アラキの言葉に竦む。ぼやけていたピントが合うように、薄れていた現実感がはっきりとしてくる。今、目の前で起こった、夢(睡眠時に見るもの)のような事象が、まさに俺の立つ現実だ。これからさらに何かが起ころうとしている。理解できないものへの恐怖心が体を支配する。ことさらに震える右手を見つめた。立ち上がったアラキがその手首をつかんだ。そして引っ張った。つんのめって、アラキにもたれかかる。抱きとめられる。背に腕を回してしっかりと、きつく抱きしめられる。肩に顔をうずめる形になって、女の子の甘くいい匂いが鼻の奥に広がる。すがるように、その体を抱きしめた。
「ふひっ」
今の変態じみている声はアラキだ。俺じゃない。
「おっと、すみません、震えているようだったので。今から目にするものは、もしかしたら、見ただけで気を失うような壮絶なものかもしれません。そうでないかもしれません。でも、今すぐに相対しなければならない。恐怖は私が抱きしめて癒しますから、気をしっかり持ってください」
無茶苦茶なことを言う。
「理由とかその他もろもろは、後で話します。時間が無い。繰り返しますがここからが本番です」
後頭部に暖かい手が触れて、髪を撫でられて、そこで震えが止まっていることに気付いた。正体の分からない女の子。しかし、彼女は俺の命を救った恩人で、今も、俺のことを考えてくれている。とても暖かい。気恥ずかしくなってアラキの肩を掴んで離れた。顔を上げると、アラキのやわらかな笑顔が目にうつる。その後ろに、さっきまでは無かった巨大なシルエットがあることにも気付いた。
蟹がいた。俺が目を丸くして、アラキがそれに気付いて後ろに振り返るのと、アラキの首が鋏に挟まれるのがほとんど同時だった。「あ」とアラキは呟いて斬られた。閉じた鋏の上で首が跳ねて、転がった。血が噴出した。右血が目に入って、刺すような痛みが走った。景色が赤く染まる。目を閉じる。頬が生暖かい。片目で、再び眼前を視認する。赤黒い巨大な蟹がそこにいる。アラキの体は一切の生気と動力を失って、蟹にしなだれかかっている。心臓が、雑巾を絞るみたいに、恐怖に締められる。体がすくむ。大口開けたのに、声が出なくてヒュウヒュウと哀れな音がした。尻餅をついた。ひどく寒い。見えている景色が霞んでいく。
蟹は、アラキの体を、また鋏で斬った。何度も何度も斬った。そのたびに血が溢れ、辺りが汚れていく。目を逸らして、蟹の上に人間の頭がくっついているのに気付いた。髪の薄い中年男だ。とても無邪気に笑っている。人のいいおじさん、といった雰囲気だ。頭は人で体は蟹、ということなのだろうか。常識を超えた判断をしなければならないというアラキの言葉がふと脳裏をよぎった。
「常識、判断……」
常識も判断も超えている。この事象は俺の領域ではない。まさに次元が違う。
「そう。常識と判……断……」
俺の耳元で、誰かが囁く。女の声。それはさっきまで聞こえていたもので、はっとして振り返った。左肩に、アラキが気だるそうに顎を乗せてきた。驚いて飛び上がりそうになった。ひっと息が引っ込む音がした。
「すみませんね、ちょっと油断しちゃって。思ったより強いのが出てきて。いや、負けることも苦戦することも万に一つも無いんですが」
背中に暖かい生命の感触がある。彼女は生きていた。俺の方に手をついて、立ち上がる。最初に俺の目の前に現れたときと同じセーラー服に身を包んでいる。血や傷の類は見えない。俺の方をチラッと見て笑ってみせてから、蟹に目線を向けた。いつしか、蟹がボロボロにしていた肉体は消え去り、その場を塗らす血潮だけが直前の惨劇の証明になっていた。
「生きてたんだ」
「どやっ」
アラキはスカートのポケットから黒い革のグローブを取り出して両手にはめた。またしても震えて立てないでいる俺の前に立った。左足を前に出し、体を半身に構え、右手を高い位置で後ろに引いて構える。眼前に伸ばした左手は握らず、腕も伸ばしきらず脱力しているように見える。何かの拳法の構えなんだろう。
蟹はつまらなそうな表情でアラキを見ている。左右の鋏をカチカチと鳴らしている。アラキは静かに立っている。表情は伺えないが、戦闘体勢に入ったことが伺えた。両者の距離は二メートルあるかないかというところか。
蟹が右の鋏を振り下ろした。アラキの左上方から迫る。それをアラキは左手でいなしながら、地を蹴った。二メートルが一瞬で零になり、右の拳が蟹の胴体に猛進する。アラキが雄叫びを上げる。その硬い甲羅を華奢な右手が貫く。この一撃の威力を上げるために体を捻り、後方へと引いた左手が次の衝撃となる。
「オラオラオラオラオラオラ――!!」
交互に打ち出される拳が、俺には見えない速度でまで加速していく。蟹が粉砕されていく。中年男の顔が泡を吹いている。
「オラァアッ!!」
甲羅は粉々に砕け散り、中から男がでてきた。アラキは男の襟首を掴むと、上空へ放り投げた。男は落ちていくように空に吸い込まれていった。アラキは手を払い、首を左右に曲げて、ふぅと溜息をついた後、こちらに振り返ってにっこりと笑った。
「終わりましたよ!」
めちゃくちゃ間が開いたけど仕方ないね。うん、仕方ないね。