東亰ザナドゥ ―秋晴れの空へ向かって―   作:ゆーゆ

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倉敷栞

 

 誰でも構わないから、私の問いに答えて欲しい。海を見たいと、不意に感じたことはないだろうか。白銀の雪山、紅葉の名所、満開の夜桜を一目見たい衝動に駆られて、外へ飛び出す。飛行機で暁を駆け抜け、新幹線で風を切り、船旅に揺れながら青空を仰ぐ。そんな願望は、人として極自然な感情だと思う。

 もっと些細なことでもいい。欲しい物を買う為に、電車に乗って遠出をする。友人と一緒に街へ繰り出し、見知らぬ地で食事をする。外の世界に触れるだけで心が躍り、好奇心がくすぐられる。まだ見ぬ世界は、可能性に充ちている。

 その全てが―――倉敷シオリには、叶わない。

 

 シオリさんが読書を好むのは、外を知らないからに他ならない。十年前から始まった嘘に本当は無く、偽りのシオリさんは外を知らない。本物の世界を知らない。外の世界を垣間見るには、想像を働かせて微睡むしか、術が無い。だからシオリさんは、本を読む。繰り返し読んで、文明を超えた夢の世界を創造する。

 

『コウちゃーん。こっちこっち!』

『待てよシオリ、走るなっての。転んでも知らねえぞ』

 

 夢はひたすらに続いていく。でも所詮は、夢に過ぎない。陽の光が照らす海面は、その目に映らない。潮風の匂いは無くて、波の音も聞こえない。唇に纏わり付く海水の塩辛さも味わえない。だってそうだろう。杜宮には海が無い。望んでも、海は生まれない。

 

『あっ。さ、サイフォンの充電器を忘れてきちゃった』

『大丈夫ですよシオリさん。私のを貸して・・・・・・ああ!?』

『やれやれ、仕方ないわね二人共。私の・・・・・・あら?』

 

 これもシオリさんが想い描いた、夢の世界。高校生活における修学旅行は、高校生なら誰もが待ち望む大催事。自主性を育むと同時に、友人らと自由気儘に過ごす掛け替えの無い数日間が、シオリさんにはやって来ない。故郷を離れることができないから、「仕方ない」のたった一言で、数多の夢が潰えていく。

 

 求めずとも叶う筈の日々が、当然の如く叶わない。沢山の当たり前に手が届かない。常人は気にも留めないちっぽけな幸せが、遠い何処かにある。

 シオリさんにとっては、この杜宮が全て。それが何を意味しているのか、分かる人はいるだろうか。誰でもいいから、答えて欲しい。それが、何を意味しているのかを。

 

『これ以上この杜宮で、連中に好き勝手やらせる訳にはいかねえんだ!』

 

 私は常々感じていた。誰も触れようとはしなかったけど、おかしいじゃないか。杜宮に対する時坂君らの想い入れは、度が過ぎている。執着と言っていい。常軌を逸していると感じたことは、一度や二度ではない。

 

 何故か。考えずとも分かるだろう。シオリさんがそうさせているからだ。

 

 大切な人が離れないという、ただ一つの願いは叶う。しかしそれは、大切な人の生き方を捻じ曲げるという、業に繋がる。修学旅行が良い例だ。時坂君らはこの十年間で、杜宮を離れたことがあったのだろうか。最愛の家族は、どれ程の犠牲を払ってきたというのか。嘘に塗れた空っぽの人生の為に、他の誰かの人生が歪む。望めば望む程、願えば願う度に誰かの明日が変わり、真っ黒な何かを背負わされる。

 

 もしこのままシオリさんが、杜宮で嘘を付き続けたとして。一体彼女に何が残る。もし彼女が想い人と結ばれ、赤子をその手で抱く未来が在ったとして。最愛の我が子に、嘘を付けと言うのか。閉ざされた世界で、病んでいけと言わせるのか。お前は偽物だと言わせるのか。

 

『安心して、アキちゃん。もう少しだから』

 

 シオリさんは、もう無理だった。心が限界を迎えようとしていた。これ以上の嘘と罪に耐え切れず、自我の崩壊寸前まで追い込まれていた。だからシオリさんは嘘を止めて、願った。

 特別な何かを望んだ訳じゃない。シオリさんは願っただけだ。皆が息を吐くようにして掴む、小さな小さな幸せへ、手を伸ばしただけに過ぎない。空腹感を覚えたら物を食べるだろう。夜が来れば誰だって眠るだろう。当たり前じゃないか。その当たり前に、どうして彼女の手が届かない。

 

 もっと不幸な人間もいると主張する者は、一度他の誰かの人生を踏み躙りながら、何の意味も無い数十年の果てに、枯れてみればいい。シオリさんに理解を示す有象無象がいたとして、全員死ね。死を以って詫びろ。己の手で臓物を切り刻んで、未来永劫償い尽くせ。お前にシオリさんの、貴様に私の何が判る。私が背負う業の深さは、貴様らには理解できまい。

 

(私は―――)

 

 答えて欲しい。全てが嘘に為り変わる前に。

 誰でもいいから、早く。私は一体、誰なんだ。

 

 

 

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