逃げる、逃げる、ただ逃げる。夜の裏路地をひたすらに走る十弥にはそれしか頭の中になかった。
鼓動がうるさい。
頭がガンガンと警鐘を鳴らす。
振り返ることはできない。
それでも彼は思う。
―――どうか、誰もいないでくれ―――
そんな十弥の転機は中学生の時に訪れた。
自分の家に代々受け継がれている符術を兄から教わり始めたのである。まるで魔法のようなその光景に憧れ、特に治癒を促す符術を見たときには子供ながら跳びあがって兄に教えてほしいと縋り付いたものだった。
しかし、彼は過ちを犯した。
人は過ぎたることをすれば必ず報いを受ける。それは子供とて例外ではなく、その犠牲となったのは皮肉にも彼ではなく彼の好きな猫だった。何がいけなかったのか幼い彼には分らない。わからないが、本能で察した。目の前の命は自分が奪ったのだと。
それからほどなく兄にそのことが露見し、符術から遠ざけられてしまい、高校入学前にその師となっていた兄も突然の事故で帰らぬ人となったことで、それ以来彼が魔術のある裏の世界に踏み込むことはなかった。
今日までは、だが。
あの、自身の愚かさで猫を殺した日のように、本能で十弥は悟っていた。
アレは人が、ましてや自分のような基礎しかできない半人前が勝てる相手じゃない。逃げなきゃ死ぬ。そしてそれと同時に人知を超えた戦いに目を奪われていた、昔に捨てたと思っていた兄のいた裏の世界。直感で感じた。あれこそが裏なんだと。
騎士のような出で立ちの男が剣を振るえばあたりの空気はきしんだ音を上げ、鬼のような化け物が動けばその足元は抉れ消し飛ぶ。騎士の剣はまるで見えぬ速度で振るわれ、十弥の眼にはもう月明かりの反射によって出るわずかな軌跡しか見えない。しかしその剣にも鬼の動きは反応し、まるで本番はこれからだとでも言わんばかりに荒れ狂い嵐のように激しさを増していた。
しかし彼が魅入っていたその時間も長くはなかった。騎士のような男と大きな鬼のような生き物の戦いの最中、呼吸すらも忘れて見入っていた彼は両社が距離を取った瞬間に思い出したかのように彼の肺は空気を求めた。その結果、
「……んんッ」
ほんの、ほんの小さな咳を、してしまった。
二人の目がこちらに向く。同時に自身の全身が粟立つ。恐ろしいとも違う訳のわからない感情が心の奥からとめどなく溢れ、止められない。頭の中が真っ白になるなんてものではない。走馬灯すらも出てこない。圧倒的な強者からの視線は、それだけで身を竦めさせる。
『おや、招かれざる客…というよりは、まだ招かれていない客、かな?どうするのかなアサシン殿は』
鬼の動きが止まり、そこから声が響く。鬼の外見とは裏腹にとても透き通るような声だった。しかしその内容は曖昧でも、そこらにいるアリを見つけてしまった程度の感情も込められているかもわからない。自分がなんなのかなど、この鬼にとってはどうでもいいことなのか、そう思える口ぶりだった。
「む……見られたか。マスターよ、どうするのだ……そうか。キャスター、私のマスターはあの者を捕らえて記憶を消すつもりらしい。念には念を入れてするつもりのようだが……見ればまだ子供、無垢な赤子になったとて時間が経てば追いつくだろう」
アサシンと呼ばれた騎士はマスターと念話により戦いを見てしまった少年を魔術の秘匿のために記憶を消すことを決めた。魔術師は自分本位でエゴイズムの塊のような者が多い。魔術の成り立ちを考えればこれでも温情にあふれた方とも言えるかもしれないが。
十弥は消すというアサシンの言葉を聞いて、すぐに逃げだした。そこらの石を蹴るくらいの気持ちで、自分が殺されてしまう。いや、殺されはしなくとも、それは肉体的にはというだけだ。心は、間違いなく死ぬ。今まで自分が歩んできた道のりを消されることは、殺されるのと何が違うというのか。無駄かもしれないという諦めに蓋をし、わき目もふらずに逃げる。
アレは生き物ではない、雷や地震、津波といった災害となんら変わらない。大自然を敵とは言えない。戦いを挑もうとすら思えない。自分が殺されるというのに、まるで怖くないのは、自然災害に殺意がないのと同じだからだろうか。だとしても、十弥はただ逃げることしかやることはない。それ以外は、全てが死につながるのだから。
アサシンからの問いを聞いていたキャスターと呼ばれた鬼は自身のマスターに伺いを立てる。まあ、伺いの結果がどうであれアサシンのそれにはいそうですかと頷くことなどないのだが。
『いやぁ、こちらも似たようなもんだね。まあ捕まえて記憶を消して捨てるだけだから、全部か一部かっていう幾らか程度の違いしかないが』
「ならば私がやるぞ? 騎士として与えられた命令は完遂したいところなのでな。そこで指でもくわえて見ているがいい」
『いやぁ……でもね、彼につけてた監視の式神を君と戦うのに今こうして使っちゃってるし、こう、損したままホイと譲るのも癪でね。負けず嫌いなのさ僕は』
「では」
『早い者勝ちさ』
言うが早いか、二人は同時に追跡に動いた。少し離されたが、捕捉できないわけではない。事実、何事もなければ逃げた十弥はすぐに捕まっていただろう。
だが、サーヴァントの足はすぐに止まることになる。
「そいつは困るね、こっちは面白えとこなんだから是非潰しあって欲しいんだけどよ」
――第三者の声によって。
「! 何者だ!」
『おや、これは三人目かな。さっきからいるなとは思っていたけど……今の式神では見つけづらいな。騰蛇とかならまだ違うんだろうが』
直後、放たれた殺気にほとんど反射的に反応した二人はそれぞれ真横に飛んだ。そのコンマ数秒後、先程まで立っていた場所に炎が轟音をたてて落ちる。かなりの威力ではあるが、速度はさほどでもないので恐らくは行動を制限させるために撃ったものなのだろう。瞬く間にその炎は周囲を囲む。
「逃がすつもりはないというわけか。卑怯者のように隠れず、姿を見せたらどうだ!」
思考を巡らせながら、アサシンは挑発をする。が、返ってきた言葉は無視でも、冷たい返事でもなく、笑い声だった。女性のものの高く美しい声だが、それはゲラゲラと、姿は見えなくともあからさまにこちらを嘲る笑い方のせいでどこまでも腹立たしい声にしか聞こえなかった。
「いやぁ……笑った笑った。まさか挑発のためとはいえ卑怯なんて戦争中に言う恥知らずがまだこの世にいるとは思わなくてよ……いや、死んでるしあの世か?」
「何ぃ…」
「羨ましいね、分けて欲しいもんだね、そのぬるま湯に浸かりきったみてぇなトロトロな脳みそをよ。なあ騎士サマよ、戦争ではな、卑怯な手段だろうとあんたのような騎士サマが好きそうな決闘だろうとよ、結局生き残ったやつが言ったことが全てさ。そいつのさじ加減で正々堂々とした戦いも卑怯者と罵られるもんさ」
『フフフ、とても素晴らしい性格の英霊のようだ。だが、いいのかい?あの見てしまった子は』
「お生憎様、手は打ってあんだよ。それよりそこの人形はともかくアサシンは自分の身を気にした方がいいんじゃねえの?
この国には素晴らしい言葉があってよ。なんつったかな……ああそうだ。『死人に口無し』っていうらしいぜ」
「フン、殺そうというのならかかって来るがいい。逆に我が剣でその仮初の体を叩き斬ってくれる。アサシンといえども戦えぬわけでも弱いわけでもないのだからな」
一触即発のその空気の中、既に考えていたよりも状況が変わってしまい面倒になってきたキャスターはもうやる気が失せていた。
『まあ、もうこうして出し抜かれた時点で僕は付き合う義理はないから消えるけどね。後はご自由に』
そう言ってそこにいた鬼が紙切れに変わった瞬間、周りを覆っていた炎も消え去り、気配もなくなっていた。残ったのは、アサシンただ一人。
「……うまいこと時間稼ぎをさせられたか。最後のも挑発による逃げの隠蔽か。卑怯かと思ったが随分と引き際を見極めるのが上手いようだな」
―――同時刻。
「だ、誰だよオッサン!いや、そんなことより、ここは危ないから早く逃げろ!」
「どうしたよそんな焦って……人の姿した化けモンでも見たかい?」
「え、なに――ガッ……」
「まあ、寝ときなボウズ。起きたら話してやるからよ……」
男に鳩尾を殴られた十弥はその場に崩れ落ちる。
「今戻ったぜマスター。首尾は……聞かなくてもいいみてぇだな」
「ああ、もちろんだ。とっととずらかるぞランサー」
「そりゃ構わねえけどよ、そいつあたしに担がせるつもりじゃねえよな?」
「えっ、ダメなのか」
突然横に現れた女、ランサーは呆れたように首を振る。
「おいおい男の風上にも置けないねえ糞マスター。か弱い乙女に重労働させんなよ~」
「やかましい。お前がか弱かったらこの世の女はみんな微生物レベルになっちまうだろ。いいから担いでくれよ」
「へーへーわかりましたよー」
まだ目覚めぬマスターは、根腐りした主従に連れ去られていた。
その先は深淵だとも知らぬままに―――