物心が付いたばかりの、子供の頃。水溜りの中を往くことが多かった。
敢えて水溜りの中に足を入れて、水飛沫を散らした。
『おいこら。学園内じゃ知らねえ振りを決め込むんじゃなかったのか』
『いつの話をされているんですか。あれからもう一年以上も経っているんですよ。食事へ向かう道中に、同級生と会話を交わすぐらいなら、何の問題も無いかと思いますが』
皆が往く道を避け、皆が避ける水溜りの中を歩いた。
泥水に塗れて真っ黒になっていると、集まってくる人間達も泥に塗れていて、真っ黒だった。
彼女はそんな自分が本当は嫌いで、彼はそんな自分が心底好きだった。
『期末考査の成績、また伸びていましたね。この一年間で、本当に見違えました』
『何で知ってんのかは聞かねえでおくぜ。ま、誰かさんの教え方が良いからな』
でもあの頃は、毎日が目まぐるしく。
頭上を仰ぐと風花が舞い、知らぬ間に過ぎ去っていた四季の先に、今日が在る。
『何でしたら、来月から同じクラスというのは如何でしょう。手間も省けて言うこと無しです』
『どうしてお前にそんな権限が・・・・・・やれやれ。相変わらずお前は、底が知れねえな』
足元の水溜りに、気付く暇も無く。沢山の理不尽や矛盾に、腹を立てる暇さえも無く。
一日一日が安寧と平穏に充ちていて、ただただ世界が回っていく。
『話は変わるが、女ってのは冬でもあんみつを食うもんなのか』
『あんみつ、ですか?まあ、そうですね。冬でも冷製のデザートはそれなりの需要が・・・・・・ああ成程。フフ、高幡君らしくて良いと思いますよ?きっと喜んでくれます』
『ったく、笑いながら言ってんじゃねえよ。おら、ダチが呼んでんぞ』
『はい、今日はこれで。今度、お店に顔を出しても?』
『言っとくが、俺はまだあんみつしか出せねえぜ』
『充分です。大好きですから』
一瞬だけど永遠に思えるそれらのことが、彼女は大好きだった。
永遠のように思えるけど一瞬に過ぎないのだから、彼は大嫌いだった。
二人を置いてけぼりにして、それでも世界は、回っていた。
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5月22日、金曜日。昼休みに部室を使わせて欲しいという私の願い入れを、部長であるアリサ先輩は快く承諾してくれた。私は最近知ったけど、休憩時間や昼休みを部室で過ごす生徒は割かし多いようで、部員以外が利用していることさえ伏せておけば、別段変な目で見られることもないだろう。
外では一時間程前に昨日から続いていた五月雨が止み、敷地内の至る場所で大きな水溜りが斑点模様を描いている。テニスコートも例外ではなく、お世辞にも整った環境とは言い難い分、すぐには使用できそうになかった。
「こういう日って、テニス部はどうしてんだ?」
「場合によりますけど、コートの水捌けが良くなるように、大きめのスポンジを使って水溜りを除去したりしますね。何処も一緒だと思いますよ」
「うわ、僕には理解できない世界かな。外で掃除機をかけるようなものでしょ」
「ユウキ君ってよく極端な表現をするよね・・・・・っと、アスカ先輩、紅茶のお代わり要りますか?」
「ええ、頂くわ・・・・・ではなくて。そろそろ雑談は止めにして欲しいのだけど」
柊さんの声に棘が生えたところで、四方山話に区切りが付けられる。当然この場に五人の適格者が勢揃いした目的は、食後のお茶会に興じる為ではなく、テニス部の日常を共有する為でもない。ここ数日の杜宮市内における動向と時坂君の証言、そして柊さんが収集した情報の接点を見い出すことにあった。
「時系列に沿って整理していきましょう。ソラちゃん、お願いできるかしら」
「分かりました。ユウキ君も手伝ってよ」
「はいはい」
ペンと紙というシンプルな道具を使い、二人が事の経緯を纏めていく。昼休みが終われば、この紙は柊さんによって職員室のシュレッダー行きになるに違いない。そういった面に柊さんは特に気を遣う。だからこそアナログな道具を使用するのだろう。
「ねえユウキ君、『みすい』ってどういう字だっけ」
「『未遂』。嫌だねー、現代っ子は変換に頼り過ぎてロクに漢字も書けないんだから」
「ソラもお前にだけは言われたくねえだろうよ」
「かわいくないなぁ。ユウキ君って苦手な科目とか無いの?」
「無いけど。でも今の時代に『調理実習』なんてアナクロ過ぎでしょ」
「いや普通だろ。そういや、一年の時にあったっけな。もう終わったのか?」
「まだですよ。確か来月って聞いてます。C組も同じ時期だよね?」
「風邪をひく予定入れてるからどうでもいい」
「そうなんだ。じゃあ当日は迎えに行くね」
「あ、あのー」
私の控え目な声を聞いて、三人が漸く柊さんの視線に気付く。笑ってはいるけど、目が笑っていない。目力だけでみんなを黙らせてしまう辺り流石は柊さんだ。先日に時坂君が使った「エルダーグリードもフェイズ0を決め込むレベル」という表現も言い得て妙、なんて本人に聞かれたら即座に異界へ飲み込まれてしまいそうだ。
柊さん曰くクラス委員長に立候補したのは、日常に溶け込んで裏の顔を隠すことが目的だったそうだけど、本質的な部分で適役のように思える。いや、どちらかと言えばしっかり者の副委員長タイプだろうか。
「どうしたの?」
「え?ああいや、何でもないです」
両手を振って柊さんから視線を外し、現時点でB4サイズの紙に記された項目に目を通す。
・一年半前(?):不良チーム『BLAZE』が解散、以降は噂話も聞かなくなる。
・4月上旬(3月かも?):『BLAZE』が復活したという噂が流れる。目撃証言も多数ある(一部偽物説もあり)。
・同時期:暴行や恐喝未遂といった事件が立て続けに市内で発生し始める。人間離れをした力を目撃したという被害者の証言が複数ある。
・5月20日:小日向先輩がBLAZEメンバーによる恐喝未遂に遭い、その際に高幡先輩が偶然(?)その場に居合わせる。
中でもとりわけ目を引くのは、不良チーム『BLAZE』の存在と、文字通り人間離れでは済まされない『力』についてだろう。
「時坂君達は、前々からBLAZEを知ってるんですよね」
「中学の頃は色々聞いたぜ。親父狩りの犯人を探し出してシメちまったとか、ヤンキーに絡まれてたところを助けられたって奴もいたっけな」
「・・・・・・悪行が美化されていたって話でもなさそうですね。少し釈然としませんけど」
「そりゃ不良呼ばわりされるぐらいだから、良くねえ話もちらほら聞いたぜ。でも大体はそんなだったし、義理堅くて男気のあるチームとして知られてたんだよ」
伏島に住んでいた頃も、不良チーム云々の噂ぐらいは耳にしたことがある。内容といえば暴力的で物騒というか、飲酒や喫煙が他愛無い悪事に思えてしまうような物だけ。当たり前だけど、良い話なんて一つも無かった。だからこそ『不良』と総称される一方で、ここ杜宮におけるBLAZEは事情がかなり異なっているようだ。うん、ここまではいい。
「そんで去年の年明け頃だったな。BLAZEが解散したって噂が流れ始めて、実際にここ一年半ぐらいは全然話を聞かなかったんだ」
「でも最近になって、そのBLAZEが復活した・・・・・・そして柊さんが集めてくれた情報ですね」
「ええ。突拍子が無さ過ぎたせいか、表沙汰にはなっていなかったけど、複数の証言を聞けたわ」
不良チームの復活だけなら、取るに足らない些細な話題に過ぎない。かつては義理堅く美談ばかりが目立っていたチームが、暴行や恐喝を繰り返す集団に変貌したとしても、私達にとっては遠い話としてしか聞こえない。
でも柊さんの話と合わせてしまえば、事情は一変する。紙に記されているように、被害に遭った人間達の多くは揃って『あり得ない力』の存在を匂わせた。『コンクリートを素手で砕いた』『街路樹を薙ぎ倒した』『自動販売機を持ち上げた』といったように、到底同じ人間とは思えない力を振るった。そんな証言を、柊さんは被害者達から複数聞いたというのだ。
「素手で壁壊すぐらいは郁島だっていつもやってるけどね、異界で」
「いつもじゃないもん」
膨れっ面のソラちゃんが最後の項目を書き終えてから、ペンを置いた。
・5月21日:BLAZEメンバーと一般人のいざこざにコウ先輩が居合わせ、この時も人間離れをした力が使われる(紅い瞳?)。更に小日向先輩の一件と同じで、高幡先輩がタイミングよく駆け付ける。『BLAZE』と何らかの因縁がある模様。
内容を照らし合わせれば、小日向君が恐喝に遭った時とほぼほぼ似たような物だろう。でも今回は被害者の証言という間接的な情報ではなく、時坂君の実体験。事態の深刻さに対する認識もまるで異なってくる。時坂君は身を以って『力』の程に触れたのだ。
「確かにあれは異常だった。それにあの『紅い瞳』・・・・・・柊、今回も『異界化』が絡んでるとして、一体何が起きてるってんだ?」
時坂君の問い掛けに、部室内に今日一番の緊張感が漂い始める。
4月に時坂君が見舞われた異界化に始まり、一連の事件の真相は私も聞かされている。でも今回の一件は、そのどれとも違う。もし本当に異界が関わっているとするなら、余りに異質だ。何せ間接的に巻き込むのではなく、現実世界の人間に『直接』何かしらの影響を及ぼしていることになる。
しかも話を聞く限り、BLAZEメンバーはそれを意識的に力に変え、振るっている。BLAZEを介して、もう何人もの被害者が続出しているのだ。異界を知る人間として、指を咥えて黙っている訳にはいかない。
「まだ兆候しか掴んではいないけど、詳細を調べてみる必要があるわね。まずは私達で・・・・・・コホン。時坂君、今回も協力を仰いでも構わないかしら」
「一々聞くなっての。つーか何で俺だけなんだよ」
不満そうな時坂君に構わず、柊さんが一人一人に確認を取っていく。このやり取りはなんだろう。随分と形式的だし、必要性を余り感じない。答えも決まっているというのに。
「実際に動くのは放課後以降として、今のうちに動き方を決めておいた方がいいわね。被害者の証言は既に集まっているから、あとは被害現場の洗い直しと、聞き込みによる情報収集をして回りましょう」
「でも被害現場って結構な数があるだろ。二手に分かれた方が良くないか?」
「ええ。今回は二人ずつ、二手に分かれて調べましょうか」
「了解だ・・・・・・って、それだと一人余るだろ」
五から四を引くところは一。当たり前の指摘を受けた柊さんの視線が、私へと向いた。
「遠藤さん。申し訳ないけど、貴女には一人で調べて貰いたいことがあるの」
「あ、はい。いいですけど・・・・・・何をすればいいんですか?」
「水溜り掃除じゃない?」
「ユウキ君は黙ってようね」
ソラちゃんがユウ君の耳を摘まみ上げていると、柊さんは苦笑いをしてから続けた。
「まあ当たらずとも遠からずね。遠藤さんには高幡先輩の話を聞き出してきて欲しいのよ」
「高幡先輩、ですか」
一昨日と昨日。BLAZEメンバーによる二つの騒動の現場に、タイミング良く姿を現した高幡先輩。小日向君と時坂君の話では、どうも高幡先輩はBLAZEと何かしらの関係があるようで、二件とも単なる偶然が重なったとは思えないとのことだった。確かに私が初めて会った際にも高幡先輩はBLAZEの名を口にしたし、よくよく考えればあれが一番最初の手掛かりでもある。
「そっか。エリカ先輩は高幡先輩と同じクラスですし、部活動をしながら話を聞いてきて欲しいってことですか?」
「そう。察しが早くて助かるわ」
エリカ先輩に限らず、もしかしたら他の二人の先輩からも話が聞けるかもしれない。何より部活動に支障が出ないように、という柊さんの心遣いを感じ取ることができる。今日はコートの整備だけで終わってしまいそうだけど、大変に有難い限りだ。何とかして情報を手に入れて見せよう。
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―――放課後。私達女子テニス部員はジャージ姿に着替えた後、開始約五分でジャージの上下共々を泥だらけにして、地道に作業を続けていた。
テニスコートの質は学校によってピンキリで、杜宮学園はどう考えたって下から数えた方が早い。水捌けは悪いし、二面のうち一面は死人憑きのせいでポールが破壊され使用できない上に、整備に使用する道具も満足に揃っていない。名門校ならいざ知らず、廃部寸前だった杜宮学園女子テニス部には僅かな部費しか回って来ないのだから当然である。
結局水気を除去するには、水溜りに縦横一メートル程度のスポンジを置いて水を吸わせて、適当な場所で絞る。これを繰り返すしかない。贅沢を言うつもりはないけど、もっと人手は欲しいというのが正直なところだ。
「ああもう、マジでキリがねえな」
「ですね・・・・・・以前は二人でやっていたんですか?」
「ええ、そうね。部員が倍になっただけでも助かるわ」
この広さをたった二人で、か。想像するだけで気が遠くなる。ともあれ不満を吐いても仕方ない。新しいシューズを試す為にも、しっかりと働こう。
「あら。遠藤さん、貴女シューズを買い換えましたの?」
「買い換えたというか、新しいモデルを試して欲しいと昨日頼まれまして」
「初日から泥だらけになってるぞ・・・・・・」
泥だらけならまだいい。異界ではギアドライブを使うせいで、相当な負荷が掛かっている筈だ。テニスに使用する前提で設計された試作品を、異界で酷使してもいいのだろうか。私としては動き易くて大助かりだけど、凄まじく嫌な予感がする。
「あ、そうだ。エリカ先輩、高幡先輩は今日も欠席でしたよね?」
「これで八日目ですわ。担任教師も頭を抱えているようですわね」
無理もないか。変な噂が立ち始めているという話だったし、クラスメイトの間でも色々な憶測が飛び交っているのだろう。事情はどうあれ担任泣かせ、困った先輩だ。
コートの端でスポンジを絞っていると、隣に立っていたアリサ先輩が頭上を仰ぎながら言った。
「高幡君かぁ。彼が転入してきたのは、一年生の時の冬休み明けだったかしら」
「え・・・・・・転入、だったんですか?」
「ええ、そうよ。私とエリスは一年生と二年生の時、彼と同じクラスだったの」
これは初耳だ。てっきり三人の先輩らと一緒に入学して、同じ時間を共有してきたとばかり考えていた。私や柊さんと一緒で、高幡先輩は年度の途中から杜宮学園生となった転入生だったようだ。
「ねえエリス、覚えてる?高幡君が転入してきた時の話。確か年明けよね?」
「おう。あの頃から金髪だったから、女子はみーんなビビッて話し掛けようとしなかったっけな」
「そうそう。成績も悪かったから、私達は典型的な不良生徒だなって思っていたの」
「・・・・・・思って『いた』?」
過去形で言い終えたアリサ先輩の表現に引っ掛かり、私は少しだけ大袈裟に首を傾げた。
「確か二年生に上がって、二学期が始まった頃からよ。いつの間にか成績が良くなってて、驚かされたのを覚えているわ」
「科目によっては上位に入ってたし、裏で相当勉強してたんじゃねえかな」
高幡先輩を見る周囲の目が変わり始めたのも、同じ時期。口数が少なく取っ付き辛さは相変わらずだったものの、不良生徒らしい噂の類も無く、少しずつではあるけれど、高幡先輩に対する印象が変化していった。そもそも学園内で問題を起こしたことも無いのだから、外見や性格だけで勝手な誤解を抱き、色眼鏡で見てしまっていたことに気付かされたのだそうだ。
それにしても、二年生の間で広まっていた噂とは随分と差がある。伊吹君なんかは本気で『学園最凶の不良生徒』だと信じていたし、一年生でも同様だとソラちゃんが言っていた。
「無理もありませんわ。部活動にも参加していませんし、接点が無い以上外見だけで判断されても自業自得というものでしょう。校則に反して髪を染めていることだって原因の一つですわ」
「それもそうか・・・・・・でも確かに、悪い人ではないですよね」
「フフ、変わったところもあるわね。彼には失礼だけど、去年のホワイトデーは笑わせて貰ったわ」
「ホワイトデー?」
事の始まりは去年の2月14日、バレンタインデー。折角の機会だからと、アリサ先輩は小振りのチョコレートを量産し、クラスの男子全員に配って回ったらしい。市販の物をテンパリングしただけのやっつけチョコレートな分、アリサ先輩は見返りなんて求めていなかった一方で、たった一人だけ律儀に手作りで返した男子生徒、それが高幡先輩だった。
「驚いちゃったわ。だってタッパーに入った『白玉あんみつ』を渡されたのよ」
「あ、あんみつ?」
「訳を聞いたら、『手作りには手作りで返すのがスジだろ。女が好きそうなもんで俺が作れんのはこれしかねえからな』だって。真顔で言うのよ、笑うしかないじゃない」
成程。そういえば蕎麦処『玄』では、あんみつ系のデザートも出していたか。その辺りが関係していそうだけど、確かにタッパーで手作りあんみつを渡されたら私だって笑う。
「でも悪い気はしなかったわ。素直に良い人だなって思えたし、きっとそういう人なのよ」
「数は少なそうだけど友人っぽい奴もいるし、結構モテるしな。何人か告ってなかったか?」
「三年に上がってからも一度ありましたわね。私には全く理解できませんわ」
先輩らが口々に恋愛話に興じ始めた頃、コート脇のベンチに置いていた私の携帯電話から着信音が鳴った。私は先輩に一声掛けた後、ベンチにあったタオルで手早く泥を拭き取り、急いで着信の主を確認する。電話は時坂君からだった。
「はい、遠藤です」
『時坂だ。今話せるか?』
時坂君が手短に状況説明を始める。時坂君はユウ君と一緒に情報収取をして回っていて、現段階で掴んでいる有力な手掛かりは、BLAZEが溜まり場として利用しているダンスクラブが蓬莱町のあるという情報。今はユウ君と二人で蓬莱町へ移動をしている最中だそうだ。
『ダンスクラブなら日が暮れた頃から人が集まり出す筈だ。頃合を見計らって入り込めば、何か聞き出せるかもしれねえからな。そっちはどうだ?』
「え?」
『高幡先輩の話だよ。何か聞けたか?』
言われてからハッとする。私の目的はあくまで高幡先輩に纏わる情報を聞き出すことであって、決して水取りと雑談ではなかった―――筈なのだけど、白玉あんみつのインパクトが大き過ぎて、すぐには浮かんで来ない。というより、有力そうな情報があっただろうか。不味い、転入生だったという情報以外、何も出てこない。
「えーとですね。高幡先輩も私と同じで、一年半前に杜宮学園へ転入してきたそうなんです」
『一年半前に・・・・・・ん?そういや、BLAZEも同じ時期に解散したって話だったな』
「そ、そうそう!そうなんです。何か関係があると思いませんか?」
今気付きました、という本音を丸飲みにしてから、私は上擦った声で通話を続けた。
『詳しい話は後にするか。柊とソラにも話はしてあるから、時間があったら合流してくれ』
「分かりました。後で向かいます」
通話を終えてから、大きな溜め息を付く。
もっと集中しよう。異界化が関わっている可能性がある以上、注意を怠っては駄目だ。死人憑きの一件を鑑みても、どんな些細な情報が取っ掛かりになるか分からないのだ。
「おーい。サボってないで手伝えっての」
「す、すみません。今行きますっ」
エリス先輩に促され、携帯を置いてから駆け出す。今度は足元の注意を怠ってしまったせいか、大きな水溜りに右足を突っ込み、新品のシューズが本格的に泥まみれになってしまった。
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時坂君と会話をしてから約一時間後。大きな水溜りが大方消えた頃、これぐらい水を取ればもう充分だろうということで、今日の部活動は早めに切り上げとなった。私は部室に戻り急いでジャージから制服に着替え、念の為にスパッツを履いてから駐輪場へ向かった。
そして現時刻は18時。息が切れる程に自転車を飛ばしたおかげで、日が暮れるよりも前に蓬莱町の玄関口に辿り着くことができていた。私は自転車を道端に停めて、呼吸を落ち着かせてから時坂君のサイフォンを鳴らした。
(・・・・・・出ない?)
一度目の通話は失敗に終わり、留守番電話サービスの音声が流れてしまう。もう一度掛け直そうとした矢先に、今度は私の携帯が鳴り、ディスプレイ上には柊さんの名が浮かんでいた。
『遠藤さん、もう部活動は終わったの?』
「はい。えと、時坂君から話を聞いて、蓬莱町に来たところです」
『あら、私達もちょうど着いたところよ。玄関口のバス停にいるわ』
「バス停?バス停ならさっき通り過ぎて・・・・・・あっ」
対面から発車したバスが巻き上げた風を手で遮り、前方を見やる。こちらに向かって歩いて来る柊さんと、右腕を頭上で大きく振るソラちゃんの姿に目が止まった。偶然にも全く同じタイミングで到着したようだ。
「お疲れさまです、アキ先輩。コウ先輩から話は聞いていたんですか?」
「うん。ダンスクラブに向かうって話だったよね」
「私達も被害現場を回り終えたから、バスで駆け付けたところだったの」
同時だったの着時間だけではなく、柊さんも時坂君と連絡を取る為にサイフォンを鳴らした直後だったようで、これも同じく空振りに終わっていた。
「んー・・・・・・ユウキ君も出ませんね。どうしますか?」
「もうダンスクラブへ入っているのかもしれないわね。私達も行きましょう」
「場所は分かるんですか?」
「バスの中で調べてあるから、このまま・・・・・・待って」
すると突然、柊さんの表情が変わった。柊さんがサイフォンを素早い手付きで操作すると、サイフォンが振動を始める。ディスプレイ上にはパーセンテージが表示されていて、数値は真っ赤に染まっていた。見覚えのある画面に、全身から汗が噴き出していく。
「い、異界化!?」
「この強度はっ・・・・・・『フェイズ2』ね。二人共、ついて来て!」
「了解です!」
柊さんが先んじて駆け出し、私とソラちゃんがその背中を追った。繁華街の玄関口から真っ直ぐ道沿いを走り、三叉路を向かって左側へ。更に奥へと進んでいくと、一画の空間だけが歪んでいて、ゲートはフェイズ2を示す朱と黒に染め上っていた。ゲートの隣には、時坂君とユウ君の姿もあった。
「時坂君っ!」
「柊っ・・・・・・ナイスタイミングだ!詳しい話は後でいいか!?」
「そうしましょう。その様子だと、人が取り込まれたのね?」
「ああ。高幡先輩が飲まれちまったんだ」
「そ、そんなっ・・・・・・!」
高幡先輩が巻き込まれた。その事実だけで充分だ。私は上着に入れておいた補給食の蓋を開けて、中身を一気に胃の中へと流し込んだ。周囲にゴミ箱は見当たらず、私は強引に容器を丸め、再度上着の中へ捻じ込むと、それが合図となってみんなが身構える。柊さんの一声で、私達はゲートの向こう側目掛けて走り出した。
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昨日の異界とは打って変わって、異界の内部は視界が不明瞭。灰色の霧のようなものが立ち込めていて、ソウルデヴァイスを顕現させてからも息苦しさを覚えた。周囲を見渡した限りでは、迷宮というよりも『洞窟』。歪な岩肌に絡み付いた木の根のような植物は、ここが現実世界の地下深くであるという錯覚を抱かせた。
「濁度が百を超えちまってる。視界も悪いし、かなり厄介そうだな」
「時間を掛ける訳にはいかないわ。高幡先輩は最奥部まで飲み込まれてしまった可能性がある。すぐにでも出発しましょう」
霧を吸い込んでしまわないよう、大きくゆっくりと息を吸い込んでから、吐き出す。繰り返し、もう一度。
「遠藤先輩、どうかした?」
「・・・・・・ううん、何でもない」
一歩目が、出ない。足が一歩目を踏み出そうとしてくれなかった。
いい加減にしろ、私。ここに来て臆する人間が何処にいる。前回は初めての探索だっただけで、誰にでも失敗は付き物だ。不慣れで何も分かっていなかったから、みんなに心配を掛けてしまっただけだろう。足りない物は補えばいい。過ちは改めればいい。
「あの、一つお願いがあります。少しの間、耳を塞いで貰えませんか?」
「耳をって、別に構わねえけど。何かあんのか」
聞きながら時坂君が両手で耳を覆い、戸惑いつつも三人がそれに続く。全員の聴覚が大まかに遮断されたところで、私は胸一杯に淀んだ異界の大気を吸い込んだ。
「おおおぉぉるああぁあっ!!!!」
私らしくいこう。縮こまっていては満足にスウィングが乗らないし、ヘッドも走らない。声と一緒に振り切って、思う存分走り回ろう。そうすればきっと、ライジングクロスも応えてくれる筈だ。私なら、きっとできる。
心機一転、ギアドライブを加速させて前方を見ると、頭を抱えて蹲る四人の姿があった。
「あれ。耳を塞いでってお願いしたと思ったんですけど」
「塞いでたさ!?塞いでたけど鼓膜を直に触られた気分だよ!!アンタ馬鹿だろ!?」
「で、でもアキ先輩とはいえ、今の声は流石に凄過ぎませんか?」
「成程ね。これも異界における適格者としての力の一つなのよ。遠藤さんの場合は、特に『発声』や『肺活量』が向上しているのだと思うわ」
「でけえ声が更にでかくなっただけだろ・・・・・・」
貶されているのやら、褒められているのやら。判断に困っていると、前方から見覚えのある集団が前進して来る。グリードの中でも様々な亜種が存在すると聞かされた、ゴブリン族のグリード。ざっと見ただけでも十体近い集団が、足並みを揃えて歩み寄って来ていた。
「・・・・・・もしかして、私のせいですか?」
「手間が省けて良かったんじゃねえか。どうせ相手をしなきゃなんねえ奴らだ」
「ま、強制エンカウント技も、レベル上げには割と便利な物だからね。クソうるさいけど」
「アキ先輩に負けないよう、私達も気合いを入れて行きましょう!」
「属性を考慮して私がストライカーを担うわ。四人は二人ずつ両翼に展開して陣形を崩さないように。さあ、行くわよ!」
「「おうっ!!」」
私は声のトーンを抑えて、みんなと掛け声を重ねた。