未だ外界は、降り頻る天涙に晒され続けている。
雷鳴が唸りを上げるたび、教室に向かって歩き進めていた小夜は隣で並歩する亜弥の二の腕に身を寄せて都度、亜弥から嘲笑を漏らさせていた。
「愛い奴め、そんなに私が好きなの?」
「うぅ……」
明滅を繰り返す窓は風の煽りを受けてリズムを奏で、隙間風は高音のメロディラインを担当する。自然と人工とが入り乱れた協奏曲は底知れぬ不気味さ、相反する双極とが交わった神秘さを孕む不可思議な魅力を以って、廊下を歩き進める観客らの鼓膜を震わせる。
亜弥が笑うと、小夜は頬を膨らます。
内界とて、反する双方は互いに協調を見せ合い、争いの気配が寄り付かない絶妙なバランスを保って在り続ける。もしくは、そもそもが反したものではなかったのやもしれない。
「ねえ亜弥ちゃん?」
「もう、今度は何? とうとうお化けでも見たの?」
「ううん、なんか――静かじゃない?」
二の腕に蛇が体のように腕を巻き付けている友人が語った言葉に、亜弥は刹那的な疑念を抱く。静かかな、と。
思い直して耳を立てるも、協奏曲は依然として最終楽章を奏で終えてはおらず、意識して聞き入れれば小煩い程に廊下を騒ぎ立てているのである。
そして、空の嗚咽もまた然り。
腕に絡み付いた蛇が一層の強みを増して締め付けてきたのを受け、亜弥は再び意識を友人へ向け直す。
「いや、静かではないでしょ。窓とか、壊れそうなくらい音立ててるし」
「違くてね、人の声が――」
小夜の心許ない訴えを遮ったのは雷――ではなく、女声で謳われる狂騒曲。叫喚。叫び声だった。
その叫びがいつまでも廊下で反響していると錯覚を覚えるのは亜弥。しかし、廊下で反響したのはせいぜい一二回。響いているように聞こえるのは単に、自身の耳の内で乱反射を見せているに過ぎない。勘違いである。
「小夜、この声……」
「亜弥ちゃん、どうしよう?」
弱ったな、と、亜弥は胸の内を掻いた。
背筋に沿う冷ややかな雫は余計に、彼女の小規模な錯乱を覚える頭脳を揺さぶりに掛かる。縦に横に。小夜の潤んだ瞳を据え続けている時間に比例して、揺れの次第は酷さを増しに増しましていく。
「君たち、今の声は?」
助け舟は大仰に帆を靡かせてやって来た。
白いワイシャツに茶色いカーディガン、下は安物の黒いスーツ。三クラスしかない二学年全体を受け持つ数学の男性教員である。
かの舟は油の滲む大きな四角いレンズの向こう側に見受ける目の周囲にシワを寄せ、分かりやすく険しさを醸しながら亜弥と小夜とを交互に見比べてくる。
「先生、あっちの方からっ」
責任の所在を転嫁できる相手を見つけたのが重量を増す気を軽やかな代物に変えたのか、亜弥は饒舌さに感け、小夜が拘束する右腕とは逆の腕を廊下の先に広がる暗がりへ向け、細い人差し指を立てる。
「分かった。君たちはここに居なさい」
航路を定めた舟は一目散に、病的な程に痩せこけた身体に俊敏さを纏い、胸を撫で下ろす亜弥の脇を抜けて行く。
普段は。遠ざかる茶色を見送りながら亜弥は日頃、胸に抱いていた彼への過小評価を改める必要性が出て来たことを悟り、複雑な感情に操られて口元を緩ませる。
「亜弥ちゃん?」
小夜の問いは当然のものである。自身でもこの微笑の意味を把握し切れていないのだから。と、返答すべき内容が思い当たらない亜弥が目を逸らした先には――現実をほとほとに乖離した光景が広がっていた。
◆BLOOD◆
怪物、化物。
下部が歪んだ小夜の瞳が捉えたモノは、そのどちらに種別されるべきなのか。不意に湧いて来た疑問はしかし、次いで移ろわせた亜弥の視界に収まった亜弥の浮かべる、これまでは一度として見せてきたことのない表情の強張り――いや。強張っているのはなく、凍りついた称した方がしっくりとくる驚嘆の顔相を据えた途端、霧散した。
「何、あれ――先生が」
しがみ付いていた腕が小刻みに振動し始める。いつもの飄々として、逞しくもあった亜弥の横顔を懐かしく思うことすら、今の小夜には許されない。
何故か――答えは単純にして奇怪。亜弥が据えたまま動かせずにいる凄惨な光景が脳裏にチラついているからだ。
暗がりの中でも分かるほどの異形な巨体が天井に背を擦り当てながら身を屈め、不定期に窓から射し込む白光に赤く煌めかせる鋭利な爪は男性教員の茶色い背中から突き出ていた。
動く気配を見せなくなった廊下から僅かに足を浮かせている男性教員の後ろ姿が悟らせた訳ではなく、その向こうに見える怪物、化物の浮世離れした様が唐突に小夜の脳髄へと刻んで来たのだ。
彼の――死を。
「逃げ、ないと――亜弥ちゃん、早く逃げよっ」
小夜の勇敢さが発せさせた言葉ではなかった。咄嗟に言葉が出たのはひとえに、彼女の防衛本能だった。
錯乱とは時に、人の抑えて生きていた能力の限界を引き出させるものである。が、同時に、普段は発揮させていた能力を抑制する副作用も伴う。
「あ、ああ……」
小夜の駆け出そうとした足に対し、上半身は後ろへ残ったままとなる。
態勢を崩しかけた小夜は、驚きに誘われて首を回して後ろを見る。
「亜弥ちゃん?」
「嘘――こんな」
驚愕は瞬時に悲嘆へ。
小夜は握り締めた亜弥のブラウスが急激な重量を伴ったことを受け、鼻の奥に急性の熱を覚えた。
「駄目、亜弥ちゃんっ」
悲叫は痛々しい懇願。願い受け入れられない悲願。
残酷な足音が近付く音が響いてきた頃にはもう、亜弥の重心は完全に廊下へと預けられてしまっていた。恐怖による脱力――俗に言うところの、腰が抜けた状態である。
「亜弥ちゃんっ」
「小夜、逃げて――」
震えた声音が告げたのは残酷な事柄。
理不尽には立ち向かう。そんな頑なな生き方をこれまでの人生の内で徹底して来た彼女ではなかったが、今度ばかりは事情が異なっていたようだ。
「そんなの、嫌だよっ」
引きずった。
小夜は痩身な腕に全身全霊を込め、心の髄から助けたい、と思い至った亜弥を引きずりながら後退し始めたのだ。
「小夜、追い付かれ――」
「亜弥ちゃんを置いてけぼりにするくらいならっ」
しかしその時、ふと振り返って後方を確認した小夜の目に黒くて巨大な影が映った。
骨と皮のみで形成されているのではないか、と錯覚を覚える痩身なシルエットに浮かぶ二つの禍々しい紅玉。白雷が露わにしたそれの体表は酷く筋張っていた。
「そんな」
円筒状の突き出された口が開くと、まるで蕾が開花したかのように白く尖った無数の歯が弧を描くように生え揃っており、醜悪な花弁を模していた。
やはり怪物、化物――ううん、違う。
生への諦めが冷静にさせた小夜の頭は導き出す。
「どっちでも、いいか」
告げて、瞼を伏せたのは自分と亜弥の冥福を祈ってのことか。単に、自らの生を苛む醜悪さから離れたかったのか。
何れにせよ小夜は完全に手放した。自分の命も。亜弥の命も。何もかもを。
「――小夜っ」
暗闇だけが支配した彼女の世界に聞き覚えのない声が響いた瞬間――前方から聞くに耐えない呻き声が、初めて聞いた男声を追ってやって来た。