5月10日、日曜日。大型連休が過ぎ去り、木々の緑が深さを増し始める季節。
残春の陽気に溢れる昼下がりに、私は部屋の窓を開けて、新鮮な外気を胸一杯に吸い込んだ。
「んんっ・・・・・・はぁ」
体温は平熱、気分は上々。寝たきりの生活が続いたせいで若干の気怠さは残っているけど、健康体と言っていい。身体はすっかり元通りになってくれていた。
元々昨日の時点でほぼほぼ快復はしていたし、市内の総合病院が休日も受診可能だったおかげで、既に登校の許可も貰っている。そろそろ学園へ顔を出さないと、私という存在を忘れられそうで怖い。
(もう5月の10日、かぁ)
しかし今日で九日目の休日か。曜日の並びも相まって、転入してひと月も経たないうちに随分と多くの休日を過ごしてしまった気がする。早々にモリミィにも迷惑を掛けてしまったし、何より二日間の授業の遅れは私にとってかなりの痛手だ。明日はみんなのノートを写す作業だけで休憩時間が終わってしまうかもしれない。
それもこれも、全部ユウ君のせいだ。今度会ったら思い付く限りの文句を吐いてやろう。
「・・・・・・あはは」
振り返り、室内を見渡す。この四日間で、私は沢山の親切心に触れた。
病にふせっている間の食事はお世話になりっ放しで、アイリさんはよく『カーシャ』というお粥に似た郷土料理を作ってくれた。タマキさんやシホさんも度々様子を見に来てくれたけど、その場の勢いで酒盛りを始めたこともあった。部屋にGが現れた時にはソラちゃんが颯爽と登場し、「これを使って!」と私が手渡した殺虫スプレーを握り、「助かります!」と言いながらスプレー缶の底面でGを叩き潰してくれたおかげで、私は即座にお手洗いへと駆け込み吐いた。添い寝をするモリマルぬいぐるみも二体に増えて、妄想の幅が広がった。色々と間違っている気がするけど、まあよしとしよう。
商店街のみんなも同じで、寧ろ手厚過ぎる看病と心遣いに戸惑いを覚えた。というのも、伊吹君から聞いた話では、私はウィルス性の奇病に倒れたということになっていたようだ。一応否定はしたけど、心温まる思いやりの数々が、素直に嬉しかった。おかげ様で完治したことだし、今日はお礼もかねて食器やらタッパーやらを返しに回ろう。こういうことは早い方が良い。
―――ピンポーン。
「えっ」
上着を脱ごうとスウェットに手を掛けたところで、呼び鈴が鳴る。
困った。今日は大事を取って朝から眠っていたせいで髪型が崩れている上に、少し汗臭いからシャワーを浴びようと思っていたところなのに。こんな時にお客さんか。
(ま、まずい)
急いで乱れた髪を直し、消臭スプレーを首元にひと吹き。ついでに深呼吸。一人暮らしには慣れてきたけど、来客時はどうにも落ち着かない。呼び鈴が鳴る度に緊張してしまう。しかも玄関扉のドアスコープは故障中で、扉の向こう側を視認できないのだから尚更。この部屋唯一と言っていい欠陥部分だ。
そうこうしているうちに二回目の呼び鈴が鳴り、私は急ぎ足で玄関へ向かった。
「は、はい」
サンダルを履いて、ゆっくりと扉を開ける。その向こう側に立っていた男性は長身で、自然と見上げる形になり―――私は一瞬、目を疑った。
「・・・・・・お兄、ちゃん?」
「あん?」
男性が目を細めて疑問符を浮かべると、たちまちに幻覚は立ち消えた。
在ったのは現実。屈強な身体付きと分厚い胸板、紺色の腰エプロン。後頭部でまとめられた金髪が眩しく、顔立ちは整っている一方で凄味に満ちている。見ず知らずの男性が、眼前で仁王立ちをしていた。
「あっ・・・・・・え、えと、その」
「人違いみてえだな。まあいい、お前さんが遠藤―――」
「ご、ごめんなさい!」
瞬く間に混乱の極みに陥った私は、勢いを付けて外開きの扉を閉めた。
すると男性の右手が扉へ引っ掛かり、手首から先が隙間に挟まれて、男性は痛々しい声を上げた。
「ぐあぁ!?」
「えっ」
慌てて再度扉を開くと、右手首を押さえて蹲る男性の姿があった。私は明確な『死』を覚悟した。
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男性は高幡シオと名乗った。
驚いたことに、高幡先輩は私と同じ杜宮学園に通う三年生、私と同年代だった。住まいは商店街の外れにひっそりと佇む蕎麦処『玄』。下宿をしながら出前や雑務をこなす見習いのようなもの、だそうだ。
言われてみれば、連休中にタマキさんとシホさんの誘いで玄を訪ねた際、厨房の奥にそれらしき人影を見たことがあった。あの時は蕎麦焼酎と天ぷらの盛り合わせで長居をしていた―――のは私以外の二人だったけど、見事に巻き込まれたこともあり、高幡先輩は私の顔を覚えていたらしい。完全な初対面という訳でもなかった。
「ほ、本当にごめんなさいっ」
「気にすんなや。俺の方こそ、驚かせちまって悪かったな」
一時は生きた心地がしなかったけど、高幡先輩の右腕は無事だった。「そんなヤワな鍛え方をしちゃいねえ」と、高幡先輩は袖を捲って丸太のような右腕を見せてくれた。多分高幡先輩は素手でリンゴを握り潰せる系の男子なのだろう。
「それで、身体の方はどうなんだ」
「は、はい?」
「オヤッさんと奥さんから、1000万人に一人の奇病だって聞かされてたんだが」
「・・・・・・あの、胃腸炎です。ただの」
また随分と誇張して話が伝わっていたようだ。そんな重病の患者が自宅療養をする訳がないだろうに。もしかしたら、1000万人に一人の瞳を持つアイリさんの話と混ざってしまったのかもしれない。
苦笑いを浮かべていると、高幡先輩が左手にぶら下げていた袋を差し出してくる。
「差し入れの配達をオヤッさんから頼まれてな。出前ついでに立ち寄ったって訳だ」
「さ、差し入れ、ですか」
袋の中には、小ぶりの布に包まれた小さな土鍋やレンゲが入っていた。土鍋はまだ温かく、主張し過ぎない和風の香りが空っぽの胃袋を刺激した。
「卵粥だそうだ。ウチは月見物や丼物に新鮮な鶏卵を使ってる。味は保証するぜ」
「で、でも。私、もう体調は良いですし」
「なら尚更食っとけ。病み上がりの身体には栄養が必要だ」
高幡先輩が小さな笑みを浮かべた途端、再び過去の記憶が呼び起こされた。
気のせいじゃない、やはり似ている。体格や顔のパーツは勿論、何より口角を僅かに上げて笑うこの表情。若干の不器用さが垣間見える笑顔を見る為に、私は必死になって背中を追い続けた。あれからまだ一年も経っていないというのに、遠い昔のことのように思えてしまう。
「どうかしたのか?」
「え?あっ、えと。何でもないです。その、今日はわざわざありがとうございます」
「礼ならオヤッさんに言え。器は今度取りに来る」
高幡先輩は言い終えてから踵を返し、一階へ繋がる階段の前で立ち止まった。すると背中をこちらへ向けたまま、聞き慣れない単語を口にした。
「こいつは別件なんだが、お前さん『BLAZE』を知ってるか」
「ぶれ・・・・・・いえ、聞いたことがないです」
「知らねえならいい。邪魔したな」
高幡先輩は階段を下り、出前用と思われる古びたオートバイを走らせてアパートを後にした。私はその大きな背中を見送りながら、思い出の中にある背中と重ねていた。
それにしても、また貰い物が増えてしまった。小日向君との一件もあるし、お返しのパンは今度まとめて焼いてしまおう。そう心に決めて、私は美味しそうな昼食に喉を鳴らした。
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出来立ての卵粥に舌鼓を鳴らした後、私は溜まりに溜まった洗濯物を済ませてから商店街に出て、お礼を言いながら回った。
既に時刻は午後の15時を過ぎており、商店街には部活帰りと思われる杜宮の学生の姿が散見された。そんな中で一際目立っていたのは、高幡先輩のように腰エプロンを付けて声を張る、私のクラスメイトだった。
「あの、伊吹君。こんにちは」
「ん・・・・・・うお、遠藤さんじゃん。あれ、もう外に出て大丈夫なのか?」
「はい、おかげ様で。今日はお皿をお返しに来ました。ありがとうございます、すごく美味しかったです」
「いいっていいって。俺は届けただけだしな」
伊吹君の実家は青果店を営んでいる。卵粥も絶品だったけど、色取り取りの野菜を使ったお粥も栄養満点で、衰弱し切っていた私にとっては貴重な食事だった。届けてくれた時には、伊吹君の幼馴染らしいチズルさんも同行していた。チズルさん曰く「見張り」だったそうだけど、気に掛けてくれていただけでも大変に有難かった。今日は不在みたいだから、また今度お礼を言っておこう。
「今日はお店のお手伝いですか?」
「この腕じゃ遊び歩く訳にもいかねえしなぁ。今のうちにポイントを稼いどこうと思ってさ」
伊吹君が腕を負傷したのは、連休が明けてすぐのこと。伊吹君はスイカ―――少し違う気がするけど、確かそんな名前のアイドルグループのライブ帰りに、交通事故に巻き込まれて右腕の手首を挫傷してしまったと、シオリさんからメールで聞かされていた。大事に至らずに済んで良かったと思いたい一方で、利き腕が全治二週間では伊吹君も何かと不便に違いない。・・・・・・高幡先輩の手首も、大丈夫だよね。
「無理だけはしないで下さいね」
「おう、あんがとよ。そうそう、コウも今隣で働いてるみたいだぜ」
「時坂君、ですか?」
私は向かって青果店の左隣にある『ヤナギスポーツ』を見てから聞き直した。
「店主のヤナギさんが午後から用事があるとかで、コウが店番を任されたんだってよ」
色々なアルバイトに手を出していることは本人からも聞かされていたけど、スポーツ用品店もその一つだったのか。想像以上に手広くやっているようだ。
ヤナギスポーツには何度か足を運んだことがあるし、時坂君にも色々と心配を掛けてしまった。ちょうどいい機会だから、少し顔を出して一言声を掛けておこう。私は伊吹君にもう一度お礼を言ってから、ヤナギスポーツへ向かった。
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「いらっしゃいま・・・・・・って、遠藤?」
「こんにちは、時坂君」
自動ドアを潜ると、黒のエプロン姿の時坂君がレジカウンターの向こう側に立っていた。何というか、一見しただけで様になっているように思える。流石は時坂君。こんな風にアルバイト中の彼と出くわすのも、これが三回目か。
私が挨拶をして明日から登校できる旨を伝えると、時坂君は安堵の色を浮かべた。伊吹君とも話したことだし、今日のうちに見知った面々には話が伝わることだろう。
「授業のノートを借りるならジュンのをお薦めするぜ。あいつはいつも綺麗にまとめてるからな。シオリのはやめとけ、イラスト付きで本人にしか理解できねえから」
「あはは、分かりました。時坂君は、この土日もアルバイトですか?」
「いや・・・・・・昨日まで、色々あってな」
大きく伸びをしてから溜め息を付く時坂君。色々が何を差しているかは分からないけど、かなり疲労が溜まっているようだ。こんな様子ではまた明日にでも、九重先生やシオリさんに小言を並べられてしまうかもしれない。
「そういや、ヤナギさんが言ってたけど。遠藤はちょいちょいここに来るんだってな」
「それは・・・・・・はい」
時坂君も知っていたか。ここで否定しても仕方ない。
私は振り返り、店の奥に設置されていたディスプレイの方へ歩を進めて、陳列されていた品々を見上げた。店内には来客が私一人だったこともあり、時坂君も私の隣に立ちながら言った。
「遠藤って、テニスをやってたのか?」
「・・・・・・軟式を、以前に」
「でも部活動はやってなかったって言ってたよな。地元のスポーツクラブに入ってたとかか?」
「いえ、そういう訳では」
私の曖昧な返答を訝しむ様子を見せながらも、時坂君はそれ以上を聞こうとはしなかった。相変わらず察しが良い人だ。私の答えは半分が事実で、もう半分は嘘と言っていい。
私はディスプレイのラケットの一本を取り、グリップを握った。杜宮に来て以降、私は思い出すようにヤナギスポーツを訪れては、自分自身でもよく分からない衝動に駆られて、こうして新品のグリップを握ることがあった。店主のヤナギさんも時坂君同様に深く問い質そうとはせず、テニスに関する取り留めのない話題で花を咲かせることが常だった。
私は何をしたいのだろう。何を思い出しているのだろう。高幡先輩に肉親を重ねてしまったことも相まってか、益々自分が分からなくなる。
「軟式テニス、か。俺はよく知らねえけど、老若男女を問わない大会って、やっぱり珍しい物なのか?」
「え?」
「ほら、あれだよ」
時坂君が指差したのは、レジカウンターの奥。非常口の隣にある掲示板には、スポーツクラブの勧誘チラシや各種競技用品の広告等が貼られており、中央のポスターにはラケットをフォアハンドに構える、テニス選手の姿が写っていた。言われてみれば結構目立つポスターではあるけど、普段はレジにヤナギさんが立っていることが多かったせいか、全く気付いていなかった。
「杜宮杯テニス大会ってのが、年に一度開催されてるらしいんだ。今日がその開催日で、ヤナギさんも大会の運営に一枚噛んでんだよ。俺が店番やってんのも、それが理由でさ」
「杜宮杯・・・・・・珍しい、とは思いますよ」
スポーツ競技のほとんどは、当然ながら男女間での区別がなされる。軟式テニスも例外ではなく、男子テニスと女子テニスに二分するのが基本だ。ジュニアとベテランがやり合うことはあるし、混合ダブルスなんかも存在はするけど、一切の区別が無い大会はそうそう無い。
杜宮杯という大会名から察するに、市が主催しているからこその試合形式なのだろう。イベント的な要素を含んでいる物なのかもしれない。
「ヤナギさんの話じゃ、杜宮の学生も出てるらしいぜ」
「っ・・・・・・!」
吸い寄せられるように自然と足が動き、私はポスターに記載されていた内容の詳細に目を通した。開催日は確かに今日で、形式は予選無しのトーナメント制。場所は市内の北端にある市民体育館だった。
大会の規模やコート数は分からないけど、場所が一般的な体育館で出場枠一杯のエントリーがあったと仮定すると、開催時刻から考えれば今現在は準々決勝辺りだろう。少なくとも、まだ終わってはいない筈だ。
「もしかして、今から向かうつもりなのか?」
「えと、はい。時坂君、この市民体育館の場所って分かりますか?」
「結構遠いぜ。駅から離れてるし、自転車じゃ・・・・・・いや。確か休日は市営のバスが通ったっけ。上手いこと時間が合えば、バスが最短だな」
市営バスなら何度か利用したことがある。停留所も商店街を出てすぐだ。
私は時坂君に一言だけを置いてから、急ぎ足で店内を後にした。胸の奥底から込み上げてくる衝動の正体は、やはり私にも分からなかった。
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停留所へ着いた頃には、若干息が切れ始めていた。身体が鈍っているせいか全身が重く感じられ、私は深呼吸をして冷静さを取り戻した後、バスの時刻表と睨めっこをした。
「・・・・・・あれ?」
携帯電話に表示された現時刻と、バスの発着時間を見比べる。ちょうどピッタリの時間、15時23分が両者に表示されていた。幸運にも絶妙のタイミング―――ではなく、待てども待てどもバスは現れず、既に停留所を発車した後だと悟ったのは、それから数分間が経った後のことだった。
参った。市民体育館の大まかな場所は時坂君から教わったけど、やはり自転車では時間が掛かり過ぎる。しかし次のバスを待つぐらいなら、自転車を使った方が幾分かは早く到着できる筈だ。
「よしっ」
「おう、また会ったな」
「へ?」
声に振り返ると、昼時にアパートを訪ねてくれた、高幡先輩が立っていた。
バスの停留所は商店街の端、蕎麦処『玄』の裏側近くにあり、上背の高幡先輩は石造りの塀から頭だけを覗かせていた。高幡先輩が言うには、今はお店の裏庭で出前用のオートバイの水洗いをしていたそうだ。
「随分と息が荒いな。病み上がりの身で無理はするもんじゃねえぜ」
「え、えーと。でも今は、そうも言っていられないみたいでして」
「何だ、急ぎの用でもできたのか?」
高幡先輩の問いに私は首を縦に振って、簡単に事情を説明した。
似ている、からかもしれない。高幡先輩の前では不思議とリラックスできるし、もうずっと前からの知り合いかのような安心感がある。
何より嘘が付けない。過去の反動からか、この人には―――なんて、そんな感情を抱いてしまうのは、嘘を付いていたという自覚がある証拠だ。我ながら呆れてしまう。
「行きだけでも構わねえか」
「は、はい?」
物思いに耽っていたせいか、高幡先輩の声を聞きそびれた私は慌てて聞き直す。
「こう見えて暇を持て余してるって訳でもねえからな。帰りまで面倒は見てやれねえが、それでいいってんなら後ろに乗せてやる」
「あっ・・・・・・は、はい。あの、お願いできますか?」
「ならそこで待ってろ。すぐに出す」
「あ、ありがとうございますっ」
頭を下げてお礼を言ってから、今し方の会話を頭の中で繰り返す。
よくよく考えなくてもおかしい。ほぼ初対面同士の男女に許されるやり取りとは到底思えない。「後ろに乗れ」と言われて「はい」と即答するなんて、私は勿論のこと高幡先輩もどうかしている。先輩に限って如何わしい魂胆は無いと思いたいけど、でも顔や体格が似ているからってそれはそれでどうなんだろう。
あれやこれやと思い悩みながら、待つこと約一分間。てっきり車を出してくれると思い込んでいた私は、黒光りをする大型のオートバイに跨り登場した高幡先輩の姿に、唖然として立ち尽くしていた。
「え、えーと」
「おら、急いでんだろ。さっさと乗れや」
もうどうにでもなれ。半ば自棄になった私はヘルメットを被り、高幡先輩の腰に腕を回した。
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オートバイに乗った経験が無かった私は、二輪車で車道を走り抜ける爽快感に魅了され、先程の躊躇いは跡形も無く綺麗サッパリ消え去っていた。自動車と大差無い速度でも、体感するそれはまるで別物。何だかんだで、楽しんでいる私がいた。一方のハンドルを握る高幡先輩は私を気遣ってか、信号待ちの間に度々会話を振ってくれていた。
「知り合いにアキヒロって野郎がいてな。俺達は『アキ』って呼んでいたせいか、お前さんを見るとあいつの顔を思い出しちまう。複雑な気分だ」
「わ、私の方が複雑なんですけど・・・・・・」
アキヒロという人物を野郎と呼ぶからには当然男性なのだろう。そんな人を連想されては少々どころか複雑極まりない。とはいえ、私も人のことを言えない気がする。
背後で苦笑いを浮かべていると、高幡先輩はアパートでの会話について言及した。
「それで、昼間のあれは何だったんだ。俺を兄貴か誰かと見間違えていたようだったが」
「あ、あれは・・・・・・その。少し、似てるんです。高幡先輩と、お兄ちゃんが」
「成程な。兄貴は高校生か大学生ぐらいか?」
「・・・・・・高幡先輩と同じ、高校三年生でした」
過去形で終えると、信号の色が赤から青へ変わった。
自然と高幡先輩の腰に回していた腕に力が入り、私はそれ以上何も言わなかった。市民体育館へ着くまで高幡先輩も口を閉ざしていたけど、背中から伝わってくる体温が、少しだけ下がったような気がしていた。
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バスとは違い最短距離を辿ることができたおかげで、市民体育館には思いの外早く到着することができた。館内からは独特の声援が僅かに漏れており、今も試合の真っ最中であることが窺えた。
「すまなかったな。無神経なことを聞いちまって」
「いえ、そんな。私の方こそ・・・・・・その」
私の方こそ―――何だ。自分から言っておいて、その先が続かなかった。
もう何度目になるか分からない。以前に北都先輩へ語った想いに、嘘偽りは無い。少しずつだけど、空白の半年間を取り戻せている手応えがある一方で、足踏みをしている自分もいる。過去と今を行ったり来たりして、頭を抱えてしまう私は、一体何処へ向かっているのか。答えなんて、ある筈もなかった。
「『割り切る』や『受け入れる』は、裏を返せば『逃げる』『目を逸らす』ってことと同じなんだろうよ」
「え・・・・・・?」
「俺も人様のことを言えたモンじゃねえが・・・・・・いや、忘れてくれ。ただの戯れ言だ」
高幡先輩は表情を隠すようにヘルメットを被り直して、私の背中をポンと叩いた。
「急いでんじゃなかったのか」
「あっ・・・・・・あ、ありがとうございました」
私が頭を下げると、オートバイのエンジンが唸り声を上げた。
急速に遠のいて行く高幡先輩を見送った私は、先輩の言葉を胸に刻んで、体育館を目指して走り出した。
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市民体育館内には六面のコートが設置されており、二階の観覧席からコート全面を見下ろすことができた。私が到着した時間帯はちょうど試合の合間だったようで、コートには関係者と思われる人間の姿しか見受けられなかった。
「あれ、アキちゃんじゃないか」
館内を見渡していると、緑色のジャージを上下に着たヤナギさんが声を掛けてくれた。
時坂君からも聞いていたけど、ヤナギさんは毎年開かれる杜宮杯の運営に一役買っており、今年も例年通りにいくつかの業務を担当していたそうだ。ついでに会場でテニス用品の販売もしているのだから抜け目がない。
「全然気付かなかったよ。いつ来たんだい?」
「ついさっきです。それで、試合はどれぐらい進んでいるんですか?」
「そろそろ準決勝が始まるところさ。ハハ、良いタイミングで来たね」
ヤナギさんが手渡してくれたトーナメント表には、各試合の勝敗が分かるよう赤のマジックで線が書き込んであり、準決勝へ進んだペアの名前と所属を知ることができた。その線を指でなぞり逆向きに辿ると、出場選手でもない私でも、興奮冷めやらぬ思いだった。
「や、ヤナギさん。これって」
「去年もそうだったけど、今年はまた大変なことになったよ」
年齢を問わない大会では、多くの場合実業団所属の社会人や、インカレで活躍する大学生らが上位を占める。杜宮杯も同様の傾向が見られるものの、準決勝へ駒を進めたペアのうち、社会人と大学生のペアが一組ずつ。そして残る二組は―――高校生。しかも共に女子高生のペアという、番狂わせと言っていい状況にあった。
「ん。ちょうど今から始まるみたいだ」
「あれが・・・・・・」
「そう、アキちゃんと同じ杜宮学園の生徒だよ。都内でもトップクラスの高校三年生さ」
男子大学生ペアとの試合に臨むのは、新井リサさんとエリス・フロラルドさんペア。詳細はヤナギさんが教えてくれた。
二人が出会ったのはジュニア時代。両親の仕事の関係でイギリスから日本へやって来たエリスさんは、軟式テニスという日本発祥の競技に関心を示し、とあるジュニアクラブへ所属した。リサさんとはそれ以来の付き合いで、もう何年もペアを組み続けている。中学時代は勿論、高校でも頭一つ秀でた実力を発揮し、様々な大会で実績を残しているそうだ。
「な、何だか妙に詳しいですね」
「変な勘繰りは止してくれないかな・・・・・・彼女らはウチのお得意様でもあるからね」
それはさて置いて。もう一方のコートで某有名メーカー所属の男性ペアと対峙する女子高生ペアも、関係者の間では名の知れた存在だった。
「岬エミリさんと、テレジア・キルヒナーさん。聖アストライア女学院は、アキちゃんも知ってるよね」
「勿論ですよ、テニス以外でも有名ですから」
聖アストライア女学院は、様々な部活動で好成績を収める私立校として知られている。軟式テニスも同様で、インターハイでは毎年上位に食い込む程の強豪校だ。エミリさんとテレジアさんはその女学院のエース。今大会でも男子顔負けの技術を以って、順調に勝ち進んでいた。
「でもアラ女って、市外にありますよね?」
「アラ女自体はね。でも二人は市内に在住しているから、参加が認められたのさ。来月には夏の大会に向けた地区予選が始まるから、その調整を兼ねてるんだろうね。杜宮の二人も同じなんじゃないかな・・・・・・っと、始まったね」
主審のコールを合図にして、両試合が開始された。二つの試合を同時に把握することは困難なため、私は一先ずリサさんとエリスさんの試合内容を観戦することにした。
数あるスポーツ競技の中でも、テニスは男女間の差が明確に現れる方かもしれない。何よりスピード感が違うし、真正面からやり合えば力負けしてしまう。しかも相手は男子大学生、体格や身体能力の差は火を見るよりも明らかだった。
そんなハンデを背負いながらもリサさんらは奮闘を見せ、ポイントを奪う度に館内には大きな声援が沸いた。第一セットは惜しくも落としてしまったけど、その堂々とした戦いぶりには心打たれる物があった。
「どうだい、同じ杜宮の女子高生として」
「正直、驚いてます。一セット見ただけで、二人の実力は理解しましたけど・・・・・・この試合は、難しそうですね」
よく食らい付いている一方で、やはり相手が相手なだけに競り負けている感が否めない。一セットを奪うことさえできないかもしれないけど、恥じる必要は何処にも無い。ここまで勝ち進んだだけでも大健闘だ。
反対側のコートに視線を移すと、まだ第一セットは終わっていなかった。エミリさんとテレジアさんの動きに注視し始めるやいなや、私は不思議な感覚にとらわれていた。
(・・・・・・んん?)
リサさんらと同様に、二人が大変な実力者であることはすぐに理解できた。しかしそれ以上の違和感が、女子高生らしからぬ俊敏な動作を見る度に、膨らんでいった。男女間の違いとは別の何かが、頭の中に引っ掛かっていた。
「流石アキちゃん、もう気付いたみたいだね」
「いえ、よく分からないんですけど・・・・・・独特、としか」
「ラクロスさ」
「ら、ラクロス?」
「あの二人がテニスを始めたのは高校からで、以前はラクロスの選手として活躍していたんだ」
前衛を務めるテレジアさんは、かつて自軍ゴールを守る鉄壁の守護神として。後衛のエミリさんは、ジャンプショットを武器とする超攻撃的なフォワードとして、元々はラクロス界に身を置いていた。
転機となったのは、聖アストライア女学院への入学とテニスへの転向。ラクロスで培った攻撃力と守備力は、そのままテニスに活かされ、実力ある経験者らを追い抜いてエースの座を勝ち取った。それが二人の強さの秘訣なのだそうだ。
「そっか・・・・・・そうなんですね」
一度だけ耳にしたことがある。ラクロスは別名『地上最速の格闘球技』。ゴールキーパーはあらゆる角度から襲い掛かるシュートを身を挺して防がなければならない。テレジアさんの守備範囲の広さとその頑強さは、正にラクロスの経験を活かした強みなのだろう。
エミリさんもそうだ。長身から放たれるストロークの打点は常に高さが意識されていて、あんな風に上から叩かれたら、並大抵の女子高生では返すことすら儘ならない。ジャンプショットが得意だったというのも頷ける。
「どちらも海外出身者とのダブルスってだけで目を惹くし、都内じゃ有名だけど、地力ならアラ女ペアの方が一枚上かな。アキちゃんはどう思う・・・・・・アキちゃん?」
同じ女子高生がこんなハイレベルの攻防を見せるだなんて、想像もしていなかった。webの動画サイトにも有名な試合は多数アップされているけど、やはり実際に見るのとでは大違いだ。
私ならどうする。仮にあのエミリさんと打ち合うとするなら、どう切り崩す。私は食い入るように、二人の一挙手一投足を見詰めていた。
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結果だけを見れば、二組の女子高生ペアは共に一セットも奪えずのストレート負け。しかし内容は館内に熱気が漂う程に濃厚で、手に汗握る展開の連続。来て良かったと心の底から思える試合だった。
「決勝は見ていかないのかい?」
「はい。もう充分に楽しめたので、今日はもう帰ります」
決勝戦の結果は大方予想が付くし、元々勢いで観戦に来た経緯がある。帰りのバスの時間さえ調べていなかった私は、一足先にアパートへ戻ることにした。
ヤナギさんに挨拶をしてから観覧席の通路を進んでいると、私よりも遥か前方を歩く、見慣れた杜宮の制服を着た女子に目が止まった。
「あれは・・・・・・・」
長髪は強めにカールされていて、その特徴的な髪型は、校内でも何度か目にしたことがあった。記憶が確かなら、移動教室や全校集会の時だ。少なくとも、同学年ではない。
「・・・・・・誰だろう?」
「あの人は高松エリカさん。三年生ね」
「えっ。ひ、柊さんっ?」
背後から掛けられた声に、一瞬耳を疑った。居る筈がないと思いきや、そこにはしっかりとクラスメイトの柊さんが私服姿で立っていた。
こんな場所で知り合いに会うとは思っていなかった上に、それが柊さんともなれば尚更だ。私が面食らっていると、柊さんは左手に握っていたサイフォンをショルダーバッグに収めながら言った。
「私は近くで用事があって、その帰り道に立ち寄っただけなの。体育館で何かイベントをやっていると思ったのだけど、テニスの大会だったのね。フフ、私も見入ってしまったわ」
「そ、そうだったんですか。でもこの辺で用事って・・・・・・買い物か何かですか?」
「ええ、まあそんなところね」
休日のショッピングか。でも周辺には目立った商業施設は無かったし、一人で出歩くにしては街外れ過ぎて面白みに欠けるような気がする。まあこの辺りには私も来たことがなかったのだから、きっと私が知らない何かしらがあるのだろう。
「もしかして、遠藤さんも出場していたのかしら?」
「あ、いえ。私は単に観戦をしに来ただけで―――」
―――パリンッ。
突然遠方から乾いた音が鳴り響くと、頭上から降り注いでいた光が減った。
「な、何?」
「っ・・・・・・!」
体育館の天井を仰ぐと、先程まで館内を照らしていた照明の一つが消えており、その破片がパラパラと体育館の床面へと降り注いだ。
パリン、パリン、パリン。続けざまに三回の破裂音。光源が減る度に暗闇が増していき、私達を嘲笑うかのように照明達が次々と爆ぜていく。テニスどころではなく、瞬く間にして館内は阿鼻叫喚の渦へと叩き落されていた。
「きゃあっ!?」
「落ち着いて遠藤さん。これで頭部を保護しながら、係員の指示に従って避難して」
館内へ響き渡る悲鳴を物ともせず、柊さんの透き通るような声が耳に入って来る。言われるがままに手渡されたショルダーバッグで頭上を覆うと、柊さんはそっと私の背中を押した。
「ほら、早く行きなさい。取り乱しては駄目よ、冷静にね」
「で、でも柊さんは」
「大丈夫。私も他の人達を誘導してからすぐに避難するわ」
今度は多少強引に後押しをされて、私は出入り口に向かって歩を進めた。
既に観覧席のほとんどは空で、後方からは今も照明が割れる音がハッキリと耳に入っていた。出入り口を潜り通路に出ると、息を荒げたヤナギさんの姿が視界に入った。
「アキちゃん!良かった、怪我は無い?」
「は、はい。でも、知り合いがまだ中にい、てっ・・・・・・!」
ドクンと、急に鼓動音の一つが高鳴り、息が止まる。胸の中を直に締め付けられるような苦しさを覚え、瞼の裏に映る光景が目まぐるしく変化をする。そのどれもが見覚えのある物で、埋もれていた筈の一枚一枚が、おぼろげに脳裏をよぎっていく。
「あ、アキちゃん?まさか、何処か痛めたのかい?」
初めてじゃない。場所も時間も、何が起きたのかさえ思い出せないけど、これが初めてじゃない。私は知っている。私は以前にも―――やめろ、思い出すな。呼び起こしては、駄目だ。
「ぐぅっ・・・・・・ひ、柊さん」
柊さんが危ない。直感的にそう考えた私は、ヤナギさんの制止を振り切って、再度館内へと足を踏み入れた。既に内部には人気が無く、何処にも柊さんの姿は無かった。
「っ!?」
すると今までで一番巨大な衝撃が全身を襲い、反対側の観覧席の後部に張られていた窓ガラス達が、一斉に音を立てて崩壊した。身体中を切り裂かれたかのような錯覚に陥った私は、頭を抱えてその場に蹲ってしまった。
(・・・・・・終わった、の?)
それが最後だった。何かが壊れる音は止み、悲鳴は消えた。足音も話し声も無い。前方の窓が無いにも関わらず、一切の音が聞こえない。不気味な静寂に包まれた館内に、柊さんの声だけが、僅かに反響した。
「遠藤さん。まだこんな所にいたの?」
「柊・・・・・・さん?」
視線を上げると、いつの間にか前方には柊さんが素知らぬ顔で立っていた。
何かが変だと、すぐに気付いた。柊さんは全身が大粒の汗だらけで、肩で呼吸をしていた。異常な現象に見舞われたという自覚はあるけど、たったの一分にも満たない間に、まるで長距離を走り終えた直後を思わせる変貌振りだった。
「すぐに避難しなさいと言ったでしょう。どうして戻って来たりしたの」
「ご、ごめんなさい。でも・・・・・・何が、あったんですか?」
戸惑う私を怪訝な表情で見詰めていた柊さんは、左手のサイフォンに視線を落とすと、呟くように言った。
「そう。ズレていたのね」
「ズレた?」
「独り言よ、気にしないで。でも遠藤さん、一つ聞いておきたいのだけれど」
「は、はい」
「貴女、何かを見た?」
凍てつくようなその視線に、声が出なかった。辛うじて首を小さく横に振ると、柊さんは普段通りの笑みを浮かべてから、私の手を引いて出入り口へと向かった。
異常な程に冷たかった。柊さんの右手も、声も視線も。どれもが氷のように冷ややかで、寒気がした。ヤナギさんに笑顔を向けるその表情も、私には取って付けた仮面のようにしか、映らなかった。
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おまけ
「お嬢様、本日はこのままご自宅に?」
「いえ、商店街へ向かって下さい。最近高幡君の様子がおかしいという噂を耳にしまして」
シオ+アキ < ブロロロロロロ.......
「どうなさいますか?」
「逃がしません」
「はっ」