島村卯月、本田未央、渋谷凛は今日も歌とダンスのレッスンに励んでいた。余程きついのだろう。彼女達の額には汗が浮かび、辛そうな表情をしている。
そんな様子を見ていた青年が腕時計で時刻を確認してから、
「……よし、今日はここまでにしておきましょうか。お疲れ様です」
その言葉に卯月は大きく息を吐いた。それは彼女の横にいた二人も同様であった。
「クールダウンと汗の処理をしっかりしてから今日は上がってください。暖かくなってきたとはいえ、風邪を引いてしまったら困りますから」
そこまで言って青年はふと、思い出したように、
「いや……もうこんな時間なのか。時間も遅いですし僕が三人を車で送っていきますね」
「バイトさんって車持ってるんだ? 大学生じゃなかったけ?」
バイトさん。そう呼ばれた青年は苦笑いを浮かべて、
「僕の車じゃなくて会社の車です。自動車は持っていませんが運転免許証は持っているんですよ。ああ、会社からも仕事に関してならば自由に使ってもいいと言われているので安心してください」
「おにいさん免許なんて持ってたんだ」
「暇な時間に自動車学校に通ってたんですよ。僕は大学生のアルバイトですから。時間なんていくらでも作れたんです」
そうは言ってもこの青年の働きぶりは凄まじいと先輩アイドルや社員に聞いていた卯月達は思わず感心してしまった。どうやらというか、やはりというべきか。青年は時間の使い方が上手なようだった。
「さ、帰る支度をしてください」
あまり遅くなったら親御さんに僕が怒られてしまいますから、と言い残して青年はレッスン室から出て行った。
完全に青年の姿が消えた瞬間、未央がどこか瞳をキラキラさせながら話し出す。
「ねぇねぇ二人はどう思う!?」
「何が?」
「何がですか???」
未央の質問の意図が分からない二人は揃って首を傾げる。
「バイトさんのこと、どう思う?」
どうやらそういう話題らしい。先程までへとへとに疲れていたとは思えない。卯月は着替えながらその質問について考えた。
「んー…凄く優しい人だとは思うんですけど」
「けど?」
「レッスンの時、私にだけ特に厳しい気がします……」
あー、と未央が納得してしまうのも無理はなかった。あの青年は普段は優しく接してくれる。しかし、三人が受けている歌とダンスのレッスンの時は別人なのだ。
鬼教官という称号が相応しい程には容赦がない。それでも未央達が限界をこえてしまわないように調整はしてくれる辺りは優しいのかもしれないが、とんでもないメニューをいつもの笑顔で突き付けてくるのはやめて欲しいと未央は思っていた。
「確かにバイトさんはしまむーには一段と厳しいよね」
「うぅ……未央ちゃんもそう思いますか?」
「でもでも、逆に言えば一番気にかけてもらってるって事じゃない? 期待されてるんだよきっと!」
「そ、そうでしょうか?」
「うんうん、そうだよ! プラスに考えようよしまむー!」
未央が卯月を励ますように言葉をかける。そのおかげか、卯月にも少しずつ笑顔が戻っていった。
そこで二人はふと気づく。自分達の会話に凛が反応しない事に。見れば、凛は心此処にあらず、そんな感じで何処かを見つめている。
「凛ちゃん?」
心配になった卯月が声をかけると凛はようやく二人の方に視線を移した。
「ん、何?」
「何? じゃないよしぶりん。私達の話聞いてた?」
「あ、ごめん……ちょっとぼーっとしてた」
「大丈夫ですか? 今日のレッスンも大変でしたし、疲れが溜まっているとか」
「ううん、平気だよ。ちょっと考え事してた」
「考え事ってバイトさんの事?」
「まぁ、ね……」
「おお! そんな物憂げな表情とは気になりますな〜。ねぇねぇ、しぶりんはバイトさんの事どう思ってる、の!?」
急に迫って来た未央に若干押されつつ、凛は言葉を選んでいく。
「どうって言われても……特には。悪い人じゃ無いとは思うけど」
そんな回答に未央は不満そうだ。
「えー? しぶりんってバイトさんと昔からの知り合いって言ってなかった? あんなイケメンと幼馴染ってなかなか美味しいと思うんだけど」
美味しいって何だ、と思う凛が喋る前に卯月が何故か頬を赤らめながら、
「イケメン……確かにバイトさんってカッコ良いですよね。事務所の先輩達からも人気みたいですし」
「美嘉ねえからそんな話聞いたなー」
「城ヶ崎さんから?」
「へへ、美嘉ねえがバイトさんの話をしている時の顔。完全に恋する乙女で可愛かったんだよね〜。あ、この話は美嘉ねえには内緒ね!」
意地悪い笑みでそう言う未央に顔を赤くしたまま頷いている卯月。アイドルとは言え、年頃の女の子。恋愛禁止とは言われてないがそれは暗黙の了解ではあるのだろう。それでも恋の話題が気になってしまうのは仕方が無い事だった。卯月も未央も実に楽しそうである。
一方、件の青年の事を考えていた凛は複雑な気持ちだった。
(本当にあの頃とは別人……)
凛が幼かった頃に遊んでもらった記憶の彼とは違いすぎる。別人であると言われても納得してしまいそうと言っても決して過言ではない。
(何があったんだろうな……お母さんに聞いても知らないって言ってたし)
凛が母に青年について聞いた時に「あの人達とは引っ越してしまってから疎遠になってしまった」と言っていた。しかし、凛はその言葉に納得できていない。母が幼かった凛を連れてまで会いに行っていた友人と今更疎遠になるなどあり得るだろうか? いや、仮に疎遠になってしまったとしても連絡先くらいは知っているだろう。
(お母さんは連絡先も知らないって言ってたし。おにいさんには……ちょっと聞けない、かな)
凛の頭に浮かぶのは彼の顔。
喫茶店で話をした後、彼の名前を確認しようと呼びかけた際に振り返った彼の顔だ。
(あの時のおにいさんの瞳……怖かった)
あの時の青年もいつものように笑っていた。だからこそ、凛は彼の瞳に恐怖したのだ。笑っているはずなのに、笑っていないように見えた。上手く言葉にはできないが、普段物怖じしないタイプの凛が怯むくらいには恐ろしかったのだ。
(他の人は昔のおにいさんを知らないから、あれが普通だと思ってる。けど、そんなわけない)
あんなに冗談を言う人ではなかったし、言葉遣いも乱暴だった。凛の事を『チビ』か『チビ助』など呼ぶくらいには口が悪かった。そもそもあんなに頻繁に笑顔を見せる人ではなかった。だからこそ、
(私は、たまに見れるおにいさんの笑顔が好きだったのに……って違う違う)
突然湧いた変な思考を吹き飛ばす。今考えるべきはそんなことではーー
「お、しぶりんってば顔赤いよー?」
「なっ!?」
未央は目聡く、凛の表情の変化に気がついた。ニヤニヤと意地の悪い笑顔を浮かべながら迫ってくる。凛は後ずさった。
「ふっふっふ……一体バイトさんの何を考えたのかな〜?」
「べ、別に大した事じゃないよ。ちょっと小さい時の事思い出しただけさ」
「あ、凛ちゃんとバイトさんが初めて会った時のお話聞いてみたいです!」
今度は大きな瞳をキラキラさせながら迫ってくる卯月を見て、やぶ蛇だったか、と思う凛だが何とか取り繕うように帰り支度を終わらせた。
「その話はまた今度ね。ほら、未央も卯月も行くよ。きっとおにいさん待ってるからさ」
「あ! やっば……結構待たせちゃってるね。急がなきゃ!」
「ま、待ってください未央ちゃーん!」
二人は勢い良くレッスン室を飛び出して行った。何とか話を逸らすことに成功したようで、ほっと胸を撫で下ろした。凛も二人を追いかけようとレッスン室を出ようとして、
(そういえば)
ふと思い出した。
(おにいさんと一緒にいたあの女の人は……多分、恋人、だったんだよね)
凛は一度だけ、青年の家で顔を合わせた事がある少女がいたことを。幼かった時は青年の友人と言われて普通に納得していたが、今ならあの二人は恋人という関係にあったのではと想像できる。あの年頃の異性が二人で遊ぶなどあり得ないとまでは言わないが、友人と言うより恋人と言う方がしっくりくる。
(おねえさんとは、どうなったんだろ。あの人とももう一回会いたいな)
初対面の凛にも優しく接してくれた少女を思い出し、凛は思わず頬を緩めた。そして今度こそレッスン室を後にする。今度、機会を見つけて彼女に会いたいという旨を青年に伝えようと密かに決めて。
地雷は踏み抜くものですよね(ゲス顔)