真瀬由子は、その日の練習を隠れるように息を殺して過ごした。一度たりとも洋榎と話すことはなく、また恭子は今日も部活に姿を現さなかった。もっとも恭子が午後の授業に現れたという話を耳にしたが、確認には至っていない。彼女に会いに行く勇気を、由子は持てなかった。
――部の空気は、依然として悪い。
ただ、新しい監督候補が現れたという噂がまことしやかに流れていた。それに安心する者もいれば、善野監督の処遇などを心配する者もいた。しかし今の由子にその件に関して、殊更気に懸ける余裕はなかった。
――けれども、どうしたら良いのだろう。
その疑問に、答えてくれる人はいない。いつも気軽に話すことが出来た、二人の友達は傍にいない。
練習時間は終わり、昨日と同じ構図が繰り返される。
部室を出て行く部員たち。
残るのは、二人の影。
「……ゆーこ」
「洋榎ちゃん」
彼女たちは、顔を合わせて名前を呼び合う。
しかしやはり二人の距離は遠い。会話も成立する気配がなかった。どうあがいても、声が声になってくれない。由子は自分の言葉の無力さに絶望していた。
「あんな、ゆーこ」
だから、切り出してきたのは洋榎だった。びくりと由子は体を震わせる。しかし、洋榎の次の言葉は紡がれなかった。
がたん、と部室の扉が開かれる。
「あっ」
「わっ」
「……恭子」
現れたのは、意外な人物――末原恭子だった。
彼女自身、洋榎と由子を見て驚いていた。
「な、なんで帰ってないんや、二人とも」
「恭子こそ、なんで今更部室来てるんや。休みと違ったんか」
「それは――」
恭子はちらりと洋榎を見て、それから由子にも一瞥をくれてきた。どきりと由子の胸が跳ねる。どんな顔をすれば良いか分からなかった。
「……なんでもないわ」
ふいっと恭子は視線を逸らし、
「もう帰るわ」
そのまま、踵を返そうとした。洋榎は動かない。あるいは、動けないのか。
一瞬の間に、あらゆる言葉が由子の頭を駆け巡った。けれどもそれら全てが、恭子の歩を止めるに至らないと由子は分かっていた。
だから――由子の腕が、動いていた。
「ゆ、ゆーこ?」
「……っ」
顔を伏せて、唇を噛んで、体を戦慄かせ、それでも由子は恭子の腕を引っ掴む。はっと、息を飲む音は洋榎の側から聞こえてきた。
――今しかない。
薄っぺらな言葉が通じるのは、このときだけだ。
全霊を込めて、由子は声を絞り出す。
「嫌や」
その、たった一言を。今まで尽くしてきた言葉の数々よりも、ずっと短く子供染みた言葉を。一緒に帰ろう、と続けたかった。だが、そこにまでは至らなかった。
けれども、それでも。
その想いは、きっと二人に通じていた。
ゆっくりと、洋榎が近づいてくる。由子は、逆側の手で彼女の腕を引っ掴む。
「ゆーこ」
「……嫌やっ……!」
――ああ、全くもって格好悪い。
他に何も言えない。ただただ震えながら、無理矢理二人を繋ぎ止めることしかできない。由子は自身を情けなく思いながら、しかし彼女は気付いていなかった。
ここで彼女が二人の手を掴まなければ、二度と三人で卓につくことはなかった。
――三人は、ばらばらの欠片のまま終わっていたことを。
◇
とぼとぼと――そう、皆意気消沈しながら――三人は帰路についていた。横に並びながら、会話はない。普段なら、笑顔が溢れていた下校風景は実に侘びしい。
久しぶりというわけではない。空いたのは、たった数日の間。しかし洋榎は、信じられないくらい長い間隔絶していた気分だった。
人が溢れた商店街を、通り抜ける。
目に付いたのは、惣菜屋だった。
「……食べへん?」
ちょこん、と洋榎が指を差す。恭子と由子が答える前に、
「うちが奢るわ!」
洋榎は威勢良く飛び出していった。
しかし、数十秒後恥ずかしそうに戻ってきた。
「財布、忘れてもうた」
深淵よりも深い溜息を吐いて、立て替えたのは由子だった。
熱々の唐揚げを手に、三人は近くの公園に立ち寄った。同じベンチに、揃って座る。左に恭子、右に由子。
洋榎は、唐揚げに口を付ける。肉の歯ごたえと油が、口内を刺激する。
ここに至って、洋榎は恐怖を覚えていた。けれども母が教えてくれた、おまじない。この恐怖を乗り越えるための、幸せな気持ち。
前を向けば、夕焼け空が広がっていた。とても美しい、空だった。
――きっと、今なら。
言えるだろう。
――違う。
言わなくては、ならないのだ。
「――ごめん」
その一言を、最初に告げたのは誰だったか。洋榎自身だったかも知れない。恭子だったかも知れない。由子だったかも知れない。
けれどもその言葉は、確かに夕陽に吸い込まれていった。
「ごめん」
もう一度、誰かが言った。視界が滲む。瞼の奥が、痛いくらい熱を持つ。誤魔化すように、洋榎は唐揚げにかぶりついた。そうしても、次から次へと溢れてくるものがあった。もう既に、決壊していた。
――三人が、三人とも。
ぽろぽろと玉のような涙を、由子は拭おうともしない。唐揚げはしょっぱくて、しかし由子は気にせず食べ続ける。何もかもが、歪んで見えた。
恭子はしゃくりあげながら、空を仰ぎ見る。もはや唐揚げを食べる余裕もなく、頬を伝う熱と、手元の熱に陶酔する。
洋榎は、袖でひたすら目元を拭い続けていた。隠すように、偽るように。無意味な抵抗と知りながら、彼女はそうせざるを得なかった。時々思い出したかのように唐揚げを口に運ぶが、ほとんど食べ進められていなかった。
ずっと――ずっと三人は怯えていた。
もう二度と、揃わないのかと。
許されないのかと。
この三人で、麻雀を打てないのかと――怖気の走る未来に、怯えていたのだ。それは、どんな未来よりも絶望的で。どんな世界よりも、味わいたくなかった。
ごめん、ごめん、と三人は謝り合う。許し合う。全身に点った熱は、失せる気配を見せない。けれども、不思議と心地が良かった。
きっと、求めていた場所はここだったのだから。
この場所でしか、得られぬものがあったのだから。
三人で見たこの夕焼けを、涙に塗れたこの空を――忘れる者は、いなかった。
◇
時は流れ。
最後のチャンスのインターハイ、二回戦。
迎えたのは、雌雄を決する大将戦。
――なんなんやこれは……!
戦慄するのは、末原恭子。気付いてしまった異常事態。――おそらく永水の、石戸霞が仕掛けてきた攻撃。
手の状態は、絶一門。
推測の域を出ないが、充分考えられる状況だ。偶然と切って捨てるには、あまりに短慮だろう。
――こいつが永水で一番ヤバい……!
恭子は、手配をじっと見つめる。索子と筒子ばかりだ。それがきっかけで、思い出すことがあった。昔――部を率いる側になるまでさんざんやった、
――三麻……!
洋榎と由子と卓を囲んだ日々、記憶。
実際には三麻とは違うし、不利な状況も変わっていない。
しかし、恭子にはあった。三麻に慣れているという自信が。本来なら、インハイに向けて積むはずのない鍛錬が。
――それが多少はつながるってもんやろ……?
――この場での戦いやすさに!
「ツモ! 1000・2000!」
ああ、と恭子は一瞬だけ――戦いの最中だ――思い出す。
共に帰ったあの日。
共に唐揚げを食べたあの日。
きっと、あの日がなければ全ては繋がらなかった。三麻のことなど、思い出さなかった。いや、思い出せなかったであろう。
全く、どこでどうなるか分かったものではない。
恭子は新たな牌をツモっていく。
あの日の涙と熱を、思い出しながら。――自分を構成する大切な欠片を、思い浮かべながら。
スリーピース おわり