパソコンを見てみると、この課の今月分の売り上げのデータと、先月の収益報告が来ていました。「先月との比較データを作ること」という課長からのメッセージ付きで。
「わお、あたしなんかがやっていいの、これ」
ちらりと課長に視線を送ると、謎の頷きが帰ってきました。
「……よし」
信頼には、応えなければなりませんね。
「ただいまあ」
がらっと玄関を開けると、弟が出迎えてくれました。
「お疲れ様。晩ごはん、できてるよ」
「うはーうれしー」
毎度のことながら、こうやってご飯を作って待ってくれている人がいるというのは、とてもありがたいことです。
「あれ、どうしたの? なんか疲れてない?」
弟が心配そうに私の顔を見つめてきました。どうやら私は、このおっとり野郎にもわかるくらい疲れた顔をしているようです。
「今日はちょーっとタイヘンでね。それから、眼鏡の暗示、弱くしなきゃ」
パンプスをぐいぐいと脱いでいると、弟が意外なことを言いました。
「だろうね。僕がやろうか」
「できんの?」
「どうせこうなるだろうと思ったから、暗示の勉強しといたんだ。大学生はヒマだからね」
「うわあぁぁ、出来る弟を持ってお姉ちゃんしあわせだよお」
愛のこもったハグをしようとおもったら、ひらりと避けられてしまいました。
「はいはい、先にご飯食べよう」
「今日はなに?」
「ハンバーグだよ。どうせ眼鏡のことで疲れてると思ったから」
「あーもう泣きそう。泣いていい?」
「ご飯食べてお風呂入ったらね」
「うおォン」
「うわあ」
橙子さんの眼鏡の再現は、やっぱり難しいです。
けれども、弟は毎晩工房でナニヤラ鍛錬をして、魔術の腕を磨いています。もちろん、大学の勉強をこなしながら。その腕前は、先日弟が張った「ルーンの結界」でよくわかっています。橙子さんが封印指定モノ、なんて言っていたあの術も、どんどん使いこなしていくのでしょう。
なら、姉である私も負けてはいられません。
弟がやってくれるといった暗示の調節は、やっぱり私がやることにしました。わざわざ勉強してくれた弟には悪いですけれど、こんなところまで弟に頼っていてはダメなお姉ちゃんになってしまいます。
「もう十分ダメだよ」
「なにをう」
たかが暗示、されど暗示。
加減ひとつで全てが台無しになってしまう、単純なだけに強力な魔術。
我が家の魔術特性とは噛み合いにくいけれど、だからこそ弟ではなく、私が学ばなければ。
弟は防衛の魔術だけを研鑽して、私はそれ以外を研鑽する。きっと、それが正しい
なんだか、もりもりとやる気があふれてきました。
「うむ、あたしは頑張るよ」
「え? う、うん、頑張って」
「おうともっ」
戸惑った弟の顔に、満面の笑みを送りました。