6月の3週目。本格的な梅雨空の下で、日ごとに増していく暑さに気怠さを抱き始める、初夏の季節に差し掛かった頃。空っぽだったアキの日常に、少しずつ変化が訪れていた。
一つ目は復学に向けた、自宅での自主学習。教職員が総出となって組まれたスケジュールに沿い、アキには各科目の自主的な学びが課せられた。単身でも支障無く理解できるよう細心の配慮がなされ、場合によっては教員がアパートへ出向き、直接指導を行う。携帯電話を介した質疑にも常時応えるといったように、教員側の全面的な協力の下、アキは日中に学生としての本業を果たすことができていた。全てはアキの「復学したい」という意思の為に、誰もが助力を惜しまなかった。
そして二つ目は、放課後の部活動。エリカら先輩を交えた切実な嘆願の末に、アキはラケットを握ることが許されていた。とはいえ学園側も、大きな事情を抱えたアキの自由を手離しに認める訳にはいかず、形ばかりのテニス部顧問であったゴロウの監視下においてのみ、という条件付きでの部活動だった。
記憶を失った生徒という噂は既に全校へ広まっており、興味本位でアキの姿を覗く為、遠巻きにテニスコートを見詰める生徒も多数いた。そういった野次馬をアキから遠ざけていたのは、かつてアキと親交が深かった生徒達。「せめて今だけは、大好きなテニスに没頭して欲しい」という願いを胸に秘めつつ、「こんな近くにいるのに、手が届かない」という葛藤に苛まれながら、誰もが遠くから見守っていた。多くの人間に支えられ、想われながらの二週間は、あっという間に過ぎ去っていった。
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6月28日、午前3時。一時はトラブルに見舞われたSPiKA結成三周年記念ライブも滞りなく閉幕を迎え、多くの者が冷めやらない興奮を抑えながら眠りに付いた、杜宮のひと夜。不意に目を覚ましたタマキは、寝返りを打ってアキが眠っているベッドの方を見やる。
「んん・・・・・・?」
オレンジ色の常夜灯が僅かに照らすベッドには、誰もいない。シーツ上には薄手の毛布と枕だけが置かれていて、アキの姿が無い。物音や明かりも無い室内には、手洗いに起きた様子も見受けられなかった。
(・・・・・・アキ?)
不審に思ったタマキがそっと布団の中から出て、立ち上がりながら周囲を見渡す。足音を立てないよう静かに歩を進め、リビングに繋がる扉を開ける。すると壁際に置かれていたステンレスラックの隣に、膝を抱えて小さく蹲る人影があった。そして胸の中には、あのスケッチブック。大切な思い出が詰まった一冊を抱きながら、アキは身動き一つ取らずに、暗闇の中に佇んでいた。
「あ、アキ?い、いつから」
「いえ、違います。ついさっきお手洗いに起きただけです」
「・・・・・・本当に?」
「本当ですよ。心配しないで下さい」
まさか一睡もせずに、今の今まで。心配が杞憂に終わる一方で、タマキの表情は当然晴れない。アキが手にしているのは、苦痛の種。思い出でもあり、今のアキを苦しめる根源。取り戻すことが叶わない、失ってしまった大切な物を、アキは縋るように抱いていた。
「以前にも言いましたけど。何となく、分かるんです。もう一人の私のことが」
「アキ・・・・・・」
「時坂君も教えてくれました。友達の家で夜更かしなんて、自分でも信じられません」
タマキは一度寝床へ戻ってタオルケットを拾い上げ、アキの隣へと座り、自分とアキの背中を覆った。
アキが抱いている感覚は、創作上の物語に登場する主人公へ、過度に感情移入をするそれとよく似ていた。テニスを通して自覚した熱い想い。アルバイト先で見い出した夢。コウとの会話から垣間見えるかつての自分。掛け替えの無い、思い出達。それが本当に私だったらいいのに。思い出すことができたら、どれ程の幸せが待っているのか。そもそも私は、私だった筈なのに。
「本音を言うと、明日が・・・・・・もう今日ですね。今日が、怖いです。こんなことに意味は無いのかもって、そればっかり考えちゃって。事実、そうだから」
「それは分からないわよ。だからアキは、部活動を再開したんでしょ?」
「逃げていただけかもしれません。テニスをしている間は、何も考えずに済むんです」
インターハイ予選の団体戦へ出場する。先輩らの熱烈な誘いを、アキは躊躇いつつも受け入れた。周囲から注がれる奇異の視線に耐えながら、無我夢中になってラケットを振るった。その先に何かが在ると信じて、この二週間を過ごしてきた。復学したい想いは確かで、「前に進め」というソウスケの言葉に支えられる形で、今日を迎えていた。
しかし日を追うごとに膨れ上がっていく、得体の知れない不安。失う前の自分を知るに連れて、希望と絶望、光と闇の両者が交互にやって来る。今更になって深夜に足踏みをしてしまうのも、無理はなかった。
「大丈夫。きっと意味はあるわよ。テニスを抜きにして、アキは語れないしね」
「タマキさん・・・・・・」
「そろそろ寝よっか。今日が決勝戦なんだから、悔いの無いように万全の体調で臨まないと。何なら、一緒の布団で眠る?」
「・・・・・・そうします」
いずれにせよ、今日が最後。団体戦初日は当初の予定を遥かに上回る速度で進行し、今日に持ち越された一戦は最後の決勝戦のみ。想いは様々あれど、やるべきことは一つしかない。数刻後に控えている決戦を前に、アキはタマキの腕の中で人知れず決意を固めた。
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有明テニスの森駅は、東亰臨海新交通臨海線、所謂ゆりかもめ線の高架駅。東亰港埠頭の『有明テニスの森公園』までは徒歩で約十分間程度の距離にあり、同公園の利用者にとってはお馴染みの駅でもあった。
「少し遅くなっちまったな。一時間以上掛かったか?」
「充分間に合うでしょ。試合の予定時間まで三十分近くはあるし」
当日は有明テニスの森駅で集合しようと皆に声を掛けておいたコウは、ユウキと二人で先んじて当駅に到着していた。現時刻は午前8時半前。決勝戦の開始予定時刻は午前9時以降であり、道に迷ったりさえしなければ時間に余裕はある。コウは初夏の日差しを右手で遮りながら、一度背伸びをしてユウキに言った。
「柊達はまだみたいだな。ユウキ、向こうにコンビニがあるみたいだぜ」
「メロンソーダ」
「自分で買って来い馬鹿」
冗談交じりの会話をしながら、コウが他メンバーの予定を確認する。アスカとソラ、リオンは同じくゆりかもめを使ってコウと合流する。ミツキは三年生の友人らを拾い、キョウカの運転で応援に駆け付ける。倉敷家の自家用車にはシオリ、ジュン、リョウタ。シオは単身オートバイで。出場選手のテニス部員らは、顧問のゴロウが引率をして早朝に会場入りをする手筈となっていた。
「トワ姉も遅れて来るっつってたっけ。応援団も大人数を引き連れて来るって話だし、結構な人数が集まりそうだな」
「話題性は抜群だからね。たったの四人で決勝まで勝ち上がったってだけでも、過去に例が無い快挙らしいよ。でもさ、本当に僕らも行っていいの?」
「アキがそう言ってんだから、遠慮は要らねえだろ。遠くから応援するぐらいならあいつも・・・・・・ん、来た来た」
コウの視線の先には、一本遅れて駅に降車したアスカらの姿があった。三人がコウとユウキに気付くと、リオンは大きく右手を振りながら快活な声を上げた。
「おっはー、二人共!先に来てたんだ」
「おう。朝っぱらから元気だな、玖我山」
「当ったり前でしょ。今日は喉が潰れるまで応援するわよっ」
「潰しちゃ駄目だろ・・・・・・やれやれ。お前も相当タフだよな、感心するぜ」
天使憑きの発現による衰弱と、グリムグリードとの死闘。間を置かずに飛び込んだ三周年記念ライブ。終了後は関係者への挨拶回りに打ち上げ。想像するだけでも肩が懲りそうな一連の全てを、リオンは苦も言わずにこなし、そして乗り越えた。『想いを込めてはいけない』という呪縛から解放されたリオンは、ただ一人の友人の為に声を捻り出してみせると、並々ならない決意を以って応援に駆け付けていた。
「っと、シオリからだ。ワリィ、少し待ってくれ」
コウが四人から距離を取り、サイフォンを鳴らす着信に応じる。残すところはシオ一人。予定時間から考えて、直に到着する頃合だった。
「アスカ先輩、会場までの道は分かりますか?」
「移動中にサイフォンで調べておいたわ。でも・・・・・・随分と人通りが少ないわね」
「少ない?」
「ええ。もっと賑わっていてもよさそうなものだけど」
駅の周辺を見渡しながら、アスカは一抹の疑念に触れた。こういったイベントが開催される日には、決まって最寄駅が盛況する。駅員もそれを考慮して対応するのが常で、コンビニのような施設も仕入れ量を増やし、売り上げを伸ばす絶好の機会でもある。一方で今の有明テニスの森駅は、思いの外に閑散としていた。残すところが決勝戦だけとはいえ、ユウキが言ったように盛り上がりは大会史上最高と言ってもいいレベルであり、アスカの引っ掛かりは尤もだった。
皆が首を傾げていると、シオリと通話中だったコウが四人の下へ近寄り、神妙な面持ちで言った。
「なあ柊。会場って、確かお前が調べてくれたんだよな」
「ええ、そうよ。webサイトを見て調べたけど、それがどうかしたの?」
「もう一回、調べてくれ」
コウの声に怪訝そうな表銃を浮かべながら、アスカがサイフォンを操作する。素早い手付きでキーワードを打ち込み検索ボタンを押すと、すぐに東京都高体連の公式サイトが表示された。
「平成26年度、全国総体女子ソフトテニス団体・・・・・・あら、平成26年?」
「あらじゃねえよお前ふざけんな!!いやマジでふっざけんなよ!!?」
「嫌がらせですか!?アキ先輩への嫌がらせなんですか!?」
「どうしてくれるのさ!っていうかそれマジボケ!?」
「『多摩東公園』って思いっ切り遠ざかってるじゃない!ああもうどうするのよ!!」
「なーにやってんだお前ら。ぎゃあぎゃあと騒ぎやがって」
アスカが途方も無い罪悪感で頭を白くしている最中、同じく誤情報に惑わされたシオがオートバイを道端に停め、慌てふためく五人に声を掛けていた。
「とと、とりあえず、状況を整理しましょう。私達以外は、正しい会場に向かっているのよね」
平成27年度の団体戦予選開催地は多摩地区スポーツ施設の一つ、多摩東公園庭球場。陸上競技場に隣接した、杜宮市から程近い場所にあるテニスコートだった。対して今現在の居場所は、東亰港埠頭の駅近辺。鉄道を使っても相当な時間が掛かる、遠地に来てしまっていた。
「四の五の言っても始まらねえ。どうだユウキ、間に合いそうか?」
「で、電車の移動だけでも一時間半近くは掛かるって。試合開始には、とても」
「やれやれ。まさかとんぼ返りをする羽目になるとはな」
五人の視線が交差し、想いが重なる。せめて一目だけでも、一声だけでもいい。それだけを願いながら四人が駆け出し、オートバイのエンジンが唸り声を上げる。アスカだけが、胃に鈍い痛みを覚えていた。
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杜宮学園女子テニス部に与えられた出場権は、インターハイ都予選のみ。出場自体は認められたのだが、正規の手続きを踏まない特別枠での参加という事情により、制限が設けられていた。たとえ今日、聖アストライア女学院から白星を勝ち取っても、インターハイ本戦の全国大会は叶わない。既にその権利は女学院側にあり、公式記録に杜宮学園の名を残すことはできない。杜宮学園の四人にとっては、充分過ぎる条件だった。
「見ろよアリサ。予選だってのに、すげえ数のギャラリーだな」
「ええ、本当に。アキさん目当ての観客が多そうね」
杜宮学園の生徒は勿論、アキを知る人間はそのほとんどが集っていた。ガーデンハイツ杜宮、商店街の住民ら、アルバイト先の関係者、裏の世界を知る者達。そして観客達は、コートに立つ四人が発する並々ならない闘志を、肌で感じていた。試合開始と同時に一敗が確定しているというハンデを背負いながらも、見事決勝戦まで勝ち抜いた姿に、何かを想わずにはいられなかった。絶対に負けられないという一点においては、最早言葉は不要だった。
「さてと。一応の顧問として、アドバイスの一言二言ぐらいは、しておきたいところなんだが・・・・・・参ったな。掛ける言葉が見当たらない」
杜宮学園側のベンチに立つジャージ姿のゴロウも、それを理解していた。勝ちたいという過度の気負いはかえって身体を強張らせ、時に悪影響を及ぼす。しかしその一線を超える世界は確かに存在している。尋常ではない意志を力へと変える領域に、四人は達していた。
「それで、向こうさんはどれぐらいの強敵なんだ?」
テニスの知識に乏しいゴロウが問うと、アキが反対側のコートで準備を進める女学院の選手らを見ながら答える。
「昨年と一昨年は、インターハイで準優勝。その前の年では優勝を果たしています」
「成程な。掛け値なしの強豪校か。お前達も、思い切った挑戦をしたもんだ」
「はい。でも・・・・・・私は、勝ちたいです」
「当然ですわ。負けるつもりは更々ありませんわよ」
「ああ。滾るなって言う方が無理ってもんだぜ」
「佐伯先生は後ろでどっしりと構えていて下さい。割と名将に見えますよ?」
随分と場違いな所へ来てしまった。ゴロウはそう感じると共に、死人憑きによる一件を想い起こす。あの亡霊が彼女らに取り憑いたとは、到底信じられない。歪んだ感情の一切が無く、在るのはひたすらに真っ直ぐな決意。その青臭さが、素直に悪くないと思えた。
「お前達の全てをコート上に置いて来い。俺から言えるのは、それだけだな。さあ、整列だ」
「「はいっ!」」
横一列にコートへ並び、主審の声を合図にして前に進む。ネット越しに立つ層々たる顔ぶれは、乗り越えるには余りにも高い壁。思わず目を逸らしてしまいそうになる圧力を、アキはパートナーの手を握ることで跳ね除ける。今日の先に在る明日を信じ、梅雨間の夏空を仰ぎながら、エリカの手を握っていた。
やがて四人はペア同士に別れ、それぞれに当てられたコート上に再度立った。リサとエリスは敗北を喫し続けてきた因縁のライバルと、そしてエリカと共にアキが対峙するは、驚いたことにアキと同学年。二年生でありながら二番手の座を勝ち取った、二人の実力者。地力の差は当人らが最も理解していた。
「アキ。先手必勝でいきますわよ」
「分かってます。長引いたらこちらが不利ですから」
「結構。存分に声を張りなさい」
「はいっ」
「サービスサイド杜宮学園、遠藤・高松ペア!レシーブサイド聖アストライア女学院、志波・レインハイムペア!7ゲームマッチ、プレイボール!!」
利き手同士でハイタッチをすると、主審が試合開始のコールを高らかに宣言する。それを皮切りにして、両サイドから発せられる声援の数々が、一斉に二面のコートを包み込む。杜宮学園側からは、サキとアヤトの二人によって形成された大応援。高校の部活動ならではの熱気が、アキの背中を押していた。
「痛ぅ・・・・・・!」
そして声援に混じるほんの一握りの友人の声が、小さな頭痛を引き起こす。研ぎ澄まされた集中力が、無意識のうちに聞き分けてしまう。エリカに悟られないよう、アキは一度深呼吸を置いて、前を見据えた。
(痛みなんて、知らない・・・・・・!!)
全てを奥底に抑え込み、アキは高めに上げたトスへ渾身の力を込めて、オーバーヘッドサーブを叩いた。サーブは狙い澄ましたセンターラインギリギリの地点に着弾し、一歩反応が遅れた志波のレシーブが浅めに返ってくる。アキはコートを駆り、身体を捻りながらの僅かなステップだけで、完璧な打点からの一撃を放った。
「だああるぁああああっ!!!」
続けざまの強打により生み出された絶好の機を、エリカのスマッシュボレーが得点へと変える。ファーストポイントとしては理想と呼べる形で、戦いの火蓋が切って落とされた瞬間だった。
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ファーストセットを先取し、セカンドセットを落とす。強力なサーブを得意とするペア同士、お互いに度重なるデュースの末にセットを勝ち取っては、続くセット取り戻されて追い付かれる。他のスポーツ競技と同様で、追い付かれてしまえばポイントに際限は無い。既にセットカウントは3-3、その全てがフルカウントを超えており、大会史上最多記録に迫る長期戦の様相を呈していた。
「かなり足に来ているな。遠藤、失礼するぞ?」
「は、はい」
ベンチ上に座ったアキの右足にゴロウが触れると、慣れた手付きで脹脛にマッサージを施す。何処でそんな技術を覚えたのか、それを問う余裕はエリカにも残されていなかった。
短期決戦を望んだ理由は、何より身体の鍛え方と地力の差にあった。常日頃からテニスに全てを注ぐ対戦相手とは違い、アキにはブランクもある。長丁場になればその差が如実に表れ、体力と共にあった筈の戦意までもが削がれていく。その上相手はダブルフォワードとスピンサーブを駆使する、トリッキーな戦術を以ってこちらを攪乱してくる。オーソドックスなスタイルだけが武器のアキとエリカには、荷が重過ぎる強敵だった。
「アキ。足の具合は如何ですの?」
「だ、大丈夫です。まだ、やれます」
言葉は強くとも、残されている物は自分にも数少ない。ここからどうやってファイナルゲームを勝ち取ればいいものか。エリカが考え倦ねていると、観客席から小さなどよめきが生まれ始める。
(何ですの・・・・・・?)
声援とは異なる類の、ざわめき。見れば、先程まで応援団の生徒がいた筈の席に、鉢巻きを額に巻いた女子生徒が一人、立っていた。学園内では何度も、そして今朝方の情報番組の中ではステージ上で歌い踊っていた、アイドルグループの一員。周囲の目を引くには、充分過ぎる顔だった。リオンは周囲から向けられる視線など気にも留めようとせずに、確かな『想い』を込めた声を以って、喉を振るわせた。
「フレー!!フレーッ!!もぉりーみーやああぁっ!!!せぇーのお!!」
たちまちの内に、大声援は最高潮に達した。リオンの歌声に、誰もが応えずにはいられなかった。コウ、アスカ、ユウキ、ソラ。リョウタ、ジュン、シオリもリオンに並んで、声の限りを尽くしていた。その熱烈な大合唱とは裏腹に、エリカは二週間前のアキを思い出し、ハッとした表情でアキの様子を窺う。
「あ、アキ?」
「ぐっ・・・・・・う、ぅ」
会場に皆を呼び寄せたのは、アキ自身。唯一会話を交わせるコウを介して、アキが望んだことだった。結果として唐突に降り掛かる、苦痛。仲間の声は、苦しみしか生み出さない。その現実は、今も変わらずに―――
「―――うわああああああぁぁああああ!!!!」
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絶叫に近いアキの雄叫びは、観客席の声を一瞬だけ掻き消す。しかし声援は鳴り止まず、同窓の声はエリカにも降り注ぐ。エリカは荒々しい呼吸で肩を揺らすアキの背中を見詰めながら、声援の全てに耳を傾けた。エリカの心にも、しっかりと響いていた。
「エリカさん、ファイトです!あと少しですよ!」
言われずとも分かっている。生徒会長は生徒会長らしく、堂々と構えていて欲しい。
「おら高松!男なら根性見せやがれってんだ!!」
誰が男だ。不良生徒は黙って見ていろ。
「燃えるのよエリカ、ここで燃えなきゃ女じゃないわ!!」
空手部主将はいちいち暑苦しい。男だの女だの、一体何を語っているのだろう。
「ここが踏ん張りどころだ。集中を切らさないよう、落ち着いて冷静にね」
剣道部主将が一番まともなことを言う。ここで一旦、仕切り直しといこうか。
「エリカ君、全てこのビデオカメラに収めているよ。君がこの物語の主人公さ!」
映画研究部の長は、少々勘違いをしている。もしこの場に主人公がいるとするなら、それは私ではない。私は脇役として、助役として支えてあげればいい。以前に気紛れで主演を引き受けたことがあったけど、それとは別問題だ。そう、今日の私は主人公じゃない。
「アキ」
エリカが身体を震わせるアキの肩に手を置くと、一際強い声援が、隣のコート上で沸き上がる。エリカらと同様にフルセットまでもつれ込んでいた死闘は、彼女らの白星。勝利への一歩は今、二人へと託されていた。
「ど、どうだ。お膳立てには、充分だろ!!」
「エリカ、あとはお願いっ・・・・・・アキさんを、勝たせてあげて!」
これも的外れな物言いだと、エリカは笑いながら独りごちた。勝たせてあげるではない。アキと一緒に勝利を掴み取る、だ。幼少の頃より続けてきたテニスは今日の為にあったのだと、今なら胸を張って言える。いずれにせよ団体戦しかない自分にとって、高校での部活動は今日が最後。一足先に、夏が終わる。なら己の全てを今日に注いで、この子の明日を照らして見せる。
「アキ。物思いに耽るのは勝った後にしなさい。まだ終わってはいませんわ」
「ぐすっ・・・・・・はい」
「泣くのも後です。さあ、いきますわよ」
「はい!」
二人が遅れて定位置に付くと、主審がファイナルゲーム開始のコールを告げる。試合展開は変わらずに、ワンポイントを取っては取られるを積み重ねる、接戦に次ぐ接戦。複数回のデュースの果てにポイント数が13-12となり、大会史上最多ポイント数の記録を塗り替えた頃には、コート上に立つ四人全員の限界が近付いていた。
「あ―――」
打った瞬間に悟ってしまう、サービスミス。アキのファーストサーブは大きく下方へと逸れて、ネット前のコート面を叩いてしまった。ここまで大幅なズレは今日が初。集中力を保たないと、セカンドサーブまで外しかねない。アキは一旦眼鏡を掛け直し、全神経を研ぎ澄ませた。
身体が重い。呼吸が苦しい。額の汗が眼鏡に張り付くせいで視界も悪い。右の脹脛がぴくぴくと痙攣していて、これ以上無理をすると本当に右足が攣ってしまうかもしれない。相棒の先輩も限界が近い。このアドヴァンテージを取らないと、追い込まれるのはこちら側。だったら、声を聞けばいい。
「もう、迷わない・・・・・・!!」
アキは溢れ出てくる感情に身を委ね、セカンドレシーブを強打で返して先手に打って出る。ストロークの打ち合いで優位に立ったアキは、躊躇いの一切を捨ててラケットを振り切り、相手のバックハンドを突いてマッチポイントを奪いにいく。
(読まれて―――?)
しかし相手後衛は先読みをしてフォアハンド側へと回り込み、肩を入れて待ち構えていた。強引な攻めは相手側のチャンスボールへと変貌し、カウンターが前衛のエリカとサイドラインの間へと襲い掛かる―――筈だった。
「っ!!」
更に先を読んでいたエリカのボレーが、寸分狂わぬ形で相手コートのライン上へと吸い込まれていく。勝敗を決する一打の軌道が、全員の目にひどくゆっくりと映り、一瞬の静寂が会場全体へと訪れる。直後にアキの背後から生まれた大歓声は、アキの耳に届いてはいなかった。
「う・・・・・・うぅ」
その目には、エリカの背中がとても頼もしく映り。
待ち望んでいた瞬間も、突然やって来る。
頭痛は疾うの昔に治まっていて、しかし思い出は依然として眠ったまま。
思い出せはしないけど、枷は外れた。
何も変わらない一方で、変わった物がある。
この想いを一番最初に伝えなければならない、誰かがいる。
「ひ、ぐっ。う、ううぅ」
止め処が無いアキの感情と涙を、エリカは受け止めようとしなかった。
その役目は自分ではない。分かっていたからこそ遠慮をして、身を引いた。
「アキ!?」
「遠藤さんっ・・・・・・」
「アキちゃーん!」
「アキさん・・・・・・アキさん!!」
テニスコートへ雪崩れ込んで来る面々を見て、エリカは笑った。リサとエリスもエリカに倣い、泣きながら笑った。たった一人の後輩が見い出した光、紡がれし想いは明日へ繋がり、新しい夏へと続く。止まない雨は無く、梅雨の明け時はすぐそこにまで、迫っていた。