5月22日、午後19時半。すっかり人気が無くなった杜宮記念公園の一画、遊歩道に囲まれた池のほとりに、僅かな歪みが生じる。直後に地上へと降り立った者達の姿は、幸い誰の目にも止まることは無く、辺りには夜の静寂だけが闇に溶け込んでいた。
「戻って来たか・・・・・・って、ちょっと待て。何処だよ、ここ?」
「あ、あれってユウキ君が住んでるマンション、だよね」
「待って待って、訳分かんないよ。どうして蓬莱町からこんな所まで移動してるのさ?」
「どうやら『地脈の揺らぎ』の影響を受けたみたいね。出現座標の変化・・・・・・そう珍しいことじゃないわ」
アスカが言ったように、異界から現実世界へ帰還する際、様々な『変化』を伴う事例は多数報告されていた。所持品の消失や体調の変化、秒単位の時計のズレといった稀な現象の他、膨大なデータが蓄積した昨今においても、新たな事例が各地から集められている。出現座標の変化それ自体は大して珍しくも無く、アスカにとっては何度も経験したことがある一方、場合によっては『深刻な問題』になり兼ねないことから、最も研究が進められている分野でもあった。
「それにしても、あんな方法でグリードにとどめを刺すなんて、流石はアキ先輩ですね」
「まあカウンター技ってのは大体強力な設定で・・・・・・あれ。ねえ、遠藤先輩は?」
―――ザッパーン。
たった一人、その被害に遭った不幸な人間がいた。『深刻な問題』の典型的な一例だった。
「ぷはっ!え、なに、ちょ、え?ふわ、なな、何で、ぷふ、ぺぺっ」
「何してんのーセンパーイ。まだ水泳には早いと思うけどー」
「あ、アキ先輩!?だ、大丈夫ですかー!?」
「だ、だいじょふ、自分で、およ、およよ、つ、冷たっ、冷たひぃ」
「なあ柊。お前の貸したサイフォンって防水?」
「当然でしょう。異界探索用に設計された最新機種よ」
アキの旧モデルガラケーの行方を思いつつ、コウが無事に泳ぎ着いたアキへ手を差し伸べる。両腕を引かれて地上へ這い上がったアキは、身体を小刻みに震わせながら、大粒の水をぼたぼたと地面に落とし始めた。もう5月の下旬とはいえ、すっかり日の暮れた夜間に水浸しになってしまえば、一気に体温は奪い去られてしまう。
この状況はどうしたものか。何が起こったのか理解し切れていないアキ本人を含め全員が途方に暮れていると、五人の輪から外れていた男子が一人、静かに口を開いた。
「さてと。洗いざらい説明して貰おうか・・・・・・と、言いたいところだが。そうもいかねえな」
理由は勿論、皆の中央で鼻水を啜りながら凍えるアキ。一通りの事情を把握しているであろう人間が眼前に五人、すぐにでも問い質したいところではあったのだが、シオは優先順位を考慮し、一刻も早くアキを連れ出すよう視線で促してくる。
「仕方ねえ。おいユウキ、お前の部屋に行くぞ。ここから一番近いしな」
「ち、ちょっと待ってよ。駄目、今晩は絶対駄目だから」
「何でだよ。アオイさんでも来てんのか?」
返答に詰まったユウキの様子から、シオを除いた全員が「図星か」と納得する。アキにとっては強引にでも押し入りたいというのが本音ではあるのだが、一陣の風が一層の寒気を引き起こし、震えによる体温の確保にしか気を向けることができなかった。
「時坂君、小日向君もあのマンションに住んでいると言っていたわよね」
「さっきから電話してんだけど、タイミングが合わねえのか繋がらねえんだよ」
「・・・・・・やれやれ。ちっと待ってろ」
アスカに返しながらコウが上着を脱いでアキの背中に被せていると、シオが無言でサイフォンを取り出し、大きな右手一つで操作を始める。音量が大きめに設定してあったこともあり、シオのサイフォンから漏れ出てきた声に、全員の目が大きく見開かれた。
『はい、北都です』
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「はぁあぁぁ・・・・・・へぁぁ」
首から下の全てを絶妙な湯加減に委ね、体温と一緒に生きた心地を取り戻していく。こうして湯船に浸かるなんていつ以来だろう。アパートではシャワーで済ませるのが常だった影響か、身体が冷えに冷え切っていたことも相まって、もの凄く気持ちいい。気持ち良過ぎて変な笑いが込み上げてくる。
「へへ、うへへっ」
『遠藤さん。着替えとタオルを置いておきましたので、どうぞ使って下さい』
「は、はひっ!」
おかげで返事までおかしなことになってしまった。完全に変質者だ。他人のマンション部屋で贅沢をするのも悪いし、あの北都先輩が日々使っているバスルームだと考えると畏れ多いこと極まりない。少し落ち着こう。
「はー・・・・・・」
一旦肩から上をお湯から出して、頭上を仰ぐ。柊さんによれば、出現座標の変化自体はそう珍しくもないらしい。夜中に水泳をする羽目になった不運は仕方ないとして、今考えるべきは他にある。少し現状を整理しておくとしよう。
まずは時坂君とユウ君側から。噂に聞いていた通り、不良チームBLAZEは一年半前に一度解散していた。当時は『カズマ』という男性と高幡先輩がリーダーを務めていた一方で、最近になって復活した新生BLAZEに高幡先輩は関与しておらず、現在は『アキヒロ』という男性が先頭に立って活動している。活動と言っても、既に聞き及んでいるように大半が恐喝や暴力沙汰の類だ。物騒だけど、それだけなら何処にでもありそうな話だろう。
でも時坂君らの証言と、柊さんとソラちゃんが事件現場で見つけたという『タブレット』を合わせて考えれば、事の真相は異界化という真っ黒な色に染まる。私達の推察が正しいとして、こうしている間にも新たな被害者が出てしまう恐れがある。もしアキヒロさんが本当に『異界化を自在に操れる』というのなら、何が起こっても不思議ではない。私達の想像を遥かに超えた異質な力が、無法者の手中にあるのだ。
「・・・・・・出よう」
これ以上は私が考えても無駄か。身体も充分温まってくれたし、そろそろ頃合だ。
脱衣所へ戻り、木製のバスケットに入っていたふわふわのタオルで水気を取りながら、用意されていた着替えを見詰める。下着はすぐに必要になるから、手早く洗浄して乾かしてくれたのだろう。他には紺色のルームウェアらしき着替えが上下と、薄手のタオルが一枚。女性の部屋着としては一般的でも、北都先輩も普段はこういった地味な物を着るのかと思うと少しばかり意外だ。全く別の世界に住んでいる人間だと感じていたけど、よくよく考えれば同じ学園に通う女子高生の一人。特別視が過ぎる態度は控えた方がいいかもしれない。
『もう上がられましたか?』
「あ、はい。おかげ様で温まりました。色々とありがとうございます」
扉の向こう側に立っているであろう北都先輩に返すと、北都先輩は洗面所においてある品々は自由に使っていいと声を掛けてくれた。そう言われても、私に必要そうな物は一つしか見受けられなかった。
「えーと。ドライヤーだけ、お借りしますね」
『それと、遠藤さんの所持品をお預かりしています。後で脱衣所を出て右側の部屋に来て下さい』
「・・・・・・わ、分かりました」
途端に気が重くなってしまう。私の携帯電話は無事なのだろうか。多分駄目だろう。だって非防水だし。
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廊下に出て右側にあった扉を開けると、一目でそこが寝室だと理解できた。家具や寝具はほとんどが昼白色を基調とした物で統一されていて、ほのかに香るラベンダーの匂いが穏やかな感情を抱かせてくれる。掃除や収納が行き渡っている中に垣間見られる僅かな散らばりが、整っていながらも生活感溢れる空間を形成していた。
「夜はまだ冷えますから、どうぞお好きな上着を羽織って下さい」
「え。で、でも」
「後日返して頂ければ結構です。その服装で出歩いては、湯冷めしてしまいますよ?」
段々と北都先輩色に染まっている気がする。変に意識するとまた「うへへ」と妙な笑い声を漏らしてしまいそうだから、心を無にするよう努めよう。
私はクローゼットの中から無地のパーカーを選び取り、北都先輩へお礼を言ってから袖を通した。夜と言ってももう五月の下旬、薄手のパーカー一枚で事足りるだろう。何より気になるのは、テーブルの上に並べられた所持品の数々だ。
「財布と、アパートの鍵と・・・・・・」
紙製のカードや紙幣は後で乾かすとして、アパートの鍵が池の底という最悪は免れたようだ。柊さんから借りているサイフォンも防水性だから支障無く動いているし、他の所持品も全て揃っている。問題の私の携帯は―――うん、やっぱり駄目そうだ。
「電池パックとカードは外してあります。完全に乾燥させてからでないと、何とも言えませんが・・・・・・少し難しそうですね」
「仕方ないです。五年ぐらい使い続けた物なので、これを機に買い直しますよ」
床に落としたり何だりを繰り返してきた携帯が五年も持てば充分な方だろう。良い機会と割り切って、新しい物に買い替えるしかない。折角節約して生活費を切り詰めていたのに、手痛い出費になりそうだ。
「制服はクリーニングに出しておきました。最寄りの店舗で受け取れるよう手配していますから、明日にでも取りにいらして下さい」
「な、何から何まで・・・・・・本当にすみません」
北都先輩に深々と頭を下げてから視線を戻し、北都先輩の背後にあったカーテンの隙間に目が止まる。そういえば、この部屋はユウ君と同じマンションの最上階だったか。二十五階の部屋から眺める杜宮市の風景は、どんな形で映るのだろう。
想像に気を巡らせていると、北都先輩が笑みを浮かべながら「ご覧になりますか?」と言って窓際へ歩み寄る。気恥ずかしさを抱きつつ、私は北都先輩に続いてそっとカーテンを開け、ガラス窓に手を掛ける。すると高層マンション特有の風が火照った肌をなぞり、眼前へ広がった一枚の絵に、私は感嘆の声を上げた。
「うわー・・・・・・」
二階のアパートからでは望めない、日没後の夜景に浮かぶ光点達。ちょうど市の中央部を見下ろせる方角を向いていて、ビル群の隙間では道路を走る車両の列がゆっくりと動いている。遥か遠方にはトモコさんが勤めるアクロスタワーを見やることができた。
「今となっては見慣れた夜景ではありますが、新鮮な目で眺めてみると、やはり言葉になりませんね」
「綺麗・・・・・・本当に、綺麗です」
人工的で無機質な風景でも、杜宮市が持つ複数の顔の一つであることは確かだ。良い街だなと、素直に受け取ることができる。
でもそんな街中で―――最近は、立て続けに穏やかではない騒動が発生している。既に複数人の市民が、病院のベッドで入院生活を余儀なくされている。そんな理不尽が許されていい道理が無いし、許す訳にはいかない。
「あの、北都先輩。柊さん達から、何か聞きましたか」
「何か、と言いますと?」
「えーと。その、私が池に落っこちた原因、とかです」
「足を踏み外して、と聞いていますよ。そこへ偶然高幡君が通り掛かったそうですね。皆さんが夜の公園で何をされていたのか、気にならないと言えば嘘になりますが、詮索は無粋という物でしょう」
当たり前だけど、異界化絡みの話は伏せてあったか。何かしらの事情を抱えていることは察しが付いているようだけど、流石は北都先輩、理解が早くて助かる。私としても、北都先輩と高幡先輩の間柄が気になるというのが本音ではある一方で、立ち入った話ができないでいた。要はお互い様というやつだ。
杜宮市の夜景を存分に堪能し、窓とカーテンを閉めたところで、扉をノックする音と共に、時坂君の声が聞こえてきた。
『北都先輩、居ますか?』
「はい、遠藤さんもここに。高幡君とのお話は、もう終わりましたか?」
『おかげ様で。長居するのも悪いんで、そろそろお暇するッス。アキ、もう出られるか?』
「大丈夫ですよ。今行きます」
私が身体を温めている間に、時坂君らは高幡先輩へ一連の事件の真相について、必要最低限の話を聞かせていた。柊さんの記憶操作が効かなかったことは別としても、騒動の中心にいるBLAZEを過去に束ねていた高幡先輩にだけは打ち明けるのが筋だろうと、ここを訪ねる前にみんなで決めていたことだった。どういった話になったのかは後々みんなから聞くとして、もう夜の21時を回ってしまっている。今日はこの辺にして、北都先輩には後日改めてお礼を言いに行こう。
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律儀に一階のエントランススペースまで見送りに下りたミツキは、シオと共に五人分の後輩の背中を見詰めていた。エントランスにはソファーやテーブルが設置されており、昼間は読書や散歩後の小休憩に利用する住民が多いものの、すっかり日の暮れた今の時間帯になれば、広さばかりが目立つ静かな空間と化すのが常。今エントランスに立っている人間も、ミツキとシオの二人だけだった。
「いきなり無理を言っちまって悪かったな」
「フフ。面倒見がいいところは、相変わらずですね」
そんなんじゃねえと返しながら、シオが首を鳴らして数歩前に出る。シオにとってもこれ以上の長居は無用。寧ろ大方の真相を把握した今だからこそ、すぐにでも動き始めたいと考えていた。
「世話んなった借りはいずれ返す。また―――」
「最近は帰りも遅いそうですね。お二人共心配されていましたよ」
ミツキの声にシオの足がぴたりと止まり、大きな溜め息が一つ続く。ミツキが言った『二人』が誰を指しているのか、遠回しに何を言わんとしているのか。敢えて明確にせずとも、シオには正確に伝わっていた。
「毎日帰るようにはしてる。最低限の義理は果たしてるつもりだ」
「学園の皆さんも同じではないのですか。あなたを慕う人間は沢山います。生徒会長としても、一週間以上欠席を続ける生徒を見逃すわけにはいきません」
「・・・・・・知ったような口を利いてんじゃねえよ。もう時間がねえんだ」
「そうやってお一人で抱え込むことが正しいだなんて、私には到底思えませんが」
途端にシオが踵を返し、頭一つ分以上背丈の低いミツキを見下ろしながら詰め寄る。常人なら思わず悲鳴を上げてしまいそうなシオの形相に、ミツキは眉一つ動かさずに視線を重ねていた。
「何が言いてえ。こいつは俺とBLAZEの問題だ。お前には何の関係もねえだろうが」
「言いたいことは山ほどありますが、これ以上は嫌味っぽくなってしまうと思いますので・・・・・・そうですね。後でこっそり、独り言を呟くとしましょうか」
「だったら最初からそうしろ。じゃあな、もう行くぜ」
「バカっ」
「・・・・・・どこがこっそりだよ」
吐き捨てるように言いながら、再度振り返り歩き出したところで、シオが気付く。僅かに遅れて、ミツキもその人影に目が止まる。会話に意識が向いていたことで、この場を去った筈の五人のうち一人が、声を聞きとれる程の距離に立っていたことに、二人共気付くことができなかった。
「えっと・・・・・・」
気まずそうに俯いていたアキに対し、シオが無言で擦れ違い、ミツキは変わらずに笑みを浮かべて声を掛ける。
「遠藤さん、お忘れ物ですか?」
「いえ、その。テニス部の先輩と、明日の予定について連絡を取りたかったんですけど・・・・・・携帯が使えないから、連絡先が分からなくて。北都先輩ならご存知かなと」
「ああ、それならエリカさんのご連絡先をお伝えしますね」
ミツキが上着からサイフォンを取り出し、操作を始める。一連のやり取りを耳にしてしまっていたアキは、やはり触れることができなかった。気安く触れてはいけないと、感じていた。
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エリカ先輩の連絡先を教わった後、私は公園内で待っていた四人と合流してから、ゆっくりと南側の方角に歩を進めた。今後の方針を簡単に話し合うということで、マンションの住民であるユウ君も、入り口まで付き合ってくれるようだ。
「じゃあ、高幡先輩はたった一人で動くつもりなんですね」
「色々と拘ってる物があるみたいだからな。俺達は俺達で動くしかないだろ」
「でもこれ以上、一般人である高幡先輩の勝手を許す訳にはいかないわ。彼を異界化から遠ざける為にも、早急に私達の手で解決に当たりましょう」
異界化とBLAZEの繋がりに関する真相を聞き終えた高幡先輩は、その危険性を考えようともせず、これまで通りに単独で動くつもりだそうだ。かつての仲間が得体の知れないドラッグに手を出してしまっているともなれば、高幡先輩の心境は理解できなくもない。
でも柊さんが言ったように、高幡先輩の心意気に関わらず、一般人にどうこうできる世界ではない。高幡先輩は異界に突き落とされ、一度死にかけているのだ。柊さんの推察では、アキヒロさんは異界に魅入られてしまったことで正気を失っているらしいけど、事実だけを受け取れば殺人未遂者と被害者に他ならない。余りに危険過ぎる。適格者である私達にしかできないことがある筈だ。
「でもさ、実際にどうする訳?人間関係はこの際置いといていいと思うけど、『異界ドラッグ』の出処をどうにかしないと、解決にはならないんじゃないの?」
「そうね。まずはドラッグの原料の入手先である異界を突き止めてから、その異界化を食い止める。それしか方法は無いわ」
騒動の根本は異界ドラッグであり、原料とされる異界物質の在り処。それらを根絶やしにしない限り完全な解決には至らないし、異界ドラッグが第三者の手に渡る可能性だってある。今はBLAZE内に収まってくれているようだけど、外部へ漏れ出してしまったら何が起きるのか、想像もしたくない。
「今日はもう遅いし、明日から動くとするか・・・・・・にしても、高幡先輩って北都先輩とも知り合いだったんだな。意外っつーか、驚いちまったぜ」
「アキ先輩のこともありましたけど、『後輩が池に落ちたから風呂沸かしといてくれ』で通じちゃう辺り、結構親しい間柄のようですね・・・・・・アキ先輩?どうかしました?」
「う、ううん。な、何でもないよ?」
北都先輩と高幡先輩の意味深な会話については、胸の中にしまい込んで話さないようにしていた。今回の一件と何か関係がある気もするけど、偶然立ち聞きしてしまっただけだし、少なくとも根本の解決には無関係だ。みんなの「お前何か知ってるだろ」と言いたげな視線も気のせいということにして、今は知らぬ振りを決め込もう。
「そういやアキ。お前が風呂に入ってる間に、俺達で話し合って決めたんだけどよ。携帯、明日にでも買い直すんだろ?」
「あ、はい。十中八九使えそうにないので、これを機に新しい物へ買い替えようかと」
一人暮らしの身にとって、携帯電話は唯一の連絡手段。このままでは身内に不幸があっても知る術がないのだから、一刻も早い復旧が必要だ。異界の件もあるし、先輩方には申し訳ないけど明日は部活動を休みにして、新しい携帯を買いに行くつもりだった。わざわざ北都先輩からエリカ先輩の連絡先を聞きに戻ったのも、その旨を伝える為だった。
「ならお前もサイフォンにしろよ。ずっと借り物を使い続けるってのも落ち着かねえだろ」
「・・・・・・そうしたいのは、山々なんですけど。何を基準に選んでいいのか、分からなくて」
「安心して。駅前の家電量販店に異界関係の協力者がいるから、彼女に一任すればいいわ。それに前にも言ったけど、貴女のソウルデヴァイスの特性を考えても、一度調整が必要だと思うのよ」
「で、でもそれって、すっごい額の費用が掛かるんですよね?」
「だからさっき言っただろ、話し合ったってな。んなことは気にしねえで、色々弄っちまえって」
以前に話を聞いた限りでは、恐らく気が遠くなる程の金額を費やしてしまうことになる。一方でライジングクロスの燃費の悪さを解消する為には、確かに『調整』とやらが必要なのだろう。その世界に住む柊さんが言うのだから間違いないのだろうし、また異界で気を失ってしまう失態だけは回避したい。ここはみんなの総意に従った方がいいのかもしれない。
「それともう一つ。遠藤先輩、自転車に鍵掛けた?」
「自転車?」
言われてみれば、私は自転車で蓬莱町に向かったのだったか。確か一度道端に停めてから柊さん達と合流して、すぐに異界化を察知して時坂君らの下に駆け付けて、それから―――
「あっ」
「繁華街のど真ん中に自転車を放置ですか・・・・・・」
「結構真新しいやつだったっけな」
「盗難被害は米国よりも少ないと聞いているわよ」
「何処の国にもいるでしょ、自転車泥棒ぐらい」
購入してからまだ一ヶ月しか経っていない、六段変速ギア付きのマイバイク。お願いだから、無事でいて。そんな私の願いは、翌朝に砕け散る羽目になる。私は杜宮が少しだけ嫌いになった。
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5月23日の土曜日。商店街のサイクルショップで最安値の自転車を購入した私は、その足でクリーニング店へと走り、制服を受け取った。次に向かった先が、駅前で最も大きい家電量販店『スターカメラ』。カウンターに立っていたアカネさんという女性に声を掛けると、柊さんが事前に話を通してくれていたようで、「詳細は後程」と連れて行かれた先が、どういう訳か従業員専用と思しき奥まった所にあった一室。一旦部屋を出たアカネさんは、二、三分後にスターカメラの店名が記された紙袋を持って、私の対面に座った。
「柊さんからもお話は伺っております。こちらが遠藤さんにご用意させて頂いた、異界探索用のサイフォンになります」
「異界探索用・・・・・・」
紙袋の中から取り出された箱に入っていた、一台のサイフォン。一見した印象では、多くのユーザーが使用している通常型との違いは見受けられない。何か特別な機能でもあるのだろうか。
「外見は市販されている『6S』モデルと同一ですね。ですが防水性や耐久性は勿論、あらゆる外的要因の影響を遮断する設計の最新型です。エルダーグリードが踏んでも壊れません」
「す、すごいってことはよく分かりました。でもこれって・・・・・・その、費用的なところは」
「その点につきましてはご安心を。遠藤さんは柊さんの協力者という立場にありますので、一般品と同価格帯でお出しできます。こういった物の開発技術の根底にも、貴女達が持ち帰って下さる異界素材が使われていますから、その見返りと受け取って下さい」
ほっと胸を撫で下ろして、サイフォンを受け取る。ガラケーに慣れ親しんだ私にとってはまだしっくりこないけど、時間の問題だろう。最近は少しずつ操作方法も身に付いてきているし、確かに借り物と比べて私物と考えると愛着が沸いてくる。これから長い付き合いになりそうだ。
「必要となるアプリもインストール済みですので、後程ご確認下さい。それと今現在使用しているサイフォンをお借りしても宜しいですか?」
一度新しいサイフォンを返してから、柊さんの予備サイフォンをアカネさんに手渡す。アカネさんはテーブルに置かれていた端末と二台のサイフォンをケーブルで繋ぎ、キーボードを器用に操作しながら続けた。
「今から遠藤さんのソウルデヴァイスの最適化を行います。場合によっては少々お時間を頂くかもしれませんが、今日のご予定は?」
「特にありませんので大丈夫です。宜しくお願いします」
「畏まりました」
最適化、か。それが柊さんが言っていた『調整』を意味しているのだろう。詳しいことは分からないけど、ここは専門家であるアカネさんに任せるしかない。
端末を操作するアカネさんを見守っていると、時間が経過するに連れて、アカネさんの表情に変化が表れ始める。初めは目を細めて首を傾げ、続いて食い入るようにディスプレイ上を見詰め、次第にキーを叩く速度が上がると共に、段々と眼光が鋭さを増していく。
「成程。これがライジングクロス・・・・・・ああ、面白いですね。ふむ・・・・・・っと、このパターンは・・・・・・赤の方ですか。むむ・・・・・・成程成程、相当なじゃじゃ馬で・・・・・・むむ、むむむ。これは調教のし甲斐があります」
聞き間違いだろうか。今調整ではなくて『調教』と聞こえた気がする。そして私のライジングクロスはかなりのじゃじゃ馬だそうだ。四つの属性のうち焔属性の力を宿しているのも、その辺りが原因な気がしなくもない。何だか私の内面を覗かれているようでひどく落ち着かない気分だ。
「形状はテニスのラケットと、ラクロスのクロスを合わせたような感じでしょうか」
「えーと、私のイメージでは前者です。小さい頃からテニスを続けていたので」
「ふむふむ。遠藤さんが普段使用しているテニスラケットは、どういった物なんですか?」
「・・・・・・じ、じゃじゃ馬です」
テニスラケットは科学技術の進歩と共に、より軽量でより強靭な物へと進化の一途を辿ってきた。毎年新しいシリーズが発売されては旧シリーズが廃番となる、世代交代が激しい世界だ。
一方で私、そしてお兄ちゃんが使っていたラケットは『VARON300』という旧世代の中の旧世代。一部では『生きた化石』呼ばわりをされる、もう十五年以上も前に発売された物だった。特徴としてはストライクゾーンが極端に狭く、重い。私の肘が壊れた原因の一つと言っていい程に、重い。何故そんな物を使うのかと聞かれたら、「何となく」としか言い様がない。長年に渡り唯一生き残り続けていることから考えても、私のような固定ファンがいるのだろう。まあ、女子高生にはいないかもしれないけど。エリス先輩からは「お前馬鹿だろ」と貶されていた。
「という感じなんですけど・・・・・・あの、これって何か関係があるんですか?」
「大変参考になりますよ。ソウルデヴァイスには先天的、後天的性質の両面が影響しているんです。遠藤さんの場合は・・・・・・ふむ」
「わ、私の場合は?」
「どちらでしょう。よく分かりません」
思わず転びそうになってしまった。今の話だと後者のように思えるけど、違うのだろうか。
「申し訳ありません、大分時間が掛かってしまいそうですね。この際ですから、何かお聞きしたいことがあれば遠慮なく仰って下さい。答えられる範囲内の物でしたら、私が伺います」
「聞きたいこと、ですか」
端末を操作しながら質問を促す辺り、この人は大変に優秀な技術者なのだろう。しかし答えられる範囲内という前置きから考えて、余り踏み入った質問をするとアカネさんを困らせてしまいそうだ。真っ先に「あなたは何者ですか」という疑問が浮かんだけど、今は別の何かを聞いてみた方がいい気がする。
「えーとですね。サイフォン使えばソウルデヴァイスを顕現させたり、不思議な術式を使うことができますよね。どうしてサイフォンでそんなことが可能なんですか?」
「サイフォンだから、という訳ではありません。携帯機器を利用した異界技術や術式は、1970年代には存在していましたから」
「そんな前から・・・・・・」
「詳細はお教えできませんが、持ち運びに不便な機材を使用していた時代もあれば、一種の占いを使った異界化予測が主流だった時代だってあります。そして創作上の存在とされていた術理が、歴史の水面下で確かに実在していた・・・・・・サイフォンは様々な研究成果と技術の集大成であり、同時に利便性を追求した結果だとお考え下さい」
「な、成程。サイフォンが無いと何もできない、という話ではないんですね」
「完全な顕現には届かないとは思いますが、柊さんクラスの適格者なら、媒体を介さずにソウルデヴァイスを呼び起こすことも可能な筈ですよ。手順と負荷を無くす為に、普段はサイフォンを使用しているんです。私達のような人間は・・・・・・あっ」
「え?」
アカネさんが口を閉ざすと同時に手が止まり、意気揚々としていた表情が一変して、呆け顔と入れ替わる。恐る恐る端末のディスプレイを覗き込むと、何を映っていなかった。バッテリー切れ、という訳ではなさそうだ。
「コホン。大変申し上げにくいのですが、端末の復旧に手間取りそうです。暫くの間、休憩にしましょう。貴女のソウルデヴァイスは思っていた以上にじゃじゃ馬です」
「・・・・・・お昼、食べてきます」
私はあと何回『じゃじゃ馬』という単語を聞かされることになるのだろう。気が重い。
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私は駅前のノスバーガーで腹ごしらえをした後、公衆電話を使って時坂君と連絡を取り、近況を確かめ合った。何かしら進展があったのではという私の淡い期待は、予期せぬ一報によって上書きされてしまっていた。
「や、ヤクザと揉め事、ですか!?」
事が起きたのは一昨晩、場所は蓬莱町。BLAZEメンバーの一部が『鷹羽組』と呼ばれる組織の構成員と言い争いになり、暴力沙汰に発展してしまったことで、鷹羽組の一人が全治一ヶ月の重体。蓬莱町は既に緊迫した空気に満ちていて、各所で警戒に当たる警察官の姿が散見されている。警察側が本格的に動き出すのも時間の問題という有り様に陥っていた。
『幸い死人は出なかったようだが、このままじゃ血が流れる事態になってもおかしくはねえ。抗争どころの話じゃ収まらねえ状況だ。随分と厄介なことになっちまった』
「時坂君達は、今蓬莱町にいるんですよね?」
『ああ。これから柊と一緒に、もう一度ダンスクラブを訪ねてみるつもりだ。アキの方はどうだ?』
「も、もう少し時間が掛かりそうです」
『そうか。終わったら連絡をくれ、一度合流するとしようぜ』
「分かりました。くれぐれも気を付けて下さいね」
受話器を置き、電話ボックスから出て溜め息を付く。異界化という裏の世界に加えて、表の世界では暴力団を巻き込んだ騒動。たとえ異界化を食い止めたとしても、もう手遅れの領域に入ってしまっている。救える人間がいても、取り返しの付かない物がある。高幡先輩も当然耳にしているに違いない。
どの道今は万全を期して、事に備えるしかない。私にできることが残されている限り、私はライジングクロスを振るう。それだけだ。
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それから約二時間後。アカネさんの手によってライジングクロスの最適化は無事に終了し、私は最新型の異界探索向けサイフォンを手にすることができた。今回掛かった費用の約一割が機種代で、残りの九割が調整代。予想はしていたけど、一年分以上のアルバイト代に相当する額だった。
「ソウルデヴァイスの特性自体に変化はありませんが、効率や使い勝手は格段に向上している筈ですよ」
「ありがとうござました。その、じゃじゃ馬が色々とご迷惑を」
自らじゃじゃ馬という表現を用いると、アカネさんは神妙な面持ちで私を見詰めながら、そっと端末を閉じて言った。
「貴女のソウルデヴァイスの本質が、理解できました。ライジングクロスは先天的と後天的、その両面が大部分を占めています。消耗が激しかった原因の一つは、おそらくそれでしょう」
「両面が大部分を・・・・・・あの、それはどういう意味ですか?」
「私の口から申し上げるべきではありません。ですが遅かれ早かれ、知る時が来る、とだけ。頭の片隅に留めておいて頂ければ幸いです」
二つの側面が大部分を占めてしまったら、十割を超えるという矛盾が発生する。にも関わらず、アカネさんの表情は確信めいた物を抱いている人間のそれだった。思わせ振りな言い回しが引っ掛かるけど、今は『知る時』ではないということだろうか。どうもハッキリしない。
ともあれこれで要件は済んだ。すぐにでもみんなと合流して、行動を共にした方がいい。私はサイフォンの画面上に貼られていた保護フィルムを剥がし、初となる通話の相手として時坂君を選んだ。時坂君の応答を待っていると、耳元で直に叫ばれたような錯覚に陥ってしまう。
『アキか!?』
「わわっ・・・・・・はい、私です。ど、どうしたんですか?」
『不味いことになっちまった。今何処にいる?』
「ま、まだスターカメラの店内です。あの、時坂君?」
『詳しい話は後だ。すぐに九重神社の道場に来てくれ、いいな!』
言い終えるやいなや、通話は私の返事を待たずに途絶えてしまった。込み上げてくる悪寒に身を委ね、私はサイフォンを手に駆け出した。