第36話
暑い……。気温の高さと、雨こそ降ってはいないものの梅雨の明けきらないじめじめした空気が体に汗を纏わりついてとても気持ちが悪い。もう七月も中頃になったから梅雨は終わりに近づいてるんだろうけど、やっぱりだるいなー。
その気持ちの悪い日の昼間、急に
国府の庭を抜ける廊下を
俺? 俺は大丈夫……のはず。
「梶川殿、何か国府が物々しいと聞きましたが、どうなされたのです?」
客間に紀殿を通して座ってもらうとそんな事を聞いてきた。うーん、物々しいかな? そりゃあ普段よりは警備のレベルは上げてるけど傍目には気付かないくらいにはしてるはずなんだけどな。
「
「なるほど訓練ですか。そうですわね。日頃から訓練をしていなければせっかくの兵達も本番の戦では役に立ちませんから」
紀殿はなるほどなるほどと頷いてみせる。どうやら得心してくれたようだ。
じつは酒田姉から、中越の人間から問われたらこう答えてくれって言われていたりするんだよな。
「それよりも紀殿は今回はどうしたのです? なにか案件でも……」
「はい。此度まかり越したのは他でもありませぬ。じつは領内で鹿狩りをしていたのですが誘い込んだ鹿がこちらの手違いで国府周辺まで逃げ込んでしまったのです」
「それはたいへんですね」
なーんかどこかで聞いた様な話だなー。
「はい。それで国府の領民にいらぬ犠牲が出ては一大事と」
「なるほど」
うげっ、八公二民の人が領民の事を気にかけている辺り、すっごく怪しいんだけど。
「それで私としましても国府の手をわざわざ煩わせない為にも、我らの
「そうですかー。そう言う事なら遠慮は無用です。いくらでも勢子を入れてくださいな」
「おお、かたじけない。では早速手配します」
そう言うと紀殿は立ち上がる。
ふーん、もう帰るのか。用事が済めば早くここを出たいんだろう。アウェーだもんな。
「紀殿」
「っ! な、なんでしょうか?」
ちょっと意地悪をしたくなった俺は紀殿に声を掛ける。
呼び止められたくらいでそんなに驚かなくてもいいじゃないか。でも、こんなくらいで驚くって事はやっぱりなにかを隠しているのかもしれない。
「仕留めた鹿は是非こちらにも分けて貰えるのですかな?」
「それはもう。しからば先も急ぎますればこれにて御免」
◇
紀殿が帰った後、そのまま客間に残っていた俺は残されたお茶を飲みながら外の庭を眺めていた。
少し経った辺りで酒田姉が入って来て先程の紀殿との会話の内容を聞いてきたので、会話をそのまま伝えたら……。
「で、勢子を入れるのを許可したと……梶川さん、勘弁してくださいよ。本当に……。はあ、まさかこちら側の戦力まで洩らしたわけじゃないでしょうね」
酒田姉は飽きれて物も言えないって感じに俺を見ながら話してくる。
そんなに言うなよな。これでも無い頭を働かせたんだからさ。
「うん。何かを隠してるんじゃないかと思ってさ。それなら『虎穴に入らずんば虎児を得ず』かなーって。それにこっちには経成ちゃんも居るから後で相談すれば安心かなーって思ったんだよ」
「私を高く評価してくれるのは嬉しいのですけど……でも、まあこれではっきりしましたわ。十中八九、敵は中越です」
「どうして中越だって判るのかな? そりゃあ、俺も紀殿の会話はおかしいと思ったけどさー」
「そうですねー、具体的な事象なんて無いですよ? ただ我々に不審を抱かせた時点で怪しいってなるでしょう。この時期にわざわざ鹿狩りをするのも不自然ですし、それに急に勢子を国府領内へ入れるとか考えられません!」
俺はこう言った知略の冴えとかそう言った物事にはホント向いていないんだろうと思う。酒田姉の言っている不審を持ってしてそこから犯人を洗い出すなんて芸当はとてもじゃないが出来ない。だって現代で育ってきた俺にそんな洞察力を働かせる場面もなかったし、気にもしていなかったからな。
「そう言うものなのかな?」
「はい。そう言うものです。それにこれは私の勘ですけど姫様の事を色々と知っているのではないかと思われます。ですから紀殿が何事か仕掛けてきたら必ず生きたまま引っ捕らえましょう」
だからとにかくは酒田姉を信じて彼女の言う通り進めよう。
俺が下手な考えでみんなを引きずるよりはましだと思うしね。
◇
夜。
寝ていると人の気配が近づいてくるのが判った。この足音はたぶん神田先生かな?
「梶川殿、館の周りが騒がしくなってきましたぞ」
「判りました。すぐに起きます」
よっ、はっ、うりゃーなんて悪戦苦闘しながら
急いでいると前に年老いた小者が一人歩いているのが見えた。丁度いい。館の中を明るくする為に手伝ってもらおう。たぶん猫の手も狩りたくなるはずだからね。今のうちに指示出来る事は早めにやっておこう。
あっと、猫の手も借りたいって、侍女の猫さんの事じゃないよ。今はまだ休んでるだろうしね。
「あ、そこの人」
「へ、へえ。なんでございやしょう」
「たぶんこれから大きな事が起こるかもしれないから、国府の人が動きやすいように全ての柱に蝋燭を点けてもらえるかな?」
「へえ、わかりやした」
「少ないけどこれはお礼。お願いするね」
口だけだとやらないといけないから懐から財布を出してそれなりに多目の心付けを渡す。前に美盛ちゃんに聞いたからね。小者とかを動かすときは心付けを渡すのが一番いいって。
「こ、こんなにも! へへえ、急いでやらせて頂きやす」
で、今それを実践してみたんだけど。凄いなー! 効果抜群じゃないか! 流石は美盛ちゃん。伊達に精神年齢六十歳じゃないね!
「やりますな。梶川殿」
「いえいえ、これも美盛ちゃんの受け売りですよ」
感心した神田先生から褒められたのでちょっと嬉しい。
何事もうまくいくと嬉しいもんだね。
その後も俺と神田先生は
◇
鎧の下は着物なんだーなんて思いながら俺もそれにならって目をこらして門外を見つめる。しばらく見ていると目が慣れた様で暗闇の中に大勢の人馬が群がる気配を察知する事が出来る様になった。
うん。誰か知らないけど沢山居るなー。たぶん中越の連中じゃないかな。
「あら梶川さんと神田さん。遅かったですわね」
「ああ、ごめんごめん。色々と館内部の指示を出して来たから遅くなっちゃったよ」
「そうでしたか……。それはそうと、とりあえず一番にやつらと相手をするのは私ですから。手出しは無用ですよ?」
酒田姉がこちらを睨むようにして言う。
それは普段の彼女の可愛らしい顔つきとはまるで正反対の猛禽の様な目だった。そしてその
周りを見ると俺と酒田姉以外もピリピリしてるのが判る。戦場の高揚感と緊張感、それにいくらかの恐怖がここにはあるんだ。
俺達が櫓に詰めてしばらくすると一騎の武者が近づいて来た。そしてこちらに聞こえるくらいの大声を張り上げてきた。
「開門!!! かいもーーーん!!!」
うはーっ、やっかましいわー!!
流石に耳を押さえる俺。
拡声器とか無いのに何だこの響き方は! おかしいだろ!?
「いかなる手の者か!?」
酒田姉がそれに負けまいとこれまたバカみたいな大声で門の外の武者へと問いかける。
お、おまえらうるさ過ぎる。って言うか酒田姉のその華奢で小さな体の何処にそんな声を出せるようなパワーがあるんだ!?
うう、可愛いのに……可愛いのに……。
「我ら中越の者でござる。鹿が国府館の中へと逃げ入ったとの報告を受けてまかり越したー! 怪しい者ではござらぬゆえ開門して頂かん」
「寝ぼけた事を申すでないわ。今は深夜。国府の門など開けられようか。とく出直して参れ!」
普段の女性らしい柔らかい話し方しか知らない俺は、酒田姉の口上を聞いて口を開けたままポカーンとしてしまった。
なんと言う怒鳴り声だろう……。この子は敵には容赦しないんだろうなあ。平家の敵。しいて言えば美盛ちゃんや修理の家が第一なんだと思う。こう言う忠義心は平成の心を持った俺にはまだよく判らないのが本当のところ。
忠義心とか武士のしきたりなんかを考えると窮屈そうだし面倒だなーって転生してから二年ほど経った今でも思う。
でも、二年前の当時と比べればわりとこう言う忠義心とかもかっこいいなんて思い始めた俺もたしかに存在するんだ。もっと時間が経って五年も十年もすれば俺も忠義の意味や意義が判るようになるんだろうか?
そんな事を頭で考えている目の前では未だに門外の武者と酒田姉の問答は続いている。
「むむ、我ら
「何をたわけた事を。ここは越後を守る国府ぞ。そこへ夜、夜中にやってきて鹿が迷うた故、門を開けろとはいかなる了見か!? 戯言を申すのも大概にせよ! よって、いかな用でも門は、きっと開けはせぬ。帰って権介殿にそう伝え申せ!」
「おのれ! そこまで言われてはこちらも引けぬ! 館ごと攻め取るがそれでもよろしいな!?」
「深夜に押しかけておいて何を申すか。茹で上がった頭では何を考えようとも道理が通らぬわ。ここまで言われても帰らぬというのならそれも良し。弓矢を持ってお迎え致そう。かく言うは平少納言が家臣酒田の一姫経成!」
そう言うや否や持っていた弓に矢を
酒田姉の舌戦から、こうして治承三年の越後騒乱が始まった。
3話もでてこない美盛ちゃん!