空は雲一つない青で澄み切っていた。病棟の屋上に立っているせいか、普段よりも空が近い気がする。全身が受けるそよ風が心地良くて、肺が爽やかさで満たされていく。
けれど、想いが定まらない。心には空虚さばかりが渦巻いている。
「ん……」
頭上を仰いで、陽の光へ手を掲げる。空の青に届きそうな感覚を抱くと同時に、決して届かないという当たり前の事実が、ひどく寂しく思えた。
届かない。私の手は、結局何も触れてはいない。このちっぽけな手で掴み取ろうと願っていた物は、何処にいってしまったのだろう。
「……何してるんだろ、私」
独り言を呟いていると、背後から視線を感じた。振り返った先には、小さな笑みを浮かべたリオンさんの姿があった。
「リオンさん……」
「こんな所にいた。あちこち探したのよ、電話にも出てくれないし」
「す、すみません」
「アッキーはあれね。何かあって落ち込んだりすると、携帯を遠ざけることが多いのよね。今だってサイレントにしてるでしょ」
「うっ」
痛いところを突いてくる。今し方の指摘通り、私のサイフォンはサイレントマナーモードに設定してあるし、リオンさんからの着信にだって、気付いてはいた。
けれど、どうしても出れなかった。何となく気が引けて、見ない振りをしていたのは事実で、自覚もしている。私の悪い癖だ。
「良い天気ね。もうすぐ春って感じ」
「……ですね」
リオンさんは私の隣に立って、同じ視界を共有した。
六階建ての高層から見下ろす杜宮の街並みは、自然と表情を緩ませてくれる。ミツキ先輩やユウ君はこんな風景を日常的に目にしているのだから、羨ましい限りだ。
でも今の私の目には、特別に映らない。重い沈黙が淀んでいるようにしか、思えなかった。
「ねえ。手に持ってるその袋、何?」
「使用済みのティッシュです。泣き過ぎて、もう出ません。色々と」
「……成程ね」
何やかんやあって、一時間以上は屋上にいた気がする。涙は大分前に枯れていた。ビニール袋とその中身は、一人で泣き喚く私を気遣ってくれた看護師さんが持たせてくれた物だ。
手すりに乗せた腕に突っ伏していると、リオンさんの指が私の髪を弄り始める。これはリオンさん側の癖。リオンさんは指先をくるくると回しながら、小声で言った。
「ごめんね。何があったのか、大体想像は付くけど……力に、なれなくて」
「そんなことない。そんなことないです。前にもリオンさんは……九重神社で言ってくれたこと、私は今でも覚えてますよ」
「あー。何か色々喋った気がするわね」
私は絶対に忘れない。十二月十四日にリオンさんが与えてくれた物は、前に進む勇気。彼女が背中を押してくれたから、私は感情と正面から向き合うことができた。
今思えば、あの瞬間からだ。募るばかりだった淡い想いを自覚して以降、リオンさんにはよく相談に乗って貰っていた。大袈裟ではなく、リオンさんがいてくれなかったら、私は未だ足踏みをしていたのかもしれない。いや、きっとそうに違いない。
「私の方こそ、すみません。いつもリオンさんには、甘えてばかりで」
「……そうかな。あたしは寧ろ、逆なんだと思う」
「え?」
俯いていた顔を上げると、笑みは消えていた。リオンさんはとても真剣そうな様子で、何かを決心したかのような表情を浮かべながら、私と向かい合った。
「あたしね。ううん、あたし達、アッキーに隠していたことがあるの」
「隠していた?」
「いつ話そうか迷ってたけど、そろそろいいかなって思ってたし……うん、決めた。今度話すって約束するわ」
隠していたこと。何のことだろう、まるで心当たりがない。それに何故『今度』なんだ。
「こ、今度ですか。今じゃ駄目なんですか?」
「色々段取りがいるのよ。今は無理」
「そういう言い方をされると、すっごく気になりますね。すごーく気になる」
「だめなものはだーめっ」
リオンさんは言いながら、私の頬をつねり始める。両手でぐいぐいと引っ張られ、強引に口尻を上げられた。
「い、いひゃい、いひゃいでふ」
その痛みに、安堵を覚えた。痛みと相まって、出尽くしたとばかり思っていた大粒が、目元に浮かんだ。目の前で意地悪な笑みを浮かべるリオンさんがとても眩しく、愛おしくて。気付いた時には、優しく肩を抱かれていた。彼女の慈しみに、包み込まれていた。
「だからお願い。もう少しだけ、頑張ってみて。アッキーらしく頑張るの。何があっても、あたしはアッキーの味方よ」
「……リオンさぁん」
私らしさ。私らしく頑張る。それが何を指しているのかは分からない。
けれど、できることがあるのかもしれない。今の私にだって、きっと残っている物がある。いつも私を支えて、勇気付けてくれる親友がそう言っているのだ。重い腰を上げるには、それだけで充分。
「あ、ごめん。ちょっと待って」
決意を新たにし始めていると、リオンさんの上着が着信音を鳴らした。リオンさんがサイフォンを取り出して確認すると、番号は高槻先輩の物だった。
「はい、リオンです。うん、まだ病院だけど。何か……え……なに、え?こ、今夜一緒に?そんな、だ、駄目よ。先輩には、ミツキ先輩がっ。あれ、違った?」
まるで意味不明な受け応え。十中八九、リオンさんが早合点をしているだけなのだろう。
想像を働かせていると、リオンさんの声色が次第に低くなっていく。表情にも険しさが増していき、やがて声は私が聞き取れない程に小さくなってしまう。
(リオンさん……?)
通話を終えた後、リオンさんは会話の内容を教えてはくれなかった。隠し事が、二つに増えていた。
___________________
―――深夜一時。
杜宮中央病院の一般病棟四階は、普段と変わらない静寂に包まれていた。特別個室は全て入院患者で埋まっており、ベッド上では誰もがすやすやと寝息を立てている。戌井アキヒロも同様だった。
そんな中、薄暗い廊下を歩く、一人の男性の姿があった。男は白衣の中からサイフォンを取り出して、とある個室の前で立ち止まり、そっと扉に手を伸ばした。
(漸く、か)
随分と遠回りをしてしまった。しかし目当ての物は、この扉の先。患者の頭の中に埋まっている。掘り出す術も手中にある。こうして夜な夜な忍び込んでは、少しずつゆっくりと手に入れればいい。
逸る気持ちを抑えつつ、音を立てないよう扉を開けると―――突然、室内が明かりで照らされた。
「残念だったな。戌井君は別室だ」
「なっ……ミズ、ハラ?」
光に目が慣れるやいなや、ヒノハラは愕然とした。室内には、あり得ない光景が広がっていた。
ベッドで眠っているはずの戌井アキヒロの姿はなく、眼前にはかつての同窓。隣には己と同じ組織に属する女性技師。ミズハラと、アカネ。
ヒノハラは口を半開きにしたまま、その場に立ち尽くしてしまっていた。
「どうした。驚き過ぎて、声も出ないのか?」
「っ……違う。い、一体何のことだ。俺はただ、彼の容体が気になって」
「ならそのサイフォンは何だ。何故紛失した試作機を、お前が持っている」
ヒノハラの手に握られていたのは、数日前にラボから紛失したとされる試作機。異界探索用サイフォンとして進められていた研究の成果が、形としてヒノハラの右手にあった。その事実一つを取っても、最早手遅れ。言い逃れなど、できるはずもなかった。
「僕が言うのも何だが、粗だらけの計画だな。お前の最大の失態は、戌井君を暴行した四人の記憶消去を、後回しにしたことだ」
「ま、まさか、喋ったのか?」
「ああ。すんなりな。お前の目的は、戌井君が有する異界植物の知識なんだろ。新たな霊薬を生み出すためのな。一から丁寧に説明してやろうか?」
狼狽するヒノハラを余所に、ミズハラは淡々とした口調で語り始める。
計画段階その一。先ずはサイフォンの入手。記憶走査を可能とする最先端の試作機を入手すべく、ラボの関係者に取り入って、試作機を奪取する。記憶さえ消去してしまえば足はつかない。紛失したという事実が残るだけだ。
計画段階その二。戌井アキヒロに私怨を持つ人物と接触して、多額の報酬と引き換えに、彼の暴行を依頼する。ある程度の前払いを渡しておき、事へ及んだ後に面会と称して記憶を消せば、自白の可能性もなくなる。
計画段階その三。重傷を負った戌井アキヒロを己の管理下に置き、記憶走査で彼の知識を手に入れる。膨大な知識を一度に得ることは困難ではあるが、長期の入院中に少しずつ走査を続ければいい。
順調に事は運んでいるはずだと、ヒノハラは決め込んでいた。しかし三つ目の蓋を開けてみれば、この体たらく。ミズハラが並べた内容も、事実と相違ない物だった。
「どうだ、大体合ってるだろ。反論はあるか?」
「お、俺は」
「言っておくが下手な真似はやめておけよ。アカネさんが手配してくれた実動員が待機している。もう手遅れだ」
そして屋内は勿論、敷地内には既に十数名の隊員が配置されており、逃走の手段は皆無。あまりに非道且つ残虐な計画を実行した犯人を見逃せるはずもなく。疾うの昔に、ヒノハラは袋の鼠に陥っていた。
「馬鹿なっ……こんな早くに、何故なんだ」
「戌井君を見れば察しは付くさ。私怨による暴行にしては、外傷が下半身に集中し過ぎている。顔部や頭部に至ってはほぼ無傷だ。彼の脳内に眠っている情報に障りが出ないよう、お前がそう指示したんだよな」
「た、たったそれだけで、俺に辿り着いたのか?」
「言っただろ。粗だらけなんだよ。証拠は複数上がっている。僕らがいなくたって、遅かれ早かれお前は終わりだったんだ」
ミズハラは拳を固く握り締め、わなわなと震わせながら、一歩前に出た。
溢れんばかりの自責の念。引き金を引いてしまったのは、己の軽率な行動。ミズハラはやり場のない憤りを胸に、歩を進めた。
「後悔してるよ。教授と戌井君が接触したことで、教授が彼の協力を得たと勘違いしたんだろ。彼の知識を独り占めにしようとっ……そのためにお前は、彼を手に掛けたんだ」
「ち、違う。俺は、俺はただ、『科学』のために」
「……科学だと?」
ミズハラの足が止まる。対してヒノハラは軽やかな口調で、言葉を並べた。
「お前だって分かってるはずだ!異界化は天災とは違う。地上に存在する全ての生命にとっての、秩序の何もかもを根底から踏み躙る非現実だ。だから俺達のような人間がいるんだろ」
「何が言いたい?」
「生命が抱える問題を解決に導き、幸福と健康を保障するために科学がある。そのための科学だ!独り占めじゃない、俺は異界学の発展のための犠牲を敢えて自ら―――」
―――ガタン。ヒノハラの声を遮るように、荒々しく病室の扉が開かれる。その先に立っていたのは、玖我山リオン。ヒノハラは彼女の形相に、思わず言葉を忘れた。
「アンタに何が分かるのよ」
頂点に達した憤怒の極み。今にもヒノハラを手に掛けてしまいそうなリオンの眼に、ミズハラやアカネまでもが圧倒されて、たじろいでしまう。
「アンタにアキの何が分かるの。アキは必死になって頑張って、頑張って、ずっと頑張ってたのに!あんなに傷付いてっ……どうして平気でいられるの!?ふざけんじゃないわよ!!」
「ま、待ってくれ。何を言って」
「何が科学よ、何が異界学よ!返して、返せ!!アキの想いを返してよ!!」
「その辺にしとけ」
思いの丈を叫びながら詰め寄るリオンの肩に、彼女の背後に立っていたシオの右手が置かれた。続いてその手は、リオンの頭へ。彼女を制止すると共に、憤激の全てを受け止めるかの如く、シオが静かに言った。
「静かにしようや。みんな、起きちまうだろ」
「あたしはっ……!」
「もういいんだ。帰って飯でも食おうぜ。何か作ってやるよ」
言葉は穏やかで、一方の表情はリオンと同様、感情を隠そうともせず露わに。二人から向けられた視線に射抜かれたヒノハラは、立っていることすら儘ならず、その場に崩れ落ちていた。
「ヒノハラ。僕がお前だったら、こんな遠回しな真似はしない。戌井君を拉致監禁すれば済む話だ」
「……何だと?」
「だがお前にはできなかった。他者の手を汚しておいて、自分は平然と暮らす道を選んだんだ。お前は中途半端だよ、ヒノハラ。ヒトとしての尊厳を捨て切れず、科学のために悪魔へ身を捧げることもできずに……お前はもう、どちらでもない」
人道を踏み外した末には、何もなかった。欲望と想いが交差をした果てに、残されていたのは、亡骸のように空っぽとなった男が一人。学生時代にはあったはずの純粋な知的好奇心は、目覚め前に見ていた夢のように、消え失せていた。
___________________
事態が急展開を迎えた一方、大きく取沙汰はされなかった。重傷者を生み出した暴行事件と言えど、世間にとっては指して珍しくもない。当事者は心を乱しつつも、まるで何事もなかったかのように、また新たな一日が訪れる。そして―――
「よお。起きてたか」
「梧桐さん……チワッス」
戌井アキヒロの病室を訪ねたのは、大きな紙袋を手に吊るした梧桐エイジだった。梧桐が病室の丸椅子に腰を下ろし、紙袋を足元に置くと、アキヒロは素っ気のない声で言った。
「わざわざいいッスよ、見舞いなんて。すぐに治るもんでもないですし」
「クク、ひでえ言われようだな。それはそうと、話は聞いたぜ。お前も厄介事に巻き込まれちまったもんだな」
「……自分も、聞きました」
昨晩に発覚した一連の真実は、二人の知るところでもあった。主犯は暴行に及んだとされていた四人ではなく、彼らを操っていたヒノハラ。己の担当医師が計画的犯行の首謀者であり、私怨による報復ではなかったという事実に、安堵に似た感情を覚えつつも、しかし怪我の治りが早まる訳ではない。
何より、取り戻すことが叶わない、現実がある。アキヒロが胸中で呟いていると、梧桐がしたり顔をして切り出す。
「まあいい。今日はこいつを渡したくてな」
「食い物なら間に合っ…て……?」
梧桐が紙袋から取り出したのは、色取り取りの折り鶴。一目見て千羽鶴と分かるそれは、紙袋一杯にぎっしりと詰められており、アキヒロは呆け顔で無数の鶴を見詰めていた。
「な、なんスか、それ。そんな量、一体誰が」
「職場の野郎共だよ。早く帰ってきやがれってことだろうな」
「えっ……え?」
アキヒロが戸惑うのも無理はなかった。気遣いはともかく、彼が勤めていた先は既に過去の居場所。今回の一件で信用を失い、御役御免となった身の自分に対して、「帰ってこい」。どうしたって、理解できない。
昨日と話が違い過ぎだ。一体何がどうなっている。複雑そうな面持ちのアキヒロに、梧桐は続けた。
「あの嬢ちゃんだよ。俺も偶然居合わせたんだが、昨日の夕刻に倉庫を訪ねて来てな」
「嬢ちゃんって……アキが?」
「ああ。倉庫のど真ん中で、従業員全部を相手取って、頭を下げやがったんだ。何度も何度も、でっけえ声で喚きながら……仕舞いには、土下座までしてな。手足を汚して、顔をくしゃくしゃにして、何度も、何度も」
アキの言葉を、梧桐は明確に覚えてはいなかった。
初めは子供の戯言程度にしか聞こえなかった。あまりに身勝手で、激情的で、職場の都合や体裁に見向きもしない、目を背けたくなる程に痛々しい様に―――どうしようもなく、胸を打たれて。必死になってアキヒロの心意気と人格を説き続ける姿に、一人、また一人と心を動かされていき、それらが形を成した物が、千羽鶴だった。
「あんな女、見たことねえよ。青くせえガキに違いはねえが……おう、よく聞け」
梧桐は大きな右手でアキヒロの頭を鷲掴みにして、凄みを利かせた面持ちで告げた。
「てめえも男なら、二度とあんな真似させんじゃねえ。くっだらねえもんぶら下げてねえで、正面から向き合えや」
「俺は……いて、いってえ!?うわマジいってえ!?」
梧桐はパシンとアキヒロの右脚を叩くと、痛みに悲鳴を上げるアキヒロに構うことなく、立ち上がって踵を返した。アキヒロは涙目でギブスを擦りながら、梧桐の背中に声を掛ける。
「痛ぅ……もう、行くんスか?」
「後がつかえてるみてえだからな。気が向いたらまた来てやるよ」
「は?」
ひらひらと手を振って病室を出ていく梧桐と入れ代わりで、入口には複数人の顔ぶれが並んだ。
アキヒロは思わず目を疑った。年端もいかない少年少女らが、計三人。すぐには思い出せず、しかし覚えがあった。三人の内、アキヒロの視線に気付いた二人の男子が、アキヒロの下へと駆け寄って来る。
「兄ちゃん、久し振り!元気……じゃねーか。入院してんだもんな」
「お、お前ら。フウタに、ショウゴ?」
「お久し振りです、アキヒロさん。今日はみんなで、お見舞いに来させて頂きました」
去年の夏。杜宮が異変に見舞われた際、アキヒロやアキと共に神社の聖域に立て籠もっていた小学生らが三人。最後の一人であるチヒロは、ゆっくりとした足取りでフウタとショウゴに続いて、やがてフウタの隣に並んだ。
「お兄ちゃん……あし、いたいの?」
「足?あ、ああ。少しな」
「う、うぅ。うええぇえ、えええ」
「ちょ、おいこら。何でお前が泣くんだよ?」
唐突に声を上げて泣き始めてしまったチヒロは踵を返して、後方に立っていた男性の足に縋り付く。
アキヒロは勿論、男性にとっても互いに初対面。しかしチヒロとその男性の様子から、アキヒロはすぐに察した。
「突然のことで申し訳ない。本来ならもっと早く、こうして君を訪ねるべきだった」
「アンタは……チヒロの?」
男性が頷きで応える。チヒロの父親を名乗った男性は、足元で泣き散らすチヒロの頭を撫でながら、優しげに語った。
「あの大地震に襲われて、チヒロを見失ってしまった時は、生きた心地がしなかった。男手一つで育ててきたこの子を、君は……ありがとうアキヒロ君。君は一人娘の、命の恩人だ」
「お、俺は偶然、拾っただけッスから。別に、何も」
「ありがとうございます。ありがとう、本当にありがとう」
自分の倍以上の年齢の男性が、大粒の涙を溢し始める。未だかつて経験したことのない、生まれて初めての感情を、アキヒロは抱きつつあった。
彼の身を案じてくれる少年らがいる。
彼と痛みを分かち合い、涙を流す少女がいる。
心の底から感謝をされて、目頭が熱くなる。
狭苦しい一室でのやり取り。小さな想いの重なり合いが、彼の世界を広げる。知らなかった世界に一歩足を踏み入れた途端、足の痛みが嘘のように和らいでいく。
知らなかった。こんな世界は見たことがない。こんな自分を、自分は知らない―――
「ねえみんな。ちょっとの間、お姉ちゃんとお兄ちゃんの二人だけにして貰えないかな」
「えー。お楽しみ会、ここでやるんじゃねーの?」
「それはまた今度の話。ごめんね、ちょっとでいいから」
―――いや。知らない振りをしていただけだ。ずっと前から、知っていた。教えてくれたのは、紛れもない彼女。
レッドブラウン色の、少々地味めな眼鏡。髪型は活発さを思わせるショート。伏し目がちな小顔と、馬鹿丁寧な口調。七月八日にアキヒロが出会った、あの時と同じ出で立ちの遠藤アキが、病室に一人、立っていた。
「えーと。あの、アキヒロさん?何か言ってくれないと、すごく困るんですけど」
「……何だそれ」
「何って、眼鏡です。それにほら、髪型も元通り。今朝切りました」
「そうじゃねえよ。つーかお前、眼鏡要らねえだろ。視力は戻ってんだから」
「寧ろ目が痛くて仕方ないです。レンズに度が入ったままなので、さっき階段で転んじゃいました」
「お前馬鹿だろ!?」
馬鹿呼ばわりでは済まされないアキの愚行に、アキヒロは思わず半身を起こした。
眼前には、やはり遠藤アキがいた。膝の擦り傷に絆創膏を貼った、照れ笑いを浮かべるアキの姿を、アキヒロは直視できなかった。代わりに俯いて、柄にもない声を漏らすことしか、できなかった。
「何なんだよ、クソ。どうして……どうして、俺なんか」
「……アキヒロさん」
アキはそっと、アキヒロの頭を抱いた。
生々しい身体の匂いが、アキヒロを包み込む。アキの息遣いと感触を全身で感じながら、アキヒロは全てを受け止めた。
「いい加減、分かって下さい。みんな貴方を必要としている。独りじゃないんです。何より私が、傍にいて欲しいから」
和らいだはずの痛みがやって来る。右の太腿が熱を帯びて、じんわりと広がっていく痛みが、生きているという実感を与えてくれた。
幸福な人間がいれば、不幸な者もいる。誰もが明日の可能性を広げようと必死になって、誰かを愛し、愛そうとしている。この世界の片隅で―――二人も。
___________________
日付が変わって、終電が杜宮駅を発った頃の深夜帯。私は九重神社に繋がる石畳の階段を上りながら、目の前を行くリオンさんの背中を追っていた。
「り、リオンさん。こんな夜中に、いいんですか?」
「大丈夫よ。ソウスケさんにも許可は貰ってるしね」
隠していたことを話したいから、今晩一緒に来て欲しい。そんなリオンさんの唐突な誘いに応じて向かった先が、九重神社。約束時間はまさかの午前零時で、初めは何の冗談かと思ったけれど、リオンさんは有無を言わさずに、私をアパートから引っ張り出してしまっていた。
「隠していたことって、九重神社に関係があるんですか?」
「んー。まあ、あるにはあるわね」
「……そろそろ話して貰えます?」
「そう急かさないの。あ、いたいた」
「えっ……た、タマキさん?」
やがて見えてきた鳥居の傍らには、タマキさんの姿があった。既に就寝したとばかり思っていたタマキさんは、特に驚いたような様子もなく、リオンさんと視線で会話をしていた。
この展開は何だ。私は何も聞かされていないというのに。
「え、ええっと。これ、何ですか?」
「シー、静かに。ほら、こっちに来て」
タマキさんに腕を引かれて、言われるがままに声を潜める。鳥居の裏に隠れるような形となり、私達は小声で会話を交わした。
「タマキさん、何時からここに?」
「十分前ぐらいかしら。アキ、あれが見える?」
そっと鳥居から顔を覗かせて、夜の暗闇に目を凝らす。
僅かな月明かりが照らしていたのは、人影。拝殿の前に立っていた女性の背中は―――とても小さくて。私は一目で、理解した。視覚ではなく、本能的に理解していた。
「っ……お母、さん?」
人違いかと思いきや、違った。錯覚や幻の類でもない。十数メートル先には、お母さんの背中があった。
到底信じられなかった。それもそのはず、こんな可能性はゼロだったはずだ。それなのに、どうして。
「ゴメンね、アキ。コマキ姉に言われて、ずっと黙ってたんだけど……最近はいつもあんな風に、夜になってから出歩いていたの。夜の散歩、みたいな物かしらね」
単なる夜の散歩、気紛れでは済まされない。常人ならともかく、お母さんでは話がまるで異なってくる。
今年の春に入って以降、お母さんの心は常に不安定だった。お父さんとお兄ちゃんを亡くして、家族の居場所だったお店を手放してから、精神状態は悪化の一途を辿っていた。
その苦しみは、本人にしか理解し得ない。両親との会話がやっとで、他人の視線に恐怖を抱く。実家から一歩も出られず、安定剤なしでは真面な生活を遅れない。睡眠導入剤抜きでは夜も眠れない。外の全てが苦痛で、私と電話で会話すらできない。時折送られてくる短文のEメールが精一杯。
そんなお母さんが、外を出歩いている。人気のない深夜とはいえ、今でも眼前の光景が、夢の一幕のように映ってしまう。
「去年の暮れ頃から、回復の兆しはあったのよ。今じゃああやって、深夜なら外に出ることもできるしね」
「そう、だったんですか。でもどうして、私に隠していたんですか?」
「言ったでしょ。コマキ姉からそうしてくれって頼まれていたのよ。アキに心配を掛けたくなかったみたい。焦って無理をしてるって、そう思われたくなかったんだってさ。それに、『あれ』の件もあったから」
「はい?」
首を傾げた私の肩を、リオンさんがぽんぽんと叩く。振り返ると、リオンさんの手には一冊のノートのような物があった。
「これって……リオンさん、これは?」
「そうね。交換日記、みたいな物かな」
「日記?誰と、誰のですか?」
「アキのお母さんと、あたし達の」
「え……えええ?」
恐る恐るノートを開いて、ページを捲る。まじまじと見詰めると、そこには驚愕の内容が綴られていた。
全部、私だった。私に関することが、直筆で書かれていた。日付の横を見れば、誰がペンを走らせたのかは分かる。X.R.Cメンバーをはじめに、クラスメイト、教職員。異界関係者、女子テニス部の先輩、アルバイト先、ガーデンハイツ杜宮の住民に、友人知人が勢揃い。そしてその全てに対する、お母さんの返信。
訳が分からない。私の知らぬ間に、こんな日記が書かれていただなんて。
「タマキさんから相談されて、何かできないかなって思ってさ。黙っててごめんね、このとーり」
「あ、謝らないで下さい。でも……えっ。これ、リオンさんの案だったんですか?」
私が問うと、リオンさんは遠慮がちに首を縦に振った。少しだけ寂しげなその表情の意味が、私には分からなかった。
「ずっと考えてたの。あたしはね、いつだって一生懸命なアッキーが好きよ。あたしも負けてられないって思えるし……でも時々、度が過ぎるっていうのかしら。どうしてそこまで頑張れるんだろうって、分からなくなる瞬間もあった」
「……初耳です」
「こんな話、あたしも初めてよ。でもね、最近は何となく分かってきたの。アッキーは多分、もっと甘えていいんだと思う」
「甘えて……いい?」
「ん。タマキさんは別として、家族に甘えたこと、最近あった?」
返答に困ってしまい、声が出ない。返しようがない問いだった。
少なくとも、杜宮に来て以降はない。祖父母とは付き合いが薄いし、親戚付き合いもない。伏島にいた頃も、毎日が一杯一杯だった。お兄ちゃんのためのテニスと、家業であるベーカリーの手伝いで一日が終わる。家族仲は良かったと思うけれど―――甘えるの定義が、そもそもよく分からない。
「ほら、やっぱり。たまには肩の力を抜いて、思い切って飛び込んでみたら?」
「まま、待って下さいよ。私には、何が何だか」
「お母さんなら、あそこに居るじゃない」
「っ……で、でも」
できない。できる訳がない。だって私は、お母さんは。
戸惑っていると、タマキさんが私の背中を優しく押した。タマキさんが流す涙の意味も、やはり私には分からない。
「大丈夫。コマキ姉だって、アキのために頑張ったのよ。コマキ姉はアキを想って、影でずっと頑張ってきたの。だからお願い、行ってあげて」
「私が……あそこ、に」
「もう我慢なんてしなくていいの。もうっ……大丈夫、だから」
一歩だけ、歩を進めた。砂利が小さな音を立てて、真夜中の境内に溶け込んだ。
もう一歩。一歩ずつ、一歩ずつ。胸を打つ鼓動と共に、自然と足が早まっていく。
「お母さん」
「……アキ?」
耳に届いた声が、身体中を駆け巡る。
ずっとずっと必死になって、懸命に抑えていた『何か』が、堰を切ったように溢れ出す。
「お母さんっ……お母さん、お母さん!」
「そんな……アキ。アキ、なの?」
止め処がなかった。視界が歪んで、顔が見えない。もっと近くで、もっと、もっと。
やがて手が届いた唯一の最愛を、私は抱いた。ひどく痩せ細っていて、割れ物のように頼りない身体は、光と希望で満ちていた。
強く、強く抱き締めて。私は、私になっていた。
「お母さん。わたし、頑張った。頑張ったよ。すごく、頑張った」
「知ってるわ。全部知ってる。みんなが、教えてくれたから」
「わたし、も。わたし、私ね。もっと頑張る。二人で、いたいから」
「アキ……ごめん、ごめんね」
「いつでもいいの。時間が掛かってもいいからっ……一緒にいて。お店を、一緒に。私と一緒に。二人がいい。わたし、二人でいたい」
先の人生のことなんて分からない。夢のように消えてしまう儚い望みだとしても、私は願い、想い続ける。
世界に、私は独りじゃないから。皆が支えてくれるこの世界で―――これからも、生きていこう。一生懸命に、そして時折誰かに、寄り添いながら。