自分がこんな酷い人間だと、愛宕洋榎は知らなかった。
大切な友達である末原恭子を、自己満足で傷付け。
大切な友達である真瀬由子を、つまらない意地で傷付けた。
そう――由子に自らの過ちを指弾されたとき、洋榎は矛先を由子自身に向け直した。彼女がどれだけ心を痛めていたか知りながら、失敗から目を逸らしたいがために。
これを卑劣として、何という。
鈍い痛みがずっと胸に残り続け、帰路につく足は重かった。
「お姉ちゃん、お帰りー。今日は早かったやん。……お姉ちゃん?」
妹――絹恵の出迎えの挨拶にも応える気力はなく、洋榎は部屋に戻ろうとする。不審に思ったのだろう、絹恵は追い縋ってきた。
「どうしたん? なんかあった?」
「別に」
「別にって、元気ないやん。あ、でも今日は唐揚げやで」
「食欲ないから要らん、絹にあげる。おかんにもそう言っといて」
「えっ、ほんまっ? ……ってええええええっ?」
素っ頓狂な妹の叫び声も意に介さず、洋榎は自室に戻る。
制服から着替えもせず、彼女はベッドに寝転がった。何も考えたくなかった。瞼を閉じて、無理矢理眠気を誘おうとする。闇に浮かぶのは、恭子と由子の顔ばかりであった。
精神的な疲労が溜まっていたためか、洋榎は一度眠りにつく。しかし夢の中でも、ちらつくのは二人の影だった。
――再び目を開いたときには、九時を回っていた。
丁度そのタイミングで、扉を開く者がいた。
「邪魔するで」
雅枝の声だった。廊下の照明が暗い部屋に差し込み、洋榎は僅かに身動ぎした。しかし彼女は枕に顔を埋めたまま、母に目を向けようとしなかった。
「ちゃんとご飯食べてもらわな困るわ」
「……絹が食べるやろ」
「お姉ちゃんの分やから、って食べへんかったわ」
ぎしりと、ベッドのスプリングが揺れる。雅枝がベッドに腰掛けたようだった。
「何があったんや」
その問いかけに、洋榎は声を荒げたくなった。
しかし、出来はしなかった。
この期に及んで母親に責任転嫁してしまえば、それこそ自分は終わりだと彼女は正しく知っていた。母の助言は誤りではないのだろう。間違ったのは、自分の選択。それを認められなかった、自分自身。
「失敗したんか」
「……うん」
「で、喧嘩でもしたんか?」
「……うん」
今まで聞いたこともないほど母の声色は優しく、全て見透かしていて、それ故に洋榎の心はほだされてゆく。
「全部――」
「全部自分が悪いなんて、あほなこと言うな」
声を被せられ、洋榎はようやく顔を上げた。そこにあったのは、説教染みた言葉とは裏腹に穏やかな母の顔だった。
「あんたみたいな子供が、自分以外の責任なんて背負えるわけないやろ」
そっと、母の指先が頬に触れる。
「無理をしてもまた失敗するんは目に見えとるわ」
「じゃあ……どうすればええんや」
縋るように洋榎が訊ねると、雅枝はくすりと笑った。
「仲直りの仕方が分からんなんて、小学生か」
「ぐぬ」
「ちゃんと自分の気持ちを伝えて謝ればええ」
そうなのだろう。理屈の上では洋榎だって分かっている。けれども、できる気がしないのだ。
「……怖いんや」
卓上で、どんな強敵と相対しても抱かなかった感情。吐露する以前に、真の意味で知らなかった気持ち。こんなところで、知る羽目になるとは思わなかった。
――情けない。
また、笑われるかと思った。
しかし予想と反して、母は至極真面目な表情で言った。
「誰だって、謝るんは怖いわ。自分が間違ったって認めるんも怖いし、受け入れて貰えんのも怖い。当たり前のことや」
「……せやったら、どうしたらええん?」
「せやなー」
このときばかりは、母は悪戯っぽく笑って言った。
「おまじないを教えたげるわ」
「おまじない?」
「そうや。――怖くても立ち向かわなあかんときはな」
ぐにゅりと洋榎の頬を抓って、母は言葉を継いだ。
「幸せな気持ちになればええんや」
◇
二日続けて学校を休もうにも、末原恭子は親に家から叩き出された。お昼からでも授業に出てこい、と。風邪と仮病を使っていたのは事実だったが、気が重いのも確かである。
記憶を辿れば、学校を休んだのは小学生のときが最後だった。休んだ次の日、妙に教室に入りづらかったのを恭子は覚えている。ましてや今回は面倒な事情を抱えており、なおさら登校する気になれなかった。
それでもいつの間にか校門前に辿り着いているのだから、恭子は自分の生真面目な性格を呪いたくなる。
既に昼からの授業は始まっているようで、校庭には目立った人影は見られない。突然洋榎と出会う展開にならないだろうと、ひとまず安心する。だが、このまま学校に入れば部活まで残らねばならないだろう。そうなればいずれ彼女と顔を合わせねばならない。
そこまで考えて、恭子は胸に痛みを覚えた。深い溜息を吐きそうになる。
今からでもどこかにしけ込もうかと、踵を返しかけた――そのときだった。
「なぁなぁ~」
「は、はい?」
「あんた、この学校の生徒さん~?」
「そうですが……」
恭子は、妙な――そう、女性に声をかけられた。シャツ一枚に、ホットパンツのいでたち。誰かの保護者だろうか、それにしては若すぎるように見える。おっとりとした声色は、恭子の心をざわめかせた。
彼女は胸元で両の手のひらを合わせて、ほっと安堵の息を吐く。
「良かった~。悪いんやけど、職員室まで案内してもらえんかな~?」
「私が……ですか」
「他に誰がおるん~?」
「……あの、部外者を学校に入れるわけには」
「部外者じゃなくて~、呼び出されたんやけど~」
はぁ、と恭子は曖昧に頷く。
「もしかして、疑っとる~?」
「……いえ、まあ、その」
「信じてくれへんの~?」
見るからに怪しいですと突っ込みたくなる衝動を抑え、恭子は最終的に、
「信じますから、ご案内します」
了解していた。
「ほんま~? ありがと~」
「いえ……」
何か悪さをするようにも見えないのは確かだった。それに何より、理由をつけないといつまで経っても恭子自身が校舎に入れない気がしたのだ。
「もう授業始まっとると思うけど、なんでこんなあんなところにおったん~?」
隣を歩きながら、女性が訊ねてくる。恭子は煩わしく思いながら、「単なる遅刻です」と端的に答えた。
「悪い子やな~。私は学生のときは無遅刻無欠席やったで~」
「そうですか」
「つれへん子やな~」
まどろっこしい口調に、恭子は苛立ちを覚える。だが彼女は、構わず切り込んできた。
「何か、悩み事でもあるん?」
「……別に、なんもないですよ」
「ほんまに~? 折角やからお姉さんに話せばええのに~。知らん相手やから話せることもあるんとちゃう~?」
そんな考えもあるのか、とこのときばかりは恭子は感心した。どうせどこの誰とも知らぬ相手、二度と会話もしないであろう人間だ。穴に向かって叫ぶのと同じか、といつの間にやら恭子は納得していた。あるいは、させられたのかも知れない。
「……私のせいで、友達を間違わせてしまったんです」
ぽつりぽつりと、恭子は語り始める。
具体的な話はしなかった。語り終えるに充分な時間も、なかった。だが、その僅かな間、お喋りな女性は黙って耳を傾けてくれていた。
職員室の前にまで、二人は辿り着く。短い距離だったが、恭子にとっては随分長い時間に感じられた。
「ありがとな~」
「あ、いえ、こちらこそありがとうございました」
「ええんやで~。気もちょっとは晴れた~?」
「……かも、知れません」
うん、と女性は頷いて。
「だったら、その友達と会ってきたらええんとちゃう~?」
「……、それは」
「今なら、できるやろ~?」
その細い目で見つめられ――恭子は、こっくりと頷いていた。いつの間にか、胸の痛みは幾分か和らいでいた。
「それじゃ~」
「あっ」
女性は、堂々と職員室に入っていく。止める間もなかった。
彼女の名前も用件もここで聞かなかったのは、恭子にとって良かったのかどうか――それは、誰にも答えられる設問ではなかった。