ガイストの弾痕   作:嘘つき

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3.虚構の友達

 

 

 

「え? それじゃあ《ヘカート》はその男に奪われちゃったの?」

 

 差し向かいでカプチーノを飲んでいた少年が身を乗り出すようにして声を上げる。

 対する詩乃は傍目にも落ち込んでいることが明らかなほど沈んだ表情で小さく頷いた。

 

「うん、まあね……。取り返そうにも力の差は明白だし、仲間も皆やられちゃってて……どうすればいいのか考えているうちに見失っちゃってさ」

 

 そう言って、詩乃は無念そうに溜息を吐く。両手に持ったミルクティーのカップから立ち上る湯気をぼんやりと見つめるその瞳にも覇気が無い。正面に座った詩乃と同年代の、しかしぱっと見は中学生くらいに見える小柄で童顔な少年は、そんな彼女に気遣わしげな目を向ける。

 現在二人がいるのは学校からほど近い区立図書館の中にある喫茶スペースだ。遠藤たちが転校生の予想外な反応に対して呆気に取られている隙に自身も教室を後にした詩乃は、放課後、ここで数少ない友人である新川 恭二(しんかわ きょうじ)と落ち合っていた。

 

「……よっぽど強い相手だったんだね。朝田さんが……シノンが手も足も出せずにやられちゃうなんて」

 

「まあ、もともとスナイパーが接近戦に持ち込まれたら、その時点でまず勝ち目はないんだけどね。それを抜きにしてもとんでもない相手だったのは確かかな。

 信じられる? 銃で武装したプレイヤー五人をほとんどナイフだけで倒しちゃうんだよ?」

 

 その時の光景を思い出して、詩乃はぶるりと肩を震わせる。

 二人が話しているのは、彼らが知り合うきっかけにもなったとあるフルダイブ型オンラインゲームでの話だ。完全(フル)ダイブ型、すなわち仮想の世界へと完全に入り込んで(ダイブして)プレイする、従来のそれとは全く違った新世代型オンラインゲーム。恭二と詩乃の二人は、俗に言う“VRゲーム”の中でも特に有名なFPSゲーム《ガンゲイル・オンライン》というタイトルをプレイしている。とりわけ詩乃はその世界におけるプレイヤーの中でも優れたステータスと卓越した技量を有し、《GGO》内ではトップクラスの実力を誇る恐るべきロングレンジ・スナイパー《シノン》としてその名を轟かせていた。

 そして、そんな彼女を破ったという件の男。無論、スナイパーにとって接近戦が鬼門である事を考えれば敗北自体はさして不自然なことでもないのかもしれない。しかし、ただ強いというだけではなく慎重な性格でもある彼女が、そこまで接近を許したという時点で相手が只者でないということは明らかだろう。

 

「ナイフだけ……か。確かにとんでもないね。結構長いことプレイしてるけど、さすがにそこまで出鱈目な奴はGGOでも見たことないよ」

 

 詩乃から先日の“戦い”について聞かされた恭二は、信じられないというふうに首を振った。

 それからふと、案じるような色を浮かべて訊ねる。

 

「それで、どうするの?」

 

「どうする……って?」

 

「これからのことさ。武装はどうするのかな、って。ヘカートはもう無いし……ひとまずは何か適当な武器で間に合わせて、他に狙撃ライフル探す? 対物用にこだわらなきゃ、威力は劣ってもそれなりに性能の良い武器が手に入ると思うけど……」

 

 その問いに対して、詩乃は答えあぐねたように一瞬だけ視線を彷徨わせた。

 今年の六月に知り合ったこの少年は、彼女にとってはこの街で唯一心を許せる――少なくとも敵ではない――存在であり、それどころかGGO世界では戦友と言ってもいい間柄だ。

 ゆえにこそ、自身の悩みというか困り事を正直に打ち明けたわけでもあるし、しかしだからこそ、直接には言い辛い部分もあるにはある。自らの弱みを見せることができる数少ない相手であると同時に、赤の他人以上に無様なところを見てほしくない、近しい相手でもあるのだ。

 けれど結局、隠しても無意味と判断した詩乃は胸の内を正直に話すことにした。

 

「うーん……本当のこと言うとさ、あの銃は私にとってあの世界での最初で最後の相棒にするつもりだったんだよね……」

 

 僅かに目を伏せながら嘆息交じりに言う。

 《PGM・ウルティマラティオ・ヘカートⅡ》

 冥界の女神の名を冠する、あらゆる敵に死をもたらす銃。

 そこに感じた、冷酷なる魂。武骨な銃身に込められた、確かな力と強靭な意思。何ものにも屈せず、揺るがず、流す涙など一滴も持たない。自身がそうありたいと願う様を具現化したようなその姿に、彼女は憧れと同時に強い愛着をも感じていた。

 だからこそ、それを失ったことに対する喪失感は、あまりにも大きい。

 

「え……? じゃあ朝田さん、GGO止めちゃうの?」

 

 恭二の眉が傍から見てもわかるくらい悲しげに垂れ下がった。それを見て、彼女も少しばかり申し訳ない気持ちになる。

 だからというわけでもないが、弱々しくも努めて笑顔を浮かべながら、詩乃は首を横に振った。

 

「ううん。いちおう取り返すための努力はしてみるつもり。やられっぱなしで泣き寝入りするのもなんとなく癪だし。まずはオークションやショップで売りに出されているかを確かめて、なければ本人を探して交渉できないか試してみようかな。向こうは別にスナイパーってわけじゃないみたいだったし、自分で装備することはなさそうだったから……本人が必要としていないなら、うまくすれば買い戻せるかもしれない」

 

 取り戻せる確率は決して高いとは言えないが、さすがに何一つ足掻くことなく引き下がる気にはなれなかった。落ち込んでこそいたが、だからといって簡単に諦めることなどできるはずもない。もとより詩乃は相棒を取り戻すために可能な限り手を尽くすつもりだった。

 それを聞いた恭二はわかりやすいくらいに安堵した表情で大きく息を吐く。

 

「そっか……よかった。数少ない向こうとリアル両方の友達がいなくなるのは寂しいからね」

 

「私も、まだ向こうでの目的を果たしたわけじゃないし。そう簡単に諦めるつもりは無いよ。とにかく、できる限りのことはやってみる」

 

 そう言って、詩乃は少しだけ微笑んで見せた。

 

「頑張ってね。必要なら僕も協力するから」

 

「ありがとう。まあ、とりあえずは一人でいろいろやってみるつもりだけどね」

 

 そこでお互い目の前のカップに口をつけ、一旦会話を区切る。それからふと思い出したように恭二が話題を変えた。

 

「そういえば、うちのクラスに転校生が来たんだって?」

 

 少しばかり意外な言葉に、詩乃は軽く首を傾げる。

 

「よく知ってるね。誰から聞いたの?」

 

 恭二は詩乃のクラスメイトではあるが、もう長いこと学校に顔を出してはいない。二学期からこっち、ずっと不登校を続けているのだ。噂で聞いただけではあるが、どうやら所属していたサッカー部内で上級生から酷いいじめに遭っていたらしい。体格が小さく、また家が大きい医院を経営しているということで、格好の標的と見られたのだろう。チーム内での仲間外れや、練習という名目での虐待行為。カツアゲというほどあからさまではないものの、金銭的にもかなりの被害を受けていたらしい。それらが積み重なり、多大なストレスを抱え込んだ結果、恭二は学校に顔を出せなくなってしまった。現在は学校に行かない代わりに親の厳命である医大合格を目指して自宅学習に努めていると聞いている。

 とにかく、すでに何カ月も学校に来ていない彼が転校生のことを知っているのが、詩乃にとっては意外だった。

 

「ウチの生徒にもオンラインゲームをやってる人はいるから。リアルで知ってるわけじゃないけど、ゲーム以外でもネット上では会話したりするよ」

 

「成程ね」

 

 得心が言ったという風に頷く詩乃。極度のネットゲーマーである、恭二らしい理由だ。

 

「それで、転校生ってどんな人なの?」

 

「何? 興味あるの?」

 

「そりゃまぁ……不登校とはいえ、一応クラスメイトなわけだし」

 

 少しだけバツの悪そうな顔で恭二は答える。

 

「そっか……。別に、それほど変わった人じゃないよ。外国から来たってこと以外は、ごく普通の何処にでもいるような人だし」

 

 夜代と名乗った少年の大人しそうな顔立ちと人の良い笑顔を思い出しながら、詩乃はなんでもないふうに言う。実際、僅かとはいえ言葉を交わした限りでは、何の変哲もないごく一般的な男子高校生であるように思われた。

 今のところさほど接点があるわけではないが、少なくとも悪い人物でないだろう。

 

「ふーん」

 

「あ、でも……私の過去を知ってもまるで反応なしだったのは珍しいと言えば珍しいかな? 遠藤たちがわざわざ私のことをご丁寧に暴露してたけど、全く気にしてないみたいだった」

 

「ほんとに? そんな人、珍しいね」

 

 恭二が少しだけ驚いたように目を見開く。

 確かに、彼のように詩乃の過去を聞いてもまるで態度の変わらない人物はかなり珍しい。彼女の秘密を知ると、大抵の者は警戒心と嫌悪感を露わにして、自ずと彼女から離れていく。小・中学時代には面と向かって罵倒してくる者さえ少なからずいた。高校でも周りの反応は大同小異だ。もともと詩乃はあまり社交的な方ではなく、秘密が暴露される前から学校内に親しい友人などはいなかったが、忌まわしい事件にまつわる過去を知られてからは、皆あからさまに彼女を避けるようになっていた。

 社会という集団の場において、人殺しという名の烙印はそれだけ忌避されるべきものなのだ。詩乃の過去を知っても尚親しく口を利こうとする者は、今のところ彼女と同じく学校での居場所を失くした恭二くらいである。あまりそういった偏見を持たないさゆりや香苗ですら、あくまで排斥する側に回らないというだけであって、進んで彼女と親しげに振る舞ったり味方をしてくれるというわけではない。詩乃に接する態度にも、どこか腫れ物に触るようなぎこちなさがある。

 それに比べて今日転校してきた夜代の態度には、そういった負の感情がまったくもって見受けられなかった。詩乃を気遣って無理をしているというわけでもなく、おそらくは彼女の過去を本心から“どうでもいいこと”だと考えているのだろう。

 

「まぁ、表面上気にしてない風を装ってるだけかもしれないけどね。それを抜きにしても優しそうな人ではあったよ。性格も温厚そうだし。むしろ大人しい方かな」

 

「ふーん。それは……大丈夫かな?」

 

「何が?」

 

「いや、あんまり大人しい人だと、色々と……」

 

 どこか心配げな声を漏らす恭二の顔に、嫌なことを思い出したというような陰が浮かぶ。その表情から、詩乃は恭二が何を言いたいのかが分かった。あまりにも大人しすぎる性格だと、自分や詩乃のようにいじめの対象にされてしまうのではないか。彼はそれを危惧しているのだ。

 それなりに名の通った進学校といえど、やはりいじめや差別というものは存在する。いや、むしろなまじ頭が良かったり外聞を気にしたりする分、裏ではより狡猾で陰湿ないじめが行われていた。

 今日入ってきた転校生は見るからに大人しそうな風貌で、傍目からはいかにも柔弱そうな印象を受ける。細身で華奢な体つきといい童顔気味で線の細い顔立ちといい、悪い生徒に目をつけられれば格好の的になってしまうだろう。それに教室で詩乃を庇った(本人にそのつもりはないだろうが)ことで、遠藤達からも目をつけられたかもしれない。彼女たちが詩乃の時と同じく彼を攻撃対象に定めてしまったら……

 

「……まぁ、心配したところで僕たちにはどうしようもないんだけどさ。いじめって、結局は当人の問題なわけだから」

 

 恭二がやや自嘲気味に言う。

 

「ん……そうだね。でも、いちおう明日学校で気をつけるように注意しとくよ。このままだと私のせいで面倒なことに巻き込まれるかもしれないし」

 

 とはいえ詩乃の方から話しかけるのも、それはそれで迷惑がかかってしまう恐れがある。ただでさえクラス内でタブー視されているというのに、そんな彼女が近付いたりなどすれば、余計に周囲の注目を集めてしまうだろう。内心で、少しばかり不安を覚える。

 かといって何か有効な対応策があるわけでもなく、結局その辺の答えは保留にしたまま二人は話題を変えた。

 その後、しばらくは取り留めもないことを話し、閉館時間が近付いたところで図書館を後にする。外に出た瞬間、詩乃は冬に近付きつつある外気の冷たさに首をすくめ、マフラーをしっかりと巻き直してから歩き出した。

 

「私は商店街のスーパーに寄ってから帰るけど、新川君はどうする?」

 

「それほど遠回りでもないし、途中まで送ってくよ」

 

 そう答え、恭二は詩乃の隣に立って歩き始める。

 アーケード街を連れ立って歩きながら、先程の話の続きをしていた時、

 

「あ、おい朝田ぁー」

 

 突然、通りに並ぶ二つの建物の隙間からつい数時間前に聞いた覚えのある、そして非常に聞きたくない声が聞こえた。

 反射的に体をすくませてから、ゆっくりと九十度右に向き直り、細い路地の奥を見やる。そこには、今日の帰り際に詩乃と転校生に絡んできた女子生徒、遠藤とその取り巻き二人の姿があった。真ん中に立つ遠藤は手の中で携帯端末をいじくっており、両横の二人は両手をポケットに突っ込んだ姿勢でニヤニヤ笑いながらこちらを眺めている。まるで獲物を見つけた捕食者のような目だ。

 よりにもよってこんなところで……。自身の不運を呪いながら、詩乃は微かに眉を顰める。無言のまま立ち尽くしていると、三人のうち一人が横柄な態度で顎をしゃくった。

 

「こっち来いよ」

 

 だが詩乃は動かず、小さい声で訊く。

 

「……なに?」

 

 途端、もう一人がつかつかと歩み寄ってきて詩乃の右手首を掴んだ。

 

「いいから来いよ」

 

 そのまま有無を言わせず路地の奥へと引っ張っていく。それまで不安そうな顔で詩乃と遠藤たちを交互に見ていた恭二が、慌ててその後を追った。

 商店街からは見通せない位置まで連れてこられた所で、正面に立った遠藤が詩乃とその後ろの恭二を、黒々とアイラインの入った吊り目で見下ろした。同時にあとの二人が退路を断つように詩乃たちの背後に立つ。

 遠藤はまず恭二の方をじろじろと眺め回した後その視線を詩乃へと移し、大粒のラメが光る唇を醜く歪めて嘲笑うような笑みを浮かべた。

 

「へぇ……教室で転校生に色目使ってたかと思ったら、今度は学校出てすぐ後に別の男とデートしてたわけだ。真面目そうなツラして随分と遊んでんだな朝田ぁ」

 

 教室にいた時とはまるで違う、粗雑で暴力的な口調。その目には獲物をいたぶる捕食生物のような濁った光があった。

 

「つうかよく見たら元ウチのクラスのヒキコモリじゃん。なに? あんたらデキてんの? はみ出し者同士お似合いだわ」

 

「それでこいつにはもう飽きたから転校生に乗り換えようとしてたわけか? とんだ尻軽だなぁ」

 

 次々と浴びせかけられる侮蔑や嘲笑に、詩乃はただ唇を噛んで耐える。後ろに立つ恭二は完全に委縮してしまっているようで、声も出せない様子だった。

 

「ま、そんなことはどうでもいいや。それよりさ、あたしら色々あって今ちょっと入用なんだよねぇ。悪いんだけどこれだけ貸してくんない?」

 

 そう言って指を一本立てて見せる。百円や千円ではなく、一万円という意味だ。

 詩乃は一瞬だけその指を見て、すぐさま視線を遠藤に戻して言う。

 

「そんなに持ってるわけない」

 

 すると遠藤は一瞬だけ笑みを消し、瞳に剣呑な光をよぎらせた後、再び醜く微笑んだ。

 

「じゃ、下ろしてきて。……ああ、彼氏君は置いていってね。それと鞄に、財布も。カードだけあればOKっしょ?」

 

 その言葉に、恭二がびくりと体を震わせる。彼は重度のネットゲーマーであり、普段の生活はほとんど引きこもりも同然だ。当然ながら体力は平均以下だし、体格も華奢で小柄である。身長は、同年代の少女と比べても小柄な詩乃と、ほとんど目線の高さが変わらないくらい。

 僅かとはいえ遠藤達の方が上背もあるし、そもそも恭二は他人と喧嘩できるような性質ではない。相手が女とはいえ、取っ組み合いになったら敵わないだろう。それが分かっているのか、遠藤は明らかにこちらを見下し、口元には嗜虐的な笑みを浮かべている。

 詩乃はかつての自分の愚かしさを強く悔やんだ。彼女たちを、一時は友達だと信じていたのだ。

 そして、当時の詩乃の愚かさが、今のこの状況を生み出している。

 

「あ、あの、お金なら僕が……」

 

 しどろもどろになりながら恭二が財布を取り出そうとする。しかしそれを詩乃が手で制した。

 そして真っ直ぐに遠藤の目を見据え、視線を逸らすことなくきっぱりと告げる。

 

「あなたたちにお金を貸す気は無い」

 

「は?」

 

 一瞬何を言われたのか分からないというような顔をした後、遠藤の顔には今まで以上の敵意と憎しみが浮かんだ。

 細められた両目に浮かぶ剣呑な光に竦みそうになるのを、詩乃はぐっと息を吸い込み腹に力を入れて堪える。

 

「テメェ……舐めてんじゃねぇぞ……」

 

 低い、どすの利いた声で威嚇する遠藤に、詩乃は敢えて挑戦的な瞳で睨み返した。

 そうすれば、さらに相手の敵意を煽ることになるのはわかりきっている。

 しかしそれでも、詩乃は負けたくない。引き下がりたくない。逃げたくない。屈したくない。

 遠藤らに……ではなく、自分自身に《弱い自分》を見せたくなかった。

 強くなりたい。この冷たく非情な世界の中で、たった一人でも生きていけるくらいに強く……それだけを願い、詩乃はこの五年間を過ごしてきたのだ。

 

「お前さぁ、新しくオトモダチができたからって調子に乗ってんじゃねぇのか?」

 

「あなたたちには関係ない。もう行くから、そこをどいて」

 

 低い声で詩乃が言う。

 しばらくの間、遠藤は詩乃の顔を憎々しげに睨みつけていた。しかし突然、その派手な色に光る唇が再び醜い笑みに歪んだ。

 嘲るような笑みを浮かべながら、遠藤がゆっくりとした動作で右拳を持ち上げる。一瞬身を竦ませた詩乃を見て、その目がいっそう加虐的に醜く歪んだ。

 遠藤は拳から人差し指と親指を伸ばし、その状態のまま人差し指の先端を詩乃の眼鏡のブリッジへと向ける。それを見た恭二が「あっ」と声を上げた。人差し指を突き付けられた詩乃の顔色が目に見えて蒼白になる。同時に全身をすうっと冷気に包まれたような感覚が走った。

 

「あ……ぅ………あ…………」

 

 目の前にあるのは、ただ手のひらで拳銃を模しただけの、幼稚なカリカチュアだ。

 だが詩乃にとっては、ただの子供の指遊びではない。その手の形を見ただけで……そこから、本物の銃を連想しただけで、詩乃の心に刻まれた深い傷跡が開いていく。

 

「か……は……ぁ……」

 

 両脚から徐々に力が抜けていき、平衡感覚が遠ざかっていく。

 路地裏の光景が色彩を失い、頭の中で高周波のような耳鳴りがどんどんと高まる。

 眼前に突き付けられた指先から目が離せない。呼吸と心拍が急激に加速する中、目の前の指先が黒い銃口へと姿を変える。

 

「ばぁん!」

 

 いきなり遠藤が叫んだ。途端、詩乃の喉から細く高い声が漏れる。

 眼球の裏で鮮血のような赤色が弾け、過去の映像が頭の中でフラッシュバックした。同時に体の奥から震えが込み上げてきて止めることができない。

 全身の感覚がますます薄れていき、やがて自分の意思では指先一つ動かせなくなる。

 

「クッフ……なぁ朝田ぁ、実はあたしの兄貴がモデルガン何個か持ってるんだけどさ、今度学校で見せてやろうか。お前好きだろ、ピストル。なんせ小学生の頃から人を銃で撃ち殺すくらいだもんなぁ……」

 

「……ぁ…………ゃ…………」

 

 舌が動かない。まるでいやいやをするように、詩乃は小刻みに首を振る。

 学校でいきなりモデルガンなんて見せられたら、その場で卒倒してもおかしくない。想像しただけで胃が収縮してしまう。脳裏で過去の情景が鮮明に甦り、詩乃はたまらず体を折った。

 記憶の奥底に刻まれた光景。黒光りする銃身。両手にかかるずっしりとした重み。

 鼻を突く、つんとした火薬の臭い。そして………赤黒い血に塗れた、人の命を奪った、己の手のひら………

 

「ぃ……ゃ………ぁ………」

 

 頭の上で醜く嘲るような笑い声が響く。背中で恭二が何度も詩乃の名を呼ぶ。

 その全てが頭に入ってこない。まるで脳内に分厚いフィルターがかかっているかのように、外界の情報がまともに意識へ届かない。ぼやけた視界の中で、右手に提げた鞄に誰かの手が伸ばされる。朦朧とした意識の中、詩乃はそれを防ごうと闇雲にふらふらと手を振るが、まるで力の入らないそれは相手を止めるには至らない。詩乃の横で膝をついていた恭二が遠藤たちを止めようとしたため、三人のうちの一人が恭二の脇腹を蹴飛ばした。地面に転がったところで、さらに上から踏みつけられる。痛みに呻く恭二の姿を見て、ようやく詩乃の意識が少しだけ正常に戻ってきた。

 

――なんとか、逃げなければ……いや、せめて巻き込まれただけの新川くんだけでも助けないと……

 

 心の中でそう念じ、必死に脚へ力を入れて立ち上がろうとした、その時―― 

 

「よーう、マキ。待たせたな」

 

 路地裏に聞き覚えのない野太い声が響いた。

 体を折って蹲ったまま、首だけを回して路地の入口の方を見やると、そこにはいかにも柄の悪そうな風体をした五人の男の姿があった。見る限り、どの男も詩乃たちより年上だ。皆が皆、個性の無い似たような髪型と服装をしている。脱色した髪や体の各所にはめたピアス、ゴテゴテと身に付けた安物のアクセサリー類が、見ための下品さと柄の悪さを助長していた。

 男たちは遠藤たちの方へ歩いてくると、地面に蹲る詩乃と転がった恭二を見下ろして首を傾げた。

 

「ん? 誰こいつら?」

 

「ホラ、あいつだよ。前に、あたしたちのこと警察に突き出しやがった」

 

「ああ、あの時の……」

 

 男は得心が言ったというように手を叩くと同時に、嫌なことを思い出したように眉を顰める。詩乃はそれを見て、内心で唇を噛んだ。

 最悪だ……こんな時に、よりにもよって遠藤たちの仲間が現れるなんて……。

 それも相手は全員が男。詩乃や恭二よりも年上で、遥かに体格の良い連中が五人も。

 男たちは、未だ体を折って浅い呼吸を繰り返す詩乃をじろじろと眺め回し、口元にいやらしい笑みを浮かべた。

 

「へぇ……この子が例の『人殺し』って奴か……。どんな悪そうなツラしてるかと思ったが、思ってたより可愛いじゃん」

 

 人殺しという言葉に、再び詩乃の体を震えが襲う。

 

「何? アンタこんなガリガリのチビ女が好みなわけ?」

 

「たまにはこういう子もいいだろ。確かにチョイ貧相だけど、その分いじめ甲斐がありそうでさ」

 

 男がそう言ってニヤニヤと笑う。遠藤たちよりもさらに数段醜い、人を傷つけることに喜びを見出す加虐者の笑みだ。

 

「ふーん。ま、いいや。それよりせっかくだから前回のお礼をしてあげた方が良いんじゃない? この女のお陰で警察にしょっ引かれるはめになったんだし」

 

「あー、それもいいな。丁度向こうに車止めてあるし。おいヤス!」

 

 最初に声を掛けてきた男がリーダー格なのか、慣れた様子で他の面子に指示を下す。

 

「そっちのガキは通報できねぇように適当にボコっとけ」

 

「りょーかーい」

 

 言うや、ヤスと呼ばれた男は地面から上体を起こしていた恭二の頬をいきなり殴り飛ばした。

 恭二の小柄な体が再び地面に転がったところで、さらに腹へと蹴りをぶち込む。ヤスは体を丸めて呻く恭二を、そのままサッカーボールでも蹴るみたいに無造作に蹴飛ばした。

 踏みつけ、踏みにじり、胸倉を掴んで引っ張り起こしては殴りつける。

 詩乃は相変わらず背筋を這い回る悪寒に体を震わせながら、その様子を見ているしかなかった。やめて、と大声で叫びたいのに、舌と喉が硬直してしまったように声が出ない。

 目の前で恭二が鼻血を出し、傷と痣だらけになっていく。しかし彼女も人の心配ばかりしている場合ではなかった。

 

「とりあえず、こいつは車のとこまで連れてこうぜ」

 

 そう言って、男の一人が詩乃の肩に手を掛ける。その感触に、詩乃の背筋をぞろりと不快感が這い上がってきた。

 同時に自分よりも遥かに分厚く大きな掌から感じる強い力と重圧に、恐怖と絶望が心を塗りつぶそうとする。

 

 ――いやだ……いやだ……

 

 どんなに胸の内で叫んでも、それが声となって出てくることはない。

 そのまま別の場所へと連れて行かれそうになった、その時――――

 

 

「何してるんですか?」

 

 

 薄暗い路地裏の空間に、今度は年若い少年の声が響き渡った。

 その場の全員が思わず路地の入口へと視線を向ける。

 通りの入口に立っていたのは、今日詩乃のクラスに転校してきたばかりの少年、夜代詠士だった。

 突然の闖入者に驚いた男たちは一瞬だけその動きを止め、次いで一様に苛立ちを滲ませた物騒な雰囲気を漂わせる。

 

「うるせぇな。取り込み中だ。とっとと失せろ!」

 

 シッシッ、と手を振りながら男の内の一人が言う。

 しかし詠士は困ったような顔をすると、躊躇いがちな口調で言葉を返した。

 

「そう言われましても……そこにいるのは一応知り合いですし、ましてや女の子……流石にこの状況で見ない振りを決め込むわけにもいかないんですけど……」

 

 すると今度は別の一人が彼に向き直り、つかつかとそちらへ歩いていった。

 そして見下ろすように詠士を睨みつけるや、苛立った声で怒鳴りつける。

 

「ごちゃごちゃうるせぇんだよ。消えろ!」

 

 怒声と共に、男は詠士の横面を殴りつけた。

 狭い路地に鈍い音が響き、詠士の顔が真横を向く。

 しかし倒れることもなければよろめくこともなく、詠士はすぐさま男に向き直った。

 

「…………先に手を出したのはあなたですよ?」

 

「だったらなんだ。もう一発いくかコラ!」

 

 そう言って男は詠士の胸倉を掴み上げる。

 睨むように見下ろしてくる男の目を見返しながら、詠士はやれやれという風に嘆息し、

 

「ふっ!」

 

 両手で自身の胸元にある相手の右腕の肘と手首をそれぞれ掴むと、左右から同時に押し込んだ。

 

「ぐぁっ!」

 

 相手の肘から先が外側に傾き、腕の関節を極められた男の上体も連動して同じ向きに大きく傾く。

 詠士はすかさず掌を返して逆方向に力を込める。今度は背中を折るようにして男が下を向いた。そのまま相手の腕を内側に倒しながら大きく重心を崩し、同時に地面を削るような鋭い蹴りで両足を払う。

 男は肘と肩の関節を極められているため詠士の力に逆らえない。右腕にかかる力に耐え切れず、相手は両足を浮かせてくるりと空中で一回転した。背中から地面に勢いよく投げ落されて、男は仰向けに倒れたまま痛みと呼吸困難で苦しげに呻く。苦悶に歪んだその顔面を詠士は躊躇なく踵で踏みつけた。鼻骨の折れる音と共に鼻血が噴き出し、その男は一瞬で意識を失う。

 詠士は何の感慨も無さそうな様子で地面に倒れた男から視線を外し、その目を路地の奥にたむろしたままの四人へと向けた。

 

「ヤロォ!」

 

 あっという間に倒された仲間を見て驚いていた男達の一人が、突然現れた少年に向かって怒声を上げながら突進する。

 対する詠士はそれを無言で迎え撃った。走る勢いのままに繰り出されたパンチを逸らすように片手で打ち払い、同時にもう一方の腕で殴りつけるような肘打ち(エルボー・バット)を叩き込む。強烈な一撃を顔面に食らい、男は派手に鼻血を吹いて大きく仰け反った。そしてふらふらとよろめくその男の鳩尾に、詠士はすかさず鋭角的な前蹴りを繰り出す。頭を差し出すように体を折ったところで、さらに顎をかすめるような右フック。それで脳を激しく揺らされた男は完全に意識を手放し昏倒した。

 仲間を立て続けに二人倒されたことで、残る三人の男たちが驚愕に動きを止める。

 詠士はそれを見て、今度は自分から近付いた。感情の読めない乾いた瞳で相手を見据えながら、ゆっくりと歩いて距離を詰める。すると予想外の事態に慌てた一人が咄嗟に近付いてきた詠士へと殴りかかった。

 

「く、っそが!」

 

 しかし相手が拳を繰り出すより早く、詠士は敵の出足めがけて蹴りを放った。踏み込もうとした方の膝を足裏で蹴りつけ前進の勢いを殺し、出端をくじかれた男が体勢を崩したところで、今度は自ら踏み込み左右のボディブローを交互に打ち込む。さらに、体を丸めて呻き声を上げる男の胸倉を掴み、詠士は相手の体を大きく振り回すようにして側面のビル壁へと叩きつけた。見た目に似合わぬ金剛力に、男の両足が一瞬だけ地面を離れ、その体が宙に浮く。

 背中を強打して相手の呼吸が止まったところで詠士はさらに攻撃。乱暴に男の髪の毛を掴んで、その頭を激しくコンクリート壁へと打ち付ける。それを数回繰り返すと、やがて男は白目を剥いてずるずると地面に沈み込んだ。

 相手が完全に行動力を失い、ようやく手を放した詠士は、ふぅ……と小さく息を吐く。

 直後、詠士は振り返りざまに裏拳を放ち、密かに自分の背後へと近付いていた一人の頬を打ち抜いた。

 不意打ちに失敗し、たたらを踏んで後退する男に対して、詠士は即座に追撃の平手打ちを繰り出す。狙いは耳だ。横殴りの一撃を受けて痺れるような衝撃がその男の鼓膜と三半規管を揺らした。

 聴覚と平衡感覚が一時的に麻痺したところで、今度はその顔面に水平な手刀を打ち込む。狙いは目。目潰しを食らった男が両手で顔を覆ったところで、詠士は相手の首を抱え込むように両腕でホールドする。そして密着状態からの強烈な膝蹴りをぶち込んだ。鳩尾を抉る獰猛な一撃に、崩れ落ちた相手は吐瀉物を撒き散らしながら地面を転がり悶絶する。

 

「う、あ……あぁぁぁぁ!」

 

 最後に残った一人は、一か八かで詠士に低いタックルを仕掛けた。

 いや、それは総合格闘技やレスリングにおけるタックルのような洗練された“技”ではない。ただ恐怖に駆られてやぶれかぶれに腰に組み付いてきただけだ。

 詠士は冷静を保ったまま相手の胴体を上から両手で抱え、僅かに持ち上げてから手を放し、落ちてきた相手に向かって先程と同じく突き上げるような膝蹴りを打ちこむ。 

 

「ぐふっ」

 

 とどめに、詠士は自分の腰に組みついたまま呻く相手の後頭部へと肘打ちを叩き込み、その意識を完全に刈り取った。

 最後の男が崩れ落ち、路地裏に静寂が満ちる。詩乃を取り囲んでいた遠藤たちは、男たちが全員やられたと見るや一目散に逃げ去っていた。

 詠士は地に沈む男たちを軽く一瞥してから、すぐさま興味を失ったように目を逸らし、地面に倒れている恭二と蹲っている詩乃の傍へと歩み寄る。

 

「大丈夫?」

 

 先程までの暴れっぷりが嘘のように穏やかで心配そうな声。

 こちらを案じるような顔でしゃがみ込む詠士に、詩乃はできるだけ心配させないよう苦労して笑顔を浮かべて見せた。

 それから必死に両脚へ力を込め、微かによろめきつつもなんとか自力で立ち上がる。詠士は手を貸そうとしたが、詩乃がそれを制した。助けてもらった上に、そこまでしてもらうわけにはいかない。

 

「……なんとか、大丈夫。……ありがとう、助けてくれて」

 

 詩乃はふらつきつつもしっかりと両足で地面に立ち、それから正面に立つ詠士へと向き直る。

 詠士は一旦家に帰ってから再び外出したのか私服姿だった。黒のジーンズに黒革のショートブーツ。同じく黒のTシャツの上に重ねたコットンサテン生地素材の細身なミリタリージャケットもやはり黒と、全身黒尽くめだ。

 ……正直、あまり似合っているとは言い難い。長めの黒い前髪に半ば目元が覆われた大人しそうな風貌や、幼さの残る童顔気味の顔立ちが、威圧的ですらある黒装束と相まって、どこかちぐはぐな印象を与えている。真面目で大人しい人物が無理して悪そうな格好をしているような、そんな感覚。

 流石にそんなことを考えているなどとは口にできるはずもなく、詩乃はようやく視界内の靄が晴れた目で、詠士の顔を真正面から見返した。不安げに彼女を見つめていたその瞳に、僅かに安堵の色が宿る。

 それにしても、こうして間近で向かい合ってみると、詩乃は詠士の身長が予想以上に高いことに気付かされた。女子高生の平均と比べればやや小柄な詩乃よりも20センチは上背がある。相変わらず男としては華奢に見える体格だが、先程の姿を思い出すと、ほんの数時間前に感じていた柔弱な印象ががらりと変わって見えるから不思議だった。

 

「……ホントに、ありがと。助かったわ」

 

 気遣わしげな目でこちらを見やる詠士に改めて礼を述べ、それから地面に倒れる恭二に近寄ると、傍にしゃがんで申し訳なさそうに声をかけた。

 

「大丈夫? 新川君」

 

「うん……いちおう……」

 

 弱々しく応えながら、恭二はふらふらと立ち上がる。頬にははっきりと殴られた痕が残り、顔は鼻血で悲惨なことになっている。手のひらにもいくつか擦り傷が見えた。

 しかし咄嗟に頭を庇っていたせいか、いつまでも残る様な深い傷は見当たらなかった。

 

「ごめんね。私の問題に巻き込んじゃって」

 

「ううん……。僕こそごめん。男なのに、助けてあげられなくて……」

 

 恭二はそう言って詩乃に申し訳なさそうな笑みを向け、それから詠士の方へと向き直った。

 

「危ないところを助けてくれてありがとう。えっと……」

 

「ん? ああ。俺は夜代詠士。今日、朝田さんのクラスに転校してきた」

 

「成程、君がか……。僕は新川恭二。もともとは僕も朝田さんと同じクラスに通ってたんだけど……」

 

 そこで僅かに言い難そうに目線を下に逸らす。

 詠士はそれを見てしばし黙考し、それから思い出したように言った。

 

「ん? そういえばイジメで不登校になった生徒が一人いるとか言ってたっけ」

 

 恭二はその言葉に若干顔を曇らせるが、詠士の顔や声の響きに嫌な感じの色が無い事を見て取ると、すぐにもとの笑みを作り言葉を返した。

 

「そう。その不登校の生徒」

 

 簡単に自己紹介を済ませたところで、詠士はくいと路地の出口を親指で示した。

 

「とりあえず表通りに戻らない? 警察とか来て事情を説明するのも面倒だし、いつまでもむさ苦しい男どもが倒れてる路地裏になんていたくないからね。……臭いもキツイし」

 

 吐瀉物に塗れて地面に横たわる男を見やり、詠士が不快そうに眉を顰める。

 

「ん、そうだね。とりあえずここ離れようか」

 

「……救急車とか、呼ばなくていいのかな?」

 

 詩乃が、地面に倒れた男たちを見下ろしながら、少々心配そうな声で言う。

 しかし詠士は、切り捨てるような口調できっぱりと告げた。

 

「いらないよ。いちおう少しは手加減したし、こいつらの怪我は自業自得だ。死んだわけじゃあるまいし、必要なら自分たちで呼ぶでしょ」

 

 顔に似合わぬ冷たい声でそう言うと、詠士は詩乃と恭二を手で促しながらさっさと男たちに背を向けてしまう。

 一瞬だけ躊躇ったものの、結局は詩乃も促されるままにその場を後にした。いちおう呼吸はしているようだったし、おそらく死ぬことはないだろう。それに、逃げた遠藤達が救急車を呼んでいるかもしれない。自分たちも誘拐未遂をした以上、さすがに警察は呼ばないだろうが、それでも面倒なことになる前に現場を離れた方が賢明だ。

 三人は細い路地を出て商店街に戻り、しばらく歩いたところでようやく一息ついた。場所はアーケード街から少し離れたところにある小さな公園だ。

 恭二は公園の隅に設置された水場へと向かい、詩乃が渡したハンカチを水道で濡らして傷口を拭う。

 それを見守っていたところで、ふと詩乃は気になったことを詠士に訊ねた。

 

「ところでだけど……夜代くんって何か格闘技でもやってるの? 自分より年上の男を、しかも五人も倒しちゃうなんて、さすがに思わなかった」

 

 隣を見上げながら問いかける詩乃に、詠士は苦笑気味に答える。

 

「そんな大したものじゃないよ。ちょっとした護身術みたいなものかな」

 

「身を守る……にしては、少し攻撃力高すぎな気もしたけど……」

 

「海外は日本と比べてはるかに物騒だからね。身を守るためには防衛手段だけじゃなく攻撃手段も必要なんだ」

 

 その態度にどこか韜晦したようなものを感じて、詩乃はなんとなく口を噤む。

 しかし本意を推し量ろうとするよりも先に、詠士の方から詩乃に訊ねかけた。

 

「それよりこっちも訊きたいんだけど……さっきあいつらと一緒にいた女の子たちって、確かうちのクラスの人だよね? ほら、授業終わりに俺の所に来てた人たち。

 もしかして、こういうことってよくあるの? 教室でも朝田さんにやたらと絡んできてたしさ」

 

 不意の質問に体を一瞬びくりと振るわせる。

 詩乃は僅かに顔を強張らせながら、しかしできるだけ何でもない風を装って答えた。

 

「別に……大したことじゃないよ」

 

「そう? なんていうか、朝田さんのこと目の敵にしてるような感じだったけど」

 

 図星を突かれて、詩乃が微かに身じろぎする。

 

「教室の時も、俺に朝田さんの悪い印象を植え付けようと躍起になってるみたいだったしさ。それに、他の人はみんな朝田さんのこと避けてるのに、あの子たちは敢えて朝田さんに絡んでいっているような感じだった。何かあったんじゃないの?」

 

 最後に「言いたくないなら無理には訊かないけど」と続けて言葉を終える。

 詩乃は少しだけ思案してから、結局は詠士に事情を話すことにした。取り立てて隠すようなことでもないし、知られて困るようなことでもない。昔の自分の失敗を知られるようで少しばかり恥ずかしいが、それだけだ。

 それに、教室で彼が庇ってくれたことに対して、少なからず恩義を感じていたということもある。

 

「ほんとに、大したことじゃないんだ。ただ、以前の私が救いようが無いくらい馬鹿で間抜けだったってだけで」

 

 当時を思い出し、苦い顔をしながら自嘲気味に詩乃は言う。

 ハンカチで頬を押えていた恭二が心配そうな顔で詩乃を見やり、詠士は静かな面持ちで詩乃の言葉の続きを待った。

 

「あの三人はさ、この街に来て一番最初に親しくなったクラスメイトだったんだ。地方から出てきたばかりで知り合いもいない。共通の話題も無くて毎日黙ったまま座っているだけだったあの時、教室で『お昼一緒に食べないか』って声を掛けてくれて……それから学校帰りに四人で遊んだり、お店に寄ったりするようになったの。その時は連中の本当の狙いに気付かなくてさ。五年前の事件以来初めて友達ができて、馬鹿みたいに浮かれてたから……」

 

 彼女たちは明らかに詩乃と気が合いそうなタイプではなく、当時はどうして彼女のような非社交的な生徒に声を掛けようと思ったのか、まるで分からなかった。しかしその時の詩乃は、そんなことが気にならないくらい、単純に友達ができたことが嬉しかった。

 学校という空間で常に孤独を味わってきた詩乃にとって、遠藤たちはこの街に来て初めてできた「あの事件」を知らない友達だったのだ。

 いや……友達だと思っていた。

 

「しばらくして、連中は頻繁に私の家へ遊びに来るようになったの。それで何度も訪ねてくるうちに、だんだんとあいつらの私物とか服が私の部屋に溜まり出して……いつの間にか、遠藤たちは私の家で私服に着替えて遊びに行くようになったわ。時にはあいつらが酔って帰ってきて、そのまま泊まってくこともあった。おまけに合い鍵まで要求されて……」

 

 流石に合い鍵まで渡すのは躊躇われたが、一言「友達でしょ」と言われると、それ以上は何も抵抗できなかった。それだけ友達というものに……誰かが傍にいてくれるということに飢えていたのだ。

 そして、そんな弱さが最悪の事態を招いた。

 

「本当のことを知ったのは五月の末だったかな。私が図書館から帰ると部屋の中から笑い声がしてね。しかも中にいたのは遠藤たちだけじゃなかった。知らない声……それも明らかに複数の男の声が聞こえた。自分の部屋に知らない男がいると思うと無性に恐くなってさ……そこでようやく気付いたの。遠藤たちが近付いてきたのは、最初から私の家が目当てだったんだって。多分クラス名簿を見て、私が学校近くのアパートに一人暮らししてるって当たりをつけたんだと思う。私の家は駅と学校の中間にあるから何かと便利だしね」

 

 自分の部屋のドアに耳を当てて気配を窺った時の、悲しくなるほどのやるせなさを思い出す。

 詩乃はただ利用されただけだった。心の弱い部分に付け込まれ、弄ばれたのだ。

 

「それがわかると、今度は無性に頭にきてね。すぐに警察を呼んだの。向こうは色々と言ってたけど、とにかく知らない人たちだって繰り返して……それで、ようやく追い出すことができたんだけど……」

 

 詠士にはなんとなく、その先が想像できた。

 そして予想通りだった。

 

「あいつらは報復として、私の過去を全校中に触れ回ったんだ。ほんと、ご苦労なことだわ。わざわざ五年も前の、それも遠く離れた田舎で起きた事件のことまで調べ上げてくるなんてね」

 

 そう言って詩乃は呆れたように肩をすくめてみせる。しかしそこには、多分に強がるような気配があった。

 

「で、それ以来私はクラスの皆から……ううん、全校中の生徒から避けられてるってわけ。今じゃ先生たちも滅多に私の方を見ようとしない」

 

「ああ、そういえば……」

 

 詠士は今朝の担任教師の様子を思い出す。それに、教室の生徒たちの異様な雰囲気と態度も。

 彼自身にはあまり理解できない感覚だが、詩乃の“人を殺した”という過去は、それだけ普通の人間にとっては忌避されるものなのだろう。

 

「まぁ、そういうことだから……だからさ、教室ではあんまり私にかかわらない方が良いと思うよ」

 

「ん?」

 

 怪訝そうな顔で首を傾げる詠士に、詩乃はどこか寂しげな微笑と共に答える。

 

「今日の世界史の時みたいに、私と一緒にいると夜代くんまで皆から無視されるようになるかもしれないってこと。全員が全員ってわけじゃないとは思うけど、クラスのほとんどは私に対して敵意に近い感情を持ってるだろうし……。

 それにさっきみたいなことがまたあったら、遠藤たちからも標的にされるかもしれないでしょ。まぁ、そっちの方は大丈夫なのかもしれないけどさ」

 

 先程の立ち回りを思い出して、詩乃は僅かに苦笑する。

 

「それでも、ね。やっぱり私の問題に巻き込みたくはないから……。助けてもらったのには感謝してるけど、これ以上は……」

 

 言いながら、詩乃は思わず深く俯く。

 恭二を除けば、自分の過去を知っても態度を変えなかった数少ないクラスメイトだ。正直にいえば、そこに縋りたいと感じている自分も確かにいる。一度他者を信じて裏切られながら、それでも尚自分の中に残る寂しさと人恋しさが、学校や教室でも傍にいてくれる相手を求めている。

 しかし、すでに学校とは半ば縁の切れている恭二はともかく、転校してきたばかりのこの少年にまで、自分の都合で孤独な思いをさせたくはない。こんな自分にも自然体で接してくれる優しい彼が、詩乃と行動を共にしたがために孤立し、嫌な思いをする事態になれば、悔やんでも悔やみきれないだろう。

 それに……もしも仮に彼を信じて、そして万が一また裏切られたら…………それこそ二度と立ち直れなくなるかもしれない。ゆえに、詩乃は彼に頼るようなことはしたくなかった。そしてそうならないためにも、詩乃は自分の弱さを克服したかった。

 誰かに頼らない、他者に求めない。そんな強さを手に入れたいと、強く願う。

 だからこそ、詩乃はあえて自分の現状を話した上で、彼が自分から離れていくよう促したのだ。

 

「ああ、それなら別に気にしなくていいよ。そういうの、どうでもいいから」

 

 しかし、当の詠士はあっさりとそう言ってのけた。

 予想外の科白を聞いて、詩乃は顔に困惑を浮かべる。

 

「どうでもいい、って……」

 

 戸惑いの声を漏らす詩乃に対し、詠士は僅かに肩を竦めると、なんでもないことのように軽い調子で言葉を続けた。

 

「俺は別に取り立てて友達が欲しいとも思っていないからね。周りから仲間外れにされたところで、特になんとも思わないよ。人嫌いってわけじゃないけど、特別寂しがりなわけでもないし……。確かに、友達ってのは大勢いた方が楽しく過ごせるものなのかもしれないよ? だけど、だからって必ずしもいなくてはならない、っていうわけでもないでしょ。だいたい、そんなくだらない理由で離れていくような連中なんかと、わざわざ迎合してまでお友達になりたいとは思わないしね」

 

 そこまで言って、詠士はまるで小さな子供にでもするみたいに、詩乃の頭の上に手のひらをポンと置いた。

 自分よりもずっと高い目線と、華奢に見えて存外大きく優しい手のひら。そして相手に安心感を抱かせる穏やかな笑みに、詩乃は顔も見たことの無い自身の父親を連想する。

 

「とにかく、別に朝田さんが俺に対する気遣いなんかで身を引く必要なんてないよ。どの道これからはお隣さんだしね。俺は今後も特に態度を変えるつもりはないし、何か困ったことがあったら相談してくれても構わない。クラスメイトとして、俺にできることがあればなるたけ力になるからさ。……まぁ、もしも朝田さんが俺のことを嫌いで、俺と関わりたくないから距離を置いてほしいっていうんなら話は別だけど。そうじゃないなら、一緒にいることで俺に迷惑かけるかもしれないなんてことは考えなくてもいいよ。

 心配しなくても、自分の身に降りかかる火の粉くらいなら自力でどうにかできるし。俺はこう見えても、そこそこ強いからね」

 

 最後の方だけ、少し冗談めかして詠士は言う。

 対する詩乃は無言のまま、思わずその瞳を真っ直ぐに見返した。

 強がり……ではないだろう。そもそも強がる理由もない。

 友達なんていてもいなくてもどうでもいい。クラスでハブられている生徒と親しくしたくらいで縁を切るような相手とは、端から仲良くしようとも思わない。彼は、本心からそう思っているのだ。

 おそらく詠士は、友達や他者との繋がりというものをそれほど重要なものだと見做してはいないのだろう。拒否や否定こそしないが、己にとって必ずしも必要不可欠なものであるとは考えていないのだ。

 誰にも依存せず、誰をも求めない。近付いて来る者を拒むような冷たさはないが、自ら他者を求めるような熱意も持ち合わせていない。それは彼が確固とした「自分」というものを持っているからだろうか。だからこそ、これほどまでに強くあれるのだろうか。それは詩乃には分からない。ただ、彼の持つその強さに、詩乃は眩しい物を見るような思いがしたのは確かだった。

 

「ま、この話はここまでにしとこうか……」

 

 詠士は苦笑気味に言うと、詩乃の頭から手を引いた。

 それから恭二の方をちらりと見やり、大した怪我でないことを見て取ってから、出口に向かって踵を返す。

 

「俺はそろそろ行くよ。さっきの連中は追ってこないだろうけど、もうすぐ暗くなるから帰り道は気をつけてね」

 

 それだけ言うと、詠士は「じゃあ、また明日」と出口に向かって歩き出す。

 詩乃は頭の中で答えの出ないことをぐるぐると考えながら、黙ってその背中を見送った。

 そしてその背が見えなくなった所で、水道の傍にいる恭二の方へと顔を向ける。その恭二はというと、詠士が去っていった方をやや険しい顔で見つめていた。

 

「……新川くん?」

 

「え……? あ、あぁ……なに?」

 

「いや……なんか、夜代くんのこと睨みつけてたからさ」

 

 詩乃の言葉を聞いて、恭二がやや慌てたように目を逸らした。

 

「ああ、うん。ちょっと気になってね。信用できるのかな、とか」

 

「……まあ、悪い人じゃなさそうだけど、謎が多いのは確かだよね。ぱっと見は大人しそうに見えるのに、やたらと喧嘩は強いし」

 

 そう言って、もう一度詠士が出ていった出口の方を見る。当然ながら、すでにその姿は見えない。

 

「……何者なんだろうね?」

 

「普通の格闘家って感じじゃなかったけど……」

 

「そうなの? かなり強かったよ」

 

「うーん……僕自身は素人だから完全には分からないし聞きかじりの意見になるんだけど……空手とかボクシングみたいな、普通に皆がやってるような格闘技じゃなさそうだったかな。少なくとも武道じゃないと思う。すごく………容赦なかったし」

 

 恭二の意見に詩乃も頷く。

 確かに、先程のチンピラたちを相手にした詠士は、その幼げな顔に似合わないくらい容赦のない戦いっぷりだった。それこそ、勢い余って殺してしまうのではないかとすら思えるほどの……。

 恭二はその姿を思い出して、彼に対し警戒感を覚えているのかもしれない。確かに助けてはもらったが、いじめを受けていた恭二にとって暴力に強い人間などというものは、むしろいつ敵になるか分からないくらいに警戒すべき……というより、警戒せずにはいられない相手なのだろう。

 しかし、詩乃にとっては違った。

 助けてもらったこと以上に、彼という人間に対し強く羨望の念を抱いていた。

 誰にも頼らない。誰をも必要としない。

 他者に依存することなく、しかし周囲を拒絶するでもなく、ただ自身がありたいと望むがままの姿で生きる。それが、先程の彼の姿を見て詩乃が感じた、詠士に対しての印象だった。

 彼女がかつて望んだ、そして今尚求める姿……過去を乗り越え、心の弱さを克服した、その先の自分……。その先にありたいと願う自分自身の姿であるように、詩乃には思えたのだ。

 

「夜代くん、か……」

 

 再び出口の方を見やり、思わずこぼしたように小さく呟く。

 それを聞いた恭二が気掛かりそうな、あるいは不安そうな面持ちで詩乃の横顔を見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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