7月6日 微睡んで
チョークを使い、黒板へ『遠藤亜希』の名を綴る。緊張のせいかやや不格好になってしまったけど、今は読めればいい。最後の一文字を書き終え、手に付いた白い粉を払ってから振り返る。三十人超の視線を一手に注がれると、胸の鼓動が再び高鳴り、声が詰まってしまう。
「ふ、伏島から来た、遠藤アキです。宜しくお願いします」
「「・・・・・・」」
「こらこらみんなー。そこは黙るところじゃないでしょー?」
九重先生の声に対し、クラスメイト全員が一様にして困り顔を浮かべた。想像はしていたけど、色々な意味で気まずい。最前列の席にいた女子生徒らは、躊躇いがちに九重先生に返し始める。
「うーん・・・・・・改めて自己紹介されても。何ていうか、その」
「二ヶ月前にも同じやり取りがありましたよね。既視感がすごいですよ」
週明けの7月6日、月曜日。念願の復学を果たした私は、九重先生に連れられて二年B組の教室を訪れ、黒板の前に立った。私にとっては見慣れない光景しか無く、新鮮味と緊張感が溢れる早朝のSHR。こうして教壇側から見下ろす顔ぶれも、一部を除いて見覚えの欠片も無かった。
しかし緊張の余り胃が痛くなりそうな私とは裏腹に、みんなにとってはまるで正反対。一ヶ月振りとはいえ、「初めまして」と言われても今更感が満載のようだ。この異様な雰囲気も、生涯一度切りに違いない。胃が痛い、本当に。
「そう言わないの。遠藤さんにとっては登校初日みたいなものなんだから。という訳で、遠藤さんに何か質問がある人はいるかな?」
「「・・・・・・」」
再び訪れる静寂。ちらと壁の時計を見ると、現時刻は朝の8時10分。授業の開始時間は前に在学していた高校と同じ筈だから、時間にはかなり余裕がある。私の為にと早い時間帯からSHRを始めてくれたのはいいとして、既にこの有り様である。もう終わりにしてもいいんじゃないかな。
「遠藤、一ついいか?」
「え・・・・・・あ。は、はい?」
不意に切り出したのは、後方の席に座っていた時坂君。時坂君は目元を指でトントンと叩きながら、二ヶ月前とは異なる一点について触れた。
「眼鏡、掛けるようになったんだな。視力が落ちたって聞いてたけど、やっぱ部活動の為か?」
「は、はい。言うほど、悪くなった訳ではないんですけど。ボールがぼやけて見えちゃうので・・・・・・や、やっぱり変ですか?」
「言ってねえだろそんなこと。ったく、そういうところは相っ変わらずだよな」
「相変わらず」が何を指しての言葉なのか分からないでいると、うんうんと頷きながら同意を示す生徒が複数人、視界に映る。私が知らない誰かが私を知っているという現実が、未だに慣れない。もう少し、時間が掛かりそうだ。
「九重先生。こういった場合は、逆の方がいいのではないですか?」
時坂君に続いたのは、私から見て右前方。クラス委員長を務める、帰国子女の柊さんだった。
「逆?」
「はい。遠藤さんについて私達が知っていることを、彼女に教えてあげた方がいいと思うんです」
「・・・・・・そっか。それもそうだね」
九重先生の声を合図にして、全員の表情が変わった。心なしか嫌な予感がすると思いきや、みんなが知る遠藤アキが口々に飛び出してくる。
「良くも悪くも大人しい性格ね」
「成績は中の上ぐらいじゃねえかな」
「結構漫画とか読む方。ジュンから色々借りてなかったっけ」
「遠藤さんと言ったらパン屋よ、パン。パン抜きには語れないわ」
「遠藤さんのサンドイッチ超美味しいよね。また食べたい」
「予約待ちが発生するレベルで大人気だったわ」
「でも学食じゃ丼物ばっか食ってたよな?」
「豚マヨ丼を食う女子なんて相沢と遠藤ぐらいだろ」
「そんな遠藤さんも大好きだぜ!!」
「節操無し」
「クズ」
「腐れ外道」
「みんなー、伊吹君じゃなくて遠藤さんだよー」
後半部分は別として、気恥ずかしいにも程がある。突然丸裸にされた気分だった。
でも不思議と、悪い気はしない。少なくとも半年前の私とは違う。歪んだ視線を向けられたり、身に覚えの無い侮蔑や拒絶も無い。有りのままの私を、この教室で共に過ごした私を、みんなが受け止めてくれている。失ってしまった物の重みを改めて認識させられる一方で、『帰って来た』という安堵が胸の中に充ちていく。私はしっかりと、そして今も二年B組の一員だった。それだけで、充分だ。
「テニスもすごいよね、遠藤さん。この間の試合さ、あたし泣いちゃったよ」
「え・・・・・・み、観ていたんですか?」
「なーに言ってんの。ここにいる全員が観てたわよ。会場も近かったしね」
「みんなで応援してたんだから。柊さんと時坂は超遅刻してたけど」
「試合会場を間違えるなんて、時坂も間抜けよね。巻き込まれた柊さんがかわいそう」
「おい柊ぃ!!お前ふざけんなよ!?」
「な、何のことかしら」
ソウスケさんの言葉を信じて、歩いて行こう。やがて辿り着いた先に、見失ってしまった全てがあると、そう信じて。遠藤アキの新しい日々は、まだまだ始まったばかりなのだから。
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覚悟はしていたけど、授業には付いていくだけで精一杯。自宅学習の甲斐あって、ある程度の理解には達していたものの、復学初日という緊張感も相まってか終始張り詰めっ放しだった。午前中の授業を終えた頃には、物の見事に疲弊し切っていた。
「アキちゃん、大丈夫?」
「は、はい。どうにか、こうにか」
私は今、私と席が近い四人のクラスメイトと一緒に、クラブハウス一階にある学生食堂へと向かっていた。以前の私と親交が深かった友人については、人となりを時坂君から事細かに聞かされていたせいか、初対面という感覚が薄く、変に気を遣わずに会話を交わすことができていた。
「でも大変だね。来月には期末考査もあるから、人一倍頑張らなきゃいけないし」
一人目は倉敷シオリさん。時坂君の幼馴染で、幼少の頃からの付き合い。おっとりとしていて控え目な性格だけど、芯が強くて言いたいことはしっかりと口に出す。お父さんは駅前の書店を経営していて、シオリさんも将来は司書の道を目指している。親子揃って筋金入りの読書家さんだ。
「困ったことがあったら、何でも言ってよ。僕らも力になれると思うからさ」
小日向ジュン君。体格は私と同程度で、その中性的な顔立ちから、一見すると大変失礼な感情を抱いてしまう。シオリさんと同じで部活動はしておらず、漫画やアニメが趣味なインドア派。私も度々小日向君から漫画やライトノベルを借りて読んでいたそうだ。借りたままの物があったら、今度しっかりと返しておこう。
「さーて、飯だ飯。今日は何を食おっかなー」
伊吹リョウタ君。ただの馬鹿。
「ぶふっ!」
「うん?何だよ遠藤さん、思い出し笑いか?」
「い、いえ。その」
余りにもあんまりな時坂君による伊吹君の紹介を思い出し、唐突に笑いが込み上げてくる。きっと良い人に違いないし、SHRの際にも敢えて場を盛り上げる為にあんなことを言ったのだろう。伊吹君は時坂君とシオリさんとも付き合いが長いそうで、商店街にある青果店の一人息子。店先で度々顔を合わせたこともあった。
ともあれ、時坂君を含めた四人は初登校も同然の私の立場を配慮し、今もこうして食堂へ案内をしてくれていた。その心遣いが、今の私にとっては何より頼もしく、嬉しい限りだ。
「あのー。遠藤先輩、ですよね?」
「え?」
階段を下りて食堂の入り口に差し掛かった頃、後方から聞き覚えの無い声を掛けられる。振り返ると、肩にピンク色の鞄を提げた、セミロングの髪型をした女子生徒が一人立っていた。
「え、えーと、はい。遠藤、です」
「私はバレー部に所属する一年生です。あ、今日が初対面ですよ」
「バレー部の・・・・・・わ、私に、何か用ですか?」
「感動しました」
「へ?」
訳が分からず素っ頓狂な声を漏らしていると、一年生のバレー部員は両手で私の右手を取り、目を輝かせて続けた。
「先輩の事情を知っていて、こんなことを言うのは失礼かもしれませんけど・・・・・・先月末の試合、大変感動しました。バレー以外であんな風に心を動かされたのは、初めてです」
「そ、そんな。私は、別に」
「先輩の勇姿から、沢山の勇気を貰いました。影ながら応援させて下さい、遠藤先輩」
後輩さんは私に頭を下げ、応援の二文字を置いて去って行った。その背中と握られた右手を交互に見詰めていると、時坂君が笑いながら言った。
「今日で何人目だよ。移動教室の時も、似たようなのが訪ねて来てたよな」
「・・・・・・多分、四人目です」
細かな違いはあれど、大まかには今のやり取りと同じ。私を訪ねて来た同窓は、彼女が初めてじゃない。先輩らと共に戦った団体戦はクラスメイトのみならず、多くの杜宮学園生の知るところとなっていた。直接会場に出向いて観戦していた生徒もいれば、動画サイトを利用して知った生徒もいるようだ。
そう。あの決勝戦は映画研究部の先輩により某動画サイトに投稿され、サイトユーザーなら誰もが視聴できるようになっていた。勿論私達女子テニス部員の了承を得ての投稿ではあったのだけど、まさかこれ程の反響を生むことになるとは思ってもいなかった。動画の視聴回数は既に五万を超えていて、コメント数も日に日に増加の一途を辿っている。良くも悪くも、大いに目立ってしまっていた。
「話は後にして、先に食券を買おうぜ。あれが券売機で、麺類はトレーを持って左の列、それ以外は右の列に並ぶんだ。ソースやマヨネーズなんかは常識の範囲内で使えよ」
「は、はい」
時坂君が教えてくれた手順を踏むと共に、SHRの際に耳にした品名を思い起こし、小銭を入れて『豚丼(大)』のパネルを押す。豚マヨ丼の名はメニューに見当たらないから、以前の私は豚丼の上にマヨネーズをトッピングしていたのだろう。確かにそんな丼物を好んで食べる女子高生はそういない。
先んじて席に着いていたみんなと同じテーブルに座ると、時坂君は私のトレーを見て「お前の常識の範囲は広過ぎる」と言って薄ら笑いを浮かべた。シオリさんは「アキちゃんらしい」、伊吹君は「相沢を超えた」、そして小日向君は皺が寄った額に手を当てながら、どういう訳か視線を落としていた。
「あ、あの。小日向、君?どうかしましたか?」
「うん・・・・・・少し、頭痛がね。最近よくあるんだ」
「この間も言ってたよな。おいジュン、一度病院で診てもらった方がいいんじゃねえのか?」
「そうするよ。リョウタも一緒に行こうか?」
「そいつはあれか。頭の中身を診て貰った方がいい的なあれなんだな」
下らないやり取りに笑いながら、丼を持って箸を動かす。小日向君は別として、頭痛に悩まされる私の日常は終わりを告げた。私を縛っていた枷は外れ、こうして平穏な時を過ごすことができる。失くした物を望んでも何も生まれはしないんだって、今なら割り切って言える。心機一転の再スタートだ。
「そうそう。さっきの話だけど、アキちゃんすっかり有名人になっちゃったね」
「ゆ、有名人という訳では」
「でも取材のオファーも来てるんでしょ。何ていう雑誌だっけ?」
「・・・・・・ソフトテニスマガジン、です」
シオリさんが触れたように、私が愛読するテニス雑誌の記事を担当する記者から、取材の打診が来ていた。記憶を失った少女が明日を掴む為、たったの四人でインターハイ優勝候補を打ち破ったという話題性溢れる快挙は、ソフトテニス界へ一気に広まった。動画投稿もその火付け役となり、関心を示した記者が杜宮学園に取材を要請した、というのが先週末の経緯。有名人と評されても、否定できない状況にあった。
取材を受けるか否か。迷いはしたけど、私は思い切って受け入れた。三人の先輩と共に戦ったあの二日間を、思い出として残したかった。こんな体験も、きっと人生最初で最後のことだ。
「遠藤さんが雑誌に載るのかぁ。取材はいつなの?」
「えーと。今週末に、記者さんが学園まで―――」
『もう少しだよ。アキちゃん』
「明後日の水曜日に、アクロスタワーのレストランへお呼ばれされてるんです」
「明後日っつーと、7月8日か。随分と急だな」
「それにレストランって、上層のあの高級レストランか?マジかよ、超ハイグレードじゃん」
「食事でもしながら、気軽に話そうって・・・・・・あの。ち、違いますよ?」
「まだ何も言ってねえ」
「あはは、アキちゃんらしいや」
決して食事付きという条件に惹かれた訳ではない。まあ本音を言えば少しは、って違う違う。取材には、タマキさんと九重先生にも同行して貰う予定だ。テニス用品メーカーの宣伝も兼ねて、ラケットとシューズを持参して欲しいという申し出も、断る理由は見当たらない。とりわけ秋口に発売予定の試作品シューズとやらは、大きな宣伝効果を生んでくれるだろう。
「痛ぅっ」
「え。じ、ジュン君?また頭痛?」
「う、うん。大丈夫、少し痛んだだけだから」
小日向君が握っていたスプーンがトレー上に置かれ、気遣わしげなシオリさんが小日向君の顔を覗き込む。結局小日向君は昼休みが終わるまで、皿に盛られたカレーライスを半分程度しか口にしなかった。その理由が、私には分からなかった。
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午後の授業を何とか乗り切り、一息を付いた放課後。クラブハウス二階にある部室の扉を開けると、そこには生活感溢れる一室があった。色鮮やかな装飾や小物、雑誌に電気ケトル、ティーセット。やけに充実した物品を片していたのは、共に戦った三人の先輩ら。いち早く私に気付いたアリサ先輩が、パンパンと両の掌を叩いて声を掛けてくる。
「やっと来たわね、アキさん。久し振りの学園生活はどう?」
「大変でしたけど、楽しかったですよ。みんな気を遣ってくれて・・・・・・本当に、楽しかったです」
「そう。少し心配だったけど、杞憂だったみたいね」
アリサ先輩に続いて、エリス先輩とエリカ先輩も手を止めると、三人が横一列に並び始める。改まった先輩の態度に、私は放課後の部室へ呼び出された理由を察した。新たに始まった日常があれば、終わる物もある。
「アキ。私達が言わずとも、もう分かっていますわね」
「・・・・・・はい」
先週末に行われたインターハイ都予選個人の部。見事決勝まで勝ち抜いたアリサ先輩とエリス先輩らは、再び聖アストライア女学院のエースと対峙し、そして接戦の末に、惜敗した。女王としての矜持を守り抜いたエミリ・テレジアペアは全国大会へと駒を進め、団体戦の出場権も同女学院にある。本戦に向けた予選の全てが終わり―――三人の部活動生活も、終わる。進学や就職といった新たな目標に向かって、三年生の先輩らは歩を進めていく。
「アタシらの部活動は、昨日で終わりだ。悔いは無いし、有終の美を飾れたと思ってる。だから女子テニス部の今後を、アキ。アンタに託したい」
「アキさん。もし貴女が今後もテニス部に在籍してくれるのなら、これを預かって欲しいの」
アリサ先輩が差し出してきたのは、女子テニス部の活動日誌と、部室の鍵。たった一人の管理者に手渡される、部長の証。部室前に掲げられていたプレートも既に空白で、アリサ先輩の名は消されていた。
「私達が抜ければ、貴女一人。暫くは活動のしようが無いけど、きっと来年にはたくさんの後輩が集まってくれる筈だわ。実を言うと、何人かの中学生から問い合わせが来ているのよ」
「え・・・・・・そうなん、ですか?」
「是非アキさんと一緒に、インターハイを目指して頑張りたいってね。部員がアキさん一人しかいないって言ったら、尚更力になりたいって言ってくれているの」
「私達としても、このまま部が廃れるのは本意ではありませんわ」
「スカウト無しに、有望な後輩が都内から集まってくるんだぜ。全部アキの力さ」
アリサ先輩から活動日誌と鍵を受け取り、この三週間を想う。テニスをしたいという私の願いを受け止め、何も言わずにラケットを握らせてくれた。団体戦に出場して、一緒になって戦って、勝利の先に手に入れた掛け替えの無い今日。まるで先が見えない迷い子の私を導いてくれたのは、三人の先輩に他ならない。この居場所を守り続けたいと、素直に思える。言葉では表し尽くせない、想いがある。
「わ、私・・・・・・う、うぅ」
「まーた泣くのか。ま、アキらしいよ」
「頑張りなさい、アキ。私達もたまには顔を出しますわ」
目元に溜まった涙で視界が歪み、段々と意識が遠のいていく。立っていられなくなり、身体がゆらりと大きく傾いてしまう。
(え―――)
私の身体を受け止めてくれたのは、エリカ先輩だった。エリカ先輩は突然倒れ込みそうになった私の肩を支えながら、焦りに満ちた表情で私の様子を窺ってくる。
「ど、どうしましたの、アキ?」
「あれ・・・・・・いえ、その。私、どうして」
「復学初日だし、きっと疲れているのよ。今日は早めに帰って、休んだ方がいいわ」
疲れている。本当にそうなのだろうか。登校してから終始張り詰めていたのは確かだけど、自覚らしい自覚が無い。でも、どうしてだろう。首元がむず痒くて仕方なかった。
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先輩らとの別れを惜しんで下校した後、私は一度アパートへ戻ってから、かつてのアルバイト先であるモリミィに向かった。復学と共に職場へ復帰すべく、先週末にサイフォンへ登録されていた番号に連絡をして、一度挨拶に伺わせて欲しいとお願いをしていたのが今日。私は駐輪場に自転車を停めて、店内の様子を覗き込んだ。
「・・・・・・閉まってる?」
店内に続く自動扉には『CLOSED』のプレートが掛かっていて、私は首を傾げてしまった。月曜日は定休日ではないし、今日だって時間があれば、少し作業をさせてくれるという話だった筈だ。訝しみながら歩を進めて自動扉が開くと、店内には女性と男性、二人の姿があった。
「ん・・・・・・アキ?そうか、今日だったな」
「あら、もうそんな時間?」
「え、えーと」
夫婦二人でモリミィを切り盛りする、ハルトさんとサラさん。面と向かって話すのは今日が初めてであり、本来なら改めて挨拶をしておきたい場面だ。しかし挨拶を交わすよりも前に、私は声を失った。一度訪ねたことがあるモリミィの店内は、余りにも変わり果てていた。
「何が・・・・・・起きたんですか。何ですか、これ」
商品を並べる陳列棚、冷蔵ケース、壁面、レジカウンター。その全てが『泥』に塗れてしまっていた。まるで台風や洪水の足跡の如く、そこやかしこが汚泥を被っていた。ハルトさんとサラさんはモップを使い、泥を洗い流す作業の最中だった。何が起きたらこんな有り様になるんだ。
「それが分からないのよ。今朝起きたら、こんな状態で。アタシ達が聞きたいぐらいだわ」
「一応警察にも届け出てはあるが、如何せんこれでは営業できんからな。おそらく悪質な嫌がらせの類だろうが、迷惑な話だ。まるで切りが無い」
「そ、そんな・・・・・・」
嫌がらせどころの騒ぎではない。私の大切な居場所が一夜にして泥だらけだなんて、何の冗談だ。しかし原因はどうあれ、まずは店内から泥を除去しなければ何も始まらない。掃除だけなら、今の私だって力になれる。
「私にも手伝わせて下さい。私も・・・わ、たっ・・・・・・?」
「あ、アキ!?」
まただ。また唐突に視界が暗転して、平衡感覚が乱れていく。身体に冷やりとした何かが触れて、漸くその場に倒れてしまったことに気付かされる。部室での立ち眩みといい、私も私でどうかしている。それに、どうしてなんだろう。首が、とても痒かった。
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翌日の7月7日、夕刻。昨晩から熱に魘されていた私は登校を諦め、自室のベッドの中で平日の火曜日を過ごしていた。医者の見立てでは精神的な疲労とストレスが原因らしく、微熱とはいえ大事を取って寝込む羽目になっていた。そんな私の看病に努めていたのは、例によって叔母のタマキさんだった。
「はい、明日の取材は・・・・・・はい。いえ、そんな。こちらこそ申し訳ありません」
サイフォン越しにやり取りをするタマキさんの声から察するに、明日の取材を延期して貰うよう頼み込んでくれているのだろう。折角復学できたと思いきや、当日に体調を崩してしまうなんて情けない限りだ。タマキさんにも気苦労を掛けっ放しだし、自分で自分が嫌になる。
「た、タマキさん。今のって」
「ほらほら、いいから眠ってなよ。取材は延期して貰ったから、気にしないで」
「・・・・・・ごめんなさい」
「謝らないの。あ、そうそう。さっきアキのサイフォンにメールが来てたわよ」
テーブルに置いてあったサイフォンをタマキさんから受け取り、横になりながら液晶を見る。メールの差出人は時坂君で、内容は昨日にモリミィが被った大迷惑について。昼間にも同じやり取りをしていた。
聞いた話では、時坂君は『不思議探究部』という謎めいた部に所属しているらしい。以前は私も時折活動に参加していたそうで、クラスメイトの柊さんや同じアパートのソラちゃんも正式なメンバーだった。記憶を失う前の私が、クラスや学年が異なる生徒と親交があった理由は、同活動にあったという訳だ。モリミィの一件についても、時坂君らは単なる嫌がらせではなく、異常な怪現象と見て調べて回っている最中だった。
「メール、時坂君から?」
「はい。モリミィのことで、聞きたいことがあったみたいで」
「そっか。そろそろ遅いし、何か作ろうと思うけっ・・・・・・あら、地震?」
「え?」
『安心して、アキちゃん。もう少しだから』
「・・・・・・収まったか」
「結構、長かったですね」
震度2か3程度だろうか。規模は小さかったものの、随分と長い時間揺れていた気がする。まるで身体と空間を同時に揺らされていたかのような、気味の悪さも感じた。
気を取り直して時坂君に返信メールを送ると、時坂君とのやり取りはそれが最後だった。メールが返ってきたのは、翌日の昼間になってからのことだった。
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微睡から覚めた私は、時間軸が曖昧で、世界の境界線も曖昧だった。壁の時計を見ると、時計は18時半過ぎを示していて、7月7日の夕刻と思えば、違った。サイフォンの日付は7月8日、時刻は18時36分。日付を見てから漸く、今日一日間のことを思い出す。
眠りっ放しの一日だった。軽い朝食を取ってからベッドに入り、昼食に作り置きのお粥を食べて再び寝床へ着く。夢の先に何かがあるような気がして、ただひたすらに眠り続けた。随分と無益で空っぽな一日を過ごしてしまっていた。でも一日中眠っていたにしては、ひどく頭が冴えない。身体が重く浮付いていて、気を抜くとまた微睡んでしまいそうになる。もしかして私は、未だ夢の中にいるのだろうか。
「私・・・・・・そっか。今日は、取材が」
真っ先に思い浮かんだ二文字に、身体が自然と動いた。今日はテニス雑誌の記者さんから取材を受ける、約束の日。時刻も既に、アクロスタワーで落ち合わなければならない時間帯だった。
こうしてはいられないと、手早く寝間着から制服姿に着替え、身支度を整える。サイフォンを上着にしまって、ラケットケースを取り出す。玄関口にテニスシューズを置き、手荷物の一式を確認する。サイフォンと財布さえあれば、どうとでもなる。
―――ピンポーン。
すると呼び鈴の音が鳴り、私はそのままテニスシューズを履いて、扉の鍵を開錠した。開かれた扉の先には、見知ったクラスメイトの姿があった。
「あれ・・・・・・シオリ、さん?」
「アキちゃん、準備はできた?聞いてないよ、取材を延期なんて。一人じゃ寂しいもん」
「え、と。シオリさん、どうして」
「ほらアキちゃん。私の手を握ってよ」
「手を?」
「うん。それから、目を瞑ってみて?」
「はぁ・・・・・・」
働かない頭を強引に働かせて、手を握る。言われるがままに目を瞑り、一呼吸を置く。次第に浮遊感が増していき、何かが加速する。私を取り巻く全てに身体が溶け込んで一緒くたになり、上下左右の感覚が消えていく。
「アキちゃん、もういいよ」
「はい・・・・・・え?」
瞼を開けると、そこには杜宮の街並みがあった。遥か上空から見下ろす杜宮は、夕焼けではない色に染まっていた。幻想的な夕空も同じで、燃えるようなオレンジ色の中に白は無く、雲一つ見当たらない。
「・・・・・・待って下さい」
眼下に広がる初めて目の当たりにした光景に、段々と頭が冷静さを取り戻していく。頭上から冷水を浴びせられたかのように、全身に悪寒が走る。沢山の『あり得ない』を突き付けられて、混乱の余り私は握っていた左手を離し、一歩距離を取った。何だ、これは。私は今、何処にいる。
「ここ、何処で・・・・・・何ですか、これ。シオリさん、一体何をしたんですか」
「アキちゃん。これはアキちゃんが望んだことだよ」
「こ、答えて下さい。分かりません、分かりませんよ」
「だって『私達』は、もう駄目なんだよ。だから、変えるの」
「いいから答えて下さい」
「アキちゃん?」
「早く答えて!何が起きて、これは何なんですか!?」
「ああもう、仕方ないなぁ。ほら、アキちゃん」
「だから―――ぱあぅがっ」
突如として、視界が真っ赤に染まった。首が焼けるように熱く、溢れ出る何かを抑えようにも、収まらない。両手で覆っても焼け石に水で、止め処が無い。喉から込み上げてくる液体は止まるところを知らず、首と口の両方から頭上へと噴き上がる。無数の雫を思わず両手で受け止めようとすると、手を離したせいで勢いは増し、大粒の雨の如くぼたぼたと降り注いでくる。雨脚が一際強まった頃に、私は理解した。全てを理解していた。
『ほらねアキちゃん。こんなの、アキちゃんも嫌でしょ?だから変えるんだよ』
「ひゅ・・・かっ・・・・・・」
ああ、そうだ。私は、そうだった。
全部、嘘だったんだ。私は、嘘に塗れていた。
『安心して。アキちゃんはみんなと一緒に、見守っててよ。私が変えちゃうから』
「はっ・・・・・・ごぼ」
全部、思い出した。どうして忘れていたのだろう。
思い出したけど、困った。私はこれから、どうすればいい。
『大丈夫。アキちゃんは一人じゃない。だって私がいるもん』
「ひ、はっ・・・・・・え、あぁ、あああ」
誰か、何か言って欲しい。
お願いだから。誰か―――誰か。誰か。だれか。ダレカ。
『偽りの中で、永遠に閉じ込めてあげるから。ずっとずっと一緒だよ。アキちゃん』
「あああああああ!!!ああああ、うああああぁぁあああ゛あ゛あ゛!!!!!」