離陸の瞬間。急激な加速、エンジンの轟音。全身に伝わってくる震動が段々と増していき、機首が上方に向いた頃、機内後方から子供の泣き声が聞こえた。
別段驚きもしない。未だ経験したことのない浮遊感と速度に戸惑い、思わず泣きじゃくる子供は何処にでもいるだろう。あの時の、僕のように。
(……何年前だっけ、あれ)
幼少時の思い出に耽っていると、頭上からポーンという音が鳴り、ベルト着用を指示するボタンが消灯した。既に震動はなく、機体は一定の高度を保ちながら、東京の頭上を飛行していた。子供の泣き声も、知らぬ間に治まっていた。
「フフ。ユウ君も小さい頃、あの子と同じように泣いてたっけ。確かみんなで海外に行った時よね。まだ覚えてる?」
「るさいな。大昔の話だろ」
ベルトを外して、窓越しに広がる光景を見やる。天気と視界は良好。直接目の当たりにした数年振りの空、そして眼下の小さな東京。
窓側の席を希望した覚えはないけど、きっと姉さんの配慮によるものだろう。空旅の退屈さを紛らわすにはちょうどいい。
「さてと、定刻通りね。昨日も話したけど、向こうのホテルに着いたら、私はすぐに出なきゃいけないの。帰りは夜遅くになると思うわ」
「分かってるよ。どうぞごゆっくり」
二泊三日の隈本旅行。姉さんの誘いに応じる条件として、僕が提示した妥協案は大きく二つ。
一つは僕の自由行動。勿論深夜に出歩くような真似をする気はないけど、日中は僕の意思で行き先を決めて、好きに動く。そもそもの話、姉さんのスケジュールはかなりタイトだ。半分観光目的と言いつつ、予定の大部分が仕事関係で埋まっている。姉さんに付き合っていたら、わざわざ隈本を訪ねる意味がない。
二つ目は、僕への詮索を控えること。何故急に心変わりをして、同行を認めたのか。その一切に干渉しない。この点については既にクリアー済みと言える。
(別に……ただの、旅行だし)
深い意味はない。最近は夢中になれるゲームが見当たらない上に、興味を惹かれる漫画やアニメもない。暇潰し相手のコウ先輩は米国だ。だからいっそのこと姉さんと一緒に玖州へ渡り、見知らぬ地で気ままに過ごすのも悪くはない。
そしてちょうど帰省中のあいつに、現地の案内役を任せた。ただそれだけの話、気紛れだ。
「どうしたの?眉間に皺が寄ってるわよ」
「何でもないって」
一方の姉さんからも、僕の自由を認める代わりにと、最低限の決めごとを交わされていた。
行きと帰りの飛行機、宿泊先は一緒。朝昼晩に必ず連絡を入れる。日中はホテルに引き籠らずに外へ出て、夜は午後二十一時までにホテルへ戻る。大まかにはこんな内容だ。
欲を言えば完全な別行動を取りたいけど、僕側の条件を守るためと考えれば、大して気にならない。無難な落としどころだろう。
「そっか。ねえねえ、今日は何処を観光するつもりなの?」
「さあね。干渉はしないっていう約束じゃなかったっけ」
「そうだけど、やっぱり気になるじゃない。でもそうね、ソラちゃんもいるし、あの子に任せておけば心配はないか」
「あー、うん。あのさ、え、あれ?」
気のせいだろうか。一番触れて欲しくない存在の名を、たった今呼ばれた気がする。しかも直球で。
突っ込みの機会を見失っていると、姉さんは悪びれる様子もなく言った。
「私からは何も聞いてないわよ。でも以前にも言ったでしょ、スーパーでソラちゃんに出くわしたって。その時に、翌週末に帰省するっていう話を聞いたの。ユウ君を誘う前のことよ」
「ああそう。で、何?どうして今あいつの話になるのさ」
「んもう、それを私から言わせるの?余計な詮索をするなって言ったのはユウ君じゃない。フフっ」
「遅いよ!?もう全部手遅れだよ!!」
思わず立ち上がり、声を荒げていた。途端に感じる無数の視線。見渡すと、何ごとかと驚きの表情を浮かべる乗客らが、一様にして言葉を失っていた。離陸の際に泣いていた少年は、からからと笑い声を上げていた。
最悪だ。どうしてこう、僕はあいつに振り回されるのだろう。
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羽田空港を発ってから約二時間後。隈本空港に降り立った僕と姉さんは、そのままバスで市街に入り、予約していたホテルでチェックインを済ませた。荷物を下ろすやいなや、急ぎ足でホテルを出た姉さんを見送った後、僕はホテル最寄りのバス停へと向かった。
サイフォンを弄りながら待つこと十分間少々。郁島は満面の笑みを浮かべて、右腕を大きく振りながらバス停へとやって来た。何故か徒歩で。
「お待たせ、ユウキ君っ」
「……おっす」
「あれ、どうしたの?何か機嫌が悪そうって痛たたたた!?」
とりあえず、郁島の右頬を抓った。別に郁島が悪い訳じゃなく、隈本で落ち合うことは姉さんに話すなという僕の言い付けを守ったことも理解している。
しかし姉さんの誘いに乗った時点で遅かったのだ。それに帰省の件を既に話していたのなら、先に言っておいて欲しい。姉さんが浮かべた含み笑いが腹立たしくて仕方ない。ムカつく。
「いったいなぁ。もう、何なの?会って早々意地悪しないでよね」
「すみませんでしたー。ま、これでチャラかな。自業自得だよ」
「よく分かんないけど……まあいっか。ようこそ、隈本へ!玖州は初めてって言ってたよね。どう、感想は?」
「感想も何もないって。空港からバスに乗ってきただけだし」
「ええー。ほら、空気が美味しいとか、匂いが違う、とか」
何を求められているのかがさっぱり分からない。強いて言うなら、東京よりも若干温かいぐらいだろうか。南に下ったのだから当たり前だ。
「それで、今日は何処へ行くのさ。まだ何も聞かされてないんだけど?」
「あ、うん。ちょうどバスが来たみたいだから、早速あれに乗ろうっ」
今し方到着したバスの乗車口が開き、言われるがままにバスへ乗り込む。郁島は生真面目に、僕の後ろに並んでいた列の最後尾に回った。郁島らしい謙虚さだ。
車内を見渡すと、既に座席は乗客で埋まっていて、仕方なく車内前方の吊り革を握った。最後に乗車した郁島が僕の隣に立つと、バスはゆっくりとした速度でホテル前のロータリーを走り始める。
「結構混んでるんだな」
「日曜日だし、観光目当ての乗客が多いんじゃないかな。それにほら、『あなたの名は』の影響で、最近はお城を訪ねる人が増えてるんだよ」
「……ごめん、話が全然見えないんだけど。今お城って言った?」
「え……分からないのに、このバスに乗ったの?」
「分かる訳ないだろ!?『分かって当然でしょ』みたいな地元民にありがちな態度はやめろよ!」
言い聞かせながら、車内に掲示されていた運行ルートを確認する。自然と『隈本城・市役所前』という名のバス停に目が留まった。要するに、郁島が真っ先に選んだ行き先は、県内で最も有名と言っていい観光の名所だったのだろう。
「まずは隈本城に行かないと始まらないよ。全国的にも有数のお城だしね」
「まあ、想定の範囲内かな。でも隈本城と小説に何の関係があるのさ?」
「えーと。一通り説明するけど、ユウ君は『あなたの名は』、読んだことないのかな?」
「ないから聞いてるんだろ。これだけ騒がれてるから、大まかな内容ぐらいは知ってるけどね」
僕が把握しているのは、物語の舞台がこの隈本であること。主人公は男女の高校生で、どちらも人並み外れた才能に恵まれつつも、将来への不安、両親との溝に悩みを抱えているという共通点がある。記録的ヒットの一因はSNS投稿にあるとされているし、未読の僕でも、ある程度の設定は頭に入っていた。
僕が知っている内容を述べると、郁島は物語の流れを掻い摘んで教えてくれた。
「主人公の男女二人なんだけど、家族との仲違いがひどくなって、結局『家出』しちゃうんだ。二人共誰にも相談できなくて、ふらふら隈本市内をさまよい歩くんだけど……行き着いた先が、隈本城。お城の中で、二人は初めて出会うの」
「ふーん。それで?」
「お互いの身体が入れ替わっちゃう」
「いきなりの超展開だな。え、なに、そういう話なの?」
「実際に読んでみなよ、すっごく感動するから。私のを貸してあげてもいいよ」
郁島には悪いけど、やはり興味が湧かない。頭の片隅に留めておく程度には覚えておこう。
ともあれ、大体の察しは付いた。一言で表せば、『聖地巡礼』というやつだろう。ずっと以前から存在する概念だけど、最近は社会現象として取り上げられ、各メディアも引用する場面が増えてきている。大規模な集団での訪問も珍しくなく、その効果と経済的影響は単なるファン活動の域に留まらない。『あなたの名は』の劇中でも、隈本城が密接に関わるシーンが多いのだろう。
「そうそう。行ったことがある人には分かるんだけど、すごく細かく丁寧に描写されててね。名場面も多いから、聖地巡礼、だっけ?それ目的の観光客が増えてるんだよ。それにね、『アニメ映画化』が決定した影響もあるみたい。今週に入って、PVが公開され始めたから」
「映画化か……益々巡礼者が増える一方って訳ね」
「うん。私としては、隈本を知ってくれる人が増えるから、嬉しい限りだよ」
とはいえ、聖地巡礼には欠点もある。マナーの悪いファンによる行動が問題視されたり、悪戯に注目を浴びること自体に、嫌悪感を抱く現地民も少なくはない。
郁島はきっと、そういった一面を知らないのだろう。今は状況を素直に受け入れているようだけど、一抹の不安が残る。まあ、僕が悩んでも仕方ないか。
「分かるけどさ、僕は読んだことないし。小説は別としても、普通に見所はあるんだろ?」
「勿論だよ。私も色々調べてきたから、何でも答えてあげられると思うよ」
「あー、いいって。今ググるから」
「ええ、ち、ちょっと。私に案内役を任せるって言ったのはユウキ君でしょ。ああもう、駄目だってば!」
隈本城のキーワードで検索結果が並んだ頃に、車内アナウンスが鳴った。既に視界には、頭上高くにそびえ立つ、天守閣が映っていた。
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隈本城の広大な城郭は、面積で表せば百万平方メートルに迫る。江戸時代初期に築城された、歴史の重みを感じさせる巨大な要塞だ。
建造物として有名なのは、大天守閣と小天守閣、本丸御殿。他にも見所が多々あるとされる中、初めに郁島が僕を案内したのは、大天守閣。その道のりは、思いの外に険しい物だった。
「か、かなり登るんだな。ていうか、階段の傾斜おかしくない?普通に危ないでしょ」
「これぐらい平気だよ。ちなみに六階建てで、今五階に上がったところかな」
「僕が平気じゃないんだって……」
郁島のペースが速過ぎるせいか、正直に言って息が切れる。城巡りというのは、もっとこう、情緒が溢れる戯れだと思っていたのに。隈本城を本来の意味で満喫するには時間を要するという言い分は分かるけど、一時間も経たないうちにこの有り様だ。先が思いやられる。
「到着っと。ほらユウキ君、見てみなよ」
「ん……」
やがて辿り着いた先。大天守閣の最上層は展望台に近い構造になっていて、城下の周辺を全方位、見渡すことが可能だった。呼吸を整えながら郁島の背中を追うと、その光景に僕は、柄にもなく言葉を失った。
「これが隈本市。今日は天気が良いし、ここからなら阿蘇山も見えるね」
「……まあ、うん」
特別には映らない。ある程度栄えた市の中心部一帯を、高所から見下ろせるというだけだ。それでも僕は、不思議な感覚を抱いていた。
隈本。郁島が生まれ育った故郷。僕はその中央に立っている。だから何だと問われれば、やはり分からない。僕は今、何を考えているのだろう。
「なあ。郁島の実家ってどの辺?」
「結構遠いよ。隈本駅から電車で四十分ぐらい。ここよりずっと田舎かな」
「へえ……遠いんだ」
「行ってみる?」
「な、何で……あー。保留にしとく」
咄嗟に置いた保留。無下に断るのは、何となく気が引けた。
二泊三日の旅だ。帰りの飛行機は明後日の夕刻。今日は隈本城を回るだけで日が暮れるだろうから、残りは明日以降の一日と半分。郁島が僕を何処へ連れ出すのかは分からないけど、他に選択肢がなければ、遠い地の田舎で息抜きをするのも、一興と言えるのかもしれない。
いや。それに加えて、僕には聞きたいことがある。けど焦らなくていい。まだ時間はある。
「あ、そうだ。ユウキ君、晩御飯は何が食べたい?」
「辛子れんこん」
「かっ……あは、あはは。ご、ごめん。すごく意外な答えが返って来たから、驚いちゃった」
「ファーストフードでいいって言ったって、どうせ止めるんだろ」
「当たり前だよ……あはは。お店、考えておくね」
郁島は笑いながら、僕の手を取って踵を返した。
上り道に苦労した分、きっと下りも骨が折れるに違いない。僕は大きく溜め息を付いて、覚悟を決めた。
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大天守閣の次に、小天守閣。本丸御殿。独特の造りの石垣、宇土櫓、闇り通路、時折擦れ違う侍。随所に散りばめられた魅力を堪能―――主に郁島が―――しながら、上空が夕焼けに染まり始めた頃、僕らは『飯田丸五階櫓』と呼ばれる建造物を訪れていた。
「何か……静かだな。人も全然いないみたいだし。ここって人気ないの?」
「うーん。私も何度か来たことがあるけど、ここはいつも人が少ないよ。『あなたの名は』にも出てこなかったからかな」
「ああ、成程ね」
この建物以上の見所が余りある上に、聖地巡礼の範囲外。今の僕には却ってちょうどいい。人混みに当てられたのか、頭に熱が籠っている気がする。
「折角だから、上まで行こうよ」
「分かってるって」
屋内は天守閣に比べればこじんまりとしていて、その名の通り五階建てではあるものの、訪問客に開放されているのは三階まで。特に苦労もなく、簡素な造りの三階に辿り着くことができた。
「やっぱり、誰もいないな」
「みたいだね……ふう。流石に疲れたね」
「僕はもっとだよ。初日から飛ばし過ぎだろ」
見事に人の気配がない。木造特有の香りが濃く、疲弊しつつある身体に沁み込んでいく。壁際には小さな木椅子が設置されていて、僕が迷わずに腰を下ろすと、郁島も僕に続いた。
「なあ、郁島」
「ん?」
「……いや、その」
何とはなしに声を掛けると、郁島はきょとんとした様子で、僕を見詰めた。
どうしても思い出してしまう。この表情の裏に、一体何があるというのだろう。誰も気付いていない、あのコウ先輩でさえもが見落としている、郁島が抱えている何か。僕はそれに、触れてもいいのだろうか。
「お前さ、もしかして―――え?」
瞬間。視界が僅かに、歪んだ。極々僅かな違和感を覚え、僕は開き掛けていた口を噤んで、周囲を見渡した。
それはまるで、震度一未満の微弱な揺れを、両足が感知したかのよう。普段通りに暮らしていれば気付きようのない小さな変化を、僕は見過ごすことができなかった。
当たり前だ。郁島も僕と同様に、不穏な表情を浮かべていたのだから。
「今の、気付いたか?」
「う、うん。気のせい、じゃないよね」
「多分だけど……念のために、確かめよう」
サイフォンを取り出し、すぐにサーチアプリを起動させる。すると画面上には、ゼロの値が浮かんだ。郁島のサイフォンも同様で、異界化の可能性を否定する結果を示していた。
「ゼロ……ユウキ君、これって」
「まだ分からないさ。方角は……あっちで合ってるよな?」
そのまま受け取るなら、僕らの杞憂。異界化を察知する適格者としての感覚の誤作動で済む話だ。
しかし二人同時に、というのがどうしたって引っ掛かる。サーチの範囲外とも思えない。変化はここからそう遠くない、少なくとも隈本城の敷地内で起きたはずだ。
「ええっと。多分、闇り通路の辺りだと思うよ。行ってみる?」
「他に選択肢があるなら教えて欲しいぐらいだよ」
「それもそうだね。急ごう、ユウキ君っ」
疲労溢れる足に鞭を打って階段を下り、屋外へ出る。闇り通路は本丸御殿の真下、トンネル状のほの暗い通路だ。何度か通った場所だし、道のりは覚えていた。
やがて地下へ繋がる下り坂へ差し掛かり、歩調を緩める。入り口周辺に異変は見当たらない。あるとすれば、この先の何処かだ。
「先に言っておくけど、絶対に先走るなよ。僕ら二人しかいないんだからな」
「分かってるってば」
郁島と横並びになり、少しずつ歩を進める。あまり目立った行動を取っては、他の訪問客の目に留まる。周囲へ気を払いながら、慎重に。
「……ん?」
広大な通路の中央付近で、足が止まった。異界化特有の悍ましさや寒気は感じない。サーチアプリも反応していないし、門もない。
しかし前方の空間に、『揺らぎ』が浮かんでいた。周囲の様子から考えて、僕と郁島以外の目には映っていない。目を凝らしてよくよく見ると、揺らぎの中央には、直径一センチ程の、黒い楕円があった。
「これって……『フェイズ0』、だよな」
「わ、私もそう思う」
フェイズ0。異界化の可能性はゼロ、差し当たっての脅威がない一方で、現実世界との繋がりが僅かに保たれた均衡状態。決まった形はないものの、フェイズ1以上の異界化を治めた後、度々目にしてきた揺らぎだった。
「う、うーん。どうしようか、ユウキ君」
「どうもこうも……正直に言っていい?」
「どうぞ」
「何が何だか分からない」
「……同じく」
この場で何が起きて、何故揺らぎが発生したのか。まるで見当が付かず、眼前の小さな異変に対し、僕らは呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
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誰に相談を持ち掛けるべきか。
コウ先輩と柊先輩は渡米中で、緊急の連絡先は控えていたものの、あの二人の心境を考えると、余計な心配は掛けたくない。三年生の二人組も、大学進学という新たな門出に向けて、色々と立て込んでいる真っ只中。玖我山先輩や遠藤先輩に聞いても有力な情報が得られるとは思えない。
郁島と二人で悩んだ末に、僕らは比較的身近な異界関係者を頼り、連絡を取ることに成功していた。
『それは恐らく、自然発生した揺らぎと考えられます』
「自然発生?」
表向きは家電量販店の店員。対する裏の世界では、ゾディアックに属する腕利きの技師。異界化という現象その物は専門外であっても、ある程度は精通しているはずだという僕の見立てに、間違いはなかったようだ。
『さして珍しい現象ではありません。些細な事象が引き金となり、異界との繋がりが顕れた、というだけの話ですね』
「だけの話って言われてもさ。それってつまり、異界化が起き掛けたってことじゃないの?」
『端的に言えばそうですが、実際問題としてフェイズ0の自然発生は、全国各地で起こり得る変化、言わば悪天候のような物です』
「天気……雨が降ったのと同レベルの扱いって訳?」
『そのご理解で宜しいかと。我々は勿論、ネメシスにおいても深追いはせず、放置をするというのが通例ですね』
通話の音量を大きめに設定していたこともあり、話の内容は傍らの郁島にも伝わっている様子だった。
不安を完全に拭えた訳じゃない。引き金となった些細な事象とやらが、あの場で起きていたことは確かだ。しかし裏の世界を牛耳る二大勢力が不干渉を決め込むなら、僕らがとやかく気に病む必要性はないのだろう。
「ご協力どうも。それで、情報料は必要?」
『お構いなく。それにしても、隈本城ですか。私も一度は訪ねてみたいものですね』
「まあ、止めはしないよ。それなりに楽しめたしね」
『フフ』
「……何笑ってんのさ」
『いえ。良い旅をと、郁島さんにも伝えておいて下さい。ウフフっ』
妙に腹立たしい笑い声が漏れた後、通話が切られる。考えてみれば、フェイズ0の自然発生に関して問えばいいだけの話で、隈本や郁島といったキーワードは不要だった。どうも今回の旅は手遅れ感が付き纏う。
「今の話だと、心配はないみたいだね?」
「そうっぽいね。あーあ、何かドッと疲れた気がする。早くお店を見付けて休みたいよ」
市内の繁華街を歩きながら、通りに並んだ飲食店を見渡す。
時刻は夕方の十八時。昼食を早めに取っていたことに加え、午後は隈本城内を歩きっ放しだったのだ。疲労感と空腹は異界探索後のそれに匹敵する。少しでも早く座りたい。
一方の郁島は、僕の隣で飲食店のガイドブックと睨めっこをしていた。表情から察するに、決めかねているのだろう。
「あのさ、そんなに悩まなくてもいいって。適当に選んじゃえよ」
「でも辛子れんこんなんて、大体のお店には置いてるし……どうしよっかな」
「あー。なら、あれは?」
「え?」
偶然目に留まったのは、落ち着いた外装の一店。料亭と呼ぶには小洒落ているし、上品でグレードがそこそこの和風レストランといった表現がしっくりくる。僕が店頭の看板を指差すと、郁島は戸惑った様子で言った。
「ち、ちょっと高そうじゃない?私達には、少し不釣り合いな気が」
「旅先で贅沢するぐらいいいだろ。それにそっちの心配は不必要」
「あ、待ってよ」
郁島には申し訳ないけど、悩んでいる時間があったら店の外観と感覚で即断したい。僕が支払えば済む話でもある。寧ろ気掛かりなのは、完全予約制とか、観光客増加の影響で席が埋まっていた場合だ。
店内に入るやいなや、料理の香りに加え、酒の匂いが鼻に入った。利用客の客層に想像を働かせていると、店員と思しき女性と視線が重なった。
「二人だけど、空いてる?」
「二名様ですね。今でしたらテーブル席か、お座席にご案内できますが」
「……座席で構わないだろ?」
「う、うん」
郁島の了承を得て、個室を選択する。ゆっくりと足を休ませるなら、後者一択だ。
店員に案内されたのは、店内の奥に位置する一部屋。決して広くはないものの、二人で利用するなら十二分に寛げる空間があった。
「あー、疲れた。足が棒になった気分だよ」
「わわ、すごいすごいっ。美味しそうな料理が沢山ある!」
「注文は任せたから。飲み物だけ選ぼうかな」
「……本当にいいの?け、結構するよ?」
「いいって言ってるだろ」
足を伸ばして天井を仰ぎながら答える。品書きを見ずとも、大方察しは付く。
数分後に郁島がオーダーしたのは、僕のリクエストでもあった地産品の辛子れんこん、馬刺し。加えて天ぷらの盛り合わせと、ご飯物を一品ずつ。オーダー後すぐに運ばれてきた飲み物で喉を潤した僕らは、改めて一息付いて、思い思いの呟きを漏らし始めた。
「何か不思議。この隈本で、ユウキ君と二人でご飯を食べることになんて、考えたこともなかったよ」
「わざわざ口に出すなよな。変な風に聞こえるだろ」
客観的に見て、異様な光景だとは思う。不気味と言ってもいい。一年前の僕がこの状況を目の当りにしたら、きっと絶句するに違いない。
喉が渇いていたこともあり、烏龍茶が入っていたグラスが瞬く間に空になる。次は別の物を頼もうか。品書きのソフトドリンクの欄を眺めていると、郁島が唐突に切り出してくる。
「ねえユウキ君。変なこと聞いてもいい?」
「聞き流してもいいならね」
「女の子と付き合ったこと、ある?」
オンナノコトツキアッタコト。日本語のはずが、全く異なる異国語のように聞こえてくる。脳内での変換がまるで追い付かない。こいつは何を言い出したんだ。
「あのさ。『突き合う』と『付き合う』、どっち?」
「付き合うに決まってるでしょ。どうしてそうやって茶々を入れるかなぁ」
「郁島の場合前者があり得るんだよ……ていうか何なの?何で急にそんな話になる訳?」
努めて冷静に詳細を問うと、郁島が語り出す。
よくある類の話ではあった。空手部に所属する同年の女子が、最近になって同じクラスの男子と付き合い始めた。それが後押しをしたのか、更に別の女子も。立て続けに二人の友人が異性との関係を深めたことで、郁島自身も意識せずにはいられない、らしい。そういうものだろうか。
「ふーん。でも僕にそんな話をされてもね。悪いけど、誰かと付き合った経験なんてないし」
「やっぱりそうなんだ。私はあるけどね」
「ふぁ!?」
不意を突かれ、思わず素っ頓狂な声を上げていた。
郁島に限って、そういった恋愛沙汰とは無関係、浮いた話は皆無だとばかり考えていた。というか郁島の言い回しがいちいち癇に障る。本人にその気はなくとも、見下された気分だ。
「あー、う゛うん。それって、中学の頃の話?」
「うん。中学二年生の時に、男子空手部の先輩から、急にその、告白、されて。私は断ろうと思ってたんだけど、一度付き合ってみればって、周りから勧められてね」
「気は確かかよ。勧められて決めることじゃないだろ」
「わ、私も初めはそう思ったの」
しかし周囲からの熱烈な応援もあり、結局郁島は『まずは友達から』という条件の下で、先輩男子との交際をスタートした。学内では普段通りに接しながら、週末には二人で外出をするような日々が始まったとのことだった。
「それでね。何度かデート、みたいなことはしてみたんだ。一緒に映画を観たり、買い物に行ったりとか。でも……何て言うのかな。上手く、言えないんだけどさ」
「……楽しくなかった?」
郁島は無言で首を縦に振った。表情が暗い時点で、あまり思い出したくはない過去だと言っているようなものだ。僕は郁島に合いの手を入れながら、柄にもない恥じらい声に耳を傾けた。
「色々とね、話はしてみたんだ。好きなこととか、趣味とか、そういうの。先輩は楽しそうに聞いてくれるんだけど……心の何処かで、分かっちゃうんだよ。本当は興味がないのに、話を合わせてくれてるんだなってことが」
「成程ね。郁島も同じで、相手に合わせちゃう自分が嫌になったとか、要はそういうことでしょ」
「えっ。ど、どうして分かったの?」
「何となく。郁島が考えそうなことぐらい、分かるって」
想像に難くない。表面上は朗らかな笑みを浮かべつつ、会話が途切れると居た堪れなくなり、気のない話を振る。端から見れば仲睦まじい男女として映っても、心が笑っていない。郁島は何ごとも卒なく熟すくせに、自分自身に関してのみ不器用なのだ。
それに話を聞いた限りでは、郁島との相性が悪過ぎる。郁島の良くも悪くも盲目的な一面は、年齢差のある関係に適していない。
「大体さ、郁島は無条件で先輩を敬い過ぎなんだよ。年上だから偉い、気を遣えって話でもないだろ」
「あー。似たようなことを、以前にも言われたことがある気がするよ。ユウキ君にも、そう見える?」
「年上と目上は別物だからな。それに誰かと付き合うってことは、対等に立つってことだと僕は思うけど」
「あはは。正論でもユウキ君が言うと説得力が全っ然ないね。あは、あはは!わ、笑わせないでよ」
「お前殴られても文句言えないからな」
グラスの氷を口内に含んで苛立ちを抑えていると、背後の襖が開かれ、オーダーしていた料理の数々がテーブルへと運ばれてくる。
馬刺しや天ぷらは想像通り、僕がよく知るそれと似たり寄ったり。小振りの丼物は魚介の炙りの香ばしさに食欲をそそられる中、見た目的にも一層際立つ存在が辛子れんこん。色彩が独特過ぎて浮いてしまっていた。
「何これ。れんこんの穴に入ってるの、全部辛子?やり過ぎじゃない?」
「これは辛子味噌。そこまで辛くないから大丈夫だよ」
頼んだ僕が言いたくはないけど、箸が付け辛い。回避をするように箸は馬刺しへと向かい、一切れを口に入れる。霜降りならではの甘さと柔らかさに、舌が歓喜の声を上げた。
自然と二切れ目に箸が伸びる一方、郁島は箸を置いたまま、正座の姿勢でテーブル上を見詰めていた。足ぐらい崩せばいいのに。
「うん、そうだよね。私もまだまだ未熟者ってことかな」
「それどの話の続き?」
「ううん、大丈夫。何かスッキリした」
「僕の質問何処いったんだよ」
「でもやっぱり不思議。ユウキ君って……うん。ユウキ君は、コウ先輩とも違うね」
「だから勝手に終わらすなって!」
普段通りのやり取り。マイペースな郁島に翻弄されて、僕は何時だって振り回される。
そう。郁島はいつもと変わらない。だからこそ僕は、見過ごせない。
(多分……違うんだよな)
郁島が抱えるもの。今し方の話は氷山の一角、極々一部に過ぎない。恐らくその全貌は、漠然とした要領を得ない何かだろう。郁島に自覚があるのか、それすらもが不透明。僕自身、明確な目的があってこの隈本を訪ねた訳じゃない。
それでも、僕は―――いや。『僕ら』には、先にやるべきことがある。
他人にとやかく言われても、無視を決め込むなんて真似は、できそうにない。
「なあ郁島。話は変わるけど、明日なんだけどさ」
「隈本城、もう一度行ってみる?」
「へ」
驚きのあまり、口が開いたままだった。先回りをされて面食らう僕を余所に、郁島は微笑みながら、告げた。
「顔にそう書いてあるもん。ユウキ君が考えそうなことぐらい、私にだって分かるんだから」
「……真似するなよな」
危険性は低く、放置をするのが常。専門家の言葉に、嘘偽りはないのだろう。
しかしそれは可能性の話で、現実問題として手が回らないという人間側の都合による結果だ。ただでさえ各地が異界化の脅威に曝される中、フェイズ0の自然発生にまで構っていては、人手が幾らあっても足りない。低気圧が発達する度に、洪水災害という最悪を想定するような愚行なのだろう。
だけど僕らは、ここにいる。少なからずあの場には、フェイズ0の揺らぎを生じさせた何かがあった。それだけは確かな事実だ。
「ああもう。わざわざ隈本まで来て、異界化と関わりを持つなんてね」
「私だって同じだよ。でもユウキ君なら、きっとそう言ってくれるって思ってた」
「まだ何も言ってないけど」
「だーかーら。顔に書いてあるって言ってるでしょ」
きっとこの二泊三日の旅は、僕にとって忘れられない物になる。願望に等しい曖昧とした想いが、胸の中に充たされていく。
だからこそ余計な邪魔はさせない。不必要な道草は取り除いて、僕は郁島と正面から―――
「お待たせ致しました。追加の辛子れんこんになります」
―――向き合って。いやいや、向き合いたいのは辛子れんこん、お前じゃない。
「郁島。これ何皿頼んだのさ」
「二皿だよ。一人一皿。あれ、足りなかった?」
「要らないから!お前この大皿を見て言ってんの?馬鹿なの?」
「ええっ。ユウキ君が食べたいって言うから頼んだのに。美味しいよ?」
「量の問題だって言ってるんだよ!」
結局僕らは全ての皿を綺麗に片付け、酷使した胃袋を気遣いながら、隈本の城下町を後にした。
明日以降、事態が思いも寄らない方向へ急変するだなんて、僕らには知る由もなかった。