大人しそうな面をしておいて、存外気が強い。
それが、末原恭子に対する洋榎の第一印象であった。入部初日、褒めたつもりで声をかけたのに、差し出した手を突っぱねられるとは欠片も予想できなかった。
だからこそ、洋榎は彼女を気に入った。同じく当時新入生だった真瀬由子も巻き込んで、三人で連むようになった。
――洋榎の雀力は、同世代の中では間違いなくトップクラスである。一年のインターハイで大型新人の台頭もあったが、それでもその事実は疑いようがない。故に、中学時代から彼女を慕う者は多かった。強者の周囲には、自然と人が集まるものだ。
しかし、彼女と対等に接せられる人間は一人としていなかった。卓越した力は、人を孤高にする。最も身近なライバルも他校の生徒で、日常から相対することはなかった。
そこに現れたのが、恭子と由子だった。
媚びようとせず、あるいは自然体で傍にいてくれるのが彼女たちだった。ともすれば家族以外では初めて出会うタイプの二人に、洋榎はある種の感銘を受けたのだ。居心地の良さ、と言い換えても良い。
きっと、麻雀が強かろうと弱かろうと――あるいは麻雀が関係しようとしまいと、仲良くなれただろう。洋榎はそう思う。
――だからこそ。
だからこそ、洋榎は友人が陥った状況を見過ごせなかった。
「恭子ちゃんは洋榎ちゃんを意識しすぎなのよー」
由子が助言を送る相手は、その彼女。
昨秋から、いまいち調子が乗り切らない恭子である。彼女も確かな実力の持ち主でありながら、十全に生かし切れていない。もどかしく感じるのだ。
「個性が違うんやから意識しても仕方ないと思うのよ」
「せやろか」
由子に何を言われても、その表情はどこか虚ろだった。洋榎は黙りこくっていた。黙ることしか、できなかった。
思えば、誰かに具体的な助言をしたことなどほとんどなかった。経験則や勘に頼るところの大きい彼女の打ち筋は、しかし誰かが容易に模倣できるものではない。自然と洋榎に麻雀の教えを請う人間は減っていった。
何と、どう声をかけて良いのかとっかかりも分からない。恭子が何に躓いているのかも、本当のところでは分かっていない。
それが途方もなくもどかしく、悔しかった。楽しかったはずの三麻まで、淀んだ空気が漂い始めていた。
なんとかしなくてはならない。
なんとかしたい。
そう洋榎が思い悩んでいる内に、チームを率いていた善野監督は倒れた。
◇
「あんたのとこ、大変そうやな」
母親にそう声をかけられたのは、洋榎がもう眠ろうとリビングから自室に戻ろうとしたときだった。
洋榎の母、愛宕雅枝は北大阪の強豪、千里山女子の監督を務めている。インハイの予選地区こそ違うものの、洋榎が所属する姫松高校と千里山女子はいずれも大阪を二分する麻雀強豪校だ。親子であると同時に、二人はライバル関係と言えた。
とは言うものの、両者とも家庭内にまで部活動を持ち込まない。半ば暗黙の了解のようになっていた。
「うちのことって、部活のことか」
「それ以外ないやろ」
故に、こうして母親から話題を振られるのは本当に珍しいことだった。洋榎は少し身構える。
「善野さん倒れて、後任決まってないんやろ?」
母の疑問は、至極当然のものと言えた。ぽつりと、洋榎は答えを口にする。
「……まだ復帰できんと決まったわけやないで」
「そうか。でも、監督が替わる覚悟はしといたほうがええで」
「なんやそれ。薄情やな」
「情とはまた別の話や。別に病気やなくても、トラブルやアクシデントで急に監督が替わることなんでザラや。動揺すんな、とは言わん。そやけど引き摺ってたら勝てるもんも勝てんくなるで」
それは、母親としての助言だったのだろう。洋榎はふいっと顔を背けて答えた。
「……うちは大丈夫や。そんくらいの覚悟はできとる」
「含みのある言い方やな」
言うべきかどうか、悩んだ。チーム内のことを打ち明けるのは、流石に躊躇われた。
けれどもやはり、母は母。加えて高校麻雀部の監督だ。迷った末、洋榎は口を開いた。
「めっちゃ善野監督を尊敬してる友達がおって。でも、監督が倒れてしもて。その友達はずっとスランプなんやけど、このままやったら立ち直れるか――不安なんや」
「ふーん」
自分で思っていた以上に、しどろもどろな説明になってしまった。雅枝は口端を釣り上げて、挑発的に笑う。
「あんたが友達のことで相談なんて珍しいな」
「なんや、こっちは真剣やのに」
「感心してるんや。あんたもちょっとは大人になったんやと思うてな」
あまり褒められた気がせず、ますます洋榎はむっとする。このまま部屋に戻ってやろうかと洋榎は踵を返しかけたが、それよりも速く雅枝が言う。
「そもそもあんたらみたいな子供がスランプだなんて百万年速いわ」
「百万年経ったら大人通り過ぎとるやん」
「そこ突っ込むところちゃうわ。――とにかく、子供は些細なことで調子崩したり乗ったりするもんや。スランプなんてもんは自分をちゃんと持っとる人間が陥るもんで、あんたらはまだまだその域まで達してへんわ」
「御託はええねん」
洋榎は鼻を鳴らして食って掛かる。
「調子悪いだけ言うんなら、どうしたらええんや」
「言うたやろ、そんなん些細なきっかけで変わるもんや」
「……それは」
「そんくらい自分で考え。その後にまた話くらいは聞いたるわ」
突っぱねられて、洋榎は鼻白む。呼び止めた母のほうが、さっさと寝室に戻って行ってしまった。
らしくない溜息を吐いて、洋榎も自室に戻る。
――些細なきっかけで変わる。
母の言葉を、洋榎は反芻する。
本当にそうなのだろうか。その程度で変われるなら、今日まで苦労していないのではないか。あるいは、本当にそんなきっかけに恵まれるのか。
募る疑問に、回答する者は当然いない。
ベッドに飛び込み、瞼を伏せる。いつもならすぐに寝付けるのに、全く眠気はやってこなかった。妙に目が冴えたまま、ごろごろとベッドの上で寝転がる。頭に思い浮かぶのは、物憂げな恭子の表情ばかりだった。
◇
翌日。
それは、予期せぬ対局だった。
下家に座る恭子をそっと窺いながら、洋榎は理牌する。校内ランキングで差がついた二人は、部内リーグ戦でも単純な練習でも部活動の時間に打つ機会が減っていた。昼休みや部活後に由子を交えた三麻は毎日打つものの、それは本格的な練習ではない。
恭子もまた、気合たっぷりの様子だった。ともすれば喉元に噛み付かれる、そんな気配がした。――しかし同時に、らしくもなかった。その彼女らしさが失われて久しいのだが。
対局は、洋榎と恭子のペースであった。最初に飛び出した洋榎を恭子がじわりじわりと追いかける形で、オーラスを迎える。
十分に逆転されうる状況で、しかし洋榎は冷静だった。いつも通り打てば、振り込みはしない。すぐに流してしまえる自信もあった。
けれども。
牌に触れながら、誰にも気付かれないように微かに唇を噛む。
下家の恭子から漂うテンパイ気配。
これさえかわしてしまえば、無事にゲームセットだ。そう。終わりなのだ。
しかし、しかしである。
――些細なきっかけで変わるもんや。
母は、そう言った。
――恭子ちゃんは洋榎ちゃんを意識しすぎなのよー。
由子は、そう言った。
ある選択が、洋榎の脳裏を過ぎる。導き出された結論が、そこにある。愛宕洋榎が末原恭子に与えられるきっかけ――あるいは自信。それがきっと、ここにあるのだ。
同時に、全身にざわりとした怖気が走る。
思いついた行為は、愚行である。愚弄である。暴挙である。
決して許されない、許されてはならない。本来なら、愛宕洋榎自身が最も忌み嫌うはずの手段であった。麻雀そのものに対する、冒涜なのだ。
しかし、それでも。
彼女の背中を押すものが、ここにはあった。
勝つために、切るべき牌。それに触れていた指先が、つるりと滑る。掴み取ったのは、その隣にある牌。
おそらくきっと、一生忘れられない一打を、愛宕洋榎は打ち放つ。
深い、闇のような後悔がその先に待つと知りながら。