6月8日 思い出は、優しい振りをする
―――6月8日。杜宮学園で発生したガス漏れ事故の報道を受け、全国の学校園施設が同事故を未然に防ぐべく、対応に追われ始めていた週明けの月曜日、夕刻。杜宮セントラルタワーの北東に位置する杜宮総合病院、その三階にある一室に向かう集団の先頭に立っていたコウが、スライド式のドアをノックする。
「時坂だ。遠藤、いるか?」
「あ・・・・・・は、はい。ど、どうぞ」
多少の戸惑いを含んだアキの声に促され、コウが扉を開く。病室のベッドに座っていたアキは、コウの背後にあった複数の顔ぶれを見るやいなや、途端に身体をびくつかせて、小さな悲鳴を辛うじて飲み込んだ。
「っ・・・・・・!」
「っと。悪い、驚かせちまったな」
今日も、駄目か。コウがそう胸の内で呟き、後ろに立っていたアスカら四人と目配せを交わす。コウはアスカが手に提げていた紙袋を受け取ると、「また後でな」と小声で言ってから、扉を閉めて向き直る。アキに割り当てられた病室は完全な個室で、コウの視界にはアキ一人の姿しか映っていなかった。
「具合はどう・・・・・・つっても、別に体調が悪い訳じゃねえか」
「は、はい。少し、時間を持て余してる、と言いますか」
「そりゃそうだよな。タマキさんは今日どうしてんだ?来てないのか?」
「えーと。午前中は一緒に、精密検査の結果をお医者さんから聞いて、午後になってからは、高次脳機能障害・・・・・・支援センター?という施設に行くって言ってました」
コウはアキの話に耳を傾けながら、ベッドの傍らに置かれていた丸椅子に腰を下ろし、右手に持っていた紙袋の中身を取り出す。袋には一冊のカタログと、二つの『眼鏡ケース』が入っていた。
「昨日お前がカタログから選んだフレーム、サンプルを借りて来たぜ」
「え・・・・・・わ、わざわざ、ですか?」
「メガネストアが近くにあったから、来る途中ついでに寄って、事情を話したんだ。こういうのって実物を掛けてみないと分かんねえし、早い方がいいだろ」
『因果の書き換え』が及んだのはアキの一部に過ぎず、全てを無に変えた訳ではない。6月5日を境にして、アキは視力の大部分を失った。丸一日間、異界の最奥で視覚を奪われ続けた後遺症として、『1.5』以上の視力を具えていた筈の両目には、歪んだ視界しか映らなくなっていた。とは言っても、日常生活に支障をきたす程ではない。学校検診における分類に準じれば、Cクラスの『0.3』。幸い大事には至らなかったものの、急激な視力の低下に見舞われたアキは、医師から眼鏡の着用を勧められていた。
「あ、ありがとう、ございます」
「いいって。ほら、早速掛けてみろよ」
コウが差し出した二つのケースには、それぞれシルバーとレッドブラウン色の、落ち着いたデザインのフレームが入っていた。アキは恐る恐るシルバーのフレームを取り出すと、不慣れな手付きで着用し、ベッド脇のテーブルにあった小型のスタンドミラーを覗き込む。
「・・・・・・に、似合わない、ですね」
「そうか?言うほど悪くないと思うけどな」
コウが自然と口にした感想に気恥ずかしさを覚えたアキは、いそいそともう一方のフレームに掛け直す。昨日の時点ではシルバーが最有力だと感じていたのだが、レッドブラウン色のそれに掛け直すと同時に、まるで正反対の印象を抱いていた。
「あれ・・・・・・」
「へえ、似合ってんじゃん。こっちの方が遠藤っぽくていいんじゃねえか?」
「あ、あの。それってどういう意味ですか?」
「何つーか、その・・・・・・あれ、だよ」
魂の色。アキのソウルデヴァイス、ライジングクロスが纏う、焔の色。その一言を飲み込み、コウは不意に熱くなった目頭を押さえて、視線を落とす。この三日間で突然襲い掛かってくる沢山の思い出は、情け容赦無く彼らを揺さ振り、非情な現実を眼前に突き付け続けていた。
「とと、時坂君?あの、えと、どうしたんですか?」
「いや・・・・・・秋の、紅葉だ。だから、お前に似合うと―――」
―――ガラガラ、バタン。コウが偽りの言葉で取り繕っていると、勢いよく扉が開かれた音で、二人の視線が自然に部屋の入口へと向いた。扉の先には、肩を上下させて荒々しい呼吸を繰り返す、リオンが立っていた。
「く、玖我山、お前」
「あ、あたし・・・・・・クラスの、子から、今日聞いて」
途切れ途切れに声を捻り出すリオンが袖口で額の汗を拭きながら、ベッドに座るアキの下に一歩ずつ歩み寄っていく。リオンは咄嗟に立ち上がったコウの制止を振り払い、アキの両肩に手を置くと同時に、捲し立てるように言った。
「ねえアキ。本当に、覚えてないの?」
「あ、あの。わた、私、は」
「あたしの歌が好きだって。『Seize the day』が一番好きだって、言ってくれたわよね?」
「あ、ぐっ・・・・・・うぅ、う」
「アキが育った町を一緒に歩いて、一緒に夢を叶えようって、あの日にそう約束―――」
「玖我山っ!!」
コウはリオンの肩を掴み、強引に彼女をベッドから引き剥がす。失くした筈の『思い出』に触れてしまったアキは、底無しの頭痛に苛まれ、ベッドの上で苦悶の表情を浮かべながら蹲っていた。
コウは無言でアキの背中を擦り、時間が苦痛を取り除いてくれるのを待つことしかできなかった。その場に立って二人の様を見下ろすリオンも、無慈悲な現実を受け止められず、涙を流すことすらできずに、ただただ呆然と立ち尽くしていた。
_______________________________________
アキが落ち着きを取り戻してから、約三十分後。病室を後にしたコウは病棟の屋上に向かい、彼を待っていた四人―――アスカにソラ、シオとユウキへ事の経緯を話し聞かせていた。
「玖我山ってのは、確かお前らのタメだったか。それで、そいつは今どうしてるんだ?」
「詳しい話はまた明日話すって言って、今日のところは一旦帰って貰ったッス」
「ふーん。遠藤先輩って、あの人とそんなに仲良かったっけ?」
「さあな。それで、診断結果は聞けたのか?」
「はい。タマキさんが話を通してくれていたので、私達も詳しい話を聞けました」
アキに下された診断結果と詳細な症状については、アキの祖父と叔母のタマキ、学園側からはクラス担任のトワと教頭のシオカワら四人が立ち会い、医師から説明がなされていた。そしてとりわけアキと親交が深い学生にも包み隠さず伝えて欲しい、というタマキの願いと計らいにより、アスカ達も現状を把握することができていた。
「私から話すわ。視力については原因が分からないと聞かされたけど、知っての通りよ」
「ああ。俺が知りてえのは、記憶喪失の方だ」
「正式に言えば健忘。中でも解離性の逆行性健忘による、宣言的記憶障害ね」
「・・・・・・分かるように言ってくれ」
健忘と呼ばれる所謂記憶喪失には、原因や症状によって様々ある。一つは頭部を強く打つなどして引き起こされる外傷性健忘、そして心因的ストレスにより陥る解離性健忘の二種類に大別される。アキが記憶障害を患った時期は、杜宮学園で発生したとされるガス漏れ事故のそれと重なる。アキの担当となった医師は当たり前のように、ガス漏れにより意識を失ったアキが転倒の際に頭部を強打したと見て、精密検査を行った。
しかしアキの頭部に外傷は見られず、脳に損傷を負った形跡が何一つ見当たらない。そもそも『ガス漏れ事故』自体が異界化を表沙汰にしない為の偽装に過ぎないのだから、医師の診立ては的外れだった。そうなれば、残された可能性は一つ。解離性健忘を起こす程の『何か』がアキを襲ったとしか、考えられなかった。
「次々に生徒が意識を失っていく光景を目の当たりにして、極度のストレスに襲われた、というのが医師の見解だそうよ」
「そうか・・・・・・なら、症状の方はどうなんだ。何か新しいことは分かったのか?」
「私達が把握している通りね。こればっかりは、医師も首を傾げていたわ」
時間軸を中心にすれば、健忘は更に二種類へ分類される。発症後以降の記憶が抜け落ち、新たな物事を覚えることができなくなるのが前向性健忘。発症以前の記憶が欠落してしまうのが逆行性健忘であり、アキの症状は後者に一致する。いずれにも共通するのが、『発症した時点』から見て以後なのか、以降なのか。アキの健忘は、どちらにも当て嵌まらなかった。
「アキさんは4月23日以降の記憶を失ってしまっている。原因は分からないけど・・・・・・彼女の言動から考えて、間違いないでしょう」
「・・・・・・なあ、柊。お前はどう考えてんだ」
「どう、と言うと?」
「原因だよ。今の話だと、可能性を排除した結果として、そう診断されたってことだろ」
コウの引っ掛かりは尤もだった。6月5日にガス漏れ事故は発生しておらず、真実はグリムグリードが引き起こした異界化にある。異界に飲み込まれた先で、想像もできない恐怖をアキが味わったことで、健忘に陥ったという可能性は残っているものの、やはり釈然としない物がある。ならば『異界化』自体が原因だったのではないかという疑念に辿り着いたのは、コウだけではなかった。
「分からない、としか言えないわね。そんな前例は聞いたことがないけど、私達も異界について知っていることは余りに少ない。アキさんの健忘が世界初の症例だという可能性だってあるのよ」
「分からねえことだらけってことか・・・・・・」
「ねえ、僕からもいいかな」
コウが夕焼けに染まった杜宮の上空を仰いでいると、ユウキが二人のやり取りに横槍を入れる。
「編入前にコウ先輩と会っていたから、先輩のことは覚えてるってのは分かるけどさ。それにしたってあの感じは、少し異常じゃない?執着と言ってもいいレベルだと思うけど」
ユウキが指摘したのは、コウに対するアキの態度にあった。現時点でのアキの記憶には、学園関係者は数名しか残っていない。編入試験や挨拶の際に顔を合わせた教職員、クラス担任のトワと生徒会長のミツキ。そして4月23日に出くわした、コウだけ。とりわけアキは親族を除いて、コウに対してのみ心を許していた。
原因の一つは、度々アキを蝕む頭痛にあった。頭痛は記憶障害と密接な関係にあるとされている。アキ自身は記憶を取り戻すことに前向きである一方で、記憶を失う以前に親交が深かった人物と対面したり、思い出深い物事に触れた途端、頭部に痛みを覚えるという症状が見られていた。クラスメイトのシオリらが同行を控えた理由でもある。だがそれを考慮しても、コウに縋り付くようなアキの態度は説明が付かないのでは、とユウキは感じていた。
「私は、分かる気がするな」
「へ?」
「コウ先輩は、初めて会話を交わしたクラスメイトで・・・・・・一緒に戦った、仲間だから。アキ先輩にとっては、唯一残された繋がりみたいな物なんだと思うよ」
いずれにせよ、真実はアキの中にしかない。しかし当の本人にはその自覚が無く、肝心の記憶も無い。今のアキを理解するには、想像を働かせるしかなかった。
「俺からも、一つ聞いておきたいんだが」
するとユウキに続いて、シオが口を開く。シオが触れたのは、アキの言動そのもの。健忘の全てを度外視して客観的に映る、アキの姿についてだった。
「馬鹿に丁寧な口調は北都と同じで元々だと思うが、まるで別人じゃねえか。常に緊張してるっつーか・・・・・・一言で言えば、性格が変わっちまったように見えるぜ」
「いや。編入直後のアキは、あんな感じだったッスよ」
「・・・・・・そうなのか?」
「極度の人見知りって言えばいいんスかね。誰かと話す度におっかなびっくりで、クラスの女子共に囲まれただけでビビっちまうし。あんなアキを見たのも、一ヶ月半振りだ」
その根底にあるのは、アキが過ごしてきた空白の半年間。肘を壊したことで見失った、兄とテニスに対する想い。情熱を注ぎ続けたことで無意識に集めてしまった奇異の視線、近親相姦願望持ちの妹というレッテルとトラウマ。多くの傷を抱えたアキにとって、不慣れな地での新生活には不安しかなく、他者との何気ない会話ですらが、苦痛でしかなかった。
「でもあいつは変わった。この一ヶ月半のおかげで、アキは変わったんだ」
大部分のクラスメイトの目には、初対面の緊張が解れて新生活にも慣れてきた、程度にしか映っていなかった。だがアキの中には、それ以上の変化があった。過去を受け入れ己と向き合い、再びテニスコート上でラケットを振るい、ブランジェという確かな『夢』も見付けた。その過程の全てを見てきたコウは、4月23日から始まった一ヶ月半がどれ程の光に溢れていたのかを理解していた。理解していた、筈だった。
「なのに、どうしてなんだよ。どうして、あいつなんだ。訳分かんねえ」
「時坂君・・・・・・」
「何なんだよ。俺には・・・・・・分かんねえ、よ」
コウの嘆きと涙には、誰も応えることができなかった。
________________________________________
同時刻、杜宮学園のクラブハウス二階。女子テニス部に当てられてた、専用の部室。
「以上が、遠藤さんが置かれている状況です」
「・・・・・・事情は分かったわ」
アキが所属するテニス部の部員ら三名、リサ、エリス、エリカ。三人は部室を訪ねてきた同学年のミツキから一連の経緯を聞かされた後、部長を担うリサが重い口を開き、可能性の程を切り出した。
「ミツキさん。アキの記憶が戻る可能性は、残されているのかしら」
「何とも言えませんが、決してゼロではありません」
症状を解離性健忘とした場合、失ってしまった記憶が戻ったというケースは過去に多数報告されている。そもそも解離性健忘は、心理的な規制によって無意識のうちに記憶を封じ込めてしまうことが真因であり、記憶が完全に消えてしまった訳ではない。何かが引き金となり快復する可能性もあれば、一晩眠っただけで知らぬ間に思い出していたという例もあった。
「な、ならアタシ達とテニスでもしてるうちに、思い出すってこともあるのか?」
「そういうことになりますね。ですが、お勧めはできません」
「え・・・・・・ど、どうしてだよ?」
「先程も言いましたように、無理に思い出そうとすると、悪い方向へ働く場合が多いとのことです。最悪の場合、錯乱してしまう可能性もあると聞いています」
記憶障害において最も危険視されるのが、思い出すという行為そのもの。下手に過去を探ろうとすると、断片的な記憶同士が入り混じり、当人の中で記憶が崩壊してしまう可能性を孕んでいる。強い頭痛を伴うことでパニックを引き起こし、意識を失う事例さえある。アキにとってテニスという存在は掛け替えの無い宝物であり、テニス部は大切な居場所の一つ。ラケットを握ること自体が、最悪に繋がる危険性があった。
「アキは本当に、忘れてしまったのですか」
「エリカさん・・・・・・」
「この一ヶ月が、全て無駄だったと。そんなことっ・・・・・・あっていい筈が、ありませんわ」
「・・・・・・ご安心を。遠藤さんの中に、残されているものはあります」
「え?」
手続き記憶、と称される記憶がある。例を挙げれば、記憶障害に陥っても自転車の運転方法は覚えている。携帯電話の使い方は忘れておらず、通学路を迷わずに辿ることができるといったように、長期記憶の一種が残されているというケースも多い。アキも例外ではなく、日常的に繰り返す作業や技能の手順はアキの中に存在していた。しっかりとアキの身体に刻まれている物が在った。
「つまり『身体は覚えている』ということです。遠藤さんにとって、テニスは日常の一つでしたから。エリカさん達と一緒に培ってきた物は確かに在ると、そう信じて下さい」
「アキ・・・・・・私、は」
「それと、もう一つ。どうか無理はなさらずに、吐き出したい物は全て吐き出してしまってよいと思いますよ、エリカさん。私もそうします」
「う・・・・・・ぐ、うぅ」
ミツキは身体を震わせるエリカの手を握り、肩を抱いた。たったの一ヶ月と言えど、全てを無かったことにして割り切れる筈も無く。試作品のサンドイッチの味見を繰り返し、体重を気にするという些細な思い出さえもが、エリカにとっては愛おしく。手離すことのできない、日常だった。
_______________________________________
アキに関する臨時の職員会議を終えた後、トワが向かった先は『モリミィ』。かつての恩師が営むベーカリー店を訪ね、アキの記憶障害に関する全てを、有りのままに打ち明けていた。
「・・・・・・そう。就任して三ヶ月足らずの新米には、荷が重すぎる案件ね」
「荷が重い、とは思いません。でも、私に何ができるのか、分からなくって」
「同じことじゃない。今にも泣き出しそうな顔しちゃって」
図星を指されてしまい、トワが苦笑いを浮かべる。勿論、アキのアルバイト先に事情を伝えるという目的はあった。一方で唐突に背負ってしまった生徒の一大事に重々しい息苦しさを覚え、逃げるように飛び込んだ先がモリミィだったというのも、否定できない正直な想いだった。
「お店の方は大丈夫ですか?遠藤さんが抜けて、大変そうですけど」
「大丈夫に決まってるでしょ。それで、学園側はどうするつもりなのよ。今のアキをそのまま受け入れる訳にもいかないわよね」
「はい。医師の勧めもあるので、遠藤さんにはまず日常生活を送って貰います」
アキの親族と協議し、取り急ぎの方針は既に定まっている。目先の課題は、アキが通常の生活を滞り無く送ることができるか否か、という一点にある。外傷が原因の話ではあるが、高次の脳機能障害には様々な症状を併発するケースが多い。物忘れが激しくなる、注意力が散漫になるといったように、場合によっては日常生活に影響が出てしまうこともある。現時点ではそういった言動は見受けられないのだが、最悪を想定するに越したことはなかった。
それに記憶を失ったとなれば、アキがこの一ヶ月半で学んだ教えも欠落したということであり、登校したところで授業には到底追い付けない。学園との繋がりは保ちつつ、暫くの間は様子見という微妙な距離感を維持する。それが職員会議で確認し合った方向性だった。
「アタシも登校拒否に陥った生徒に、悩まされた経験はあるわ・・・・・・ねえトワ。分かってはいると思うけど、絶対に一人で抱え込んでは駄目よ」
「そ、そんなつもりはないです」
「それでも敢えて言ってるの。今回の一件は精神疾患と同じよ。当事者の関係者が釣られて病んでしまうことだって、往々にしてあるわ。病院側と、家族と協力して総出で当たりなさい。頼れる物は全部頼って、泣きたければ素直に泣く。いいわね?」
「心得ておきます。でも・・・・・・サラ先生も、同じじゃないですか」
「アタシが?」
「今夜はお酒、飲まないで下さいね。絶対に」
「・・・・・・飲む訳ないでしょ、そんな不味い酒」
サラは煙草の煙を頭上へ吐き出し、この一ヶ月間とアキが志した『夢』を想う。我が子を宿せないその身を憎んだ過去を持つサラにとって、アキは一人の愛娘と呼べる域に達していた。受け止めるには、重過ぎる現実だった。
_______________________________________
トワがモリミィに足を運んでいた頃、杜宮に戻ったタマキは駅からスクーターで帰路に着いていた。駐輪場に愛機を停めてアパートの表に向かっていると、商店街の外れには豆腐店『鈴木屋』を経営する祖父を持つ、一人の青年が経っていた。
「よ、タマキ。随分と帰りが遅かったな」
「ん・・・・・・タカヒロ?アンタこそどうしたのよ、こんな遅くに」
「差し入れだよ。ハナエさんやシンスケさんから色々預かってんだ。アキちゃん、明日帰って来るんだろ?」
タカヒロが差し出したビニール袋には、専門店ならではの新鮮な野菜の他、コロッケやハンバーグといった惣菜品の類がこれでもかと詰められていた。「これは残り」と言って加えられた木綿豆腐も勿論売れ残りなどではなく、商店街で暮らすアキとタマキを想って作られた、大切な贈り物だった。
「リョウタから聞いたぜ。何で黙ってたんだよ、水臭いな」
「別に隠してた訳じゃ・・・・・・ドタバタしてて、言いそびれただけよ」
「そっか。コマキさん、だっけ。アキちゃんのお母さんは、どうしてんだ?」
タカヒロの問いに、タマキは首を横に振って答える。アキの実母であるコマキは、元々精神を病んでいた身。一人娘のアキが記憶障害を患った旨を聞かされたコマキは益々気が動転し、一時は意識不明にまで陥っていた。両親は施設へ運び込まれたコマキに付きっ切りとなり、アキに関する全てを背負ったのは叔母であるタマキ。言いそびれたというのも事実であり、商店街の住民に周知する暇も無く、今日も支援センターのカウンセラーを訪ね、今後の対応について相談を持ち掛けていた。
「こういう時に一番頼れるのって、やっぱり家族だから。今のアキには、アタシしかいないの」
「らしくないこと言うなよ。そんなんじゃ似顔絵の一つも満足に描けないぜ」
「でもアキは―――」
「タマキ」
タカヒロは左手でタマキのトレードマークでもあるベレー帽を取り、右手を彼女の左肩に置いた。
「先月に俺の祖父さんが腰を痛めて、入院したことがあっただろ」
「・・・・・・覚えてるけど」
「あの時は沢山の人が声を掛けてくれて、応援してくれてさ。実感したよ、俺は一人じゃないんだって。タマキ、お前も同じだ。勿論アキちゃんもな」
言い終えた後、タカヒロは一度タマキの頭をぽんと優しく叩き、ベレー帽で蓋をした。タマキは帽子を深く被り直して目元を隠し、小さく頷いて応えることしかできなかった。
「タマキはタマキらしく、今度祖父さんの似顔絵でも描いてくれよ。祖父さんも喜ぶ」
「料金は取るわよ」
「豆腐払いでいいか?」
「バカっ」
小さな小さなバカを言ってから、振り返る。直近の課題は、アキの帰宅を明日に控えた今日、この現状をガーデンハイツ杜宮の住民らにどう切り出せばいいものか。考えたところで、答えは見付からなかった。
_______________________________________
6月9日、朝の午前10時半。私はタマキさんと一緒に杜宮総合病院を出て、病棟前の広場に停まっていたタクシーを使い、ガーデンハイツ杜宮に向かった。部屋の前で一旦タマキさんと別れた私は、特に意味も無く深呼吸をしてから、玄関扉を開けた。その先には、眼鏡越しに別世界が広がっていた。
「テニス、シューズ?」
まず目に飛び込んできたのが、見慣れないテニスシューズ。イズノ社のロゴマークが側面に刻まれたシューズが、玄関口に置かれていた。訝しみながら靴を脱いで恐る恐る歩を進めると、今が6月であることを示すカレンダーがあり、思わずサイフォンを取り出して日付を確認する。未だに操作方法に戸惑ってしまうサイフォンの画面上には、6月9日の四文字が浮かんでいた。
何とはなしに冷蔵庫を開けると、パストラミポークや業務用のマーガリン、萎びた野菜といったサンドイッチの具材らしき物が纏めて保管されていた。室内をざっと見渡して感じたのは、引っ越したばかりの筈なのに、やけに物が充実しているということ。その気も無く持ち込んだテニスウェアが室内干しにされていて、分からない、知らない、覚えていないがそこやかしこに溢れていた。
(本当に・・・・・・忘れちゃったんだ)
お母さんと一緒に杜宮に来て、新生活の段取りを組んで。モリミィで時坂君と出くわして、慌てふためいて逃げるように帰った、あの日。あれが一ヶ月半前の出来事だったなんて、私は悪い夢でも見ているのだろうか。でも言われてみれば、数日前の記憶の割には不鮮明な部分があるのも確かだった。
「痛ぅ・・・・・・痛たたた」
止めよう。また頭痛に悩まされるだけだ。私は荷物を乱雑に放り、一度部屋を出ることにした。
________________________________________
「コマキ姉の状態は分かるけど、アキの気持ちも考えてよ。あの子がどれだけ苦しんでるのか分かってるの?」
『父さんも重々理解しているよ。だが心の病だけはどうにもならん。今の二人を会わせたところで何になる?コマキにとっては辛い現実に苛まれて、症状を重くするだけだろう』
「それは、そうかもしれないけど。で、でも」
『焦っては駄目だよ、タマキ。今の私達にできることは、見守ってやることだけだ。コマキが落ち着いたら、私もそちらへ顔を出す。お前も無理はしないで、何かあったら必ず私達を頼りなさい。いいね?』
「・・・・・・ん。父さんもね」
通話を切ってから、大きな溜め息を吐く。ここ最近は気が休まらず、アキと同じで頭が痛い日が続いている。何だかんだ言って、アキにとっての心の拠り所は家族しかないというのに。記憶を失っておきながら母親の顔も見れないなんて、一体何の冗談だ。
「タマキ、さん?」
「えっ。あ、アキ?」
不意に掛けられた声に驚いて振り返ると、気遣わしげな表情を浮かべるアキが立っていた。
「あれ。玄関、開いてた?」
「はい。一応、呼び鈴は鳴らしたんですけど・・・・・・今の、お祖父ちゃんですか?」
「う、うん。今帰ったって連絡してたとこ」
電話中だったとはいえ呼び鈴に気付かなかったばかりか、玄関の施錠を怠ってしまっていたようだ。私も私で、疲労が溜まっているのだろうか。カウンセラーから繰り返し聞かされた言い付けを翌日に破る訳にもいかないし、今日ぐらいは気を緩めた方がいいかもしれない。
「少し早いけど、お昼にしよっか。何か食べたい物はある?」
「え、えーと。できれば、軽い物を」
「そう。野菜を沢山貰ったから、雑炊でも作るわ」
アキは女子高校生の割に食が太い。ナツの背中を追い求めて鍛え抜いた身体がそうさせているのか、人一倍食べる傾向がある。そんなアキの食欲は見る影も無く薄くなっていて、今朝も食堂で少量を口にしただけで済ませてしまっていた。ハナエさんには悪いけど、今のアキに油っこい惣菜を食べさせる訳にもいかないし、昨晩の貰い物は私とシホの酒のツマミにでも回すしか無さそうだ。
白菜をまな板に置いて包丁を握っていると、アキは壁に立て掛けてあった一冊のスケッチブックを手に取り、そっと捲っていた。仕事道具とは別に普段から持ち歩いている小型の物で、気が向いた際にペンを走らせる私物だった。
「タマキさんは、似顔絵書きが盛況して忙しいって言ってましたよね。今もそうなんですか?」
「まあね。最近はブログやSNSで取り上げられることも多くて、この辺じゃ割と有名人よ」
対象の表情に、私が考える当人の魅力を上乗せして描く。それが人気の秘訣だと私は受け取っていた。有りのままを描くだけなら、腕さえあれば叶う話だ。似顔絵代を求める以上、私は常にプロフェッショナルとしての信念を
胸に、本気で向き合う。物書きしか取り柄が無い私にとっては、ペンと筆を握っている時間が一番充実していた。
「改めて見ると、本当に凄いですね」
「ふふん。そうでしょそうでしょ」
「この似顔絵は、いつ描いた物ですか?」
「ん?」
振り返り、思わず声を失った。似顔絵を描き終えた際には、必ず対象の名前を入れるようにしている。アキが見詰めていた紙面上には、『柊明日香』の四文字が記されていた。
「あ、アキ。それは」
「お願いします、教えて下さい。これはいつの物なんですか」
「・・・・・・先月の、中旬。カラオケボックスで、偶然居合わせたことがあってね」
思い出すのに時間は要らなかった。5月17日の日曜日に、私とシホ、アイリの三人でカラオケに興じていた最中、アキは私達と同じ場所にいた。どうしてそうなったのかはよく覚えていないけど、結果として私達はアキと合流し、アキの友人らを交え、日曜日の午後を満喫した。
何より嬉しかったのは、アキが友人と共に休日を過ごしていたという事実。元々引っ込み思案な性格に加え、重々しい過去を背負ってしまったアキは、新天地でしっかりと新たな居場所を見い出していた。それが堪らなく嬉しくて、私はその場に集っていた全員分の似顔絵を一気に仕上げ、大切に保管していた。
「みんな、楽しそうですね」
「かなり盛り上がってたから。日が暮れるまで歌ってたっけ」
「私も、本当に楽しそう」
「・・・・・・そうね」
心底楽しげなアキの顔も、スケッチブックには在った。一瞬止めようか迷ったけど、私にはできなかった。アキは微笑みを浮かべながら、忘れてしまった自分自身を見詰めて―――紙面とはまるで正反対の顔をして、言った。
「何で忘れちゃったのかな。こんなに、楽しそうなのに」
「アキ・・・・・・」
「不思議と分かるんです。分かるから、思い出したいのに。どうして、私・・・あ・・・・・・ああぁ?」
「あ、アキ?」
唐突に『それ』はやって来る。思い出は優しい振りをして、大切なこの子に牙を向く。
「アキ、駄目よ。アタシを見て、何も考えちゃ駄目」
「痛い、痛い、たあぁ!!ああああぁぁあっ!?」
「アキ!」
「どうしてっ・・・・・・どうして!どうして!?私、どうして私なの!?」
私の腕の中で泣きじゃくるアキには、変わらずに私しかいない。アキには私しか残されていない。なら私がこの子を守り抜いて見せる。思い出がアキを蝕むと言うのなら―――思い出なんて、もう要らない。