雨の冷たさが心地好い。
火照った、と。そんな悠長を遠に通り越して身体の奥の方まで耐え難い高温に苛まれている小夜は、髪から滴り落ちる粒を見送りながら思い耽る。
左手で握った硬質な物質の感触は不穏だが、その不穏が何よりも安心感を彼女へ与えて来るのも事実。すると刀へ目配せしていた彼女の耳に、不意に荒くて深い呼吸音が届く。
目線を上げ、据える。
「そんなに焦る必要はないのにね――」
縦に細長くなった黒目、その周囲を囲う鮮血のような紅い虹彩が瞼に伏せられる。
カチャ――右手が柄に掛かり、音を伴って動かされる。
「グラァァ――」
小夜の抜刀する動作を待っていたのか、示し合わせたような完璧なタイミングで渇血の一体が雨の格子を裂いて向かってきた。
小夜の指先から肘にかけての長さ程もある鋭利な三本の爪が彼女の顔面を射抜かんとして迫る――が、既に二つの紅眼は瞼の殻を剥いでいた。
左方へ傾けた体はそのまま低い姿勢を取り成し、半身に至った頃には渇血のか細い腹周りに黒鉄の刀身の反りを向かわせていた。
「先ずは一つ」
何ということもなく、敵の推進力を以って的確な力の具合を見極めた小夜は軽やかに右腕を振り抜く。
ゴボウでも斬った――感覚的にはそれに近かった。
上半身と下半身とが分断された渇血の上体は暫く虚空を彷徨ってから湿った大地に打ち付けられ、命令系統の根源を失った下半身は切断面から景気良く鮮血を吹き出してから、膝から崩れる。
「呆気ないものね」
ゆらっと首を左に回す小夜の目は、第二波が迫っているのを捉える。
こちらもまた直線的で、至って芸のない突進。
その様から思考力を持ち合わせていないものだろうと定めた小夜は、先の通りに動けば良い、とだけ考えた。
「グラァァっ」
案の定、三本の右爪が小夜の顔面目掛けて迫る。
今度も左方へ――しかし、
「へえ」
避けたと思った直後、振り抜かずに止まった渇血の右腕が小夜に向かって横ぶりを見せて来たのだ。
咄嗟のことだったはず――が、小夜の構えた刀の反りは何故か迫ってくる右腕へ向けられていた。事前に予測して分かっていたからではなく、彼女の反応速度が異常だった、とそれだけのこと。
カウンターの要領で向かってくる腕の中腹を斬り落とすと、振り切った切断面から溢れた血液の束が小夜の顔を直線を描くように紅く彩る。
「ガァァ――」
痛みによる反射か、それとも最初から狙っていたのか。
完全に刃先を地面へ振り下ろしていた小夜は、次いで間髪入れずに迫ってくる左爪を捉えた。
合わせることも思考の視野にはあったのだが、結局は間に合わず、小夜は仕方なしに後方へ跳ぶ。着地後、ぬかるんだ地面を些か削ってから小夜は顔を上げる。
「一応、痛覚はあるのか」
血が滴る顔に収まる紅い眼の様相は、まるで仕留める相手を品定めしているかのようだった。
狩る者と狩られる者――両者が漂わす沈黙の間を埋めるのは天涙か、息も着かせずに見守る天汗か。
睨み合い、交錯する赤い視線。
先に動きを見せたのは小夜だった。
低い体勢は地を這うかのように。恐らくは平常心を欠かせた渇血には黒い塊が高速を以って向かってくるだけのように見えるのだろう。辛うじて捉えられるのは天雷を反射させる刀身の煌めきのみに相違ない。
「二つ」
品定めを終えた彼女にとってはもはや、反撃の爪を警戒する気苦労すら疎かったのだろう。黒い影は直線の軌道で棒立ちした渇血をすり抜けただけだった。
◆BLOOD◆
言葉を呑んだのは五人とも同じだった。
渇血の頭が地面に落ちるのを見届けていた隊員の一人がようやく漏らした、「化け物だ」という言葉を聞き、他の四人も腹に没落していった言葉尻を引き上げて続く。
「隊長、本当にアレは目標ではないのですかっ?」
「あいつも化け物だ、殺らなきゃ殺られちまうっ」
「次は俺たちが――」
「う、狼狽えるな……上からは味方だと聞いてる。下手に刺激しなければ大丈夫だろう」
隊長は自身の言葉に拭えない疑問を抱く。本当に大丈夫なのか、と。
「ねえ」
紅い眼光がこちらに向いて来た。
「な、なんだね」
気丈に振舞おうと、隊長が一歩踏み寄りながら返す。
「あなたたちは――敵なの?」
戦慄が五人の心臓を鷲掴みにする。鼓動は窮屈さを極め、肺の収縮活動さえ痛みを伴う。
今すぐにでも逃げ出したい衝動を強靭な精神力が押し殺し、なんとか五人の足を止まらせる。
「敵、ではない……我々は君と同じ人間だ」
言ってから湧く違和感。
隊長の頭脳は先の言葉に矛盾を見出す――同じ人間。
「そう」
畏怖の偶像はそれだけ告げると背を向けて歩き出した。