11月も終りに近付き、寒さが厳しくなってきたある日の朝。
都内の学校に通う高校生、朝田詩乃は重い足を引きずるように通学路を歩いていた。
一歩前へと進む度に気分は暗く沈みこみ、このまま踵を返して来た道を引き返したいという思いに捕らわれる。彼女にとっての学校とは、決して心休まる場所ではない。あの収容所めいた空間に向かうことを考えただけで憂鬱な気分になってくる。
毎日毎日、無気力で無個性な教師たちの講義を聞かされ、幼児期から何一つ成長していないのではないかと疑いたくなるほど幼稚な連中と並んで体操だの何だのすることに、どれほどの意味があるというのか。ごく例外的に、有意義と思える授業をする教師もいるし、尊敬すべきところのある生徒もいるが、彼らの存在が詩乃にとって必要不可欠というわけでもない。
入学してまだ1年目であるにもかかわらず、今の自分が半ば強制的に所属させられている『高校生』という集団から少しでも早く解放される日を、詩乃はただひたすらに待ち望んでいた。
――なぜこんな思いをしてまで、あんな監獄のような場所に通い続けているのだろう?
これまでにも幾度となく繰り返した自問の言葉が頭をよぎる。
何一つ得られる物の無い、ただただ憂鬱なだけのあの空間。そんな場所にどうして通い続けなければならないのか。どれだけ考えたところで自分の置かれた状況が変わるわけではないと分かってはいても、その思考を止めることはできない。
もとより自分は高校に進学するつもりなどなかったのだ。高校生活に対する憧れなどはまるでなかったし、わざわざ進学してまでやりたいことやなりたいものがあるわけでもない。ゆえに、詩乃は中学を卒業したらすぐに働くか、専門学校で就職のための訓練をしたいと望んでいた。そこには、少しでも早く自活できるようになりたい、自分の面倒は自分で見られる、誰の助けが無くても生きていけるような人間になりたい、という思いもあっただろう。
しかし、現在の実質的保護者である祖父母はそんな詩乃の考えに強く反対した。詩乃にはいい高校、いい大学を出て、まっとうな人生を送ってほしい。そうでなくては、死んだあなたのお父さんに申し訳が立たないと。それ以上の抗弁ができなかった詩乃は、ならばせめてと、地元から遠く離れた土地での進学を望んだ。そして必死の猛勉強の末、そこそこ名の通った都立高に進学したのだ。しかし結局、詩乃は郷里での中学時代と同じように、残る学生生活の日々を儀式のごとく数えながら過ごしている。彼女の足を前へと進めているのは、もはや己の境遇に屈したくないという、ただそれだけの思いだ。
ふと、冷たい風が通学路を吹き抜けた。セルフレームの眼鏡の内側で、彼女は僅かに顔を顰める。
寒いのは苦手だ。ただでさえ薄弱な登校への気力がさらに削られる思いがする。詩乃は深い溜息を吐きながら、冷えてきた外気から顔を守るように白いマフラーを口元までしっかりと巻いた。
やがて学校に到着し、玄関で靴を換えてから、1年生の教室に向かって廊下を歩く。そろそろ外気も冷えてきたためか、廊下に出ている人影はまばらだ。そんな中で詩乃の姿を目に留めた者は、一人の例外も無く彼女から視線を逸らしていく。まるでそこには誰も存在していないかのように振る舞う生徒たちに、詩乃もあえて話しかける様な真似はしない。
今年の一学期……つまりは詩乃が入学してからまださほど時間も経っていない頃に、全校生徒に向けて暴露された彼女の過去。それが表沙汰になって以来、この学校内で詩乃に話しかける生徒はほとんどいなくなった。
しかし勿論、良い意味でも悪い意味でも、例外はいる。
「あ、朝田さん。おはよう」
教室に入ったところで詩乃は一人のクラスメイトに挨拶された。声をかけてきたのは黒縁の眼鏡を掛けた髪の長い女子生徒だ。このクラスの委員長でもあり、見た目通りの真面目な性格をしている。その隣には、彼女と仲の良い栗色の髪を二つに束ねた女子生徒が座っていた。
二人とも友達と呼べるほど親しいわけではないが、クラス内で孤立し避けられている自分に対しても挨拶程度とはいえ普通に話しかけてくれる数少ない生徒だ。逆に言えば、それ以外の生徒は決して詩乃に話しかけようとはしない。教師ですら、彼女を直視することを避けていた。
「おはよう。今日は寒いね」
詩乃も形式的な挨拶を返し、教室後ろの自分の席へと向かう。
隣や前の席と少し不自然に距離の開いた机に鞄を置いてから巻いていたマフラーを外し、椅子に座って鞄の中身を机に移し替える。それから教師が来るまでの時間を自習に充てるために英語の教科書とノートを開いた。
しかし、いつもよりも若干騒がしい朝の喧騒に集中が乱されてしまい、内容が頭に入ってこない。周囲の声を内心鬱陶しく思いながら、詩乃はそれとなく周りを見渡してみる。どうやらこの日の朝の教室は少しばかり浮ついた空気が流れているようだった。
「転校生ってどんな子かな?」
「外国からの編入だって聞いたよ」
「じゃあ留学生?」
「いや帰国子女かも」
クラスメイト達の間ではそんな言葉が交わされている。
彼らの言う通り、今日このクラスには転校生――いや、編入生が来ることになっているのだ。
教壇の隣には一組の机と椅子が準備されており、生徒たちは時折そちらを見ながら会話に興じている。詩乃はそんな同級生たちの様子を冷めた表情で横目に見ていた。
新しいクラスの仲間が来たところで自分には関係が無い。彼女のような生徒と接点ができるとは思えないし、仮にできたとしても、詩乃の過去を知ればすぐに離れていくに決まっている。どうせ離れていくのなら、最初から関わらなければいい。その転校生とてお近づきになりたくはないだろう。血で汚れた人殺し、殺人者の女子高生などとは……。
詩乃はどこか荒んだ気持ちで手元に視線を落とすと、自習の続きに取り掛かった。
やがてHR開始のチャイムが鳴り、雑談に興じていた生徒たちも各々の席に戻り始める。同時に、教室前方のドアを開けてクラスの担任教師が入ってきた。
まだ三十路手前の若い男性教諭は教壇に立って教室内を軽く見渡してから徐に口を開く。
「昨日言った通り、今日からこのクラスに入った編入生を紹介する。
担任教師に呼びかけられて入ってきたのは、詩乃たちと同じブレザーの制服を着た一人の男子生徒だった。教壇に立つ教師の隣で立ち止まったその生徒を、詩乃は何とはなしに眺めてみる。
ぱっと見、さほど目を引くような派手な容姿ではない。髪は染めた形跡が全く無い純日本風の黒髪。東洋系の顔立ちだが、肌の色はそうと見えないほどに白く、長めの前髪の隙間から見え隠れしている目つきは真面目で大人しい人柄を感じさせる。線の細い顔立ちはやや童顔気味で、年齢の割にどことなくあどけなさが残っていた。決して背が低いわけではない、むしろ高校1年生としては長身に入る部類でありながら、その幼げな顔立ちと細身で華奢な体格が相まってか、実際よりも少し小柄な印象を与えている。
少なくとも見た目だけで言えば、全体的に優しそうな、あるいは人畜無害そうな大人しい性格を想像させた。
「見た目は結構悪くないね」
「そうだね。ちょっとカワイイ感じかな」
近くの席でそんな言葉が交わされる。
確かに、取り立てて目を引く美形というわけではないが、全体的な見栄えは悪くない。顔の輪郭や目鼻立ちは小作りに整っており、幼げながらも好感の持てる顔立ちをしている。目つきや雰囲気が若干頼りなさそうではあるが、決して嫌な感じはしない。
そんなことを考えていると、先生に促された件の少年が口を開いた。
「初めまして。
流暢な日本語だ。本人の言う通り、言語で不自由することはなさそうである。
簡単に紹介を済ませたところで、担任は転校生の席について話し出した。
「じゃあその机を持って……どこにするかな。夜代、視力は大丈夫か?」
「ええ。一番後ろでも見えると思います」
「なら窓際の最後尾が空いているから……」
そこまで言って、担任教師は思わず「しまった」という風に顔をしかめた。クラスメイト達の間にも緊張が走る。
このクラスの席順は縦横がそれぞれ六列。両端の列だけは前から五番目までで、左右の最後尾が無人になる形になっている(人数は34人。ちなみに不登校が一人)。そして最後尾の一番窓側に座っているのが詩乃だった。そのすぐ隣、担任教師が口にした窓際には一席分の空白がある。普通に考えればそこに転校生を座らせるのは妥当と言えるのだが、この場合は事情が違った。このクラスでは……いや、この学校では不用意に触れないことが暗黙の了解となっている生徒、詩乃がいるからだ。
生徒たちはチラチラと視線を後ろに向けては詩乃の方を窺い、教壇では担任教師が何かを言おうとして、結局は言い淀んでいる。
教室内には、いつの間にか形容しがたい嫌な雰囲気が漂っていた。居心地の悪い沈黙と不本意な注目を浴びて、詩乃は内心歯噛みする。
しかしそんな周囲の様子には構わず、夜代は一言「わかりました」と応えると、教室内が沈黙に満たされる中、教壇の横にあった机を抱えて迷いの無い足取りで詩乃の傍へと移動してきた。そのまま彼女の隣で机から椅子を下ろし、皆が呆気にとられているうちにさっさと鞄の中身を机に移し替えてしまう。そして自然な調子で隣の詩乃へと笑いかけた。
「はじめまして。これからよろしく」
久しく向けられたことのない、見た者に好感を抱かせる優しげで屈託のない笑顔。
普段慣れていない態度に詩乃はどう返答すべきかわからず、咄嗟に「あ、うん」と意味の無い言葉を返す。
なんとも形容しがたい、居心地の悪い空気が教室に漂う中、
「では夜代、分からないことがあったらクラス委員の鹿島に聞きなさい。鹿島、後は頼んだぞ」
基本的に事なかれ主義の担任教師はやや早口にそれだけ言うと、クラス委員の返事も聞かず、そそくさと教室から出ていった。
担任が去った後も口を開く者はいない。誰もが無言で成り行きを見守っていた。何人かの生徒は時折詩乃と夜代が並んで座っている教室の隅を窺い見るが、すぐに目を逸らしてしまう。他の者たちは近くの生徒と無言で視線を交わし合うばかり。転校生も空気を読んでいるのか、それとも単に気にしていないだけか、何も言わずに時間割と机の中の教科書を見比べている。
微妙な空気の中、朝のホームルームの時間だけが過ぎていく。結局その教室内の雰囲気は、始業のチャイムが鳴り一時間目の教師が来るまで解消されることはなかった。
一時限目の授業が終わり休み時間になっても、教室内には微妙な空気が漂っていた。
居心地の悪さは最初ほどでも無いが、それでもどこか落ち着かない。そんな表情をしている者が教室のそこかしこにいる。
外国から来たという話題性抜群の転校生を生徒たちが質問攻めにする、という漫画などではお決まりの展開も起こらなかった。もっとも、そんなお約束はフィクションの中だけの話で、現実の都会の高校生というものはお互いに適度な距離感を求めるのが一般的なのかもしれないが。
とはいえ、それでも大抵はクラスのお調子者や気さくで社交的な生徒などが転校生に色々と話しかけたりするものなのだが、今回に限ってはそれもない。理由は簡単。件の転校生の隣に詩乃が座っているからだ。
クラスで皆から避けられ孤立している彼女が隣に座っていることで、教室内にはなんとなく彼に話しかけづらい雰囲気ができてしまっていた。そんな周囲の様子にも頓着せず、件の転校生はといえば、登校初日の最初の休み時間でありながら、早速鞄から本を取り出しては読書を始めてしまっている。表紙を見てみても、そこには日本語でも英語でもない言語が書かれており、何を読んでいるのか見当もつかない。
彼自身には決して人を拒絶する雰囲気は無いのだが、帰国子女という特異性が逆に周囲の人間の関わろうとする意志を削いでいるようだった。詩乃は詩乃で、気を利かせて席を外そうかとも思ったのだが、それはそれで何だか屈してしまったような感じがして良い気分ではない。結局、彼女もその隣で文庫本を取り出して読書に興じている振りをする。
そうして微妙な雰囲気のまま休み時間は終わり、次の授業の教師が入ってきてしまった。
(なんで私がこんなことで気を揉まなきゃならないんだか)
内心でそう独りごちながら、詩乃は本を片づけると机から教科書を出した。
やがて落ち着かない空気が解消されないまま午前中の授業が終わる。そうして昼休みとなった頃。
「夜代君はお弁当派なんだ。美味しそうだね」
このままではダメだと感じたのか、クラス委員長の
対する転校生は、二人を見上げながら自分の机の上にシンプルな弁当箱を広げていた。細身な外見の割に大食いなのか、そのサイズは結構大きい。
「私たちも一緒して良いかな?」
親しみやすそうな笑顔を浮かべながら二人が昼食に誘う。
「ああ、良いよ。どうぞ」
朝からこっち、自分からは誰とも口を利かなかった夜代ではあるが、人付き合いが苦手というわけではないらしく、こちらもまた二人に向けて軽く笑顔を浮かべながら快く頷いた。
それぞれ自分の弁当を手にやってきた二人は、夜代と詩乃の前の椅子を引き寄せ、彼の机を挟むようにして向かい合う。その際、彼女たちは詩乃の方にも軽く会釈をしてきた。詩乃も会釈を返しながら、横目で三人の様子を窺う。いつもは教室を出てどこか一人になれるところで食べるのだが、何となく今日は席を外すのが躊躇われた。周囲では教室に残った生徒たちが遠巻きにこちらを見つめている。
「それで、夜代君はどこから来たんだっけ? 外国育ちなんだよね?」
「んー……最後にいたのは東欧だったかな。といってもこっちに来たのは半年くらい前だけどね。少し前までは、編入試験のために中学レベルから高校一学期分の勉強をしていたもんだから」
「ふぅん。引っ越してきたのはどうして? 親の転勤とか?」
「厳密には違うけど、似たようなものかな。今は学校近くのマンションで暮らしてる」
「へぇ……。じゃあさ、外国ってどんなとこ行ってたの? いろんな所見て回ったんでしょ?」
「いや、別に観光地巡りしてたわけじゃないから。取り立てて特別な所には行ってないよ。まぁ、国によっては日本と色々違うところもあったけどね」
詩乃の隣では、朝の空気が嘘のように和やかな会話が交わされる。
転校生の少年は決して非社交的な人物ではなく、話しかけてみると中々気さくな性格だった。口や目もとに柔らかい笑みを浮かべながら、穏やかな調子で会話に興じる。
「あ、そういえば紹介まだだったね。うっかりしてた」
鹿島はたった今思い出したというような顔をすると、自分の方を指差して言った。
「私は
「それで私が
対する転校生は、やはり柔和な笑みを浮かべたまま、改めて二人に名乗った。
「ん、夜代詠士。こちらこそよろしく」
それから先は、夜代が二人から質問を受け、それに答えるという形で会話が進み、三人は他愛もない話を続ける。そして昼休みが終わった時には、教室内に漂っていた微妙な空気が若干薄れたように感じられた。
「では、資料集を出して下さい」
「あ……」
その日最後の授業である世界史の授業の時、詩乃の隣の席で小さく漏れた声が聞こえた。
詩乃がそちらを見やると、転校生の夜代が困ったような顔をして机の中を覗き込んでいる。それから彼女の方に向き直ると、申し訳なさそうに手を合わせた。
「ごめん。資料集見せてもらえないかな? 教科書は全部用意したんだけど、それ以外の教材はまだ手元に無くて……」
詩乃は微かに躊躇ったものの、それでも頼まれた通り資料集を見せることにする。取り立てて断る理由も無いし、夜代が窓際に座っている以上、隣の席には詩乃しかいない。
もっとも、詩乃が他の生徒たちから避けられている理由を知った時、尚もまだ彼がこんなふうに頼んでくることがあるかはわからないが。
彼女が小さく首肯すると、夜代は小声で「ありがと」と言い、席を隣に寄せてきた。互いの机を合わせた状態で、一冊の教材を二人して覗き込む。学校という空間においてはさして珍しい光景でもない。が、それを普通と取れない者もいた。
教室の反対側、廊下側の列の前の方から、二人を忌々しそうに見ている者がいる。視線に気付いた詩乃がそちらを見やると、目が合ったその女子生徒は一瞬だけ歪んだ笑みを浮かべ、そっぽを向くように黒板へと向き直った。
――どうやら面倒なことになりそうだ。
詩乃は内心で嘆息しながら、先行きの不安をあえて頭から追い出して教科書に目を戻す。それからほんの少しだけ隣に視線を移すと、夜代は詩乃や先程の女生徒の様子にも気付かず、真面目にノートを取っているところだった。その時、こちらが見ていることに気付いたのか、夜代が彼女を見返しながら「何?」というように軽く首を傾げる。詩乃は「何でもない」というふうに首を振って視線を手元に戻した。
このあと何が起こるのかを予想しようとして、すぐさま考えるのを止める。分かり切ったことだ。何がどうなるにせよ、目の前の転校生が他の皆と同じように自分から離れていくのは避けられないのだから。明日か、明後日か、あるいは今日中にでも。このクラスにいる以上隠し続けることはできないし、彼女の過去を知れば、夜代もすぐに詩乃に対して拒絶の目を向けるだろう。
やがて終業のチャイムが鳴り、この日最後の授業が終わった。
教師が出ていくと同時に教室のそこかしこで人が集まりだす。そしてところどころで会話が起こり始めた。これから遊びに繰り出す者、友人の家に伺う者、家に真っ直ぐ帰る者と、それぞれの目的に応じてこの後の計画を話し合い、あるいは無言のまま手早く荷物を纏めて足早に教室を出ていく。
辺りが喧騒に包まれる中、夜代はくっつけていた机を離しながら詩乃の方へと振り向き軽く頭を下げた。
「ありがとう。助かったよ。……えっと、名前訊いていい?」
「……朝田」
「ありがとう朝田さん。それじゃまた明日ね」
屈託のない笑顔で礼を言うと、夜代はノートや教科書を鞄に仕舞い立ち上がる。
その時、帰ろうとする夜代の元に三人の女子生徒が近付いて来た。先程こちらの様子を窺っていた生徒、遠藤とその取り巻きたちだ。
彼女達はこの学校で詩乃に話しかけてくる例外的な生徒だった。もっとも、さゆりや香苗と違い“悪い意味”での例外だが。
遠藤は夜代の傍まで来たところでニヤリと口角を吊り上げ、それから詩乃の方に目を向けると、わざとらしく大げさに驚いたような声を上げた。
「あら朝田さん。早速転校生と仲良くなったの? 何も知らないのを良いことに、早くも唾付けたんだ。真面目しそうな顔して、随分と手が早いのね」
それから離れた席にいるさゆりの方を振り仰ぎながら、教室中に聞こえよがしな声で話しかける。
「ちょっと委員長、ちゃんと教えたの? 朝田さんのこと。犯罪者の癖に、いたいけな少年に色目使ってるわよ」
その言葉を聞いて、遠藤の取り巻き二人がクスクスと笑い声を洩らした。
さゆりが決まり悪そうな顔で詩乃から目を逸らす。彼女は他の生徒に避けられている自分に対しても色眼鏡を使わない数少ない人物ではあるが、かといって周囲から孤立するリスクを負ってまで自分の味方をしてくれるほど、親しいわけでも正義感が強いわけでもない。
詩乃を庇おうとする者がいないことに満足げな笑みを浮かべながら、遠藤が再び夜代の方へと向き直る。
「転校生君……夜代って言ったっけ? この子には気をつけた方が良いよ。大人しそうに見えて、実は人殺しだから」
隣で交わされる言葉に、詩乃は唇を噛み締めながらも反論はしない。
対する夜代は、困惑したような顔で目の前に立つ遠藤と席に着いたままの詩乃を交互に見ていた。
それはそうだろう。突然、目の前の女子高生を指して“人殺しだ”などと言われても、信じる信じない以前に意味が分からない。
そして、それがわかっているからこそ、遠藤はさらなる告げ口を続ける。
「海外にいたんじゃ知らないだろうな……いいよ、教えてあげる。実は五年くらい前にさ、東北の田舎の方で拳銃強盗事件があったんだけど、その時犯人だった男が死んでるんだよね。それでさ、新聞じゃ拳銃の暴発による被疑者死亡ってことになってるんだけど、ホントはこの女が強盗の銃を奪い取って撃ち殺したらしいのよ」
「拳銃? ほんとに?」
そう言って夜代が軽く目を瞠りながら詩乃の方を見やる。対する詩乃は目を伏せたまま何も言わない。
「地方の小さな町で起こったことだしね。現地じゃ皆知ってるよ。そのせいで地元にはいられなくなってこっちに来たって話だし。恐いよねぇ。小学生の頃から人殺しなんて、将来どんな奴になるかわかったもんじゃないよ。なんでこんな危険な奴が野放しにされてるんだろうねぇ」
そう言って、遠藤は詩乃の方を横目で見やりながら唇を吊り上げて笑みを作った。他者をいたぶることに快感を見出す、嗜虐的な笑み。その顔は彼女に向かって『お前に友達なんかできねぇよ』と言っているように感じられた。
詩乃はただ黙って下を向く。
どうでもいい。クラスメイトに避けられたって、周りの人たちに嫌われたって、どうでもいい。
別に友達なんか必要ない。仲間なんかいなくて良い。遠藤が自分のことを何と言おうと、そんなことは気にしない。彼女の話を聞いた夜代が自分を避けるようになったって、そんなこと、私にはどうでも……
心を凍て付かせ、感情を殺し、ただただ静かな機械人形になろうと努める。機械は、他者の温もりなど求めない。機械は、人恋しさなど感じない。
しかし、そんな詩乃の様子には気付かず、夜代は分かったのか分かってないのか微妙な顔で「ふーん」と呟いただけだった。それを見た遠藤の顔が、不満げに歪められる。
「もしかして信じてないの? ほんとだよ? 学校中でも噂になってるくらいだし」
そもそもその噂を流したのが自分自身であるということをおくびにも出さずに遠藤は言うが、
「別に信じてないわけじゃないよ。そんなことがあったんだな、って思っただけ」
やはり何でもなさそうな顔で夜代は言った。
その顔には、詩乃に対する忌避も嫌悪も浮かんではいない。ただ今の話を言葉として聞いたという以上の意味を持たない、そんな顔だった。
「意味ちゃんとわかってる? 人殺しだよ。気持ち悪いでしょ?」
「いや別に? 死んだのが強盗ってことは正当防衛だったんでしょ? 悪いのは一方的に相手の方じゃないの? 朝田さんを恐がる理由……ましてや責める理由なんて、まったく無い気がするけど?」
不思議そうな顔でそう応える夜代に、遠藤が目元を歪めて苛立ちを見せる。
「普通小学校のガキが強盗から拳銃奪って人殺す? どう考えても頭イカれてんでしょ。きっと生まれつきの人殺し、危険人物なんだよ。そんな奴は隔離でもしてもらわないと、いつまた同じこと繰り返すかわかったもんじゃないわ」
そう思わない!? と言いたげな遠藤に対し、夜代はやはり柔和な笑顔のまま、どうでもいい事を語るように淡々と嘯く。
「まぁ普通じゃないのは確かだね。さすがに誰にでもできることだとは思えないし……。けどそれだけでしょ? 普通じゃないことがイコール悪だなんて、少なくとも俺はそうは思わないな。銃だろうとナイフだろうと、正当防衛である以上それが犯罪になることはないはずだよ」
言って、夜代は軽く肩をすくめてみせる。
「それに人を殺すのに小学生も大人も関係無いよ。大人でも子供でも、状況次第じゃ人を殺し得る。同じように追い詰められた状況でも、人を殺すかどうかはあくまで個人差だし、誰がどうかなんて傍目からじゃ分からないよ。実際同じ状況になったら朝田さんじゃなくても殺してたかもしれないしね。それなのに、たまたま現実にそういう目に遭ったってだけで、その人一人を危険視するなんて馬鹿らしいと思うな。実際、悪いことをしたわけでもないんだしね」
「でもさ、わざわざ地元から逃げてきたんだよ。他にも何かやってたかもしれないでしょ。それどころかもっとヒドイことに手を出してる可能性すらあるじゃない」
「さあね。さすがにそこまでは俺にもわからないな。ただ少なくとも俺は、相手が自分を殺そうとでもしてこない限りは、過去に何人殺していようが、その人を特に忌避するつもりはないよ。猟奇殺人を繰り返してきた快楽殺人者ならともかく、こちらに殺意や害意を向けてこないうちは、殺人犯だろうが窃盗犯だろうが気にしないね」
そう言って夜代は言葉を締めくくった。
言葉を紡いだその顔には何一つ含むところが見受けられない。強がっているわけでも、詩乃を擁護しようとしているわけでもないだろう。ただ思ったことを思った通り口にしただけ、そんな面持ちだった。
「じゃ、また明日ね。朝田さん」
最後にそれだけ言うと、夜代は今度こそ鞄を持って教室を出た。その後ろ姿を、遠藤たちが呆気にとられた顔で見送っている。
しかし誰よりも驚いた顔をしていたのは、当の本人である詩乃の方だった。