目を覚ました。前と同じ天井だな、と思った。
「生きてる……」
次に考えたのはそれだった。ただし死ななくて嬉しいではなくて、どうして死ななかったのかという落胆だったのだが、
俺が目を覚ましたのを見計らったように人間が入ってきた。白衣を着た知らない男だ。男の頬には湿布の様なものが張られている。
「おはよう。よく眠れたかい?」
よく眠れたか、だと? ああ。よく眠れたさ。目覚めは最悪だけどな。
「混乱していると思うから一応説明しておくよ。君が一度目を覚ましてから三日程経っている。そして君が最初にこの病院に運び込まれてからは丁度一週間経った」
一週間……そんなに眠っていたのか。
「君は生死の境を文字通り彷徨っていたからね。生きているのは運の良さが四割ってとこかな」
「四割って他の六割は何なんすか」
「もちろん君の手術を担当した僕の腕さ」
なるほど、俺が死に損なったのはこいつのせいか。医者のくせにヘラヘラしやがって。無性に腹が立ってきた。
……コイツにイラついていても仕方がない。ともかく、状況を整理しなければ、
「俺は、刺されたんですね」
「ああ。包丁でさっくりとね」
「俺の家族は……どうなりましたか」
その質問に、今まで軽く答えていた男の表情が僅かに曇った。それだけでどうなってしまったのかは理解できた。理解できてしまった。
「……亡くなったよ。両親は病院に運ばれた時点で既に」
父さんと母さんが死んだ。その事実を聞いても意外にも冷静でいられた。「ああ、やっぱり」としか思えなかった。
思っていた以上に俺は冷酷な人間だったらしい。
「もう一人、いましたよね。彼女は……」
もう分かっているのに、
それでも僅かに残っている希望に縋らずにはいられなかった。
現実は甘くないと、もう分かっていたのに。
「その子も……君が目を覚ました日に……三日前に亡くなったよ」
ああ、やっぱりか。
あの真っ暗の部屋で横たわっていた彼女は、俺の素人目でも手遅れだと分かった。彼女の体からは赤い液体が流れすぎていたのだから。
「そうですか」
その冷静な声のトーンに一番驚いたのは俺自身だった。声の抑揚が全くない。
「すまない。両親と共に何としても助けてあげたかったんだが……」
悲しい。
もちろん悲しい。
高校生という子供がする恋愛とはいえ、俺が本気で好きだった女の子が死んだのだから。
「アンタは悪くないですよ。そんなに落ち込まないでください」
それでも、俺の瞳から液体が溢れることはなかった。
両親を失い、自分の恋人を失い。それでも涙を流すことはない。
ただ。心に大きな穴が空いたような。そんな気分。
「……とりあえず今日のところは消える。また様子を見に来るし何かあればすぐに呼んでくれ。飛んで来るから」
男は出て行こうとするが、俺はまだ聞きたいことがあった。
「待ってください」
男はゆっくりと振り返った
「あいつは……犯人はどうなったんですか。捕まったんですか」
俺の穴の空いた心に残っている唯一のもの。
俺たちを刺したあの男の行方。
「ああ、彼なら」
警察に捕まったというのなら仕方ない。俺が迎えに行ってやる。
法の裁きなんぞで許すものか。俺が直々に手を下さなければこの気持ちが晴れることはない。
俺の空いた心から何かどす黒いものが噴き出しているのが分かった。
その結果、俺が逆に警察に捕まろうと知ったことか。もうこんな人生どうだっていいのだから。
人生に絶望した俺の、唯一の生きる糧。
あいつに報復。
復讐。
そんな真っ黒な感情に支配される直前で、
「死んだよ」
俺の頭が一気に冷静になった。
「え?」
死んだ? あいつが? 名前も分からない殺人鬼が?
「どうやら君達を刺した後に自分も刺したらしい。ああ、刺したというのには語弊があるか……自分の首元をかき切ってね。しかも警察曰く、何の躊躇いもなくかき切ったらしい。確かに僕が見た所、そういう傷だったが……死人にあまり言いたくはないが、完全にイカれていたんだろうな」
男は一瞬だけ俺の表情を確認するように見てから部屋を出て行った。
一人になって、静寂が部屋を包み込んだ。
死んだ。
あいつが、死んだ。
俺の生きる理由が再びなくなってしまった。俺は何を理由に生きればいいか分からない。
復讐を目的に生きることもできなくなった。
「なんでこんな事になったんだ」
「俺が何したってんだ」
「なんかもう、疲れたな」
コンコン、と、
半ば自暴自棄になっていた俺は小さいノックの音で我に返った。
「……どうぞ」
誰だろう。先程の医者の男ではないだろう。ひょっとして友人の誰かだろうか。それとも遠い親族とか?
色々考えてみたが、入ってきたのは予想外ーーというか、知らないおっさんだった。
眼鏡をかけていてグレーというか白髪というか。とにかく温和な印象を受けた。というか本当に何者だよ。
「ああ、警戒するよね。申し訳ない。実は私はこういう者でね」
そう言って名刺を渡された。それを確認すると、見覚えのあるワードがあった。
「346プロ……?」
「そう。私は346プロの今西という者でね。彼女の最後の言葉を伝えに来ました」
「彼女って、やっぱり。アンタはあいつが所属するはずだった……芸能事務所の」
「彼女を採用したのは私なんです。面接の担当が私でね」
言い忘れていたが俺の彼女はアイドル……の卵だった。レッスン場に通い練習に励み、自身の夢を追いかける。今思えば凄いやつだった。俺なんかに勿体無いと母さんに冷やかされていたが、その通りの女の子だった。
今になって気づくなんて……失ってから気づくとはよく言ったものだ。
「あいつの夢を叶えてくれて、ありがとうございました」
俺は何とかその言葉を絞り出した。頭も下げる。
「いや、私も彼女に可能性を感じたから採用しただけ。言い方は悪いですが、ビジネスですから」
それでも、あいつは夢のステージに上がる権利をもらえたのはこの人のおかげなんだろう。やはり感謝の気持ちしかない。
「あの子もね、私にお礼を言ってくれました。だからこそ、私はあの子の夢の先を見たかったんですが……」
言って今西さんは目を伏せた。
「それで、その。あいつの最後の言葉ってのを教えてくれませんか」
あいつの最後の言葉。
それが何か、聞かないと死ぬに死ねない。この世に未練が残ってしまう。
何だろう。幸せだった、とかなら嬉しいな。それはないか。他殺で終わった人生なんて幸せなわけがないもんな。想像できなかった俺は今西さんの言葉を待った。
そして彼の口から紡がれた言葉は、
「……生きて、と彼女は言っていたよ」
俺は呆気に取られた。それだけ? あの子の最後の言葉がそれだけなのか? もっと他にーー
「死の間際に彼女がようやく絞り出した言葉だ。意味は、分かりますよね?」
分からない。
分かるわけがない。
分かりたくない。
「僕は君の事を全く知らないけど、彼女はきっと自分が死んだら後を追いかけてくるだろうと考えたんでしょう。だから、僕に言葉を託した。君にだけは生きて欲しいと」
「やめてください」
あっさりと出てきた言葉は、拒絶。
「だって、父さんと母さんを殺されて。自分の彼女も殺されて。その復讐をしようにもあの犯人はもう自殺したって言うじゃないですか」
「……」
「生きる目的がない」
「目的がないと生きられない?」
そういうわけではない。理由なんかなくたって人は生きていける……はずだ。
しかし今の俺は違う。今の俺は何かを支えにしないと生きていけない。
何かに縋らなければ生きていけない。そんな気がした。
「だったら僕が、君に生きる意味を与えるよ」
その言葉に、俺は改めて今西さんの顔を見る。彼はやはり優しく微笑んでいた。
「あの子の夢を。あの子の代わりに叶えよう」
「あいつの、夢……」
「うん。あの子のようにアイドルとして、一人の女の子として輝きたいと思ってる子は沢山いる。そういった子達を君が育てる。導いてあげるんです」
「それのどこが、あいつの夢なんだよ! あいつは確かにアイドルになりたがっていた。だけど、それとこれとは関係なーー」
「あの子の空いた穴を埋めるんだよ」
言葉が、止まる。
「あの子の代わりを、君が育てる。あの子が見たかった景色を君が代わりに見に行く。それは、彼女の夢を叶えることに繋がりませんか?」
暴論だ。あいつが見たかった景色を見るというのは間違っていないが、そもそもこの話を仮に受けたとして。俺がその景色を見に行くのは彼女と共に、ではない。全く別のアイドルと一緒なのだ。
――分かっている。これは言い訳だ。
あいつの最後の言葉を聞き届けるための、
俺を《生》にしがみつかせるための呪詛。
「ははっ」
思わず口から小さく声が漏れた。
滑稽だ。俺は先程まで死にたいと思っていたが、初対面のおっさんから何かを言われただけで死にたくないと思い始めている。
死ぬのは怖い。
それは実際に死にかけた俺が一番よく分かっている。
「分かりました」
肯定の言葉を口に出す。そして今度は真っ直ぐ、今西さんを見据える。
これからの俺の生きる糧。
あいつの最後の願いとやらを踏み躙るわけにはいかない。
生きる。空っぽの心でも。何かにしがみついてでも、
ただし、
「僕が、あの子が見るはずだったものを見に行きます」
《俺》は死んだ。
あの日、両親と恋人と一緒に、
今西さんはやはり微笑んでいた。しかし今度は心なしか、少し悲しそうな笑みに見えた。
「……そう言ってくれると嬉しいです。詳しい話はまた後日に。しばらくは怪我を治す事に専念してください」
「はい。分かりました」
新しい自分は、本当に別人のようで、
こんな状態なのに笑う事ができた。きっと生まれてこんな満面の笑顔を浮かべた事なんてないだろう。周囲の人間から「もっと愛想を良くしろ」と茶化されてきた僕なのだから。
心に穴が空いても、人は生きていける。
今西さんが出て行って、たった一人しかいない病室でも、
僕は、笑う。
最愛の人の
僕は、生きていく。