東亰ザナドゥ ―秋晴れの空へ向かって―   作:ゆーゆ

13 / 52
5月20日 BLAZE

 

 クラブハウス二階。部活動に関わりが薄い生徒にとっては一度も足を踏み入れること無く、三年間の高校生活を終えてしまっても不思議ではない未知の領域。私も以前はそちら側の人間だったし、テニス部へ入部したその日に初めて階段を上った。

 二階には各部に一室ずつ部室が割り当てられていて、扉の上部に部名のプレートが掲げられ、向かって右側には管理責任者、つまり部長の名が手書きで記されたプレートが掛かっている―――筈なのだけど、プレートは各部バリエーションに富んでいる。富みまくっている。例を挙げれば『入室中/退室中』を示すシンプルな物もあれば、『睡眠中、起こすな』『着替え中、開けたら抉る』『ノックぐらいして下さいサキ先生』『郁島禁止』といったように、各部が様々なプレートを使い分けているようだ。

 

(またソラちゃんが出禁されてる・・・・・・)

 

 ソラちゃんの名誉の為に言っておくけど、ソラちゃんは女子空手部の部室と勘違いをして、着替え中の男子が密集する『男子』空手部の部室を開けてしまっただけであって、寧ろソラちゃんにとってはトラウマ的な何かと化したらしい。サキ先生は知らない。

 細かいことはさて置き、先週末からテニス部員として活動を始めた私も、テニス部の部室を使用する許可を得ている。階段側から数えて二つ目、女子空手部の部室の隣に位置するそれは、二年B組の教室に続く二つ目のホーム。掛け替えの無い帰るべき場所の扉を、私は勢いよく開いた。

 

「お疲れさまですっ」

「おーっす、やっと来たな」

「遅いですわよ、遠藤さん」

「す、すみません。今日は掃除当番だったので」

「構わないわよ。私達もついさっき着替え終えたところだから」

 

 荒井リサ先輩、エリス・フロラルド先輩に、高松エリカ先輩、そして私。たったの四人だけだけど、私が加わった新生テニス部は昨日から本格的に始動した。

 私にとってのキッカケは何だったのか。今となっては曖昧だけど、時坂君が言っていたように、私は複雑に考え過ぎていたのだと思う。だから私は単純に、思うが儘にテニス部に飛び込んだ。お兄ちゃんも私の過去も関係無い。ラケットを握った際に沸き上がってくる感情だけは、嘘偽りの無い確かな物だ。

 でもコートに立つ以上、生半可な気持ちではいられない。それにアリサ先輩とエリス先輩には、明確な目標と信念がある。打倒聖アストライア女学院、エミリ・テレジアペアに向けて、私だって一緒に戦って見せる。できることがある筈だ。その為に先輩らは、私に全てを一任してくれていた。

 

「あのー。今日の練習内容も、私が決めてしまっていいんですか?」

「ええ、勿論。貴女にはお兄さんを全国に導いたっていう実績があるじゃない」

「そ、それは別に私の力って訳では・・・・・・でも、はい。分かりました」

 

 自分でも自覚はしている。選手としての総合力で言えば、私は先輩らに遠く及ばない。お兄ちゃん譲りのストロークだけなら自信があるけど、何せ試合経験すらロクにないのだから当然だ。

 でもトータルを管理する側に立てば話は変わる。隅々まで読破したテニス関連の教養本は一冊や二冊ではないし、お兄ちゃんが試合で勝つ為にできることは何だってやった。対戦相手を想定した練習方法なんかは得意分野と言っていい。二人の癖や傾向も、大方掴んでいる。

 

「アラ女の二人の試合を、ユウく・・・・・・後輩が動画サイトで見つけてくれたので、各場面を想定した練習方法をいくつか考えてきました。エリカ先輩も入れば四人で試合形式の練習ができます。対策も兼ねて徹底的にやりましょう」

「大まかな方針は決まりですわね。残すところあと一ヶ月、気合いを入れますわよ」

 

 目指すは来月に控えている、全日本高等学校ソフトテニス選手権大会東京都予選、個人戦。多摩地区の個人予選を昨年同様『準優勝』で勝ち抜いたアリサ先輩とエリス先輩は、順当に進めば都予選の決勝でライバルと当たる。一ヶ月という準備期間は長いようでいて短く、その上私は毎日活動に参加できる訳ではないのだ。

 

「気にしないで。アルバイトだって貴女にとっては大切な物の一つの筈よ」

「そう言って貰えると助かるんですけど・・・・・・えーと。部室について、聞いてもいいですか?」

 

 運動用のシャツに袖を通してから、室内を見渡す。昨日は敢えて触れなかったけど、どうしたって気になってしまう。

 先週末と比較して、明らかに物が増えている。元々やけに充実しているとは感じていたけど、部員が増えた以上に様々な物が棚に並び、生活感さえ滲み出ている。しかも優雅というか、エレガントというか。色鮮やかな装飾や小物は別として、あの見るからに高級そうなティーセットは一体何処から沸いて出てきた。小型のポータブルバッテリーと電気ケトルがどうして部室に備え付けられているのだろう。

 

「それは私が取り寄せた物ですわ。少しは部室らしくなりましたでしょう」

「ぶ、部室らしい部室を知りませんけど・・・・・・校則的に、駄目ですよね?」

「何処の部室も似たり寄ったりだろ。バレー部の部室にだって雑誌とか漫画が積んであるし」

「女子空手部も制汗スプレーや汗拭きシートをフレグランスの数だけ常備しているわね。他にも色々揃えてるから、私達も度々お世話になっているの。部長のマイが大らかなのよ」

「そもそも生徒会室が充実し過ぎているからこそです。ミツキさんに許されて、私が不自由をしなくてはならない道理があって?大体ミツキさんはいつも―――」

 

 私に言われても困る。それにエリカ先輩は度々北都先輩を引き合いに出しては話が逸れていくけど、何か理由があるのだろうか。嫌っているという訳ではないにせよ、会話をしていると必ずと言っていい程に北都先輩の名前が混ざり込んでくる。大抵の場合不機嫌そうなエリカ先輩とセットだから聞くに聞けない。今度北都先輩の方にそれとなく聞いてみよう。

 

「それはそうと遠藤さん。貴女は高幡君のご友人でしたわね」

「い、いえ。少しだけ話をしたことがあるだけです」

 

 以前柊さんと一緒にエリカ先輩の教室を訪ねた時のことを言っているのだろう。面識はあっても多少会話をしたことがあるぐらいで、とても友人とは言えない。ただの先輩と後輩だ。まあ妙な噂が蔓延したことはあったけど。

 

「でも高幡先輩が、どうかしたんですか?」

「先週の金曜日から無断欠席が続いているようですの。余計な詮索をするつもりはありませんが、こうも連日になると流石に気になりますわ。クラスでも変な噂が立ち始めていますのよ」

 

 先週の金曜日。土日を含めれば、もう六日間も学園に顔を出していないということになる。病欠ならまだしも、連日の無断欠席ともなれば確かに引っ掛かる。何かあったのだろうか。

 

「さてと。お喋りはこれぐらいにして、そろそろ行きましょう?」

「あ、はい」

 

 いずれにせよ今は目の前の部活動に集中すべきだ。私は引っ掛かりを頭の片隅へ追いやって、ラケットを握った。

 

_______________________________________

 

 コート上で存分に汗を流した私は、アリサ先輩に倣い女子空手部の部室で汗臭さを上書きしてから、そのまま空手部員であるソラちゃんと共に帰路に着いた。

 女子空手部は毎日活動している訳ではなく、剣道部や男子空手部と入れ替わりで道場を使用していて、道場を使えない日は走り込みのような軽いトレーニングに励むか、或いは休止日を設けて疲れを取るようにしているらしい。今日の放課後は道場をフルに使えたようで、ソラちゃんは心地良い疲労感に身を委ね、空腹感を満たしながら私の隣を歩いていた。

 

「あひへんはい、ほえほんろういおいひいえふ」

「何となく分かるけど、食べてから話そう?」

 

 ソラちゃんが頬張っているのは、今朝方に作ったサンド。サラさんから任された新メニューの試作品として仕上げた後、小さめのクーラーバッグで保存していた物だった。具材はバジル入りのポテトサラダとハニーマスタードチキンが主軸で、女性が好みそうな食べ応えのある組み合わせを選んでみた―――のだけど、如何せん在り来たりというか、特色が薄い。プロが手掛けた商品と比べる訳にはいかないにしても、もっとこう、何かあるだろう。それにソラちゃんには失礼かもしれないけど、部活帰りの彼女に感想を求めるのは少し反則気味だ。美味しさ補正が五割増しと言っても過言ではない。

 

「す、すごいです。お店に並んでいる商品みたいで、とにかく美味しくって」

「まあ使ってる具材も分けて貰ってるからね。美味しくない筈がないよ」

「・・・・・・これでも駄目なんですか?」

「駄目って訳じゃないんだけど、他にも色々試してはみたいかな」

「お任せ下さい。私、何だって食べちゃいます」

「あはは、食べるだけじゃなくて感想も・・・・・・あれ?」

 

 視線の先には、見知った男性の横顔。日が暮れ掛かっている夕空に照らされた時坂君が北側の歩道から右折して、私達と同じ方向へ歩を進めようとしていた。

 

「コウせんぱーい!」

「ん・・・・・・お、ソラにアキか」

 

 ソラちゃんの声に気付いた時坂君が立ち止まり、足早に駆け寄った私達と合流する。

 制服姿の時坂君は、例によって今日も放課後アルバイト。レンガ小路のフラワーショップで雑務を任されていた。一方で頼まれた仕事自体は大した量ではなく、日没前に一通りを済ませた時坂君は、ちょうどこれから帰宅するところだった。

 

「二人は部活動の帰りか?」

「はい。えっと、今はアキ先輩が作ったハニルバスタードとマジポテサンドが美味しいっていうお話を」

「聞いたことがねえ異界食材だな」

「私は何を作ったの・・・・・・」

 

 混ざり過ぎである。もしかして私は人選を誤ったのではないだろうか、という失礼極まりないけど無理もない感想を抱きつつ、表に出さないよう再び歩き始める。三人の歩調が合わさった頃に、私は時坂君の自宅が学園から見て南東の住宅街にあるという話を思い出した。

 

「あれ?時坂君のお家って、こっちじゃないですよね?」

「ジッちゃんと一緒に飯でもどうかって、トワ姉から誘われてな」

「あ、成程。九重神社って、商店街の先にありましたっけ」

「フフ、少し羨ましいです。コウ先輩って普段は自炊してるんですか?」

「気が向いた時ぐらいだなー。シオリに甘え過ぎてるって自覚はあんだけど、バイト帰りじゃ作る気も起きねえし。一人暮らしは気が楽つっても、何かと面倒で困るぜ」

 

 一人暮らしをするようになって、食事の用意にどれ程の労力を要するのか、私は身を以って知った。昔からお母さんの代わりに台所へ立つことはあったけど、それは私に余裕がある時に限っていたからだ。今だってタマキさんと半ば分担制で回しているようなものだし、完全に一人だったらと想像するだけで嫌になる。

 

「そういえば、アスカ先輩も一人暮らしなんですよね」

「うん、そうだね。柊さん・・・・・・柊さんはどうなんでしょう。そういう話、聞かないですけど」

「執行者ってのも相当忙しいって話だし、苦労も多いんじゃねえのか。それにあいつ、昨日からまた色々と調べて回ってるようだぜ」

 

 時坂君が口にした予期せぬ情報に、足が止まる。私とソラちゃんは顔を見合わせてから時坂君の方を向いて、詳細について耳を傾けた。

 柊さん自身がどうこう言った訳ではない。私を含めたクラスメイトの目にも、普段通りに振る舞う柊さんとしか映っていなかった一方で、時坂君は僅かな違和感を抱いていた。誰にも気付かない程度の変化を、時坂君だけが見抜いていたらしい。

 

「俺の勘違いかもしれねえけど、二人も気に留めといてくれ」

「了解です。アスカ先輩の為にも、必ず協力しますよ」

「わ、私もです。役に立てるかどうか、分からないですけど」

 

 私がソラちゃんに続いた後、今度は時坂君が神妙な面持ちで一歩前、私達の眼前に歩み寄った。その行動の意味が分からずにいると、時坂君が言った。

 

「なあソラ、アキ。お前らさ、柊から『生存率』に関する話、聞かされたことあるか?」

「生存率?・・・・・・いえ。多分、聞いてないと思います」

 

 思い当たる物が無く、隣のソラちゃんも同じ反応を示す。一体何の話だろう。それに言葉の意味は理解できるけど、肝心の『指標』が無いと明確な意味を成さないのだから、質問の仕方に変な引っ掛かりを抱いてしまう。

 

「コウ先輩、それ何の話ですか?」

「いや、別に大したことじゃねえさ。二人共、また明日な」

 

 商店街の外れまで来たところで、横断歩道を渡る時坂君の背中を見送った。

 別れ際に随分と思わせ振りな置き土産を残してくれる。あんな聞き方をした後に『大したことじゃない』と言われたってまるで説得力が無い。何となくだけど、時坂君の態度は柊さんを連想させた。

 

「何だったんでしょうね、今の。アスカ先輩に影響されちゃったんでしょうか?」

「あ、ソラちゃんもそう思う?」

「思いますよ。アスカ先輩ってよくああいう言い回しをするんです。物真似もできますよ」

「へえ。やって見せてよ」

「・・・・・・そう。やはりそうだったのね」

「あー。すごく言いそう」

 

 とはいえ考えても仕方ない。私達は本人に見られたら大変なことになりかねない戯れに興じながら、すっかり日の暮れた夜道の中を歩き始めた。

 

_______________________________________

 

 食事に入浴、明日の準備を一通り済ませた後、私はベッドの上にうつ伏せで寝転がって、柊さんが貸してくれたサイフォンを手に悪戦苦闘をしていた。

 

(な、慣れないなぁ)

 

 覚束ない手付きでタッチパネルを操作する。何だか初めて携帯電話を手にした時のことを思い出してしまう。今後はこのサイフォンを使用する機会も増えていきそうだし、時間を見つけて少しでも操作に慣れておいた方が良いだろう。

 

「これは・・・・・・Echo(エコー)、でいいのかな」

 

 柊さんのサイフォンには様々なアプリがインストールされているらしく、その大部分が英語表記。見慣れない単語が羅列されていて、高校二年生レベルの英語力では到底読めた物ではなかった。中には英語以外の外国語仕様の物まであり、何の為のアプリなのかがさっぱり分からない。柊さんからは不用意に起動しないようにと言われていた。

 そんな中で、私が利用できる唯一のアプリ。以前柊さんから使用方法を教わったこともあり、操作法の練習も兼ねて度々使用するアプリがあった。

 

「えーと。確かここをこうして、と」

 

 アプリを起動すると、異界化に関わるキーワードの索引が表示される。調べたい情報をタッチすれば、画面下部に簡易に纏められた説明文が表示される。至って単純なアプリだった。

 例えば『適格者』。異界への耐性が強い人間の中でも極一部、己の魂をソウルデヴァイスとして顕現することができる者達の総称。ソウルデヴァイスを使用している間は、身体能力や五感の飛躍的な向上の他、治癒力の促進、特定の分野における能力上昇といった効果が持続する―――こんな感じだ。

 単語の意味以外にも、私のような素人向けの情報もある。『異界探索時の必須事項』なんかはまさにそれだ。現実世界と比較して、異界では身体に掛かる負担が増大し、ソウルデヴァイスの使用にも膨大な霊力を消費する。ただ異界にいるというだけで消耗してしまうことから、長時間の行動自体が危険。迅速かつ効率的に異界化を沈める為にも、まずは異界深度や広域度の測定、属性の探知を何より優先する。異界から帰還後は早急に補給を行う。補給は市販品ではなく、専用の補給食が望ましい。

 

(あれはすごかったな・・・・・・)

 

 柊さんから手渡されていた、数個の専用補給食。見た目や飲んだ感じは所謂『ゼリー飲料』で、内容量は200ミリリットル程度。『一度飲んでみるといいわ』と言われるがままに口にしたけど、あんな物があるなんて今でも信じられない。何せ二時間半の部活動で走りっ放しだったのに、夕食まで一滴の水も飲む必要すらなかったのだ。某有名漫画に似たような効果を持つ豆があった気がする。一パックで万札が飛ぶのも頷けるけど、それは要するにそれだけのコストが掛かっているということになる。でも柊さん曰く、誰一人として金策には困っていないらしい。この点も異界が関わっているとのことだった。もう何が何だか分からない。

 

「あっ。そうだ」

 

 頭を抱えてしまったところで、時坂君の意味深な発言を思い出す。五十音順に並べられた索引をスクロールさせて、『さ行』の中にあるキーワードと睨めっこをする。すると三文字の単語に目が止まった。

 ―――異界からの『生存率』。異界化に関する充分な知識を有し、三年以上の規定訓練を積んだ適格者。結社ネメシスにおいて異界化の収拾の際に動く実動員、その最低限度の条件を満たす者。仮にその人間が単身で異界へと踏み込んだ場合、無事に現実世界へ帰還できる確率。2015年3月時点で、『82.2%』。

 

「約五分の一・・・・・・か」

 

 それが高いのか低いのか、私には判断し兼ねる。でも単純計算で言ってしまえば、五人に一人は現実世界へ帰ることができない。それが意味するところは―――『死』。知識も経験もあるプロフェッショナルでも、五回に一回。条件を満たしていない人間ならどうなのだろう。私みたいな素人の適格者が、前回のように異界へ入ってしまったとして、また無事に帰って来れるのだろうか。

 

「ひっ!?」

 

 突然の着信音に不意を突かれ、一瞬身体を震わせた。サイフォンとは別、枕元に置いていたガラケーに表示されていた名前を見て、再度驚く。私は喉を数回鳴らして、ベッドの上で正座をしながら、通話ボタンを押した。

 

「はい、遠藤です」

『あ、もしもし、ジュンだけど。突然電話しちゃってごめんね』

「いえ、わ、私は大丈夫です」

 

 何が大丈夫なのかと自分に突っ込みを入れて、小日向君の声に耳を傾ける。声に混じって聞こえてくる街特有の喧騒から、小日向君が今外にいることはすぐに窺えた。もう夜の20時前だというのに、まだ帰っていなかったのだろうか。

 

『さっきまで買い物をしてたから、少し遅くなっちゃってさ』

「買い物ですか。何か入り用の物があったんですか?」

『そうそう。ねえ遠藤さん、この間貸した小説って、どこまで読んであるの?』

「ああ、あれならもう終盤まで・・・・・・読んだところで、止めてます」

『止めてる?』

 

 これはどう説明すればいいのだろう。読んだ感想としては、時が経つのを忘れてしまうぐらいドハマりしてしまったのだけど、終わりが近付くに連れて読む速度が落ちてしまっていた。面白過ぎて勿体無いというか、読み終えてしまうのが寂しいのだ。シリーズ物だから続きがあると言っても、現時点では続巻が出ていない。こんな感覚初めてかもしれない。

 

『ハハ、分かる気がするな。でも良い報せがあってね、今日が二巻目の発売日だったんだ』

「えっ。そ、そうだったんですか?」

『さっきオリオン書房で買ってきたところさ。明日持って行くから、遠藤さんが先に読みなよ』

「わわ、私が?でもそんな、悪いです」

『実は一巻目の内容がうろ覚えでさ。僕は読み直した後でいっ・・・・・・す、すみません』

「・・・・・・小日向君?」

 

 直後に聞こえてきた乾いた音と、怒鳴り声。前者は小日向君のサイフォンの落下音、そして後者は腹の底から絞り出された怒声だった。思わぬ事態に私は息を飲んで、繰り返し呼び掛けた。

 

「こ、小日向君?どうしたんですか?小日向―――」

 

 ―――ツー、ツー、ツー。呼び掛けも空しく、無機質な音が耳に入って来る。急いでこちらから掛け直しても、一向に繋がらない。先程まで通話ができていたのにも関わらず、電源が入っていないか電波が届いていない旨を報せる音声しか聞こえない。

 

「小日向君っ・・・・・・!」

 

 先程までオリオン書房にいて、その帰り道。街の喧騒。居場所は限られる。

 考えるよりも前に身体が動いた。私は上着を羽織り、自転車の鍵を手に握って玄関を飛び出していた。

 

______________________________________

 

「本当にごめんね、心配掛けちゃって」

「気にしないで下さい。大事無くてよかったです」

 

 数冊の本が入った紙袋を片手に、肩を落として私の隣を歩く小日向君。大事無いと言っても無傷ではなく、右頬に浅い切り傷を負ってしまっている。既に血は止まっているし心配は無用だけど、暫くは傷痕が残ってしまうかもしれない。

 無我夢中でペダルを漕ぎ続けた私は、思いの外早く小日向君を見つけることができた。真っ直ぐに駅前へ向かう道すがら、夜道を歩く小日向君と擦れ違った。頬の傷を目の当たりにした時は気が気でなかったけど、傷が浅いと知って大きく安堵の溜め息を付いていた。

 

「でも自業自得かな。夜遅くに出歩いて、よそ見をしていたのは僕だしね」

「そ、そんな。悪いのは絡んできた男の人達です」

 

 突然通話が切れてしまった原因は、ありがちというか古典的な物だった。通話をしながら歩を進めていた小日向君は、反対側から歩いて来た二人組の男性のうち一人と肩が軽く接触した。すると男性らは大仰に痛みを訴え、治療費払うよう小日向君に迫った。戸惑いつつも理不尽な要求を飲む訳にもいかず狼狽えていると、業を煮やした男性らは驚いたことに、小日向君のサイフォンを足で踏み壊して脅し掛けたのだ。

 

「高い授業料を払ったって考えるよ。事を荒立てたくもないからさ」

「た、高過ぎる気もしますけど・・・・・・それで、どうしますか?高幡先輩って、商店街の蕎麦屋で見習いのようなことをしてるそうですよ。私が借りているアパートの近くです」

「へえ、そうなんだ。でも今日はもう遅いし、明日お礼を言いに訪ねようかな」

 

 もう一つ驚かされたのが、窮地に立たされた小日向君に助け船を出した高幡先輩の存在だ。偶然その場に居合わせた高幡先輩は、二人組を一睨みして凄味を利かせたただけで追い払ってしまったらしい。確かにあの外見と体格で睨まれたら、腰が抜けてしまいそうだ。

 高幡先輩、か。同じD組のエリカ先輩の話では、先週末から無断欠席が続いているそうだけど、今の話を聞く限り病欠という訳ではないようだ。なら、他に何かしらの事情があるのだろうか。私も私で気になってしまう。

 

「遠藤さんは高幡先輩といつ知り合ったの?」

「その、以前少しお世話に。明日学園に来てくれるといいですね。私も一緒に行きます」

「いいよいいよ、僕一人で行くから」

「いえいえ、私にも責任があるようなものですから」

「それは違うと思うけど・・・・・・そっか。じゃあお願いしようかな」

 

 申し訳なさそうに笑う小日向君と一緒に、自転車を押しながら歩を進める。最近は物騒な事件が立て続けに発生していることもあり、小日向君はアパートまで送ると言って遠回りをしてくれていた。寧ろ自転車という足がある私の方が安全な気もしたけど、小日向君も男性として譲れない物があるようで、私自身悪い気はしなかった。

 

「あはは。こうして暗い所を歩いてると、四宮君の家を訪ねた時のことを思い出さない?」

「ユウ君の・・・・・・ああ、真っ暗でしたもんね」

 

 つい最近なのに、随分と前の出来事のように思えてしまう。確かにあの時は足元が見えないぐらい光が行き届いていなかったから、小日向君の手を握って―――やめよう。思い出すだけで顔が熱くなる。

 

「あの頃と比べて、遠藤さんはよく笑うようになったね」

「え・・・・・・そう、ですか?」

「うん。堂々としてるっていうか、みんなもそう感じてるみたいだよ。ここだけの話だけど、モリミィで働く遠藤さんが女子の間で噂になってるらしくってさ」

「・・・・・・聞きたくなかったです」

 

 途轍もなく嫌な予感がする。最近は店内の接客も引き受けるよう心掛けていたけど、暫くの間は製造に専念しよう。また騒ぎ立てられるのだけはご勘弁願いたい。

 

「まあ、キッカケはあったと思います。時坂君にも一度、変わったって言われました」

 

 良くも悪くも、死人憑きは幻影以外の何かを残していった。大変な被害が生じ掛けた事件ではあった一方で、私には大きな転機になってくれたのだと思う。女子テニス部にとっても同じことが言える筈だ。胸中で独りごちていると、小日向君は静かに言った。

 

「どうだろ。変わったっていうのは、少し違うと思う」

「え?」

「人の本質はそう変わらない。一時的な変化をそう捉えてしまっているだけで、根底にある物は変わったりしない。表面上そう見えているだけさ。何も変わりはしない。君は君で、僕は僕だ」

 

 何だろう。小日向君の言わんとしていることが上手く飲み込めない。それに、声が変わった。表情も消えて、小日向君がひどく遠い所に立っているように映ってしまう。隣を歩いているのに、遠い。

 

「ああ、ごめん。変なことを言っちゃったかな」

 

 小日向君はハッとした様子で笑みを浮かべてから、再度言い直した。

 

「遠藤さんの場合は、元に戻ったって言った方がいいんじゃないかな」

「元に戻った・・・・・・」 

「今の遠藤さんの方が、きっと本来の遠藤さんなんだよ。毎日直向きに何かに打ち込んでいる遠藤さんを見てると、すごいなって思う。僕は色々と中途半端だから」

「そ、そんなことないですよ」

 

 私は直向きにと言うより、単に忙しさに見舞われて日々きりきり舞いなだけだろうに。買い被り過ぎにも程があるし、何ともむず痒い。それに小日向君の『中途半端』もよく分からない。私とは違って部活動をしていない、という意味合いではないのだろう。何を指して自分を卑下しているのか、私には思い当たる節が無い。

 

「っと。このアパートだっけ?」

 

 言われて見上げると、知らぬ間にガーデンハイツ杜宮に辿り着いていた。会話に気を取られいる間、既に結構な距離を歩いていたようだ。

 

「送ってくれてありがとうございました。小日向君も帰り道、気を付けて下さいね」

「どういたしまして。できるだけ明るくて人通りの多い道を行くよ。じゃあ、またね」

 

 右手を振って見送り、小日向君の小柄な体が夜の闇に溶け込んでいく。先程のやり取りが胸の奥に引っ掛かっているせいなのか、私は寂しさのような感情を抱いていた。

 

_________________________________________

 

 翌日の午前8時15分。私と小日向君は駐輪場で落ち合った後に三年D組の教室を訪ね、エリカ先輩に声を掛けていた。

 

「彼ならまだ来ていませんわよ。この時間に姿を見せないなら、今日も欠席なのでしょうね」

「そうですか・・・・・・今日も」

 

 高幡先輩の無断欠席は先週末からだから、今日で丸一週間も休んでいることになる。夜道に出歩くぐらいだし、病欠ではない。一体どうしたというのだろう。気心知れた仲ではないにせよ、流石に心配になる。

 

「休みなら仕方ないね。遠藤さん、戻ろうか」

「あ、はい。エリカ先輩、今日の部活動はどうしますか?」

「雨が止みそうにありませんし、今日は休みにしようと先程話していたところですわ」

 

 今日の天候は生憎の雨模様。テニスコートも水溜りだらけで使えそうにないし、複数の部が今日は休みを選択するしかなさそうだ。今日はアルバイトもないから、久し振りの羽休めに専念しよう。

 

_______________________________________

 

「きゃああ、ジュン君!?」

「いやあ!大丈夫!?」 

「あたし達の天使が傷物に・・・・・・!」

 

 うん、想像はしていたよね。整った顔立ちと中性的な容姿から絶大な女子の人気を得ている小日向君の顔に絆創膏が貼ってあったら、瞬く間に囲まれてしまうのは簡単に予想できた。伊吹君が怪我をした時と余りに異なる反応が少し気の毒だけど、だからかな。その態度はどうかと思う。私は違うと思う。

 

「おはようアキちゃん。今日はジュン君も随分と遅・・・・・・な、何だか顔が怖いよアキちゃん」

「アレか、寝坊でもして朝飯を食いそびれちまったのか」

「伊吹君、手首の具合はどうですか?治り掛けが一番危ないですから、注意して下さいね」

「ちょっと左手首も怪我して来る」

「ついでに頭も打って来い」

 

 私は机の上に鞄を置いてから、今日に限って登校時間が遅かった原因、事の経緯について説明した。小日向君が二人組の不良に絡まれてしまったこと。その際に頬を怪我してしまったこと。高幡先輩が助けてくれて、先程二人でお礼を言いに教室を訪ねたこと。一連の話に耳を傾けていた三人は、口々に意外そうな反応を示し始める。

 

「あの高幡シオがねえ。以前遠藤さんから聞いた話でもそうだったけど、なーんかイメージと違うよなぁ」

「やっぱ単なる不良って訳でもないんだろうぜ・・・・・・にしても最近、物騒な話ばっか聞くようになったな。まさか同じ奴らが関わってんのか?」

「どうでしょう・・・・・・そういえば小日向君が、エンブレムを見たって言ってました」

「「エンブレム?」」

 

 小日向君の話では、二人組は背中に焔を思わせるエンブレムが描かれたお揃いの上着を着ていたそうだ。私がそう伝えると、三人は心当たりがあるのか、一様にして同じ表情を浮かべた。

 

「おいおい。それってもしかして、『BLAZE』じゃねえか?」

「グレーズ?」

「アキちゃん、それはドーナツに付ける白いやつだよ。そうじゃなくて『ブレイズ』」

「ブレイズ・・・・・・あれ、それって」

 

 ―――こいつは別件なんだが、お前さん『BLAZE』を知ってるか。

 私は高幡先輩がアパートを卵粥を届けてくれた、5月10日の出会いを思い出していた。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。