あの秋から、日に日に牌が重くなっていく気がする。
そんなことは有り得ないと知りつつも、末原恭子は指先に纏わり付く鈍い感触を拭えない。足元は黒ずんだ沼に囚われたみたいで、身動ぎするのにも気力を要する。卓上に向かい合えば、靄がかかったように視界は不良。情の問題だけでなく、事実として戦績は下降の一途を辿っている。
何度目かも分からない溜息を喉元に留めながら、恭子は次なる牌をツモる。
――伝統ある姫松高校麻雀部にあって、彼女は期待の新人の一人として数えられていた。将来間違いなく姫松を牽引する立場になるであろうと。
しかし、目覚ましい活躍を見せた昨秋の近畿大会以降、彼女が精彩を欠いているのは誰の目にも明らかだった。何より本人が、一番自覚していた。
――自分にはないものを持っていそうな、数々の強豪たち。
なまじ彼女たちと渡り合ったことで、見えてしまった自分の限界。トップとの、どれだけ離れているかも分からない実力差。募るのは、焦燥感ばかり。
「恭子ちゃんは洋榎ちゃんを意識しすぎなのよー」
真瀬由子にそう指摘されたとき、恭子は密かにどきりとした。対面に座る件の愛宕洋榎をちらりと盗み見るも、彼女はさして気にする様子もなく捨て牌を選んでいた。
彼女たちと恭子の付き合いは、高校一年の部活動初日からだった。以来なんだかんだと連み合い、昼休みや部活後にはこうして三麻で卓を囲う仲となっていた。
「個性が違うんやから意識しても仕方ないと思うのよ」
「せやろか」
由子の言葉は耳に届いていた。だが、恭子はそれを咀嚼できていなかった。できるはずもなかった。
最も身近で、最も優れた打ち手――それが、愛宕洋榎だった。ポジティブな意味でもネガティブな意味でも、彼女を意識しないわけがない。
もちろんそれで、打ち方が歪んでいるのは自覚している。得意としていた早和了りは、見る影もない。
期待には応えられず。
一筋の光明も見出せず。
恭子たちが二年の春、姫松高校麻雀部監督、善野一美が病床に伏せることとなる。
◇
監督が不在となり、麻雀部が浮き足立っているのを恭子は感じ取っていた。善野監督を慕っていた者は多い。恭子もその一人だった。監督は復帰できるのか。あるいはインターハイを目前に控えて、新たな監督を招聘するのか。先行きの見えない不安が、部内を包み込むのは当然の流れと言えた。
けれども。
「心配なんは分かるけど、うちがおるやろー?」
三年生の先輩も狼狽える中で、愛宕洋榎は一人泰然としていた。元々の性格がそうさせるのか、あるいはエースとしての自覚からか。いずれにせよ、恭子には真似できそうにもなかった。
すぐにでもスランプを抜け出したい。そして、自分もチームに貢献したい。憧憬と願望、劣等感、恩義。
ない交ぜになった感情が、恭子をさらに焦らせていた。
――そして、その日。
「お願いします」
「よろしくー」
部の練習時間、恭子は洋榎と打つ機会を得た。校内ランキングで差を付けられ、近頃はリーグ戦でも戦う機会に恵まれていなかった。三麻では毎日のように打っているが、四人打ちの実践形式は数ヶ月ぶりだった。
上家に座る洋榎を、恭子はそっと盗み見る。
自信に満ちた瞳、真っ直ぐに伸びた背筋。体の大きさでは今年入部してきた妹に負けているのに、示す存在感は圧倒している。現状で既に、関西を代表する選手の一人。
負けたくない、と恭子は強い意志をもって牌を握る。――負けるつもりで卓についたことは一度たりともない、とかつて洋榎は語っていた。
――それに負けたらあかん。
がっつりと、恭子は洋榎にぶつかっていった。他の二人も、レギュラーに選ばれてもおかしくない三年生。容易な戦いではないことくらい、分かっていた。
それでも恭子は善戦した。
単純についていた、というのもある。調子自体もここ最近では一番であった。オーラスを迎えて、一位と僅差で二位につけていた。
一位は当然、愛宕洋榎である。
「いけてるやん、末原」
「……どうも」
同卓する先輩に褒められ、恭子は軽く会釈を返す。それよりも、洋榎の様子が気になった。
集中しているのか、洋榎は黙りこくっていた。ぎりぎりの勝負に焦るよりも、むしろ楽しむ性分である彼女にしては珍しい態度である。
ともかくとして、この機会を逃すわけにもいかない。
洋榎からの出和了りは早々期待できるものではないが、安手のツモでも十分逆転できる。しかしテンパイまで持っていったものの、和了り牌を掴めない。そうこうしている内に、
「リーチ」
対面が、千点棒を投げ込んできた。――逆転手を作り上げたのか。恭子は歯噛みする。良くない流れだ。下手をすればこのまま和了られる。
――しかし次の瞬間、恭子は目を疑うこととなる。
上家の洋榎の捨てた牌。
それは、
「ろ、ロンッ!」
恭子の和了牌であった。
上擦った恭子の声に驚いたのか、牌を捨てた洋榎の指先がびくりと震える。それも後を引くことなく、
「やるやん、恭子」
と、洋榎は口角を釣り上げた。
どきどきと、恭子の胸は高鳴っていた。この面子を相手に、洋榎を相手に逆転トップ。興奮するのが当たり前というもの。
「ほんま、やったわ。――ありがとうございました」
ほっと、恭子は頬を緩める。
もしかしたら、これがスランプを脱する機会になるかも知れない。そんな前向きな気持ちさえ湧いてくる。
次の対局に向けて、恭子は卓を移動する。その足取りも、いつになく軽かった。
「……あれ、ゆーこ?」
ふと、恭子は由子の姿を見つけた。彼女は部室の隅に独り、突っ立っていた。いつも朗らかで人を惹き付ける彼女にして不思議な姿に、恭子は首を捻る。
一瞬だけ、目が合った。
けれどもすぐに、逸らされてしまった。
何かあったのだろうか、と訊ねようと恭子は彼女に歩み寄ろうとして、
――ほんとは、分かっとるんやろ?
自らの内側から響く声に、足を止められた。その声を呼び覚ましたのは、俯く由子の表情。
先ほどとは違った意味で、鼓動が早まる。嫌な汗が、背中を伝う。喉の奥から、妙な息が漏れ出そうになった。
そう――分かっているはずだ。
何を浮かれているのか。何を喜んでいるのか。どうしてこの結果を単純に受け止められるのだろうか。
あの場面、あの状況、あのタイミングで――愛宕洋榎が振り込むことなど、あるはずがない。あってはならない。だからこその、姫松のエースなのだ。
「あ――」
ぐらりと、視界が揺れる。思わず卓に手をついてしまう。腹の底からこみ上げてくる感情を、上手く処理できない。苦しかった。
誰にも何も告げず、恭子は部室を出た。
小さかった歩幅が広がり、徐々に駆け足になり、最後は外聞もなく校舎の廊下を走っていた。放課後でなければ、すぐに注意を受けていただろう。
恭子が向かった先は、屋上。ここと決めたわけではない。ただ、人気の少ない場所がここしか思いつかなかっただけだ。
重厚な鉄扉を押し開けて、恭子は転がり込むように外に出る。傾いた夕陽が、眩かった。
「はっ――はっ――」
柵に指をかけ、俯きながら切れた息を整える。整えようとする。だが、どうしようもなかった。がつんと頭を柵にぶつけて、目を瞑る。広がるのは、闇ばかり。
こんな想いをしたのは、初めてだった。
こんなにも、体に熱を帯びるのは初めてだった。
指が真っ赤になるほど強く、強く恭子は柵を握りしめる。漏れ出そうになる嗚咽を、必死になって押し止める。
「ううう」
それでも口の隙間から、掠れる声が生まれてしまう。
――手を抜かれて、悔しいのではない。
手を抜かせてしまった、自分が許せない。
自らの弱さが招いてしまった。洋榎にあんな真似をさせてしまった。その全てが、恭子は許せなかった。
眦から、雫がこぼれ落ちる。拭うことすら、ままならなかった。
屋上へと続く鉄扉の裏、そこに背中を預けた由子が佇んでいたことに恭子は終ぞ気付かなかった。――気付けなかった。