正午ちょい過ぎ、宇佐美は何を思ったのか、あの時宇佐美が少女を見捨てた時に乗っていた、例の電車の中にいた。ある場所に向かうために。
厳密に言えば同じ電車かどうかはわからない。ただ、乗らなければならない気がした。過去の自分のおろかさと向き合うためにも。
――ガタンゴトン、ガタンゴトン。電車は揺れる。
日曜日の昼だからか、あんな田舎に行く人などいないらしく、車内はガランガランだ。
最近はどうやらエコブームらしく、夏のめちゃくちゃ暑い外とほぼ同じような状況だ。蒸し暑く、体が頻繁に水分を欲する。今の宇佐美は汗だくだ。
東京駅で買った900mlの清涼飲料水は、とうの昔に温くなってしまっている。
喉に通しても全然清々しくない。
宇佐美は額の汗を、右手で拭った。
ワイシャツの中は汗だらけになっていて、その影響でワイシャツが少し透けている。
「…………」
ふと、あの時の少女の笑顔が脳裏に浮かんだ。
事件の後、少女の住所はそこの管轄だった、親父の友人と名乗る警官に教えてもらったが、その時の俺には謝罪に行けるほどの度胸はなかった。
あの時少女は自分を中学一年生と言っていたから、今では中学二年生になっているはずだ。今でも部活はやっているのだろうか。そもそも学校には行けているのだろうか。もしも行けていなかったとしたら……それは俺のせいだ。少女が性的暴行を受けるのを、少女の目が助けてと言っているのを、俺は無視した。
少女は今どんな気持ちで、何をやっているのだろうか。
襲われた恐怖のあまり、家に引きこもっているのだろうか。
恐怖を心の奥に詰め込んで、何事もなかったかのように中学校生活を送っているのだろうか。
死んでしまったのだろうか。
何もわからない。しかし自分は少女に謝らなければならない。例え少女に拒絶されようと。恨まれ、殺されようと。
もしかしたら少女は自分のことを見て、事件のことを思い出してしまうかもしれない。治りかけた傷口をえぐるだけかもしれない。それでも謝らなければならない。謝れない人間はただの最低最悪のクソ野郎だ。自分はもうそれだから、少しその要素が薄れるかどうかだ。
「終点○○、○○。お出口は、左側です。本日はJ○をお使いいただきありがとうございました――」
電車が目的地に着いた。
ぷしゅー、という音がしてドアが開かれた。
宇佐美はもう空になったペットボトルと、菓子が入った紙袋を持つと、電車から降りる。
駅内のゴミ箱にペットボトルを捨て、無人改札口を出ると、一気に視界が広がり、そこには青色が広がる山々と、真っ白い雲が空でゆったりと動いていく。そんな光景があった。
道路もちゃんとあって、ところどころに民家はあるが、人がいる気配はない。
周りの大部分は畑や田んぼだ。
そんな中で蝉の鳴き声しか聞こえないのは、少し不気味だった。
「…………」
しばらく唖然としていた宇佐美だったが、我にかえると、ポケットの中から住所が書いてある紙切れを取り出す。
その住所をスマホの地図機能で検索すると、そこは駅からかなり離れた山の中にあった。
どうやらこの暑い中、ワイシャツとズボンという山登りには的さない服装で登山をしなければならないようだ。
楽勝……とは決して言えないれっきとした登山を終えた宇佐美は、夏のじめじめとした空気もあってもちろん汗だくになっていた。現時刻は4時。何も登山にそれほどまで時間がかかったのではない。山までの道のりが長かったのだ。登山をした時間は30分くらいだろう。
いや、もともと汗だくだったのだが、更なる汗だくというかなんというか……。
流れる汗のせいで宇佐美が握る菓子入りの紙袋の取っ手は濡れている。
じゃりじゃり……。宇佐美は小石の上を音をたてて歩く。
目の前にあるのは、黒が強調されている和風の門。かなり本格的なものであり、この家が結構すごい家なんだと感じさせられる。また、周りに他の家はない。どうやらこの山にある家はここ一つだけのようだ。
宇佐美は門に取り付けられたインターホンを押す。
相手が出るまでの間にハンカチで汗を拭き、少しでも失礼のないようにする。
「はい」
60少し前位のダンディーそうな男の声だった。
おそらくあの少女のおじいさんか何かだろう、と宇佐美は推測する。
だが、それと同時に宇佐美はあることに気がついた。何と言って家に上がらせてもやえばいいのだろうか。と。
バカ正直に、お宅のお孫さんが性的暴行を受けた時、現場にいたものです。と言っても、帰れ、とか言われるのは目に見えている。なら、どうすればいいのか。宇佐美は考え、すぐに答えを出した。
「警察の者です。お孫さんのことでお話があるのですが」
こういうときは警察の力を使うのが一番だ。
お話なんてまったく考えていないが、そこは適当に考えればいい。
ダンディーそうな男の声は、少々お待ちください。と言い、音声は途切れた。
しばらくすると、黒い門の横にある小さな出入口から、声の主と思われるおじいさんが出てきた。顔から見ても年齢は60少し前くらいの人だった。
「どうもお待たせしてすいません。それで、刑事さんが何の用ですか?」
「ああ、違います。自分は刑事ではなく、渋谷駅前交番の宇佐美と言います」
宇佐美はそう言って自分の警察手帳を見せた。
「渋谷……? なんでそんなところからわざわざこんなところに」
「
おじいさんは、はい、そうですが。と言った。
その表情はどこか険しい。
「1年前の事件で伺いたいことがあるのですが……家に上がらせてもらえませんか?」
おじいさんは、やっぱりかぁ、という風に短くため息を吐くと、しぶしぶ宇佐美を家の中にあがらせてくれた。
東家内、和室。
和風な机を挟み、宇佐美とおじいさんは畳の上に敷いた座布団に正座していた。
目の前にはお茶が湯飲みで出されており、表面にうっすらと水滴が着いていることから、お茶が冷たいものだとわかる。
冷たいお茶を前にして宇佐美の喉は限界だった。ズズズ……、と宇佐美はお茶を飲む。
ひんやりとしたお茶が喉を通り、宇佐美の喉は満たされる。
「それで、一体何を聞きたいんですか? この間も話したはずですが」
この間、その言葉が宇佐美にひっかかり、思わず聞き返す。
「この間? それはどういうことですか?」
おじいさんはキョトンとした顔になって、知らないんですか? と言った。
「この間、磯崎という刑事が君と同じように訪れたんだが。その時宇佐美とかいう名前が出てきたからてっきり知り合いだと思ったんだが……」
おじいさんは普通に言うが、宇佐美は口から内臓が飛び出るほど驚いた。
自分の知っている警官の中で磯崎という名前の者は、あの少女を守るために男たちに殺された、あの磯崎以外にはいない。記憶力には自信があるから間違いない。
宇佐美はしばらくの間、おじいさんの話も耳に入らずに、ただ驚愕するしかなかった。
死んだ人間がここに訪れた。そんなことがあり得るはずがない。
だが、宇佐美は自分を落ち着かせるために、きっと別人だ。そう思いこむことにした。そうすると少しだけ落ち着くことができた。
「で、今日は一体何の用なんだ? 孫なら今は部活中でいないぞ」
その言葉を聞いて宇佐美は少しだけホッとした。どうやら学校には行けているようだ。
それもつかの間、宇佐美は慌てて菓子入りの紙袋をおじいさんに渡した。
「つまらないものですが、お受け取りください」
おじいさんはそれを受けとると、中身を確認せずに、自分の右側に置いた。
「それで……今日は鈴夏さんのその後についてお聞きしたいのですが、よろしいでしょうか」
「それはなぜですか?」
正直こんな答えが返ってくるとは予想していなかった。
「い、いえ。もしあの後同じような事件に巻き込まれているなら――」
「それをやるのはここの管轄の警察の仕事だろう? それにあの時、保護された交番で孫に慰めの言葉すらかけてくれなかった警察が今さらになってなぜそんなに孫のを心配する。君は本当に警察官か?」
「…………」
宇佐美は黙るしかなかった。とても卑怯だとは思うが黙秘権だ。だが、ずっと黙っているのはとても情けなく思えたから、宇佐美は真実を話すことにした。
「じ、自分はあの時お孫さんが男たちに暴行されるのを目撃した者です」
その時のおじいさんの顔はとてつもなく恐ろしいものに見えた。まるで鬼のように。
しかしまだ何も言わない。話を続けろと言っているようだ。
「自分は……あの時お孫さんから助けてくれと言われました。しかし自分は助ける勇気もなく、見てみぬふりをしました。自分はそれから……」
言葉がうまく出てこない。なんと言えばいいのかがわからない。言葉は頭の中にいるのだが、うまくまとまらない。
するとおじいさんが言う。
「つまり君は俺の孫を見捨てたにも関わらず、俺の前にぬけぬけと来たのか」
その声は怖かった。
「帰れッ! ここは君の来るべき場所ではない!!」
宇佐美はその言葉を聞き、すみませんでした。と深々と土下座をした後、家から出ていった。
少し時間が経過し、和室。
「光太郎君、あれで良かったのかい?」
まだ彼がお茶をすすっているところに、一人の男が声をかけた。
「あなたはッ! ウルトラセブン! すみません、すぐにお茶を――」
「――いや、いいんだ。それに、
「わかりました。それで良かったのか、とは?」
「君には彼がメビウスだとわかっていたんだろう? それを承知でわざと君は彼にきつい言葉を浴びせた」
「やっぱりモロボシさんにはバレバレですね……。でも、あれは俺の本心です。だれだって孫が殴られるのを見てみぬふりをされたら怒ります」
「……彼は勘違いしているんだ」
その言葉におじいさんは、どういうこと? という表情になった。
「彼は君の孫が男たちに性的な暴行を受け、その人生をめちゃくちゃにしてしまったと思っている。無論、見過ごしたことは悪いことだがな」
「……あの時、モロボシさんが孫を助けてくれなければ孫は本当に性的暴行を受けるところでした。傍観者のあなたが助けてくれたおかげで」
「……僕は、そんなことを言われるほどいい人間ではない」
モロボシは最後にこう言う。
「ヒカリが彼の命を狙っている。この間来た磯崎という男だ。君はもちろん僕にも力はあまりないが、できる限り彼の手助けをしてあげてくれ。少なくとも僕はそうするつもりだ」
モロボシはそう言うと、いつの間にかそこから消えていた。
宇佐美、下山中。
疲れているせいもあって、かなりペースが遅くなったからだろう。現在の時刻は5時30分くらいだ。周囲にはかなりの大きさの木々が立っていて、そこから漏れる木漏れ日の色は夕日色だ。
風が吹き、それによって木々の枝たちが揺れてがさがさがさ、というなんともいえない美しい音を出す。その音を聞いている瞬間だけは、自分の罪が消えたような感覚かする。優しい音だ。
宇佐美はついつい、天を仰ぎ見る。
葉っぱが揺れる光景はどこか幻想的で、美しい。
その時だったのだ。女の子の悲鳴が聞こえたのは。
「誰かっ! 誰か助けて!!」
宇佐美は急いで声がした方向に走り出した。
※この話はフィクションであり、実在の人物、団体、国家などとは何の関係もありません。そして、もしも誤字などがありましたらご報告をお願いいたします。感想お待ちしています。