頭上、一面に広がる空の光点が寄り集まって、一際輝く緑色の月となる。地平線の向こうから緑の月より一回り小さい赤い月がのぼってくる。箪笥の中に広がる異様な世界。超現実。わけが分からない。
「いろいろと聞きたいことがあると思いますが先輩、まずは、身を守る方法をお教えしますね」
女の子は微笑んだ。握った右手を口の前に持っていき、コホンと咳払い。
「一つ、常識を超えた判断力を持つこと。二つ、自己を強く規定すること。これが基本です」
はあ……?
「ここは超現実。現実ですが、現実ではない。物理法則の歪んだ事象がいくらでも起こります。だから現実を越えた判断力で物事を識別しなきゃならない。その中にいる私たちも同様、現実と同じに事が運ばない。心を強く持ち続けることが、自分の身を守ることに直結します」
なるほど……?
「と、口で説明してみましたが、たぶん分かんないですよね。でも、いつ離れ離れになってもおかしくないので、基本だけでも説明しておかなきゃあならないんです」
よく分からないな……?
「よし、とりあえず、自己紹介しましょうか!アラキアキラといいます」
俺が呆気にとられていると、女の子、アラキが、にっこりと笑って手を差し出した。その差し出された手を見て躊躇する。女の子の手に触れるなんて慣れてない。すぐ前にその体を抱きしめたことを思い出し、今さらだと思い直して手をとる。
「藍原有紀(アイハラユキ)、です」
母親以外との会話は久々で、声がどもってしまった。首の裏に変な汗が滲む。
「知ってますよ先輩」
アラキは、ふふふと笑う。俺の手を両手で包むように握って、胸の高さまで持ち上げる。一歩、ずいと体を近づけてきて、たじろいだ俺が一歩下がる。するとアラキは一瞬伏目になって、「すみません」とあわただしく言った。すぐに二歩下がって、手を強く握ったまま元の高さまで下ろして、軽く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
俺もしどろもどろになりながら、それに答えた。
「……よ、ろしくお願いします」
そそっかしいなと思った。この異様な状況において、信用できるのは目の前の女の子、アラキだけだ。不安が募る。アラキはそれからしばらく、俺の手を離さず、周囲を伺っていた。何か待っているようだ。俺もそれにならって、そこここと視線を走らせるが、何も見当たらない。今自分が立っている場所は、ひとまず、月面だと結論しておこう。頭上にも月が二つある。夢か、と判断して、余った手で頬を抓って捻って引っ張ってみても、ただただ痛いだけだった。アラキがその行動に気付いて、笑みをこぼす。
「夢なんかじゃありませんよ」
アラキの表情は慈愛に満ちていて、たじろぐ。この世界と同じくらいに、この少女もかなり得体が知れない。俺は中学一年生の夏に引きこもり始めたから、後輩と呼べる人物はいないはずだ。小学生のときか?記憶にない。俺がアラキを怪訝な目で見始め、逃げるか否か迷い始めたころ、地面が揺れた。
ごごごごご、と低いうなり声が地面から聞こえる。足元が一メートルほど横にずれた。空中に浮いている箪笥から遠ざかり近づきを繰り返す。俺は前のめりに倒れそうになり、いち早く足を折って伏せたかがんだアラキが俺の体を受け止める。地平線の向こうからのぼってきていた赤い月が、天井からぶら下がっている照明器具のような揺れ方をしている。そして落ちてきた。俺たちからさほど遠くない位置に落下する。赤い月がこちらの月面にぶつかる瞬間、月面は液体のようになって迎え入れた。赤が沈んでいく。しずくのように砂や鉱石が跳ねた。揺れた。横揺れに縦揺れが加わって、箪笥の底から落ちてきていたときの吐き気がぶり返す。揺れはどんどん酷くなっていく。
今や月面は見渡す限り液体になっている。見た目は灰色のさらさらとした流水だ。触っている限りでは非情に硬い。アラキにしがみついて地震に耐えていると、月面にさらなる変化が訪れた。いくつか同心円状に波紋が広がっているところが出来ている。波紋の振幅が大きくなって、中心から様々な物体が浮かび上がる。物差し、ショートケーキ、人体模型、椅子、テレビ、ピカソの絵……、統一性のない有象無象が、あちこちから天に向けて一直線に噴出している。その速度はみるみる加速しているようだ。何本も細長い塊が出来上がって、それらが蛇のような動きで宇宙を泳いでいる。いつの間にか揺れが止んでいた。気付くと中のものを出し切った穴がいくらか出来ている。波紋が消えて、穴は塞がらずに外から中へ灰色の水が流れ込んでいる。
「先輩、大丈夫ですか?」
ハッとして、俺はアラキから急いで手を離した。汗ばんで震えている。
「ここからが本番ですよ」
アラキは不敵に笑った。
やっべ一日遅れた。
会話を書き始めると、頭が会話モードになる。
地の文を書き始めると、地の文モードになる。
地の文で表現すべきところを会話にしちゃったり、地の文を書き始めるが言葉が思いつかなくなったり。
こういう説明回は、妙に難産になってしまう。