ブー、ブー、ブー。
「っ!?」
呼吸を止めていた直後のような息苦しさ。全身に浮かぶ冷や汗。見慣れた天井に、カーテンの隙間から漏れる陽の光。枕元で震動していたサイフォンを右手で起こすと、画面上には着信中の三文字と、アスカさんの名前があった。
(電話……アスカさん?)
迷いつつ、私はそっとサイフォンを置いて、半身を起こした。掛け布団を半分に折り、再び仰向けに寝そべる。十二月中旬の冷え込みが、汗を介して火照った体を冷ましていく。現実感が、心地良かった。
「……また、か」
悪夢は唐突にやって来る。乗り越えたはずの過去は、変わらずに記憶として残っているからだ。たとえ昨日が充実感で溢れていたとしても、時として夜な夜な囁いては、同じことを繰り返す。
夢の中で、私は杜宮総合病院の病室にいた。記憶を失った私。大切な何かを失くした私。見知らぬ顔ぶれに怯える私。心の拠り所は家族と、時坂君だけ。あの時の私は、遠藤アキではない誰かだった。
―――シオリさん。その、変なことを聞いてもいいですか?
以前に一度だけ、シオリさんに話したことがある。シオリさんも同じだった。忘れた頃に、嫌な夢を見る。夢の内容と心身の状態は密接に繋がってはいるけれど、本当に些細な要因一つだけで、人は悪夢にうなされることがあるらしい。要するに理由なんて、あってないようなものだ。
「よしっ」
先程の夢にも、大した意味はない。そう自分に言い聞かせながら、サイフォンを手に起き上がる。時刻は朝の八時過ぎ。アルバイトや大した予定も入っていない日曜日な分、起床の時間が少々遅くなってしまった。
ともあれ、まずは折り返しの電話だ。着信履歴を確認すると、およそ二十分前にも、アスカさんから着信が入っていた。
何か急ぎの用件でもあるのだろうか。首を傾げながら発信を押す。待ち構えていたかのように、通話はすぐに繋がった。
『はい、柊です』
「あ、遠藤です。おはようございます」
『おはよう、アキさん。今話せるかしら』
「はい、大丈夫ですよ。すみません、電話に出れなくて。どうかし…………え?」
思わず耳を疑った。奇しくもアスカさんは、夢と同じ舞台にいた。
___________________
寝ぼけ眼のタマキさんに無理を言って車を出して貰い、杜宮総合病院に到着したのは午前九時前。急ぎ足で東館にある正面玄関を目指していると、見知った顔が二つ。ユウ君はやれやれといった様子で、ソラちゃんは右手を大きく振りながら出迎えてくれた。
「おはようございます、アキ先輩」
「おはよう二人共。ごめんね、遅くなって」
「寧ろ早いぐらいだと思うけど。バスで来たの?」
「ううん、タマキさんが送ってくれたんだ。それで……みんなは、何処に?」
「南館です。早速向かいましょう」
二人が案内してくれたのは、敷地内南側にある南館。一階のエントランスホールを通り、エレベーターに入ると、ソラちゃんは四階のボタンを押した。閉ざされた狭い空間に、奇妙な息苦しさを覚えた。
(……落ち着かない)
今朝方に見た夢のせいかもしれない。多くの人間にとってそうであるように、この病院にはあまりいい思い出がない。全てを割り切った今でも、あの悪夢のような数日間を思い起こしてしまう。四階に上がるまでの僅かな時間が、ひどく長々と感じられた。
「コホン。時坂君とアスカさん以外には、誰か来てる?」
「北都先輩の秘書さん。それと九重先生も一時間ぐらい前に来てるよ」
「九重先生が?」
言うと同時に扉が開き、広々とした通路に出る。外来や入院患者の姿は見られず、リノリウムの床特有の足音が響き渡る。二人の背中を追って通路左側にあった扉を通ると、関係者用と思しき講堂のような一室があった。
「すみません、遅くなりました」
「寧ろ早いぐらいだって。車で来たのか?」
先程と同じやり取りを交わす。右手を上げて応じる時坂君と、その隣に立つアスカさん。そして九重先生。少々離れた位置に、ミツキ先輩の秘書である雪村キョウカさん。私を含めて、計七人。分かってはいたけれど、やはり二人の先輩は何処にも見当たらない。
この期に及んで、現実から目を逸らす訳にはいかない。私は真っ先に、先輩らの安否を問うた。
「あ、あの。ミツキ先輩と、高幡先輩は……一体、何があったんですか?」
私が現時点で聞かされている事実は二つ。一つ目は、『ミツキ先輩と高幡先輩が負傷し、意識を失い倒れているところを、キョウカさんが発見した』こと。そして二つ目が、今回の件に『異界化が関わっている可能性がある』こと。アスカさんとのやり取りからは、それしか把握できていなかった。
「安心して。電話でも話したけど、二人共無事よ。別室で眠っているわ」
「け、怪我はひどくないんですか?」
「それは……ええ。一応は、ね」
答えながらも、アスカさんの表情は硬い。時坂君に、九重先生も。後輩二人組も同じ色を浮かべていた。
私以外の全員は、既に一通りの事情を知っているのだろう。しかしどうにも要領を得ない。歯切れの悪い返答は最悪の可能性を思わせたけれど、そうでないことは察せられた。
皆の顔から窺えるのは、躊躇いではなく迷い。『何が起きたのか』という私の問いに対する答えも、重苦しい雰囲気の中には見付からなかった。
「私からご説明します」
「え?」
ややあってから、雪村キョウカさんと視線が重なる。自然と声が強張った。
「状況を整理する必要もございますので。宜しいですか?」
「っ……は、はい。お願いします」
丁寧で柔らかな物腰とは裏腹に、眼鏡越しに伝わってくる複数の感情。冷ややかで、熱い。私が恐る恐る頷いて応えると、一連の経緯を聞かせてくれた。
第一発見者はキョウカさん自身。既に帰宅しているであろうミツキ先輩と一向に連絡が取れず、それを不審に思ったキョウカさんが、アスカさんに一報を入れた。その後間もなく、高幡先輩も同じ状況にあることが判明。念の為にと非常時用の追跡アプリを使用した結果、ミツキ先輩のサイフォンは自宅のタワーマンション付近から微動だにしていなかった。慌てて駆け付けると―――ミツキ先輩と高幡先輩は寄り添うように、路上で意識を失っていた。ちょうど日付が変わった頃のことだった。
「外傷と軽度の低体温症、加えて『霊力の著しい消耗』が見られたことから、すぐにこの総合病院に搬送致しました。医師陣も我々の方で手配を。玖我山さんの霊子検査にも当たった、優秀なスタッフ達です」
「霊力の、消耗?」
「遠藤さんも、同じような経験があるとお聞きしておりますが」
すぐに思い当たるものがあった。私がソウルデヴァイス―――ライジングクロスの扱いにまだ不慣れだった頃の話だ。常時発動型のスキルの影響で、私はグリードとの戦闘の真っ只中に、意識を失ってしまったことがあった。極度の消耗は、それだけで生死に関わる。
「外傷の度合いで言えば、お嬢様の方が軽度ではありましたが……あれは異常と言わざるを得ません。霊薬と術式による処置で、大事は免れました。しかしお二人共々、未だ意識を取り戻せていない状況にあります」
「……容体は、何となく分かりました」
本来なら、先輩らの顔だけでも見ておきたいところだけれど、許可は下りないのだろう。二人の容体はそれ程に重いということだ。
一旦間を置いてから、私は改めて皆と向き合った。
「アスカさんからも聞いています。やっぱり、異界化が関係しているんですか?」
「ああ、恐らくな。昨晩のうちに、先輩達が倒れていた現場を調べてみたんだが……まずは謝らせてくれ。話すのが遅くなっちまった」
「気にしないで下さい。私の立場は、理解しています」
皆から一歩遅れて、昨晩の経緯を聞かされたということ。それ自体が『異界化』の可能性を示していた。私には本来、適格者としての資質がない。八月のあの日、ソウルデヴァイスは遠藤ナツの魂と共に、この世を去った。異界化に通じる一般人という意味では、寧ろ九重先生やシオリさんと似たような立ち位置にいる。
もし仮に、この杜宮で再び異界化が発生していたとして、私には脅威に抗う術がないのだ。巻き込みたくないという皆の思いは、多少複雑ではあれど理解できる。逆の立場だったら、私でもそうする。
「ちょっと先輩、早合点し過ぎ。言っておくけど、事はそう単純じゃないんだよね」
「え……えっと。それ、どういう意味?」
「そのまんまさ。一晩かけて色々調べたけど、正直に言って訳分かんないよ」
思わず面食らうようなユウ君の指摘。今の話だけでも充分に複雑だろうに。
訝しんでいると、アスカさんが長机の上に二つのサイフォンを置いた。見覚えのある機種とアクセサリー。ミツキ先輩と高幡先輩のサイフォンだった。
「まず第一に、どちらのサインフォンにもソウルデヴァイスを顕現させた履歴がある。異界に触れた何よりの証拠だわ。でも一方で、サーチアプリにはデータが残っていないのよ」
アスカさんが実際にミツキ先輩のサイフォンを操作し、私に手渡してくる。私が使っていたアプリと若干の違いはあれど、記憶を頼りに調べることは容易かった。
「確かに、ないですね……あれ?でも、起動した履歴はありますよ?」
「履歴の時間は午後の二十時半。二人が発見される約三時間前ね」
直近で起動した履歴はあるけれど、異界化を探知した形跡は見られない。サーチアプリには過去の数値が必ず記録されるはずだ。
おかしな点はまだある。異界探索時に使用するアプリに至っては、起動した履歴すら無い。手ぶらで未開の極限環境を歩くようなものだ。二人が昨晩に発生したとされる異界に飲まれていたとするなら、あまりにも不自然過ぎる。高幡先輩のサイフォンも同様だった。
「そういうこと。想像だけど、二人は何らかの異常を感じて、サーチアプリを立ち上げた。でもアプリは異界化を感知しなかった。異界にも踏み入っていないから、探索用のアプリも使わなかった」
「で、でも。ソウルデヴァイスを顕現させたってことは、異界化は絶対に起きていたはずですよね」
すぐに疑う余地がないことに気付く。適格者は異界化の影響下においてのみ、ソウルデヴァイスを揮うことが許される。ミツキ先輩のミスティックノードと、高幡先輩のヴォーパルウェポン。二人がその力を行使した以上、異界化は事実として受け止める他ない。
なのに、誰も首を縦に振ろうとしない。代わりにソラちゃんが、重々しく口を開いた。
「私達もそう思って、現場を調べてみたんです。確かに現場には、戦闘の跡が残っていました」
「じゃあやっぱり……ま、待って。戦闘?」
異界化ではなく、戦闘。薙ぎ倒された木々。抉れた路上。焼け焦げた雑草。閉ざされたゲートや異界化の痕跡はなく、あったのは荒れ果てた現実世界の惨状だけだったそうだ。
まるで理解が追い付かない。今の話が事実だとして、私はどう捉えればいい。
「どうしてそんな……え?ま、まま、まさか、グリムグリード!?」
「落ち着けよ。それはそれで説明が付かねえことが多いだろ」
特異点を介さない、現実世界への直接的な干渉と侵蝕、支配。その可能性は限りなく低いようだ。前兆らしい前兆はなかったし、異界関係者が多く在住するこの杜宮で、グリムグリードのような強大な脅威の前触れに誰も気付かないのはおかしい。それにサーチアプリにデータが残っていない点も、やはり引っ掛かる。
アスカさんやキョウカさんを含め、皆の見解は一致していたけれど、そこから先の判断材料が、現時点では見当たらないらしい。漸く皆に追い付いたところで、サイフォンを操作していたキョウカさんが咳払いをしてから言った。
「会長は海外出張中ですので、私から一報を入れてあります。何れにせよ、事の真相はお二人の意識が戻れば明らかになりますが……我々は我々で先行して、調査に当たる段取りを組んでいます。柊さん、宜しいですか?」
キョウカさんの問い掛けに、アスカさんは瞼を閉じて長い間を取った。
言い回しから察するに、このやり取りは個人間ではなく、組織対組織。時に協力し、暗闘する間柄の集団を代表して、二人は会話を交わしていた。
やがてアスカさんは、小さく頷きながら応える。
「了解です。私も本部には報告済みですが、具体的な指示は下りていません。私達も独自に動くつもりです」
「畏まりました。九重先生にも、お手数お掛けします」
「いえいえ。学園方面は、私にお任せ下さい」
「ありがとうございます。では、私はこれで。失礼させて頂きます」
一足先に、キョウカさんが講堂を後にする。
無駄のない動作と淡々とした口調。感情を隠し切れていない様は、まるで別人のように映った。ミツキ先輩にとってキョウカさんがどういった存在なのかは、私達の知るところでもある。その逆も然りなのだろう。
閉ざされた扉を見詰めていると、キョウカさんの後を追うように、九重先生が立ち上がる。
「さてと。私も一度、学園に行ってくるね。高幡君の下宿先にも、改めて顔を出しておきたいから」
「大丈夫なのかよ。担任でもねえってのに」
「あはは。そこはほら、上手いことやってみせるよ」
九重先生にも、色々と考えがあるようだ。
異界化を抜きにしても、事態が生徒らの間で広まっては、要らぬ混乱を生んでしまう。とりわけ三年生は、受験を控えた大切な時期にいるのだから当然だ。かと言って、全てをひた隠しにはできない。高幡先輩の下宿先、カンジさんとマナミさんには『オートバイで転倒した挙句、勉強疲れもあり風邪を抉らせた』と伝わっているらしい。
「何か聞かれたら、口裏を合わせておいてね。それと……」
「それと?」
「状況がすごく複雑なのは分かるけど。お願いだから、無茶だけはしないように。約束だからね、みんな」
去り際に浮かんだ、ひどく不安気な表情。九重先生の『無茶をしないで』は、これまでにも耳にしたことがある。でも今回に限って言えば、そのどれとも異なるように思えた。
自然と私は、小声で呟きを漏らしていた。
「どうして……昨日まで、何もなかったのに」
あれから。あの暑い夏の日から、私達はありふれた日常の中にいた。失ったと思っていた大切な友人は、取り戻した笑顔を私達に見せてくれる。変わるものと、変わらないものがある。穏やかで、満ち足りた昨日があった。何の前触れも無かったのだ。
「四の五の言っても始まらねえ。アキ、顔を上げてくれ」
塞ぎ込んでいると、時坂君の声が耳に入る。不意に懐かしさを覚えた。
「昨日の今日で戸惑うのも無理はねえけど、俺達にできることは一つだけだ。やるべきこともな。俺達はずっとそうしてきたはずだぜ」
言いながら立ち上がった時坂君の顔を、ブラインドから差し込んでいた陽の光が照らした。
知らぬ間に微笑みながら、時坂君を見詰めていた。私達の中心に、時に先頭に立つ彼は、いつだってこんな表情を浮かべていた。勇気付けられ、奮い立たされる。
「……そう、ですね。そうですよね」
懐かしさ半分、情けなさがもう半分。思い出そう。臆することはない。時坂君の言葉を借りれば、私達はずっと繰り返してきた。あの日々の延長線上に今日がある。何も変わってはいない。
「アキさんには、改めて言っておくわ。今回の件に―――」
「大丈夫です。私も、私にも何かさせて下さい」
私にできることは限られている。だからこそ迷う必要はない。共に戦うことは叶わずとも、きっとある。九重先生のように、力を持たない者なりの立ち振る舞いがあるはずだ。
「あはは、アキ先輩らしいです。頼りにしてますよ」
「人手はあった方が調査も進むんじゃないの。それに一応、X.R.Cのマネージャーだしね」
「……いいわ。でも今回ばかりは、慎重さが求められる。アキさんに限らず、それを忘れないで」
言われるまでもない。昨晩に事実として『何か』が起き、ミツキ先輩と高幡先輩は『何者か』に襲われた。二人は言わば、X.R.Cの矛と盾。アスカさんが認める程の強者がソウルデヴァイスを揮いながらも、敵わなかった。
それに、異界関連で最も頼りになるのはアスカさんだけれど、二人は別の意味で私達の拠り所だった。先輩ならではの冷静さと余裕に、私達は支えられていた。お互いに支え合いながら苦難を乗り越えてきたのに、それが既に叶わない状況へと陥っているのだ。用心するに越したことはない。
「もう何度も言ったことだけど、異界化について分かっていることは少ない。前例が無いなんてケースは珍しくないの。グリムグリードの可能性も含め、最悪を想定しながら行動しましょう」
「ああ、だな。シオ先輩達を襲った得体の知れねえグリードが、どっかに潜んでいると考えた方がいい」
「再発する可能性はアリアリってことだね。ていうか、あの二人が襲われたこと自体に、何か意味があるのかもよ」
「霊力の異常な消耗という症状も無視できません。アキ先輩は、どう思われますか?」
ソラちゃんの声で、四人の視線が一点に注がれる。真っ先に浮かんだのは、皆が求める言葉ではなかった。
「とりあえず、バイト先で朝食を買ってきます。その間に皆さんは、仮眠でも取っていて下さい」
訪れる静寂。若干の気まずさは感じつつも、触れずにはいられなかった。
昨晩から調査を進めていたということは、要するにそういうことなのだろう。思い出されるのは、時坂家でのお泊り会。まるで状況は違えど、徹夜をした直後の疲労感溢れる顔ぶれは、あの時と同じだ。目が充血しているし、何というか、全体的に重々しい。髪の毛が少しハネているアスカさんは大変に貴重だ。可愛い。
ともあれ、束の間の休息が必要だ。
「あ、アキさん?」
「少しでもいいので睡眠を取らないと。無茶をしないでって言われたばかりじゃないですか。部員の健康管理もマネージャーの仕事です」
「……コウ。部長の意見を聞きたいわ」
「決まりが悪い時だけ部長扱いすんじゃねえ」
「私、お布団借りてきます!」
「おいソラ走るな、静かにしろ病院だぞ」
「僕は朝マックがいい」
「お前わざと言ってるだろ」
空元気と下らないやり取りから垣間見える、沸々とした感情。何もキョウカさんだけじゃない。大切な先輩に牙を向いた敵を―――私達は、絶対に許さない。
___________________
取り急ぎの方針として、二手に別れての調査が決まった。
アスカさんと時坂君は再度現場を調べ直すと共に、異界関係者を中心に聞き込みをして回るの二点。異界化は『あった』ものとして調査を進める前提がある以上、現場検証が最も危険とされたため、アスカさんが買って出た形となった。彼女の補佐役にも、時坂君以外に適役はいない。
一方のソラちゃんとユウ君は、インターネットを介した情報収集。異界が関わっていそうな怪奇現象や噂の類を洗い出す役目を任されていた。拠点はユウ君の自室。ハッキングもお手の物なユウ君の手により、今もグレーな調査が続いていた。
『もしもーし、アッキー?』
「はい、遠藤です。今どの辺りですか?」
『ちょうど杜宮駅に着いたところよ。アッキーは?』
「まだユウ君のマンションにいますよ。引き続き情報収集中です」
そして当の私は後輩組の手伝いと、各方面との連絡役だ。
リオンさんは金曜の夜に東亰を出て、関西で開かれていたSPiKAのイベントに出演していた。昨晩の件についてはアスカさんから一報を聞かされていたようで、私が改めて一連の経緯を説明すると、思いの外に理解が早かった。と言っても、分からないことだらけという状況に変わりがないだけで、外を回っているアスカさんと時坂君も、現時点では同様だ。
『進展はナシ、か……その、ミツキ先輩と高幡先輩は、まだ眠ったままなの?』
「はい。でも容体は落ち着いていて、目が覚めるのは時間の問題みたいです」
『そっか。あたしもすぐに合流するから、っとと。ちょうどバスが来てたみたい。また連絡するね』
「分かりました。みんなにも伝えておきます」
通話を終えて時刻を確認すると、午後の十四時。調査を始めてから約三時間が経過していた。
ふうと溜め息を付いて、背伸びをしながら室内を見回す。コの字に置かれたデスク上の液晶ディスプレイ達。デスク下部には重低音を漏らす巨大な機器の塊。その中央に置かれたデスク椅子に座るユウ君。
初めてこの部屋を訪れた日のことを思い出す。あの時と異なるのは、窓とカーテン越しに映る陽の光と、ユウ君の隣に座るソラちゃんの姿。生活感が薄い独特の様相は相変わらずだけれど、以前と比べればまるで別室だ。
「リオン先輩、もう戻られたんですか?」
「うん。さっきバスに乗ったって言ってたから、あと二十分ぐらいで着くんじゃないかな。そっちは?」
首が左右に振られ、ミディアムショートの髪が揺れる。デスク上を覗くと、ほぼ真っ白なA4サイズのノート用紙があった。
ユウ君がパソコンを使い目ぼしい情報を拾い上げ、ソラちゃんが記録をする。はずだったのだけれど、ペンを走らせる音は一向に聞こえてこない。収穫はなく、ユウ君がキーボードを叩く操作音、マウスをクリックする音だけが空しく鳴るだけだった。
「ユウキ君、どう?」
「どうって言われてもね……別に気になる情報はないし、気にし始めたら止め処がないって感じ」
「要するに、どういうこと?」
「先輩達が襲われた件を除けば、杜宮は平和だねってこと。何これ、間違いがない間違い探し?」
そんな終わりのない戯れは御免だ。しかし現にユウ君がこれだけの時間を費やしても進展が見られないのなら、的を射た表現でもある。並外れた処理能力を備える機器が、無用の箱として鳴りを潜めていた。
これはどうしたものだろう。困り果てていると、ユウ君が目頭を押さえながら漏らす。
「ああもう、少し休憩。先輩、何か食べるものない?」
「ユウ君はここで暮らしてるんじゃなかったの……」
「でも確かに、小腹が空きましたね」
言われてみれば、二人が昼食のような朝食を取ってから、結構な時間が経った。このまま夕食まで何もなしでは、私達のような食べ盛りの高校生にとって、少し辛いものがある。手短な話し合いの結果、表にある記念公園のオープンカフェで一服をすることになった。
「ふぁあ……」
エレベーターに向かう道すがら、ソラちゃんが大きな欠伸をこぼしていた。睡眠を取ったとはいえ小一時間程度の仮眠だ。何も知らずに熟睡していた私とは、疲労の度合いが違い過ぎるのだろう。
「郁島。無理しないで寝てれば?」
「平気だよ。ユウキ君だって……ねえ、ユウキ君。実際のところ、どう思ってるの?」
「何のこと言ってんのさ」
「ほら、病院でも『二人が襲われたこと自体に何か意味があるのかも』って、そう言ってたよね」
ユウ君の言葉を思い出しながら、下降のホールボタンを押す。
正直なところ、私も引っ掛かりを覚えていた。受け取り方も複数ある。二人が言わんとしていることは、真因。未だ謎に包まれた現象の根底にあるものだ。
「別に深い意味はないけど。でもさ、実際に異界化が起きていたとしてだよ。先輩達がたまたま巻き込まれたっていうよりかは、『狙われた』って考えた方が自然でしょ。過去の事例から類推するにね」
私達を乗せた金属の籠が下降を始めると、浮遊感が漠然とした不安を助長していく。
大まかに考えて二通り。ミツキ先輩と高幡先輩は、『偶発的に』発生した異界化に巻き込まれた。或いはユウ君が言ったように、二人が秘めていた何らかの要因が引き金となり、異界化が生じた。その何れかだ。
「でもそれだと、先輩方の一体何が―――」
「そこまでだよ、ソラちゃん」
ソラちゃんの肩にそっと手を置いて、制止をする。こんな状況下で結論を急いては駄目だ。
判断材料があまりに少ない。全てを偶然や悲運として片づけるにも、怪異に魅入られる程の何かが存在していたとするにも、憶測に憶測を重ねた可能性に過ぎない。私達にできることは、ひとつひとつを明確にすることだけだ。
「やっぱり、少し疲れてるんじゃないかな。今は冷静に状況を見極めないと」
「……すみません。焦りは禁物ですよね」
「ユウ君も不用意な言動は慎むこと。分かった?」
「はいはい申し訳ございませんでした……って。ちょっと先輩、何で地下なのさ」
「へ?」
エレベーターから出ると、正面にコンクリート製の壁面が映る。周囲には太い石柱に、整然と並ぶ自動車の数々。踵を返して見上げれば、地下一階を示す『B1』のパネルが点灯していた。一階のエントランスホールではなく、地下駐車場に降りてしまっていた。
「あ、あれ?私、一階を押したはずだけど」
「言い訳乙」
「フフ、何だか締まりませんね」
勘違いじゃない。私は確かに、一階のボタンを押した。
感覚で、何かがおかしいと思った。奇妙な肌寒さを覚え、鳥肌が立ち始める。
「待って。何か……変だよ」
直後、頭上にあった照明の一つが点滅した。連鎖的に数が増えていき、瞬く間に光源の半分が消え、闇が下りていく。灰色だった壁面が、漆黒に滲んでいた。
「っ……ユウ君、ソラちゃん」
私の呼びかけを待たず、三人が同時にサイフォンを取り出し、アプリを起動する。異界化の反応を広範囲で感知するサーチアプリが弾き出した値は―――ゼロ。小数点第三位切り上げのゼロが三つ、並んでいた。
見紛うことなき異変。知る者としての勘。昨晩との共通点。新たな可能性。血の気が引いた。私達はまるで見当違いだった。しかも近い。歩み寄る脅威は、もうすぐそこにまで迫っている。
「ブート、カルバリーメイス!」
「轟け、ヴァリアントアーム!!」
私の前方で、二つの魂が具現化した。暗く冷たい空間を照らす力の耀き。ソラちゃんが前方を見据えたまま、左腕を私に向けて、私に言った。
「アキ先輩、回れ右です。すぐにこの場を離れて下さい」
「そ、そう言われても」
「いいから早く行けっての!」
ユウ君が操る霊子殻が飛来し、上昇のホールボタンを押した。深呼吸を置いて、強引に思考を巡らせる。
私にできること。力を持たない私がすべきこと。覚悟を決めろ。選択肢は一つだ。私は歯噛みをしながら、一歩後ずさった。
「す、すぐに助けを呼んで来るから!」
声を捻り出すと同時に、背後からエレベーターの到着チャイムが鳴った。後方へ振り返るギリギリまで二人の背中を見詰めてから、意を決して駆け出す。しかし動き出した足は、すぐに止まってしまった。
(―――え?)
開かれた扉の先に、『誰か』が立っていた。床面に届く程の長髪が揺れていた。よくよく見れば、四肢があった。毛髪と共に垂れ下がる両腕は細く、立ち前屈のような姿勢を取っている。腐臭が吐き気を生み、両目が沁みて瞬きを強いられた。
「いぃ、らぎ」
「あっ……」
擦れた声。何者かの右足が一歩前に進む。同時に向けられた混じりけのない憎悪に縛られて、呻きさえ出ない。支えを失っているのに、倒れることもできない。やがて右肩を掴まれると、途方もない膂力に引っ張られ、エレベーターの中へと放り投げられてしまう。
「きゃあぁ!?」
後頭部と背中を強く打ち、耳鳴りがやって来る。ぐらぐらと揺れる籠の中で、視界も揺れていた。最後に映ったのは、二人が放った魂の耀き。扉が閉ざされると、耳をつんざくような轟音が鳴った。二度、三度、四度。何かが爆ぜる音が一層の震動を生み、男女の悲鳴が僅かに聞こえた。
「ユウ、く……そ、ら」
幸運にも、エレベーターは一階で停止した。彷徨う亡者のように這い出ていると、マンションの住民と思しき数人が、取り乱した様子で近付いてくる。
喧騒の中に、透き通った美声があった。思わず目頭が熱くなり、立ち上がる力が沸いた。
「アッキー!?」
「り、リオン、さん」
お互いの声が、鳴り始めた火災報知器の非常ベルで掻き消される。
お願い。お願いだから、無事でいて。
___________________
時坂コウと柊アスカは、行き詰っていた。
現場の再検証に始まり、異界を知る者達への聞き込みをして回ったはいいものの、誰もが似たり寄ったりな返答を口にした。特に変わりはない、奇妙な噂はない、異界化の前兆も痕跡もない。昨晩の一件は既に周知の事実ではあったのだが、有力な手掛かりは未だ掴めてはいなかった。
やがて一周をしてから、三度目の現場検証。変わり果ててしまった裏道はゾディアック側による工作により『整備中』とされ、関係者以外の立ち入りを拒否されている。不満を漏らす住民はいても、不審に思う者は極々僅かだった。
「……駄目ね」
耳元で繰り返される音信通話の呼び出し音。目的の人物とは繋がらず、諦めて発信を切る。
こんな時に、今頃何処で何をしているのだろうか。アスカが小さな溜め息を付いていると、眼前に二つの缶コーヒーが現れる。好きな方を選べ、ということなのだろう。
「一服だ。温まるぜ」
「……ん。ありがとう」
サイフォンを上着に入れ、購入したての缶コーヒーを握ると、冷え切った手指に感覚が戻り始める。続いて右頬へ。小さな気遣いが、身体の芯に沁み込んでいく。
「誰と電話してたんだ?」
「ユキノさんよ。また繋がらなかったわ」
ユキノ個人が握る情報網は、アスカに限らず多くの人間にとって貴重な情報源となっている。その収集能力は常軌を逸しており、加えてタロットカードを利用した占術は、占術の域を超えた驚異の精度を誇る。思うように調査が進まない今、頼るべきはユキノのような存在だった。
(あれは……何だったのかしら)
理由は他にもある。昨晩の通話だ。一分間にも満たないやり取りが、今となっては重要な意味を孕んでいたように思える。偶然では済まされない。だからこそアスカは、もどかしさで堪らなかった。
アスカがユキノとの通話を試みたのは、これで四度目。早朝から掛け続けているのだが、一向に応える気配がない。ルクルトの玄関にも『CLOSED』のプレートが吊るされていて、行き先を知る者はいない。連絡の取りようがないのだ。
「マイペースな人だからな。俺もよく着信や書き込みを無視されるぜ。こっちには容赦なく掛けてくるってのによ」
「朝から掛け続けているのよ。折り返してくれるのが普通でしょう」
「普通じゃねえってことだろ?」
「あ、貴方ねえ……あ、待って」
上着から流れ出るくぐもった着信音。アスカが素早い動作でサイフォンを取り出し、発信先を見る。
「ユキノさんか?」
「いえ……違うみたい。でも、これは……コウ、持ってて」
飲み掛けの缶コーヒーをコウが受け取ると、アスカは咳払いをしてから着信に応じた。
コウはすぐに察した。普段よりも丁寧な口調と声色、硬い表情。結社に属する人間とやり取りをする際には、決まってアスカは今のような言動と顔を見せる。共に行動することが多いコウに言わせれば、明け透けだった。
「ま、待って下さい。何故私が……っ……で、ですから!どうして私が知らされていないんですか!?」
「っ!?」
唐突に、それらが一変した。アスカは溢れ出る感情を少しも隠すことなく、叫んでいた。詰め寄るような勢いで飛び出た言葉が、周囲に響き渡る。不意を突かれたコウは、左手で持っていた缶を落としてしまっていた。
「はい……はい、了解です。一時間後に、また連絡します」
叫び声は収まりを見せつつも、焦燥感露わな様子は変わらない。アスカが通話を切ると、コウは地面に転がった缶を拾い上げ、恐る恐る彼女に触れた。
「おいおい、どうしたんだよ。結社方面で、何かあったのか?」
アスカは思考した。最低限の冷静さは保てている。つい今し方聞かされた事実を明かすべきか。どう伝えるべきなのか。何から話せばいいのか。私はどの立ち位置で、言動を選べばいい。
「……私が米国で執行者となる訓練を受けていたことは、以前にも話したわね」
瞑っていた目を開け、正面に立つコウを見据えた。強い男性だと思う。信頼に値する。紛れもなく彼には、知る資格がある。
「あ、ああ。確か米国には、第二本部があるんだよな」
「その訓練施設が、何者かの手により襲撃されたの。執行者候補生は皆殺しにされた」
「……おい待て。今何て言った?」
「殺されたのよ。今期の候補生十三名全員が、四日前にね」
北風と共に、ベルが鳴る音が届く。アスカとコウは、音の出所を見やる。視線の先には、杜宮セントラルタワーが佇んでいた。