「恭子ちゃんは洋榎ちゃんを意識しすぎなのよー」
自分の声が届かないもどかしさを、真瀬由子は生まれて初めて味わった。正論を唱えても、それが通じるとは限らないことも初めて知った。
自分は手を尽くしたから後は知らない、と言ってのけられるほど由子は大人ではなく、薄情な少女でもなかった。むしろ、ますます友人への――末原恭子への心配は募ってゆく。
「個性が違うんやから意識しても仕方ないと思うのよ」
「せやろか」
曖昧に頷く恭子の横顔を見て、由子は胸を締め付けられる想いだった。
――自分の言葉など、意味がない。
苛まれる無力感に、由子は打ち拉がれる。挫けそうになりながらも、笑顔だけは絶やさないように、楽しい三麻の時間が消え去らないようにと、必死で二人をつなぎ止めていた。
だがしかし。
だと、いうのに。
全てを壊すその一手を、由子は止められなかった。
――愛宕洋榎。
もう一人の、由子の大切な友達。彼女もまた、恭子に対してもどかしさを抱えているのは目に見えていた。しかしながら、洋榎は具体的な行動には出ていなかった。相談も、持ちかけられてはいなかった。
それが言い訳だと、由子は心のどこかで理解していた。結局は、洋榎自身の悩みをくみ取れなかった自分が悪いと。
けれども、いつも三人で囲んでいた卓が空っぽになった様を前にして。
由子は強く、強く拳を握りしめる。その白い肌が、真っ赤に染まるほどに。
◇
末原恭子が部活を休むことは、初めてだった。そもそも、彼女は学校にも登校していなかった。由子、恭子、洋榎の三人は、休憩時間の度に誰かの教室に集まってお喋りして、お昼休みには三麻に興じるのが常である。日々のルーチンが唐突に断たれ、手持ち無沙汰になった由子は、しかし洋榎を避けていた。あるいは、洋榎も由子を避けていたのかも知れない。
そう――きっと、由子があの場面を見ていたことを、洋榎は勘付いているのだ。
洋榎が、恭子にわざと振り込む場面を。洋榎なら確実に避けられた。そもそも最初に選んでいた牌は恭子の直撃を回避していた。
思い出す度に、歯噛みする。
その場は気付かなくても、いずれ恭子はその事実に至っていただろう。それが分からぬ洋榎ではあるまい。そしてそのとき、恭子がどう思うのかも。
黒ずんだ感情を胸に抱いたまま、由子は放課後を迎える。
監督不在の部活は、影を落としたままだった。否、今日は一層暗い雰囲気に包まれていた。一年生は不安そうな顔を隠せていない。ここ数日は由子も先輩として彼女たちを気にかけていたが、今日はその余裕もなかった。
加えて、洋榎である。
ここのところ、姫松高校麻雀部の士気がギリギリで保たれていたのは彼女の明るさに依るところが大きい。しかし今日の洋榎は、ずっと黙りこくったままだった。彼女が淡々と麻雀を打ち続ける姿はある種異様で、三年生の先輩たちも不気味がっていた。
こんなとき、声をかけるべき役割は自分か恭子だと由子は正しく知っていた。だが、恭子はいない。彼女がいないからこその、洋榎の今の姿なのだ。
では自分が、とすぐに由子は動けない。由子が話しかけないからまた、部の空気は重苦しくなっていく。
際限なき悪循環は、部活の終了時刻と共に一旦断ち切られる。
解散ミーティングを終え、まばらに部員たちが部室を出て行く。
普段なら、最終下校時刻まで残る三人の少女がいた。しかし、今日の影は二つだけ。
窓際に立つのは、愛宕洋榎。廊下に続く扉の前に立つのは、真瀬由子。二人の間を隔てるのは、麻雀卓。
「恭子もおらへんのに、帰らへんのか」
背中を向けたまま、先に訊ねてきたのは洋榎だった。由子は僅かに顔を伏せて、答える。
「帰らないのよー」
「なんでや」
「……洋榎ちゃんに訊きたいことがあるのよー」
声が震えないように、必死だった。自然と指先が、胸元のリボンに触れてしまう。緊張で、濡らしていたはずの喉があっという間に渇いていた。
「なんで昨日――あんな打ち方、したのよー?」
洋榎の肩が、少しだけ揺れる。
「あんな打ち方って、何のことや」
「恭子ちゃんとの対局に決まってるのよー」
「うちが何をやったって言うんや」
とぼけないでと、由子は叫びたくなった。しかし彼女はぎゅっと唇を真一文字に引き結び、堪える。
――短気を起こしてはならない。
そう自分を戒めようにも、心がざわめく。
「手を抜いたこと、ちゃんと分かってるのよー」
「……、それは」
「洋榎ちゃん」
振り返ろうとしない洋榎の背中に向けて、由子は訴えかける。
「なんで、あんなことやったん? 恭子ちゃんは、あんなんで喜ぶ子じゃないのよー」
「分かっとる」
硬い声が、返ってきた。けれどもやはり、洋榎は振り返らない。さらに由子は不満を――そう、これは不満だ――募らせる。
「それどころか、もっと傷付くのよー」
「分かっとる」
「恭子ちゃん、泣いてたのよー」
「分かっとる」
「……っ、なら、」
「分かっとる!」
部室にこだまする大声に、由子はびくりと体を震わせた。
きゅっと、靴が床を慣らす。ようやく振り返った洋榎の鋭い目付きに、由子は萎縮しそうになる。踏み止まったのは、かき集めた意地だった。
「だったら、なんであんなこと――」
「恭子を立ち直らせたかった、それだけや!」
腕を振り上げ、洋榎は叫ぶ。
「自信をつけさせたかったんや! うちは……うちは、間違っとらへん!」
「間違っとる!」
反射的に、由子は声を荒げていた。それは誰にとっても珍しい姿で、洋榎は一瞬で鼻白んだ。
「そんなやり方、間違っとる! 恭子ちゃんを傷付けるだけなのよー!」
「でも、」
「でもじゃないのよ!」
その勘違いだけは、正さなければならない。
さらなる大声を出そうとして、しかし、
「誰も……救われないやり方なのよー……」
ようやく細い声を、絞り出せただけだった。
どう考えたって、間違えているのだ。恭子と同時に、洋榎自身を侮辱するやり方なのだ。きっと、ずっと後悔し続ける。今それを弾劾しなくては、手遅れになるのだ。
洋榎は、しばらく何も言わなかった。考えを改めてくれたのか、と由子は期待する。だが次の瞬間に、期待は裏切られた。
「――だったら」
洋榎が口を開き。
どくん、と由子の心臓が跳ねる。
「ゆーこは、何ができたんや」
「え――」
「悩んどる恭子を、助けられたんか。何か出来たんか」
「それは……っ」
何度も声をかけた。考えつく限りの助言を尽くした。
しかし、恭子の耳には届いていなかった。ならば結局――何もできなかったも同然だ。ああ、そうだ。分かっていた。気付いていた。
けれどもその事実を洋榎から突き付けられ、由子は激しく狼狽えた。
「うちは、自分ができるやり方を選んだまでや。行動したまでや」
すっと、洋榎が歩き出す。由子は、彼女を止められない。止める術が、見当たらなかった。
由子の脇を抜け、洋榎は荒々しく部室の扉を開く。
「なんもできずに指をくわえるなんて、ごめんや」
吐き捨てるように言い残して、洋榎は部室を出て行った。反駁の言葉一つ見つからず、由子はその場に膝を折る。
結局、洋榎に対しても同じこと。
由子の言葉は、届かない。
――自分の言葉など、意味がない。