私の魂が向かった先は、匣の最深部にある座。時間や距離といった概念が存在しない匣の中で、私はゆらゆらと吸い寄せられるようにして、『彼女』の下へ流れ着いた。
禍々しい外観からは想像が付かない世界に、シオリさんは立っていた。緋色の蛍と、緋色の大地。円状に広がった滝は緋色の水流を生み出し、頭上には十年前の記憶を思い起こさせる、緋色の空。真っ赤な嘘という形容は、この世界の為にあったのではないかと思える程に、全てが緋に染まっていた。その空の下で、シオリさんは少しずつ、因果を紡ぎ続けていた。
―――おかえり、アキちゃん。
私はシオリさんの中へと入り込み、彼女の魂と出会った。魂は具現化して、倉敷シオリの姿を形取り、私を出迎えてくれた。私も遠藤アキの姿となって、一糸纏わぬ私達は、お互いを抱いて柔肌に触れた。唇を重ねて吐息を交換し合い、体温を分け与えながら、何度も何度も交わった。
偽りを、偽りで慰めて。嘘を嘘で、塗り変えて。快楽と戯れの果てには、やはり何も無かった。
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シオリさんの魂が生み出した世界には、色が無かった。光が無いから、影も生まれない。私達は確かに人の姿をしているけど、真っ白なキャンバスに一本の鉛筆で描かれたかのような、点と線だけの無機質極まりない存在となっていた。こればっかりはどうにも慣れない。目が痛くなってくる。
「何だか、漫画の世界に入り込んじゃった、みたいな感覚ですね」
「どっちかって言うと、アニメのラフ画じゃないかな?この間テレビで見たことがあるよ」
「あー、成程。確かにそっちの方がしっくりきます」
魂の色は唯一無二。ソウスケさんはそう言っていたけど、シオリさんの魂は白色だということだろうか。いや、違う。シオリさんの魂だって、本物じゃない。偽りの魂だから、私達の目には色が映らないのだろう。白というよりかは、無色だ。
「それにしても・・・・・・何というか、暇ですね。何も無さ過ぎて、欠伸が出ちゃいます」
「またエッチなことでもする?」
「こ、今度言ったら本気で怒ります」
「えへへ、冗談だよ」
私が怒気を強めた声で返すと、シオリさんは照れ笑いを浮かべながら舌を少し出した後、大の字になって寝転がった。私もそれに倣って仰向けになり、真っ白な空を見上げる。何も無い以上、私達は会話をするしかないのだから、今更になって気怠さを嘆いても仕方ない。
「あの、シオリさん」
「なーに、アキちゃん」
「もしも、の話ですけど。もし本当に、杜宮の外へ出られるようになったとして、シオリさんは初めに何処へ行きたいですか?」
「海っ!海に行きたい!」
シオリさんが声を張った途端、空に瑞々しい青が広がった。見慣れた筈の青空は、真夏を感じさせるオーシャンブルーに染まって、所々に浮かんだ雲が波飛沫のように映った。ここへ流れ着いてから初めて目の当たりにした色に、懐かしさを抱いてしまう。
「あはは、そうだと思いました。最後に海を見たのは、何時ですか?」
「幼稚園の年長組だった頃かなぁ。でもあれは本物のシオリだから、私自身は見たことがないの」
「でも記憶はあるんですよね?」
「あるにはあるけど、それは思い出じゃないよ。記憶と思い出ってね、全然違うんだ」
「よく分かります。一ヶ月前の私は、まさにそうでしたから」
本当に全てを失っていたら、私は頭痛に苛まれずに済んだのだろう。記憶が消えても思い出があったから、私はその証である感情を信じて、手を伸ばし続けた。結局はこんな結末を迎えてしまったけど、思い出が残されていてよかったと、今なら思える。
「他には何かありますか?やってみたいこと、とか」
「雪山でスキーをしてみたいな。高い所から一気に滑り降りるの」
「スキーなら私も得意です。でもあれって、結構難しいですよ?」
「大丈夫だよ。こう見えて私、バランスは良いんだから」
「あはは。ば、バランスが良いって何ですか。初めて聞きましたよ」
私が笑い声を漏らすと、シオリさんは目を細めながら頬を膨らませた。スキーキャンプなら小中学校で経験があるし、私にとって伏島の雪山は馴れ親しんだレジャースポットだ。ナツお兄ちゃんも名前とは裏腹に、とても器用に滑っていたのをよく覚えている。
「でもシオリさん。私も理解はしていますけど、少し無理がありませんか?」
「無理?」
「杜宮から出られないってことがですよ。普通に生活していたら、絶対にそういう瞬間が来ますよね。その度に、いちいち改変をしていたんですか?」
「上手く言えないけど、願えば叶っちゃうんだよ」
シオリさんが一例として上げたのは、倉敷家一同による家族旅行。綿密に計画立てたスケジュールに沿って旅を満喫すべく、県外へ繰り出そうとするやいなや、決まって何かしらのトラブルに見舞われてしまう。気を取り直してまた今度にしようかと保留をすると、段々と全員の頭の中から旅行の二文字が消えていき、最後には全てが無かったことになる。シオリさんはこれまで、そんな経験を幾度も繰り返してきたそうだ。
よくよく考えてみれば、杜宮学院大学に一昨年前から司書養成課程が設置されたことも、シオリさんがそう願ったことが根底にあるのかもしれない。司書資格を取得したいというシオリさんの願望は、この杜宮においては叶ってしまうのだ。倉敷シオリは生きているという嘘を、外界から守り切る為に。
「でもね。中学校の修学旅行の時は、流石に止めたよ。嘘は付かなかったんだ」
「え。どうしてですか?」
「だってみんなも巻き込んじゃうんだもん。私一人のせいで、コウちゃんやリョウタ君まで旅行に行けなくなるなんて、私はイヤだよ。だから代わりに、仮病っていう嘘を付いたの」
「・・・・・・旅行先は、何処だったんですか」
「京都っ。早く見てみたいな、清水寺とか」
そう言いながら頭上を仰ぐシオリさんは、目を輝かせて笑っていた。
七歳以前の記憶はあるけど、思い出が無いとシオリさんは言った。けれど、この十年間の思い出だって、きっと私達と比べれば極々僅か。嘘を付いて上書きをするか、嘘を付いて杜宮に引き籠るか。どちらも嘘が伴って、思い出作りが叶わない。
「シオリさんは、ずっとそうやって生きてきたんですね」
「うん。でも、もう疲れちゃった。アキちゃんが言ったように・・・・・・こんな空っぽの世界は、暇だよ。何も無さ過ぎて、頭がおかしくなりそう。だから、世界を変えるの」
真っ白なこの世界は、倉敷シオリという存在を象徴している。沢山の当たり前に手が届かない、虚無に充ちた十年間の末に、シオリさんは自我を壊し掛けている。
そんな彼女を、誰が責められる。シオリさんへどんな言葉を掛けて、彼女を止める。止められる訳がない。今のシオリさんに手を差し伸べることができる人間が、地上にはいない。だから―――私が、止める。
「ねえアキちゃん。アキちゃんは」
「駄目ですよ、シオリさん」
表情を消して、一切の感情を投げ捨てて、私は拒絶をした。シオリさんは無言のまま視線を落とし、膝を抱きかかえるように蹲った。
「どうして、そういうことを言うのかな」
「駄目なんです。シオリさんがやろうとしていることは、間違っています」
「アキちゃん。自分が何を言っているのか、分かってる?」
「はい。シオリさんこそ、何か忘れていませんか?」
「答えてよ。アキちゃんは死ねって言ってるの?死んじゃえって、そう私に言っているの?」
「まあ、端的に言えばそうなりますね」
世界が、変わった。つい今し方まで純白色だった世界が、真っ黒なそれへと変貌した。現実世界の事象や概念が存在しない筈の世界に、冷酷な何かが総出となって押し寄せる。やがて白と黒が入れ代わった私達の頭上には、ずっと待ち続けてきた仲間の姿があった。
「ほら、みんなも来てくれました。シオリさん、貴女の為にです」
円状にゆらゆらと揺れる一面へ、映画館で使われる銀幕のように映し出された、もう一つの世界。異なっているのは、偽りの世界がこちら側で、向こうが現実。真逆だった。
みんなが立っていた。時坂君、アスカさん、ソラちゃん、ユウ君、高幡先輩、ミツキ先輩、リオンさんと佐伯先生まで。そして、小日向君も。保健室で交わした約束を反故にせず、この因果紡がれし座の淵に、しっかりと辿り着いてくれていた。
「分からないなぁ。本当に、分かんないよ。どうして私は、生きちゃいけないの」
「シオリさん・・・・・・」
「ねえ答えてよ、アキちゃん。倉敷シオリは、どうして死んじゃったのかな」
「私は・・・・・・人の死に、答えなんてありません。私はそう思います」
水面下で発生していた異界化によって、お父さんとお兄ちゃんは帰らぬ人となった。災厄と惨劇のせいで、私は益々塞ぎ込み我を忘れ、お母さんは絶望に絶望を重ねた末に、心を病んだ。お母さんは今も過去に縛られ、私の顔を見てもくれない。
理由や答えなんてある筈がない。現実世界は沢山の理不尽や不条理で溢れ返っている。幸せや不幸は公平ではなく、私達は常に矛盾を抱えながら生きている。未熟で物を知らない私にだって、それぐらいは理解できる。どうしようもない現実なら、私なりに身を以って垣間見てきたつもりだ。
「でも私達は、意味を見い出すことはできます。お兄ちゃんから継いだソウルデヴァイスのおかげで、私は沢山の大切な人達を守ることができました」
「それは残された側の話だよ。そんなありきたりな言葉は、何度も見聞きしてきた。本も読んだよ。哲学や倫理に宗教とか、いっぱい本を読んだけど、全部出鱈目だった」
「でも、それでもっ・・・・・・一度変えてしまったら、それこそ人ではなくなってしまうじゃないですか。シオリさんは、それでもいいんですか?」
杜宮でのみ通用した嘘を、この国の因果その物を歪めてしまえば、シオリさんは在り続ける。彼女を束縛する禁忌は消えて、これまでと同じ日常が再び訪れる。しかし一度手を染めてしまったら、もう人ではいられない。人の形を模した何かだ。今抱えている嘘とは比較にならない程の矛盾を、シオリさんは背負いながら生きていくことになる。
「人の死は絶対なんです。変えちゃ駄目なんです。両親を亡くしたアスカさんもミツキさんも、高幡先輩だって受け止めて、そうやって生きているじゃないですか」
「だーかーら。それは、残された側の話だよね。何度も言わせないで欲しいな」
「シオリさん!」
「もういいよ、アキちゃん」
世界が、また変わった。黒は真っ赤に上塗りをされて、私の首には横穴が空いた。
「かはっ、あ、あぁああ!?」
周囲の色が赤のせいで、鮮血は目に映らない。アクロスタワーの最上層でそうしたように、シオリさんが嘘を消してしまったせいで、首元から私の全てが流れ出ていく。
幻覚に過ぎないのは理解していた。既に肉体を失った私は、血を流すことができない。しかし首を直に焼かれたかのような苦痛が、思考を奪い去ってしまう。
「アキちゃんはさっき、『何か忘れてないか』って言ったよね。こっちの台詞だよ。私がいなくなったら、アキちゃんも消えるんだよ。分かってるの?」
「ジオ、リ・・・・・・さっ」
「アキちゃん、イヤだって言って。そう願ってもいいんだよ。ほら、もう一度重なろう?」
倒れ込み首を押さえる私を、シオリさんは寝転がって抱いた。両手を私の後ろ頭に回し、首元に口づけをして啜った。シオリさんの舌と唇が首に触れると、苦しみが和らいで快楽を覚えた。柔らかな手が私の身体を撫でる度に、微睡んでしまいそうになる。重なれば、楽になれる。
「さあ、アキちゃん」
「私、は・・・・・・一緒に、いきます。いきます、から」
「フフ、そっか。それでいいんだよ。ありがとうアキちゃん、ずっと一緒だよ」
「違います。一緒に、いくんですよ、シオリさん」
「・・・・・・アキちゃん?」
「シオリさんは、その為に、『私を杜宮に呼んだ』んです。やっぱり、忘れてる」
お互いの顔が離れると、私の視界に疑問符を浮かべたシオリさんの顔が映る。
「ねえアキちゃん。何を言っているの?」
「思い出して下さい、シオリさん。私は貴女の為に、杜宮へ来たんですよ」
シオリさんの様子から、薄々分かってはいたことだった。私が杜宮を新天地として選んだ理由。シオリさんの矛盾に齟齬が生じた、本当の理由。本来いる筈のない私が、何故みんなと共にあったのか。どうしてシオリさんと運命を共有してしまったのか。全ての真相は、シオリさんの中にあった。
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倉敷シオリに纏わるこの十年間を、一つの物語として捉えた場合。そこに私は、遠藤アキという少女は登場しない。因果を改変しなかった物語に、本来私は存在していなかった。そればかりか、杜宮学園にはテニス部が無い。エリカ先輩はクラブ活動をしておらず、アリサ先輩とエリカ先輩も遠い何処かの高校にいた。当然アルバイト先であるモリミィも無くて、私とお母さんは伏島に留まっていた。その全てを変えたのは、シオリさんに他ならなかった。
「待って。そんなの知らない。私はそんなことしてない」
「忘れているだけです。どうして私だったのかは、分かりませんけど・・・・・・全部、事実です」
シオリさんと交わった私には、全てが視える。倉敷シオリが生きているという矛盾は、杜宮の外にいた私を求めたことで、一気に膨大した。時間の問題だったとはいえ、引き金を絞ったのは、シオリさん自身だった。
「だ、だから待ってよ。私は」
「もう一つ、思い出して下さい。シオリさんは十年前に、何故嘘を付いたんですか」
「それは、生きたいって願ったから」
「生きたいと願った理由を聞いてるんです。私が『残された側』の話をしたのにも、ちゃんと理由があるんです。思い出して下さい、シオリさん」
「私は・・・・・・」
生きていたいというシオリさんの想いは、あの東京冥災を引き起こした力ある怪異と同化をして、シオリさんは今日まで生き永らえてきた。でもそれは私欲ではなく、己の為じゃない。外の世界へ飛び出したいという願望は、全部が後付けだ。
『ウソだウソだウソだウソだウソダウソダウソダウソダウソダウソダ―――』
シオリさんは、悟ってしまった。残された時坂君が、壊れてしまう未来が視えてしまった。『あの時、手を離さなければ』という鎖に縛られ、時坂君は幼馴染との死別を永遠に背負い続ける。だからこそシオリさんは、生きていたいと願った。残された者の、時坂君の為だけに付いた、優しさで溢れる嘘。そこには何の歪みや業も無く、純粋な想いしかなかった。
「私は・・・・・・そっか。私、そうだったんだ」
「でもほら、見て下さい。時坂君は、一人じゃありません」
再び二人で寝そべりながら、頭上に映るみんなの姿を追う。全員が全員傷だらけで、鮮血に塗れていた。ユウ君は眼鏡が壊れてしまっているし、ソラちゃんもボロボロで素足。高幡先輩の結っていた長髪は解けて、ミツキ先輩は上半身が下着姿。リオンさんも佐伯先生も、小日向君も満身創痍だけど、誰一人として諦めていない。互いにクロスドライブで繋がり、時坂君が紡いできた絆同士で繋がり合って、約束を果たそうとしてくれている。
「時坂君とアスカさんも・・・・・・握り合ったあの手は、絶対に離れません。あの二人のクロスドライブは、きっと何よりも強固で強い。私には、そう見えますよ」
「・・・・・・本当だね。少し、妬けちゃうな」
シオリさんは小声で呟いてから、私の左手を握った。私も指を絡めて、しっかりと握り返した。
「でも私は、どうしてアキちゃんを呼んだの?それが分からないよ」
「シオリさんが求めた、唯一の我がまま。それが私ですよ」
「我がまま?」
「はい。一人じゃイヤだって、シオリさんはそう願ったんです」
願望の矛先が私だった理由は、全てを悟った今でも分からない。でもシオリさんは確かに、杜宮との縁を持つ私という存在に手を伸ばした。往く末を共有し、この世界で手を握り合って歩む運命共同体。それが私、遠藤アキ。生活地を移してみてはどうかというタマキさんの誘いにも、シオリさんの意思が介在していた。
「そ、そんな。じゃあ、アキちゃんは・・・・・・わ、私は」
指でシオリさんの口元を押さえ、私はそれ以上を遮った。言葉にして欲しくはないし、絶対に彼女が口にしては駄目だ。
「いいんです。何も言わないで下さい。それに・・・・・・この二ヶ月半は、満ち足りた日々でした」
そっと瞼を閉じれば、鮮明に思い出される。4月24日から始まった日常は、光に溢れていた。過去と向き合い殻を破って、幾多の困難をみんなと一緒に乗り越えて。私はずっと、笑っていた。こんな私でも笑っていいのかと戸惑い、それでも私は笑顔だった。
私がいなくなれば、悲しみで涙を流す人間がいるかもしれない。心残りが無いと言えば嘘になるけど、この杜宮に来たことが誤りだとは思わない。シオリさんが私を見定めてくれて、本当に良かった。胸を張って、私はそう言える。
「齟齬が生まれて当然です。杜宮生まれとはいえ、伏島から私を呼び寄せたんですから」
「私が・・・・・・アキちゃんを」
「そんな顔をしないで下さいよ。それに私が言うのも変ですけど、私という存在は副次的に、様々な改変を生んだんです。知ってましたか?」
遠藤アキの影響で、物語も変わった。お兄ちゃんを亡くした私に、ユウ君は己を重ねることで、肉親に対する愛情をより確かな物にしてくれた。ミツキ先輩は黒の夢を乗り越え、リオンさんとは私と互いに夢を分かち合い、例えばを言い出したら止め処が無い。私が考える一番は、時坂家でのお泊り会。夜通し遊び尽くして語り合ったあの一夜で、絆は益々深まってくれた。時坂君も決して一人じゃない。絆が彼を、支えてくれる。
「シオリさん。時坂君には、みんながいます。これ以上の嘘は、却って彼を縛っちゃいますよ」
「コウちゃん、みんな・・・・・・」
「シオリさんにも私がいます。私が一緒にいてあげます。怖がらなくても、いいから」
立ち上がり、右手を差し出す。シオリさんはゆっくりと私の手を取り、私の隣に立ってくれた。
これでいいんだって思える。シオリさんや時坂君を拘束してきた枷を消し去り、二人を解放するには、これしかないのだから。怖がる必要なんて、何処にも無い。
「そろそろ、来るみたいですよ」
やがて世界が白色に戻ると、頭上から新しい二つの魂が現れ、私達を照らした。燃え上がるような赤と、純粋で凛とした青。男女二人の魂は、私達と同じように主の姿を顕現させて、思念体として両足で降り立った。
「来たぜ、シオリ。ったく、手間取らせやがって」
「アキさん・・・・・・やはり貴女も、ここに」
時坂君と、アスカさん。二人がこの世界へ飛ばした思念体は、それぞれのソウルデヴァイスを握っていた。その反対側の手は、今も強くお互いを結んでいた。正真正銘、これが最期。この二人が全てを終わらせてくれるのなら、本望だ。
「来て、くれたんだね。コウちゃん」
時坂君は答えない。思念体は涙を流せない。私だって、この期に及んで掛けるべき言葉は見当たらない。ひとたび口を開いてしまえば、すぐに未練へ繋がる気がして、何も言えなかった。やるべきことは、一つしかない。最後の心残りを追い出そうとしていると、シオリさんが静かに言った。
「柊さんも、ありがとう。温泉での約束、これからもお願いしていいかな」
「シオリさん・・・・・・ええ、勿論よ」
「アキちゃんも。ごめんね、アキちゃん」
「だから謝らないで下さい。私はそんなことっ・・・・・・?」
私の声が、シオリさんの笑顔に阻まれる。私達が行き着く先は同じで、既に感情や意志を共有していた。その筈なのに、表情の意図が読めない。今この場で向けられた笑みの意味が、私には分からなかった。
「ううん、違うの。漸く思い出したよ。どうしてアキちゃんを選んだのか、やっと思い出せた」
「シオリ、さん?」
突如として、辺りが光に照らされた。見れば、私の胸元が僅かに光を放っていた。唐突に現れた光はとても温かくて、そっと右手を当てると光は移動し、今度は右手が輝き始める。もう何度も何度も繰り返してきた、独特の感覚。念じてもいないのに、私の手にはライジングクロスが握られていた。
「ら、ライジングクロス?ど、どうして今これが」
「それがアキちゃんを選んだ、理由だよ。ごめんねアキちゃん。私達、一緒には行けないよ」
ライジングクロスが再度光へと変わり、私を包み込んでいく。その光が、私に教えてくれた。
―――おぬしのように、稀におるのじゃよ。『二つ』を併せ持つ者がな。
光が全てを教えてくれた。一年前に何が起こっていたのか。ライジングクロスが私の中に眠っていた理由。今まで見聞きしてきた、この二ヶ月間の根底にあった全てを、教えてくれた。ソウスケさんが私に伝えたかったことは、これだ。私は、違ったんだ。
「そういうことだったのね・・・・・・まさかこんなことが、起こり得るだなんて」
「な、何だよアスカ。一体何を言って」
「違ったのよ。彼女がソウルデヴァイスの扱いに苦労をした理由も、何もかもが・・・・・・アキさんは本来、適格者じゃない。彼女が継いだのは、ソウルデヴァイスではなかったのよ」
光はここではない、別の魂の世界へと私をいざない、薄れ往く意識の中で―――穏やかに微笑むシオリさんが、何かを言ったような気がした。
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不思議な世界だった。足元に生茂る草原は夏らしく青々しいのに、そこやかしこに聳える木々には紅葉。頭上から降り注ぐ夏の日差しが眩しいけど、心地良い肌寒さは初秋を思わせる。夏と秋の、二つの季節が入り混じった、ある筈のない光景が広がる世界。これを魂の色が描いた世界観と捉えるのなら、一つだけでは描けない。
「よお、アキ」
「ナツお兄ちゃん・・・・・・」
草原を掻き分ける音と声に振り返ると、懐かしい顔があった。高幡先輩のように屈強で、胸板が厚く日焼けし切った肌色。遠藤ナツは生まれたままの姿で、無邪気な笑みを浮かべながら、当たり前のように立っていた。
「あはは。久し振りだね、お兄ちゃん」
「俺はそうでもないんだけどな。ずっと見てきた訳だし、全然そんな感覚が無いんだ。最近、髪伸ばしてるのか?」
「ううん、面倒だから切ってないだけだよ」
「バカ。少しは女子高生らしく気を遣え」
私は別として、お兄ちゃんは何も変わってはいなかった。テニスウェアを着る部分は白肌のままで、陽に照らされ続けた手足や顔は褐色。2014年度のインターハイに出場した、あの時のお兄ちゃん。遠藤ナツその物だった。
「それで、だ。お前も分かってはいるんだよな」
「うん。アスカさん・・・・・・友達が教えてくれたから。ライジングクロスも、さっきね」
7月31日の、あの日。グリムグリードが引き起こした竜巻災害に見舞われた私達は、混乱の果てに散り散りとなってしまった。そして災害の裏で、お兄ちゃんは部員の皆と共に、異界の内部へと飲み込まれていた。異界の中で適格者として覚醒したお兄ちゃんは、死闘の末に皆を守り抜いたと同時に、重傷を負って病院へと運び込まれた。私とお母さんが駆け付けたのは、お兄ちゃんが事切れる寸前のことだった。
「傷だらけになった俺の魂は、逃げ場を求めた。消えちまう前に、器を探していたんだよ」
「それが、私だったんだね」
「ああ。アキが継いだのは、ソウルデヴァイスじゃない。俺の魂、それ自体だったんだ」
本来ならば、器である肉体と魂は唯一無二の一対一。お兄ちゃんの魂に、逃げ場なんてある筈がなかった。しかし幼少期から常に二人で過ごしてきた、同じ季節の名を与えられた肉親の身体は、お兄ちゃんの魂を受け入れた。夏色の魂は秋色のそれに寄り添いながら、時が経つに連れて同化していき、やがてライジングクロスとなって、ずっと私の中で眠り続けていた。それがこの一年間の、真実だった。
「お前がぶっ倒れた時は焦ったよ。適格者でもない身でソウルデヴァイスを使えば、倒れて当前だ。しかもライジングクロスは本来、俺の魂の形なんだぜ。本当に、無茶するよ」
「でも最近は普通に使えていたよ?」
「何だかんだ言っても、兄妹だからな。それにあのアカネって人が、色々と調整してくれてただろ。あの人の技術と腕前が異常なんだよ。もしかしたら、気付いていたのかもな」
言われてみれば、アカネさんは意味深な言葉を私に残していた。お兄ちゃんの推測は、当たらずとも遠からずなのかもしれない。相当な苦労をしていたみたいだし、今度改めてお礼を言っておこう。
「そっか。お兄ちゃんは、ずっと見ていたんだね」
「そういうことだ。あの日からずっと、お前の中からな」
「・・・・・・そっか」
常々感じていたことだ。この二ヶ月間で、私は確かに変わったという自覚がある。私を知る人間は、誰もが口を揃えてそう言ってくれた。
―――お前さ。最近少し、雰囲気変わったか?
初めは時坂君。変わったけど、それは私一人の力じゃなかった。見守ってくれていたからだ。
―――お兄ちゃんが身を挺して護り抜いたからだ。だったら、私も護って見せる。
見守りながら、ずっと一緒に戦っていた。私達は何時だって、二人で戦っていた。
―――昨日とは全然違えじゃねえか。お前は二重人格者か何かかっての。
辛い時や悲しい時。何かに苛まれて、涙を流していた時。記憶を失い絶望に暮れていた時も、ずっとずっとお兄ちゃんが、影で私を見守っていた。だから私は前を向いて、私達は二人三脚で歩いて来た。遠藤ナツの魂が「頑張れ」「諦めるな」と言って支えてくれていたから、今の私が在るんだ。
「おいおい、勘違いするなよ。俺は見ていただけだ。アキ、お前の頑張りは全部知ってる」
「うん・・・・・・う、ん」
「やれやれ。涙脆いところも、変わらないな」
目元を拭い、秋と夏の二つが織り成す青空を仰ぐ。涙脆い性分は、寧ろこの二ヶ月間でより深まっていた。涙を流すことが弱さだとは思わない。悲哀や苦痛で涙したことはあったけど、嬉しさや喜びの余りに泣いた数はそれ以上。右腕に薄らと残った涙も、今ここにいる遠藤アキの証だ。
「ねえお兄ちゃん。私ね、またテニスを始めたよ。今はテニス部の部長なんだから」
「ああ、知ってるよ」
「ベーカリーでアルバイトもしてるんだ。新商品のサンドだって、私が考案したんだよ」
「ああ、知ってる」
「友達も沢山できたし、将来の夢も見付けた。お母さんと一緒になって、お店を開くの」
「ああ。それも知ってる」
「毎日が本当に楽しい。伏島もいいけど、私はこの杜宮が好きだよ。みんなが大好きなんだ」
「知ってるよ。なあ、アキ」
「何かな、お兄ちゃん」
「逝くのは俺だけでいい。シオリって子も、それを望んでる」
「っ・・・・・・!」
分かっていた。全部分かっていた。シオリさんが残した最後の笑みを、私は忘れない。
死別に意味があるとすれば、やはりそれは残された者が見い出すしかない。いなくなった人間は、思い出の中に溶け込んでいく。出会いは別れを生んで、別れは残された私達の生き方を変える。育んできた絆を介して想いは伝わり、人はそうやって大切な何かを伝えながら、生き死にを繰り返す。だから私達は、人間なんだ。
「うん・・・・・・分かってる。ライジングクロスとも、お別れだね」
「すっかりアキの色に染まったな。あいつもアキに、『ありがとう』って言ってるよ」
私は絶対に忘れない。お兄ちゃんを、シオリさんを忘れずに、二人の分まで明日を生きていく。二人がそれを望むと言うのなら、私には帰るべき場所がある。これで、最期だ。
「一足先に、あっちで父さんと宜しくやってるさ。母さんのこと、頼んだぜ。母さんと二人で店を開くっていう夢、頑張って叶えてくれよな」
「あはは、もう頑張ってるよ」
「じゃあもっと頑張れ」
「分かった。絶対に叶えて見せるから」
「ああ。さよならだ、アキ」
「うん。さよならだね、お兄ちゃん」
次第に周囲の風景が変わり、夏の色が消え始める。一つだった魂は元々の二つとなって、夏色の魂が器である身体から旅立つ。遠藤アキ本来の魂が、勢いを増して世界を変え、私という存在を示す風景が広がっていく。
「じゃあな、アキ」
「バイバイ、お兄ちゃん!」
「バイバイ、アキ!」
「バイバイ!!バイバーイ!!」
遠藤ナツの魂は、紅葉と共に頭上高くへ舞い上がった。すっかりと秋めいた世界の果てで、掛け替えの無い家族が思い出となって―――『秋晴れの空へ向かって』、飛んで行った。
こうしてライジングクロスは、私の中から消えた。私は普通の女子高生に戻り、しかし記憶と思い出をしっかりと噛み締めながら、普段通りの日常生活へと戻っていった。
そして夏が終われば、私の季節がやって来る。平穏を取り戻した杜宮が迎えた秋は、気象庁が予測していた暖冬を裏切る形で、寒波を伴って到来した。暦は11月の下旬に、差し掛かろうとしていた。