東亰ザナドゥ ―秋晴れの空へ向かって―   作:ゆーゆ

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5月2日 ゴールデンウィーク①

 鞄から携帯電話を取り出し、時刻を確認する。今は6時半過ぎ、5月2日の早朝。時坂君との約束の時間よりも三十分近く早い。

 当たり前だけど、時坂君の姿は無い。パンの芳醇かつ香ばしい匂いが立ち込めるモリミィ前には、私だけが一人立ち尽くしていた。

 

(な、何で私ってこうなの)

 

 私がモリミィへ到着したのは、今から十五分程前。登校初日の失敗を省みようともせず、例によって早く来過ぎたことで、時間を持て余していた。まるで成長していない。

 遅刻してしまうぐらいなら、こうして無駄な時間を過ごした方が余程マシだとは思う。でも以前の私はこれ程極端ではなかった筈だ。自分でも気付かないうちに、今の私がいた。心配性、とは少し違う。自信が持てないと言えば近い気がするけど、やはりしっくりこない。

 あれやこれやと考えながらモリミィ周辺の風景を見渡していると、パンの匂いとは異なるそれが、後方から漂ってくる。

 

(・・・・・・煙草?)

 

 匂いは向かって左、建屋の西側からだった。恐る恐る顔を覗かせると、黒のベレー帽を被るコックコート姿の女性が立っていた。思っていた通り、右手には火を点けた煙草があった。背後には店員用と思われる扉があるし、十中八九モリミィの店員さんなのだろう。

 

「あら?」

「あっ」

 

 深々と煙りを吐いた女性が、こちらを振り向いて声を漏らす。思わずドキリとして、覗かせていた顔を戻した。いやいや、どうしてそこで隠れる、私。

 狼狽えていると、コツコツと足音が近付いてくる。まあ、そうなるよね。私は観念して、女性が歩み寄ってくる方へ向き直った。

 

「もしかして、遠藤アキさん?」

「えと、はい。そうです」

「あなたが時坂君が言っていた子ね。7時に来てって伝えた筈だけど、随分早かったじゃない?」

 

 完全に4月24日の再現だった。ごめんなさい、そういう性格なんです。

 声を掛けてくれた女性と簡単な挨拶を交わす。スラリとした長身の女性の名は清水サラさん。年齢はおそらく三十代半ばぐらい。夫の清水ハルトさんと一緒に、夫婦でこのモリミィを経営しているそうだ。

 昨晩に時坂君からもメールで話は聞いていた。ちなみに時坂君のメールは「バイト代が出たらサイフォン買えよ」という一文で締め括られていた。便利だとはよく聞くけど、私はそれ程必要性を感じたことがない。一応頭の片隅には留めておこう。

 

「少し早いけど、もう入れる?」

「あ、はい。大丈夫です」

「よし。今日は試用期間のつもりだけど、経験者って聞いてるからしっかり働いて貰うわよ」

「が、頑張ります」

 

 いずれにせよ、バイト代云々は本採用をして貰ってからの話だ。ブランクもあるし、そう簡単にはいかない。

 気を引き締め直して、私はサラさんの背中を追った。

 

_____________________________________

 

 手渡された服装に着替え工房内に入ると、窯前で手を動かすハルトさんに加えて、三人の作業員がいた。店内から覗いた際にも感じたけど、こうして実際に見てみるとやはり広い。成型台も大きいし、慣れ親しんだ作業場とは様々な点で勝手が異なっている。

 隣でエプロンの紐を結び直していたサラさんを見ると、先程とは打って変わって職人の顔付きへ変わっていた。

 

「それで、実家のベーカリーはどんなお店だったの?ベイクオフ?」

「個人経営のスクラッチでした。ここよりもずっと小さかったですけど」

「なら作業経験は?」

「一通りあります」

「一通りって・・・・・・仕込みから焼成まで?」

「は、はい。その、一応ですけど」

「うんうん、話が早くて助かるわ」

 

 満足気に頷くサラさん。何だか自分でハードルを上げてしまった気がする。

 今更になって緊張感を覚えていると、後方で生地を練っていたミキサーからブザーが鳴った。サラさんは素早い手付きで生地を取り上げて成型台へ運び、大まかに二等分した。

 

「これはノータイム。150グラム分割の後に軽丸め、強さはアタシのを見て」

「え。は、はいっ」

 

 目まぐるしい速度でサラさんが生地を分割していく。私はスケッパーを手に取り、一度だけ深呼吸をした。こういう時に焦っては駄目だ。扱いが難しそうな生地だし、手付きを思い出しながら慎重にいこう。

 

_________________________________________

 

 午後14時。書き入れ時を過ぎた、昼休み兼休憩時間。

 これまた登校初日と同じくして、私はこじんまりとした休憩室の机に突っ伏していた。

 

「遠藤ってやっぱりすげえよ。何つーか、見直しちまったぜ」

「・・・・・・どうも」

 

 カレードーナツを口に運ぶ時坂君へ、力無く答える。

 初日の試用期間だからと甘く見ていた。息を付く暇も無く、サラさんの一声で次々と並ぶ作業の大渋滞。休憩時間のタイミングが取れず、こんな時間まで終始動きっ放しだった。

 ただその甲斐もあってか、サラさんからは既に「採用!」の太鼓判を貰っていた。時坂君の存在すら忘れて、必死になって働いた自分を褒めてあげたい。

 

「実家の手伝いって言ってたけど、かなり本格的にやってたんだな。できないことの方が少ないんじゃねえか?」

「そんなことないですよ。コロネとか苦手です」

 

 答えてから、クロワッサンを一齧り。余り食欲が沸かないけど、今は少しでもお腹に入れておいた方が良い。

 紙パックの牛乳にストローを差していると、紙ナプキンで手を拭いていた時坂君が言った。

 

「ふーん。でも家業なら、卒業後はどうする気なんだ?兄弟とかいるのか?」

「・・・・・・いいえ」

「一人っ子か。遠藤は兄ちゃんか姉ちゃんがいそうなイメージだけどな」

「そうじゃなくって」

 

 ―――もう、お店が無いんです。

 小声で呟くと、時坂君の動きが止まり、紙ナプキンが床へひらひらと落下した。若干の間を置いてから、時坂君は紙ナプキンを拾い、足元のゴミ箱へと捨てた。

 

「ワリィ。変なこと聞いた」

「そんな、気にしないで下さい」

 

 将来のことなんて、考えたことがない。敢えて考えようとしなかった。もう二年生だというのに、私はずっと身の上を盾にしてきた。杜宮の卒業生の進路先が多岐に渡ることが、唯一の救いかもしれない。

 ここでアルバイトを始めようと決めたことだって、生活費云々は理由の半分。もう半分はひどく曖昧で、私自身よく分かっていない。分からないけど―――前を向いていないという自覚はある。単なる、逃避だ。

 

「あの、それより今日はありがとうございます。わざわざ付き合って貰って」

「いいって。バイト代も出してくれるってさ」

 

 結局昨晩はお礼を言いそびれていた。居酒屋を後にしたのは午後の22時近くだったけど、その時間になっても時坂君は忙しそうに店内を歩き回っていた。・・・・・・高校生のアルバイトは、午後22時までという法の縛りがある。守ってるよね、多分。

 

「つーか、まだ敬語なんだな」

「はい?」

「ソラと話してる時はタメ口だっただろ。昨日は雰囲気も少し違ってたし、無理にとは言わねえけど」

「そ、ソラちゃんは後輩ですし・・・・・・その」

 

 返答に詰まっていると、時坂君は後ろ頭を掻いて、椅子の背もたれに身体を預けた。

 

「あー、また変なこと言っちまった。忘れてくれ」

「ご、ごめんなさい」

「ハハ、何でお前が謝んだよ。遠藤っておもしれえのな」

 

 面白い、か。そんな言葉を掛けてくれるのは、時坂君ぐらいだろう。

 不思議な人だと思う。口数はクラスでも少ない方なのに、人当たりの良さは群を抜いている。こうして面と向かっていても緊張しないし、スラスラと受け答えができてしまう。

 今日だってわざわざ朝早くから付き合ってくれた。普通なら何かしらの魂胆が垣間見えるところだけど、それすら無い。柊さんとは別の意味で、本当にこんな人がいるんだと驚かされる。

 

「それで、休憩後は接客だっけか?」

「あ、はい。サラさんがそう言っていました」

 

 労働時間は残すところあと二時間。休憩が終わったら時坂君に代わって、店内を任されることになっていた。

 

「一応言っとくけど、ここって杜宮の生徒も結構来るんだぜ」

「え゛。そ、そうなんですか?」

「緊張して打ち間違えたりすんなよ」

「こ、怖いことを言わないで下さい・・・・・・」

 

 悪戯な笑みを浮かべる時坂君。

 お願いだから、クラスメイトが来たりしないように。割と真剣な願いだった。

 

______________________________________

 

 それから約二時間後。

 私の心配は杞憂に終わり、見知った人間や杜宮の生徒が訪れることはなかった。時間帯も既に夕刻前、店内には会計中の女性客が一人だけ。そろそろ切りの良い時間だし、このお客さんの会計が今日最後の労働だろう。

 

「ねえ。あなたもしかして、B組の転入生?」

「っ!?」

 

 思わぬ言葉に、トングで挟んでいたクルミパンがトレーへ落下する。一歩間違えば商品を駄目にしてしまう失態に、全身から冷や汗が浮かんだ。

 震える手でトングを使い、袋詰めを再開する。怖ず怖ずと視線を上げて、黒のキャップを深めに被った女の子をちらと見た。

 

「あれ、違った?」

「え、えと、その」

 

 落ち着こう。冷静になって考えよう。時坂君と初めて会った時も、確かこんな感じだった。何だか今日はここ数日の体験が再現されてばかりいる気がする。

 口振りから察するに、この人は私と同じ森宮学園に通う二年生。クラスを確認したということは、B組ではないのだろう。言われてみれば、何処かで顔を見たような気がしなくもない。

 

「・・・・・・何処かで、お会いしましたか?」

「学園で何度かすれ違った筈だけど。まあこの恰好じゃ無理もないわね」

 

 女子生徒はそう言ってキャップを脱ぎ、カジュアルなデザインの眼鏡を外した。 

 

「・・・・・・」

「・・・・・・?」

「コホン。D組の玖我山璃音よ。宜しくね」

「と、遠藤アキです。宜しくお願いします」

「・・・・・・」

「・・・・・・?」

「え、それだけ?本当にそれだけ?」

「き、綺麗な声ですね?」

「そこ!?そこなの!?いや嬉しいけど、おかしくない!?」

 

 玖我山さんはひどく納得のいかない面持ちで、カウンターに身を乗り出し顔を近付けてくる。

 何だ、私は何を咎められている。同窓であることは理解したけど、少なくともおかしな言動を取ったつもりはない。クルミパンを落とし掛けた以外は。

 対応に困っていると、玖我山さんは大きな大きな溜め息を付いてからパンを受け取り、踵を返した。一週間前のソラちゃんを思わせる、重々しい足取りだった。去り際に「時坂君以上だわ」と呟いていたけど、聞き間違いだと思いたい。きっとそうだ。

 

「アキちゃーん。そろそろいい時間だし、今日は―――」

「サラさん」

「え、何?」

「お願いですから、接客は勘弁して貰えませんか」

 

 切実な願いを最後に、私は無事アルバイト初日を乗り切った。

 

_______________________________________

 

 翌日の5月3日、日曜日。

 めでたく正式なアルバイト店員として採用された私は、休憩中に必要書類の空欄を埋めながら、改めて今後のシフトや仕事内容についてサラさんと話し合った。

 余程のことが無い限り、主な作業はパンの製造。元々製造担当が手薄だったし、私の技術を活かすとなれば当前の割り振りではある。言い換えれば接客には不向きと判断されたのだろう。ぐうの音も出ない。シフトに関しては当面週二日、最大で四時間。転入してまだ日が浅いということで、学業へ支障が出ないよう少なめのシフトからスタートすることになった。やはり反論の余地が無い。

 ただしこの連休中はその限りではなく、初日同様に最大限の尽力が求められた。私としては断る理由が見当たらなかったけど、一つだけ。全く予想もしていなかった業務を、唐突に突き付けられていた。

 

「で、デリバリー、ですか?」

「そう、商品の配達。今月から始めてみた試みなの」

 

 ベーカリー業におけるデリバリー。そういったサービス形態が存在することは知っていた。

 しかしとても一般的とは言えない。一部の人気店や大手の店舗でしか行っていない、マイナーなサービスの筈だ。少なくともこのモリミィに適したものとは思えなかった。

 

「あのー。それって採算取れてるんですか?」

「全っ然。配達に行く暇があったら洗い物してた方が百倍マシよ」

「・・・・・・ですよね」

「まあ駄目で元々、採算度外視で始めたことだし、宣伝料を払ってるようなものね」

 

 固定客を増やす為には、まずは商品を食べて貰わないと始まらない、ということだろう。

 キッカケになってくれれば万々歳、口コミで広がれば言うこと無し。寧ろ安い物と考えることもできる。人手に余力があれば、の話だけど。うん、嫌な予感しかしない。

 

「てな訳で。休憩が終わったら、お願いできるかしら」

「や、やっぱりそうなるんですね・・・・・・あの、私自転車しか乗れませんよ」

「近場だから充分よ。こう忙しいとアタシも店を離れられないし、一件だけだから。ね?」

「で、でも。どちらかといえば、私は製造の方が」

「代わりにレジ打ちをしてくれても構わないのよ」

「・・・・・・行ってきます」

 

 無慈悲な二択を前に、私は配達先の住所が書かれたメモ書きを受け取った。

 

______________________________________

 

 自転車のカゴに商品を入れ、ペダルを漕ぐこと約二十分。

 私はメモ書きを再確認する必要も、道に迷うことも無く、到着するよりも大分前から目的地を視認することができていた。

 

「大きいなぁ・・・・・・」

 

 杜宮記念公園の敷地内にそびえ立つ、『杜宮セントラルタワー』。公園には先週末に自転車で散策していた際に来たことがあったし、大きな建物があるなとは思っていたけど、マンションだったんだ、あれ。所謂タワーマンションというやつだろうか。

 それにしても本当に大きい。この周辺では一番高い建物かもしれない。ガーデンハイツ杜宮を引き合いに出せば、天と地程の差がある。比べる方がおかしいか。

 

(・・・・・・入り口、何処だろ)

 

 連休中頃の昼間なだけあって、記念公園内は先週末よりも沢山の利用客で溢れ返っていた。勝手が分からない私は道の端を走り、マンションへと向かった。

 やがてマンションの敷地の入り口とおぼしき場所へ辿り着くと、益々分からなくなってしまった。身の丈の倍以上もあるフェンスゲートと、その足元に備え付けられた機器。これは何をどうすればいいのだろう。テレビドラマや映画で目にしたことはあるけど、説明書きの類は見受けられない。もっと田舎者に優しくして欲しい。

 

「遠藤さん?」

 

 すると不意に、背後から名を呼ばれた。振り返ると、見知った顔があった。

 

「こ、小日向君?」

「あはは、やっぱり遠藤さんだ。どうしたのこんな所で。コウからアルバイトを始めたって聞いてたけど」

「え、えーと・・・・・・自転車って、何処に停めればいいですか?」

「駐輪場と駐車場は地下にあって、入り口は反対側だよ。こっちは裏門。短時間ならこの辺に停めてもいいと思うけど・・・・・・ここに用があるの?」

 

 私は泣きそうになるのを堪えて、事情を掻い摘んで説明した。

 驚いたことに、小日向君は杜宮セントラルタワーの住民だった。大層裕福な家庭なのかと思ったけど、それは小日向君が即座に否定した。

 

「タワーマンションって下層と上層じゃ別世界なんだ。家賃や間取りも全然違うしね。このマンションは特にそうで、小日向家は下層、至って普通の部屋だよ。それで、配達先は何階?」

「あ、それなら住所のメモ書きがあります」

 

 ポケットに入れていたメモ書きを取り出し、小日向君へ手渡す。番地や号目だと思っていた数字は、どうやら部屋番号を示した物だったらしい。

 

「2504号室かぁ。ねえ遠藤さん」

「は、はい?」

「これ、最上階だよ」

「・・・・・・ぉぇ」

「・・・・・・えーと。上まで一緒に行こうか?」

 

 小日向君の申し出に、涙目の私は無言で何度も首を縦に振った。救いの神がいた。

 小日向君が機器のパネルを操作すると、スピーカーからチャイムが鳴った。小型のディスプレイも設置してあり、マンションの住民はモニターを介して訪問者の姿を窺うことができる仕組みのようだ。私は小日向君の隣、機器の前に立ち、返答を待った。

 

『はいはーい』

「あっ。し、四宮さんのお宅で、お間違いないですか?」

『そうだけど。アンタら誰?』

「モリミィから配達に来ました。これ、ご注文の品です」

『あれ。前回は年配のオバサンが届けに来たのに、今日は違うんだ』

「えと、今日は私が代わりに来ました。アルバイト店員なんです」

『ふーん。そんな話は聞いてないけどなぁ。アンタ本物の店員?』

 

 スピーカーから聞こえてくる猜疑心溢れる指摘に、声が詰まってしまった。

 『四宮さん』がデリバリーを利用するのは、今日が二回目。前回はサラさんが配達に来たのだから、突然代理で来ましたと言われても「はいそうですか」とはいかない、そう言いたいのだろう。何て用心深い。

 しかし今の私が示せる物といえば、モリミィの制服と商品ぐらい。それは既にモニター越しで映っている筈だ。あとは四宮さんに信じて貰う他ないけど、それでは振り出しへ戻ってしまう。どうしたものか。

 

「あのー、僕はこのマンションの住民なんですけど」

「えっ・・・・・・」

 

 困り果てていると、隣にいた小日向君が代わって四宮さんへ言った。

 

『だから何?』

「彼女は杜宮学園の生徒です。アルバイトの件も含めて、直接問い合わせて頂いても結構ですよ。身分は確認できる筈です」

『ああそう。どうでもいいや、入りなよ』

 

 ブツッ、とインターホンが切れる音が聞こえると、フェンスゲートが音を立てて開いていく。

 僅かなやり取りを交わしただけで、本当に開いてしまった。散々疑っていたのに。

 訳が分からず立ち呆けていると、小日向君はやれやれといった表情を浮かべていた。

 

「遊んでいただけじゃないかな」

「え?」

「要するに、遠藤さんをわざと困らせていたんだよ。疑っていた訳じゃなくってさ。声も結構若く聞こえたし、もしかしたら悪戯好きの同年代が住んでいるのかもしれないね」

「・・・・・・」

 

 頭痛で意識が飛びそうだった。いるのかな、そんな人。

 

_____________________________________

 

 エレベーターで25階へ上がったところで小日向君と別れ、私は一人で2504号室へ向かった。正直に言えば心細かったけど、元々はマンションの勝手が分からなかっただけだし、これ以上小日向君へ迷惑を掛けたくはなかった。

 

「2504号室・・・・・・遠藤さん、ここだね」

「は、はい」

 

 などという虚勢をものの見事に見破られ、小日向君は進んで同行を願い出てくれた。今度お礼にモリミィのパンを届けに来てあげよう。

 私は案内された部屋の前に立ち、インターホンを鳴らした。先程の様子から考えて、居留守でも使われるのではと覚悟はしていたけど、四宮さんは意外にもすぐに返答をくれた。

 

『二人共、中まで持って来てよ。鍵は今開けるから』

「「・・・・・・」」

 

 予想の斜め上を行かれた。部屋に入って来いだなんて、それは普通親密な間柄の人間にしか言えない台詞だろうに。やはり疑り深いという訳ではなさそうだ。今もこちらをからかっているのだろうか。

 いずれにせよこうしていては始まらない。開錠の音が聞こえてから、私は意を決して扉を開き、室内へ足を踏み入れた。

 

(く、暗い?)

 

 部屋の中は真夜中かと勘違いしてしまいそうな程に、暗闇に包まれていた。扉が閉まった途端に視界が狭まり、一歩先すら満足に見えなくなってしまう。靴を脱ごうとした時、身体がよろけて小日向君の肩に頭をぶつけてしまった。

 

「遠藤さん、ほら」

「え、ちょ、あの」

 

 暗闇の中で、私の右手が何かに包まれる。途端に顔が熱くなり、胸の鼓動が高鳴った。右手から滲み出てくる汗が止まって欲しい。そんなどうでもいい想いを胸に、一歩ずつ室内を進んでいく。

 まるでお化け屋敷だった。窓という窓が全て厚手のカーテンで遮られており、一筋の光も届いていない。そんな中で男女が手を繋いで歩くだなんて、いや私には当然そんな経験は無いのだけど、お化け屋敷デートのように思えてしまい、妙に気分が高揚した。

 

「え、えへへ」

「遠藤さん?」

「・・・・・・何でもないです」

 

 やがて前方にあった扉の向こう側に、数少ない光源が見えてくる。小日向君は私の右手を離して、前進を促した。名残惜しさが残る右手で扉を開けると、そこには広大な一室があった。

 

「し、失礼しまっ・・・・・・?」

 

 コの字に置かれたデスク上に光る、十を超える大型の液晶ディスプレイ。デスク下部には重低音を漏らす巨大な機器の塊。その中央に置かれたデスク椅子に座る、ヘッドホンを付けた小柄の男性。

 洋画のワンシーンから飛び出てきたかのような光景に立ち尽くしていると、男性―――四宮さんは、私達に背を向け座ったままの状態で、口を開いた。

 

「配達お疲れさま、『遠藤アキ』先輩?」

「あっ・・・・・・え?」

 

 聞き間違いではない。空耳でもない。遠藤アキと、四宮さんは今私の名を呼んだ。

 私は先程のやり取りで一度も名乗っていない。そんな暇も必要も無かった。名札を付けている訳でもない。まさか本当に杜宮学園へ問い合わせて、私のことを―――いや、違う。それでは順番がおかしい。

 

「どうしたの、先輩」

「だ、だって・・・・・・え?あ、あれ?」

 

 私がモリミィでアルバイトを始めたことを知る人間は限られている。たとえ学園へ問い合わせても、私の名前には辿り着かない。名前なんて調べようがない。思わぬ第一声に戸惑ってはいるけど、間違ってはいない筈だ。

 

「疑って悪かったよ。アルバイトの調子はどう?昨日は初日から大活躍だったらしいじゃん。先輩は働き者だね」

「っ!?」

 

 信じ難い追撃に膝の力が抜けて、私はストンとその場に腰を落としてしまった。

 首が締まり声が出ず、身体が小刻みに震え、視界が狭まっていく。

 

「流石はパン屋の娘ってところかな。無能な奴らと違って、手に職がある人間は嫌いじゃないよ」

「そ、そんなっ・・・・・・どう、して」

「それにあの店のカレードーナツはお気に入りでね。こう見えて忙しい身だし、また配達をお願いするかもしれないから、その時は―――」

「そのぐらいにしておきなよ、『四宮祐騎』君」

 

 被せるように発せられた、中性的な声。

 小日向君は崩れ落ちた私の肩に左手を置き、一歩前に出てから小さな笑い声を上げた。

 

「あはは、なんちゃってね。玄関口に置いてあった郵便物を見ただけだよ」

「へえ。中々目聡いじゃん、『小日向ジュン』先輩。でもさ、何で二人一緒に来るわけ?」

「僕は単に案内をしてあげただけさ。君だって二人で入るよう言っていたよね?」

「無用心だなぁ。男女二人が部屋に入るところを見られたりしたら、変な誤解をされるかもよ。遠藤先輩はまだクラスに馴染めていないらしいけど、男子受けは割と良いっぽいし。気を付けた方がいいかもね」

「こんな上層に住んでいる学生なんて、君ぐらいだと思うよ。でもそうだね、遠藤さんもまだバイト中みたいだから、そろそろ失礼するよ。遠藤さん?」

「え・・・・・・あ、はい」

 

 差し出された右手を握り、どうにか立ち上がる。完全に置いてけぼりを食らい、というか少しも事情が飲み込めていないし、目が回る程に混乱してしまっているけど、一刻も早くこの場を離れたかった。

 言われるがままに手を引かれて部屋を後にしようとした時、突然小日向君の足が止まった。小日向君は先程の四宮さん同様、背を彼に向けたまま、呟くように言った。

 

「随分と面白い物を作ったね。何事も起きないことを、主に祈っているよ」

 

______________________________________

 

 それから約十分後。

 

「はあぁぁ・・・・・・」

 

 マンション前のベンチに座り、深々と溜め息を付きながら項垂れる小日向君。溜め息と一緒に生気まで漏れ出ているように見えてしまう。

 先程の物怖じしない態度は何処へ行ってしまったのやら。私が自動販売機で買ってきた飲み物を渡すと、小日向君はそれを額に当てて、頭を冷やし始める。

 

「ありがとう。これ、いくら?」

「あ、いいですよそんな。私からのお礼です」

「あはは、僕は何もしてないってば。寧ろカッコ悪いところを見られちゃったかな」

 

 小日向君の推測が多分に含まれてはいるけど、事の真相は大方理解できていた。

 私達を先輩と呼んでいたことから考えて、四宮君は杜宮学園に通う一年生。四宮君はインターホンのモニターに映った私達の顔と、杜宮学園の生徒という情報を基にして、学園のデーターベースへ侵入。私達の名前とクラスを調べ上げた。

 更にそれを取っ掛かりに、SNSサイトの書き込みに目を付ける。勿論通常では不可能な方法を駆使して2年B組、おそらくは時坂君や伊吹君らの書き込みに辿り着いた。小日向君も昨晩にやり取りをしていたそうで、四宮君は書き込みを覗き見ることで私に関する事柄を知った。男子受け云々は内容も含めて全く理解できないけど、私が考えるに四宮君の口から出任せだったのだろう。きっとそうだ。

 一方の小日向君は四宮君の言動に対し、無理をして強気な態度を取っていたらしい。部屋を出るやいなや今のような状態だった。私と同じで、少し腰が抜けてしまったのかもしれない。

 

「でも・・・・・・本当に、そんなことができるんですか?」

「どうだろう。でもそう考えないと、説明が付かないとは思うよ。あんな生徒がいたら僕らの耳にも届いていそうなものだけど、余り学園に顔を出していないのかもしれないね」

 

 ハッキリ言って、どれも到底信じられなかった。高校生があんな短時間で全てを調べ上げることができるものなのだろうか。所狭しと並んでいた大仰な機器も、あんな高そうな部屋で一人黙々とキーボードを叩いていたことも、何もかもが理解の範疇を超えている。

 それに僅かなやり取りから一つの可能性を導いた小日向君だってそう。勘の鋭さは時坂君を思わせたけど、彼とは異なる異質さを感じてしまった。正直に言って、感心を通り越して少し気味が悪かった。

 

「実は最近、そういう系のアニメを観たばかりでさ。四宮君が余りにもハマり役だったから、僕もついノリノリで応えちゃったよ。正直に言うと、少し楽しかったかな」

「アニメ、ですか?」

「うん。そういう経験は無い?アニメのキャラクターに成り切る、みたいな」

 

 何だ。急に話が変わった気がする。分かるような、分からないような。

 そういえば部屋を出る間際に、小日向君は何かを言っていたっけ。主に祈っているとか何とか。あれもそうだったのだろうか。

 

「えーと。その、例えば?」

「高速で出鱈目にキーボードを叩いてから『チェックメイト』って呟いたりとかさ」

「・・・・・・」

「湯船に浸かりながら回復ポッド気分を味わうとか、夜道で・・・・・・ごめん、何でもない」

 

 前言撤回。気味の悪さは感じない。その代わりに親近感があった。

 要するにあれだ。トモコさんがお近づきの印にと贈ってくれたモリマルぬいぐるみを男子に見立てて、夜に少女漫画ちっくな妄想をしたりするのと似たようなものだろう。

 何故か昨晩は相手が時坂君で、普通はそれが気になる男子だったりするところだけど、私の場合は一番話した回数が多いという情けないにも程がある理由で―――うん、止めよう。奇妙な体験をしたせいか、思考回路がおかしなことになっている。

 

「え、えっと。とりあえず、改めてお礼を言わせて下さい。ありがとうございました」

「気にしないでよ。僕は天才ハッカーのライバルっていう痛々しいキャラを演じただけだから」

「そ、そんなことないです。私にだって、似たような経験は沢山ありますっ」

「あれ、そうなの?」

 

 私が妄想を垂れ流すと、ドン引きして顔を引き攣らせる小日向君がいた。

 二人だけの秘密にしようと誓い合うことで、私と小日向君は少しだけ仲良しになった。ような気がした。

 

 

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