時は少しさかのぼり、多くの人々が、新たな環境へと足を踏み入れる、新春。
飛露蝶も、その時新たな一歩を踏み出そうとしていた。
中国最暗部。学園都市に対抗するために作られた、秘密研究所――《超技能研究所》の新たな職員としての第一歩を。
「はぁ……何でこんなことになっちゃったのかしら」
インド人だった祖父と、中国人だった祖母との大恋愛の成果であるらしい、褐色の肌を持つ彼女は、大きなため息の後頭を抱える。
もともと彼女としてはこんなところに来る気はなかったのだ。暗部といえば都市伝説として扱われる類の、
まともな神経を持つ人間なら、関わり合いになることすら遠慮したい組織。
でも、彼女が大学を卒業し、ある国営の研究機関に就職が決まった際、国の偉い人々から彼女は呼び出しを食らった。
なんてことはない。身寄りもおらず、天涯孤独。だが、頭脳だけはずば抜けている。
そんな、社会的立場が弱い、技能がある人間として、露蝶は政府に目をつけられた。ただそれだけのありふれた悲劇。
彼女を呼び出した国の偉い人たちは言った。
『君の配属先は変更になった』
『場所は、超技能研究所。学園都市に勝つために、超能力の研究を行っている施設だ。ぜひとも、君にたぐいまれなる大脳生理学の知識を、そこでふるっていただきたい』
『超能力開発ということは、人体実験も行っているのか? 当たり前だ。生物が関わる実験は、モルモットがいないと話にならんだろ』
『違法? 安心したまえ。これは違法ではない。国がきちんと許可を出している。まぁ、公にできないことに違いはないが』
『断ってもらっても構わん。就労の義務は自由だからね。ただ知ったからには、断る際には細心の注意を払いたまえ』
『我々も、君のような優秀で先のある若者を、こんなくだらないところで失いたくはないのだ』
白々しく、軽佻浮薄に、そんな言葉で露蝶を脅した、モニターに顔だけ隠し映っていたスーツ姿の役人たちを思い出し、露蝶は思わず泣きそうになる。
――何で私がこんな目に合わないといけないの……。ただ、両親が事故と病気で早く死んじゃって、私は一人でも生きていけるように頑張っただけなのに……なんで。
そんな自問自答を繰り返したところで、今の彼女の状況が、好転するわけでもなかった。
彼女はしばらく悶々と思い悩んだ後、諦観のため息をつき、目の前にたたずむ、森林の中の巨大な研究所を見据えた。
「……いきましょうか」
自分はここで一生飼い殺される。そんな未来予想図に確信を抱きながらも、彼女はそれに逆らうことはできなかった。
…†…†…………†…†…
とまぁ、そんな気乗りしない、全身全霊で嫌がりながら踏み出した、彼女の第一歩は、
「まよった……」
研究所で遭難という、割と締まらない始まりを刻んでしまう。
とはいえ、彼女を責めることもできないだろう。
この研究所は、裏研究所という名にふさわしい研究をしているせいか、外的戦力からの干渉――警察のガサイレや学園都市からのスパイを警戒し、研究対象の脱走も気にかけている。
そのせいか、研究所の内部構造は、日本のテレビ局以上に複雑かつ難解。とある迷路建築家が、設計図を引いたといううわさも、あながち間違いではないかと思えてしまうほどの構造をしている。
そんなところに一人で入れば、初めてこの研究所にやってきた露蝶が迷うのも当然といったところ。
むしろ、研究所内部に入れたことすらほめてほしいくらいだ。なぜなら、眼前に見えた入口はいろいろな人をごまかすようの偽の入り口で、そちらは『森林環境研究所』という偽名を名乗り、適当に来訪者におかえり願う入口なんだとか。それを知らずに入った露蝶は、受付の人に「あなたは違うドアから入りなさい!」と怒られてしまい、本当の研究施設への入り口を教えてもらえた。言われたところを探してみると、そこには隠し扉があって……。
「いくらなんでも厳重すぎるでしょう」
――というか、悪いことしている自覚があるなら、お願いですから研究やめてくださいよ。と愚痴を漏らしながらも、不安げにあたりをきょろきょろする露蝶。
どんな状況であろうとも、見知らぬ場所に一人きりでいると、人間は心細くなってしまうものなのだろう。
そんなわけで、彼女がいよいよ何かにすがろうと、近くにあった部屋のドアに手をかけた瞬間、
「っ!?」
そのドアが音もなく内側から開いた。
当然のごとくドアに手をかけていた露蝶は、それにひっぱられ倒れ伏す。
「いたたたたたた。な、なに!?」
驚く彼女が視線を上げると。
「あ、だ、大丈夫ですか!?」
倒れた露蝶を、目を丸くしてみていた、白い髪と白い肌、赤い瞳を持つ青年で、
「っ!?」
その胸には青年がモルモットであることを示す『実験訓練生』という文字と、シリアルナンバー。そして、戒蒼元という見慣れぬ名前がきざまれていた。
それが、露蝶と蒼元の出会い。
露蝶が、研究施設にいる少年少女のために戦うと心に誓うことになる、きっかけとなる出会いだ。
…†…†…………†…†…
「た、助けに?」
突然目の前に現れた真っ赤な男――ヘイズの言葉に、芳美は目を見開き、おうむ返しにつぶやく。
だって、ありえないから。
今までそんな人間は誰一人としていなかったから。
この研究所だって、中国政府が守っているから、そうそう見つけ出されたりはしないはずなのに……。
そんな風に何度も「彼が本当の助けである可能性」を否定し、削除する芳美。それも仕方がないだろう。なにせ、彼女がこの研究所に捕らえられていた時間は優に十年を上回る。幼稚園ほどの年ごろには、もうこの研究施設にいた。
焼き払われた自分の故郷と、自分を守ろうとして殺された両親の姿を材料に脅され、ずっとこの研究施設に捕らえられていた。
それなのに、いまさら……いまさら助けなんて、
「おそいよ……おそいよぉ……」
思わずいつも浮かべていた笑顔を崩し、泣きそうになった芳美の視界を、小さな背中が覆った。
「信用できると思っているのか?」
それは、この研究施設で、ずっと自分と一緒に育ってきた小龍の背中。
彼は自分の体にまとうように、作り出した漆黒の蛇を従えて、ヘイズをにらみつけていた。
「俺たちを捕まえに来たこの研究所の連中だって、初めはいい人の仮面をかぶって俺たちに近づいた。お前だって……そうじゃないって保証はどこにもない」
そうだ。と、小龍の主張を聞いて、芳美も考える。
万が一、この人が私たちを研究所から出してくれるにしても、それはこの研究所の研究成果を横取りしようとした、別の研究所の差し金かもしれない。
ならば、この青年の言うことを聞いたところで、芳美たちの未来は今と大して違いはないことになる。
不用心に信じるわけにはいかない……。と、芳美がそう判断を下したところで、
「あぁ。まぁ、確かにそういわれると反論できないんだけどさ……」
まいったな……。と、ヘイズは至って好青年然とした顔で、本当に困ったような表情を浮かべる。
「どんな実験をこの研究施設で受けているのか知っているし、正直お前たちの気持ちもわからんでもないんだけどさ……そこは信頼してもらわないと」
ここからお前たちを助け出すことはできないんだけど……。と、何の曇りもなく、何の嘘、衒いもなく、ただ真実だけをあっさりと告げたヘイズの言葉は、なぜか芳美の心を打った。
「あの……」
だからだろうか。芳美が、彼の話を聞いてもいいと思ったのは。
彼女をかばう小龍からは、「ちょ、まてメイ! まだ安全かどうかわからない!!」と警告を飛ばしてくるが、芳美は何となく感じ取っていた。
――この人は、たぶん嘘をついていないの。
と。
そして、信じてみてもいいですか? と芳美が口にしようとしたその時、
「っ!?」
突然、模擬戦場の一角が砕け、その中から、
「ぎゃぁあああああああああああああああああああ! いい加減しつこいってわけよっ!!」
「フレンダ!?」
「フレちゃん!?」
その中から、飛び出してくる金髪の少女が一人。
そして、
「な、なんだあれは!?」
「っ!?」
ヘイズが驚きの声を上げた視線の先では、到底まともな生物には見えない、口だけの無眼生物が、
『GIZYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!』
と、珍妙な方向を上げて、フレンダの後を追い複数なだれ込んできた。
「な、なにあれ!?」
「あれは……黒水?」
どうしてあれがあんな姿になって活動している? と、黒水を操る小龍と芳美はたがいに目を見合わせた後、思い出す、
とある実験で意識不明の重体となり、現在治療中である彼女たちの、兄のような存在を。
「っ、まさかっ!」
「か、カイに何かあったのっ!?」
二人が悲鳴を上げた瞬間、漆黒の生物たちは、奇声を上げてその場にいる人間すべてに襲い掛かる!
…†…†…………†…†…
「あぁ? なんだこいつらは」
「滝壺。フレンダと絹旗の位置把握しているわね?」
「南南西から電波が来ている」
「おっけ。とりあえずそっちには撃たないようにして」
ゴミ掃除の時間よ。と、彼女は一言そう吐き捨てて、無数の閃光の球体を作り出し、即座に射出。
自分たちの進路をふさぐ、不届きな
何やら異常な事態が起こっている? だからどうした。
人を襲う危険な生物? 笑わせてくれる。
「どこの誰だか知らないけど……この私の邪魔をする以上、覚悟はできてんだろぉなぁ!!」
ゴキブリみたいにサックリ、プチリとつぶしてやるよぉ!! そんな怒号を上げながら、麦野は自身の破壊をふるう。
際限なく湧き出す黒い獣を、際限ない破壊をまき散らす閃光が激突し、焼き尽くす。
これは戦いではない。
まぎれもない蹂躙。
「どきな虫けら。学園都市レベル5様のお通りだぞッ!!」
学園都市の頂点に君臨する、レベル5。
その一人の本気が、研究所を襲う異常事態を粉砕するために、鎌首をもたげた。