長期の連休明けの影響か、本校舎へ足を踏み入れた時から、学校独特の匂いに改めて気付かされた。上履きやチョーク、クラブハウスに科学実験室。階層や場所によってもそれぞれ異なっている。動物の嗅覚は人間の何倍、なんてフレーズはよく耳にする表現ではあるけど、人間の鼻だってそれなりに敏感だ。そして勿論、聴覚も。
(なぁ、本当にあんな子がそうだってのか?)
(俺も聞いた話だけど、何人か見たって奴がいるらしいぜ)
(人は見掛けによらねえってか)
周囲から向けられる複数の視線が痛い。痛過ぎる。身から出た錆だということは重々理解しているけど、何もそんな小声でチクチクと突かなくたっていいだろうに。
「気にしなくていいと思うよ、アキちゃん。悪いことをした訳じゃないんだから」
「・・・・・・はぁ」
朝から妙な視線を感じると思っていたら、蓋を開けてみれば単純な話だった。
先日市民体育館へ向かう際、高幡先輩のオートバイで道路を走っていた私達の姿は、複数の生徒によって目撃されていた。伊吹君らの話では、高幡先輩は『学園最凶の不良』という大仰な名で称されていて、そんな先輩とオートバイで二人乗りをしていた私は、「あいつも相当ヤバい」「高幡にはアキって名前の舎弟がいた筈だ」「え、女だったの?」「杜宮を潰す為に転入してきたに違いない」といった感じで、非常にややこしい誤解を受けていた。奇異と畏怖が一対二ぐらいの割合で混ざり合った視線をどうにかして欲しい。
一方で事情を察したシオリさんらは涙目になっていた私を気遣い、昼食へ誘ってくれていた。下手をすれば巻き込みかねないと思いつつも、今回ばかりは素直に甘えることにした。それぐらい辛かった。
「しっかし、遠藤さんから聞いた話と噂とじゃ、全然印象が違うよなぁ。同姓同名の別人って訳でもなさそうだし、一体どうなってんだ?」
「噂ばっかが先行しちまったってだけの話じゃねえのか。確かに髪も染めてるから外見はアレだし、無理もねえさ。よくあることだろ」
「僕もそう思うよ。遠藤さんの件だって二、三日経てば、みんな忘れちゃうんじゃないかな」
「み、皆さん・・・・・・」
「あ、アキちゃん、泣かないでね」
「リョウタの言い方が悪い」
「リョウタのせいだね」
「そういう心にくる理不尽はやめてくれ」
男子三人組の漫才は別として、たったの四人の言葉だけでも感極まるには充分過ぎる。ここは小日向君の言うように、じっと我慢して鎮火するのを待つとしよう。
それにしても、高幡先輩は凶悪な不良だとする学内の評判は何なのだろう。私だって高幡先輩との付き合いはあの一日だけだし、時坂君が言うことは尤もだけど、外見だけでそこまで悪い流言が広まるものだろうか。流石に疑問が残ってしまう。
首を傾げていると、シオリさんが気遣わしげな表情で言った。
「でもアキちゃん、昨日から災難続きだね。柊さんもそうだけど、市民体育館のニュースを見た時は驚いちゃったよ」
「あれは・・・・・・はい」
「怪我人が出なかったってのが、せめてもの救いだよな」
「そういえば、ウチの女子テニス部の人達も現地にいたんだよね」
昨日に発生した杜宮市民体育館の騒動は全国区で報道され、一晩で様々な考察がなされていた。
現時点で有力、暫定的な原因とされているのは、地盤沈下現象と体育館自体の強度。私を含めた当事者の証言から考えて、大規模な地盤沈下が発生した可能性があるそうだ。それにより体育館に大きな歪みや捻れが生じて、窓ガラスが割れる事態にまで至ってしまった。
そしてもう一つの要因が後者。あの体育館は東亰震災以降に建てられた比較的真新しい建屋の筈なのだけど、何らかの欠陥があった可能性が高いとして、都市整備局が現在調査を進めているらしい。
「遠藤も無事で何よりだぜ。相当な枚数のガラスが割れたりしたんだろ」
「はい。それは、そうなんですけど」
「・・・・・・何だよ。何か気になることでもあんのか?」
思い出すだけでも鳥肌が立つ。そう、窓ガラスは私の目の前で一挙にして崩壊した。
私は事情聴取の際、目の当たりにした全てを包み隠さずに並べた。私以外の人達もその筈だ。だというのに―――各メディアの報道内容には、一つだけ。欠けてしまっている事実があった。
「天井の照明が、割れたんです」
「照明?」
異変は大きく分けて二段階。まずは天井に備え付けられていた照明器具が次々に割れ始め、窓ガラスが割れたのはその後のことだ。鮮明に覚えているし、私はそう説明した。にも関わらず、新聞には『照明が割れた』という事実が何処にも記載されていない。報道番組だって一度も触れようとはしなかった。
「ねえアキちゃん、それって本当?」
「見間違いではないと思うんですけど・・・・・・」
「どういう訳か、その事実がごっそり抜け落ちてるって訳か。確かに少し妙だわな」
「でもそれって変じゃない?建屋が歪んで窓ガラスが割れた、は何となく分かるけどさ。どうして天井の照明が壊れるの?」
「「・・・・・・」」
小日向君の疑問に対する答えなんて、当然ある筈もなく。全員が沈黙してしまった。
そんな中でただ一人、時坂君だけが、異なる表情を浮かべていた。真っ先にその意味を聞いたのは、シオリさんだった。
「コウちゃん、何か心当たりがあるの?」
「え?ああいや、俺も変だなって思ってさ。確かにおかしな話だよな」
「早速面白そうな話をしてるじゃない、先輩方」
すると聞き覚えのある声に、耳がピクリと動く。
頭に残る特徴的なキーと、心中を直に覗き込まれるようなこの感覚。声の方に振り返ると、両手を上着のポケットに入れて目を輝かせる、四宮ユウキ君の姿があった。
不登校を決め込んでいるという話だったのに、どうして学生食堂なんかに。考えるよりも前に、私は全く別の所へ頭を働かせていた。
「ユウ君、こんな所で何してるの?」
「学生が昼時に学食に来て何がっておい。何それ」
「
「食い過ぎでしょ。いやそうじゃなくてさ。今の呼び名は何なの」
「・・・・・・
「そこじゃないから!アンタわざとやってるだろ!?」
顔を真っ赤に染めて猛抗議をするユウ君。
ああ、何て気持ちのいい。初対面の時はいい様に転がされてしまったけど、何のことはない。ツボを押さえさえすればこの通り、天才ハッカーとしての頭脳は鳴りを潜めて、掌で踊ってくれる。うん、癖になる。
その後ユウ君はそっぽを向いて、呆け顔を浮かべていた時坂君と一言二言の会話を交わし、学食の奥へと去って行った。そんな二人のやり取りを見て、今度は私が不思議がる番だった。
「コウ、誰だよあいつ?」
「一年の四宮ユウキ。確かC組だっけな。週末にバイト先でトラブった時に、少し世話になったんだ。サボり癖はあるし小生意気な後輩だけど、最近心を入れ替えたらしいぜ。まあ悪い奴じゃねえよ」
週末ということは、連休中にユウ君が体調を崩した後の出来事か。時坂君との接点がどのようにして生まれたのかは分からないけど、時坂君はユウ君を割と好意的に捉えているようだ。私も概ね同じ印象を抱いていた。
「ふうん。そんで、遠藤さんも知り合いっぽかったけど」
今度は四人の視線が私へと向いた。返答に困り対面に座っていた小日向君をちらと見ると、小日向君は悪戯そうに笑いながら、人差し指を唇に当てた。
配達初日のお礼にと小日向君へサンドイッチを差し入れた際、私はユウ君とのその後の出来事や胃腸炎の感染経路について、大まかな事情を明かしていた。小日向君もユウ君の異様な頭脳と態度が引っ掛かっていたそうで、ユウ君が学校を休みがちなことや、クラスでの評判なんかを教えてくれていた。
ともあれ、ユウ君との馴れ初めを隠す必要はないように思えるけど、説明しようとすると意外に難しい。ここは小日向君の仕草に従って、有耶無耶にしておこう。そう考えていると、伊吹君が不機嫌そうに言った。
「おいジュン。どうしてお前が意味深な顔してんだ?」
「あはは、別に何でもないよ」
「何でもなくはねえだろ。つーか敢えて聞かないようにしてたけどな、何でお前の昼飯だけ遠藤さん手作りのサンドイッチなんだよ。色々納得がいかねえ」
「あげないよ?」
「そうじゃねえよ!いやぶっちゃけ欲しいけど俺が言いたいのは痛だだだだっ!?」
遮るように、伊吹君の耳たぶを引きちぎらんばかりにつまみ上げる、チズルさんの姿があった。眼鏡の向こう側には、ひどく冷ややかな目が映っていた。
「悪かったわね。私が『ついつい』作り過ぎたおかずを無理矢理押し付けちゃって。今度から余らないように気を付けるから安心しなさい」
ドスが利いた声と態度を前に、伊吹君は為す術も無く涙目で耳を擦っていた。
似たようなやり取りを、既に何度か目の当たりにしたことがあった。普段のチズルさんが温厚で柔らかな物腰な分、初めは面食らってしまったけど、私にとってもお馴染みの光景になりつつある。お互いにもう少し素直になってもいいと思うのにな。
「ったく、お前らも飽きないよな。よくやるよ」
「でもチズルちゃんのああいう所は好きかな。だって可愛いもん」
そんな二人の様子を温かな目で見守る、時坂君とシオリさん。
私は堪らずに小声で小日向君へ呟いた。
(あの、これ突っ込んだ方がいいんですか?)
(放っておきなよ。突っ込んだら負けだから)
喉から出かかっていた声を飲み込む。自覚が有るのやら無いのやら、伊吹君も時坂君にだけは言われたくないに違いない。
「でもすごいや。遠藤さん、四宮君を随分と上手くあしらえるようになったんだね」
「そ、それ程でも」
「フフ。さっきのアキちゃん、すごく生き生きしてたよ。もう一度見てみたいな」
「・・・・・・忘れて下さい」
「あいつ姉ちゃん以外にも弱点があったのか・・・・・・」
「えーと。とりあえず、そろそろ話を戻さない?」
小日向君の声にハッとした。ユウ君やチズルさんに気を取られていたけど、言われてみれば私達は昨日の市民体育館の一件について話をしていたのだった。
とは言っても、結局は何故照明の破損が報じられなかったのかという一点の謎が残っただけで、それ以上は考えたところで結論の出しようがない。素人の私達には知り得ない現象が起きていたという可能性だってある。
「気になるんだったら、柊にでも聞いてみるか?」
「柊さんですか?」
「遠藤の勘違いじゃねえってことだけでも、確認できた方がいいだろ。放課後に野暮用があるし、俺がそれとなく聞いといてやるよ」
「俺はその野望用とやらの方が気になる」
「お前は最近神経質過ぎる」
伊吹君と時坂君がじゃれ合っていると、昼休みの予鈴が鳴った。
私は明確に耳へ残っている破裂音を思い出しながら、事の真相について考えを巡らせていた。
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無事に九日振りの授業を乗り切った、その日の放課後。アルバイトや自主学習の予定が無く、時間を持て余していた私は、何とはなしに学園の敷地内を改めて散策して歩いていた―――というのは、胸の内の建前。
私の足は、自然と本校舎の南西側へ向いていた。歩を進めるに連れて、乾いた打球音が近付いて行く。やがて辿り着いた先には、同窓の先輩らの姿があった。
(リサ先輩と、エリス先輩)
学園の敷地内にある、二面のテニスコート。その片方でラリーを続ける三年生、リサ先輩とエリス先輩。コートが二面あっても、たったの二人しかコート上にはいなかった。
調べた限り、杜宮学園には今現在女子テニス部しか存在していない。過去には男女の部がそれぞれ一面ずつを使用していたらしいけど、部員の減少に伴い男子テニス部は一時休部。運動部が盛んと言われる杜宮でも、テニスは話が違うようだ。指導者や経験者の数の影響なんかがあるのだろう。
「・・・・・・少ないなぁ」
距離を置いて壁に背を預けながら、二人だけのラリーを見詰める。
女子テニス部と言っても、他の運動部のような活気は感じられない。二人しかいないのだから当たり前だけど、他に部員はいないのだろうか。普通は部員数が一定を下回ると部として認められず、男子テニス部のように一時活動停止になってもおかしくはない。その辺りの校則はどうなっているのだろう。
「あれ・・・・・・えっ」
生徒手帳のページを捲っていると、先程まで続いていた打球音がピタリと止まった。顔を上げると―――二人の先輩が何かを喋りながら、こちらに向かって歩き始めていた。周囲を見渡しても、誰の姿もない。どう考えても、足と視線は私へと向いていた。動揺している間に距離は縮んでいき、左手にラケットを握っていたリサ先輩が切り出してくる。
「もしかして、貴女が遠藤アキさん?」
「あ、あの。はい。遠藤アキ、です」
「やっぱりそうだったの。フフ、突然声を掛けてしまってごめんなさい」
どうしてこの人が、私の名前を知っているのか。そう尋ねようとした矢先に、隣に立っていたエリス先輩が声を張った。
「おもしれえ。少しツラを貸しな」
初めて会話をしたイギリス人は、目茶苦茶怖かった。
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事の経緯はリサ先輩が親切丁寧に教えてくれた。
私の素性はヤナギスポーツの店主、ヤナギさんを介して二人に伝わっていた。ヤナギさんから「腕が立ちそうな経験者が杜宮へ転入した」と聞いていた先輩らは、昨日に市民体育館の観覧席でヤナギさんと話していた私を見て、あの子がそうかもしれないと当たりを付けていたらしい。
「見覚えのある顔だなって、昨日も思ったの。学園の何処かで会っていたのかもしれないわね」
反対にリサ先輩も、ヤナギさんから聞いていた通りの先輩だった。
三人しかいない女子テニス部の部長、新井リサ先輩。第一印象としてはとても人当たりが良くて、笑顔溢れる美人さん。運動部らしい健康的な身体と女性としての魅力を併せ持つ、素敵な先輩。北都先輩を運動部寄りにしたら、こんな人になるのかもしれない。
ついでに言うと、リサ先輩は姓の頭文字と合わせて『アリサ』と周囲から呼ばれている。某アニメ主人公と容姿が似ていることから、最近になって付けられたあだ名のような物らしい。
「なあアリサ。まどろっこしい話は後にして、さっさと本題に移ろうぜ」
「駄目よ。しっかり説明しないと、遠藤さんも困るでしょう」
アリサ先輩とは色々と対称的な、エリス・フロラルド先輩。
それなりに名のある家柄の人で、品行方正かつ可憐なお嬢様―――という話だった筈なのだけど、外見や声とは裏腹に言葉遣いが荒々しくて、エリス先輩が喋る度にビクついてしまう。サキ先生をより攻撃的にした人格が柊さんに乗り移った感じだろうか。
「ごめんなさい。エリスって家族やクラスメイトの前では見た通りのお嬢様なのだけど、私みたいに気心が知れた相手にはこうなっちゃうのよ。ちなみにこっちが素」
「は、はぁ」
随分と極端な先輩だ。確かに試合中も猛々しい声を張っていたっけ。お嬢様バージョンのエリス先輩を見てみたい気もするけど、今は置いておこう。それに先程の様子だと、二人は私に対して何か要件があるのだろう。
「あのー。話って、何ですか?」
「率直に言うぜ。アンタ部活動には入ってないんだろ?」
「・・・・・・勧誘、ですか」
「まあそういうこった。話が早くて助かるじゃん」
何かしら特別な事情があるという訳でもなく、話の内容は分かり易い物だった。
女子テニス部の部員数は必要最低数の三名のみ。うち一名は昨年の初めから休部中で、実質的にはアリサ先輩とエリス先輩しか活動していない。ここ数年はずっと減少の一途を辿っていて、二年間新入部員が入らなかったこともあり、見ての通りの有り様だそうだ。
「大学に知り合いがいて、月に何度かは練習へ参加させて貰っているのだけど、それ以外の日はエリスと二人だけでしか練習ができなくてね」
「練習って言ったって、二人でできんのは基礎の基礎ぐらいしかないからなぁ。大事な時期だってのにこんなじゃ、寧ろ苛々して仕方ないっつーか」
「大事な時期?」
私が聞くと二人の表情が変わり、ピンと張り詰めた空気が流れ始める。
懐かしいと感じる、私がいた。大切な試合を控えている時は、いつもこんな緊張感があった。
「昨日の準決勝。貴女も観ていたのよね」
「・・・・・・はい」
聖アストライア女学院。エミリさん、テレジアさんペア。
彼女らが台頭し始めたのは、昨年頃から。元々強豪校として有名だった女学院に、突如して君臨したエースに対する戦績は、全敗。五度に渡る対戦を通して奪えたセット数すら少なく、雪辱を果たす機会を得ては敗戦を繰り返す。昨年はそんな悔しさに満ちた一年間だったらしい。
昨日の試合を見れば分かる。アリサ先輩らの実力だって、高校では頭一つ飛び抜けている程だ。でも女学院のあの二人なら―――今すぐに、大学で頂点を取れる。
「アタシらにとって、今年の夏が最後だ。地区予選も都予選も、もう一度だってあいつらに負けたくない。真っ平御免さ」
「だからこそ実りのある練習をしたいの。たった一人でも部員が増えてくれるのなら、今よりずっと充実した練習ができる。都合の良い誘いだっていうのは重々理解しているけど・・・・・・ねえ遠藤さん。少し考えてみてくれないかしら」
二人の真っ直ぐな目に、息が詰まりそうになる。
理解できない筈がない。目標を達成する為に、日々努力を積み重ねる。部活動として当たり前の大前提が、この二人には叶わない。積み重ねたい物が、手が届かない場所にあるのだ。
身勝手なんかじゃない。勧誘の切実さは、痛い程分かる。でも―――
「入部は、ちょっと。アルバイトも、していますし」
「え・・・・・・そうだったの?」
「はい。部活動とアルバイトを両立するのは、難しいと思います」
言いながら、胸の中に黒い靄が広がっていく。
嘘は言っていない。でもこれは裏切りだ。真正面から向き合って頭を下げてくれた二人の先輩に対して、私は今本音を語ってはいない。自覚がある分、余計に自分が嫌になってしまう。
「そう。それなら仕方ないわね」
「え?」
目を逸らしていると、アリサ先輩が言った。喉から手が出る程欲しいであろう経験者を前にして、簡単に勧誘を引き下げてしまった。
一方のエリス先輩はひどく納得がいかない様子で、アリサ先輩へ詰め寄っていく。
「ちょ、ちょっと待てよ。バイトって言ったって、毎日やってる訳じゃないんだろ?」
「やめましょうエリス。遠藤さんに迷惑を掛けないようにって、約束したじゃない」
「でもだからって、そんな簡単に―――」
声を荒げ始めたエリス先輩に対し、アリサ先輩は頑として首を縦に振らなかった。両者の間に挟まれてしまった私は何も言えずに、一歩後ろへと下がって二人の表情を見詰めていた。
するとエリス先輩は決まりが悪そうに溜め息を一つ付いた後、握っていたラケットを私の前へと差し出してくる。私がラケットのグリップとエリス先輩の顔を見比べていると、先輩は思いもよらない提案をした。
「一度ぐらいならいいだろ。折角の機会だ、付き合えよ」
「え・・・・・・い、今からですか?」
「少し打ち合うだけだって。いい気分転換になると思うけど」
「で、でもこんな恰好ですし、ラケットだって」
「アタシは予備がある。恰好は・・・・・・まあ、周りに人もいないし大丈夫じゃん?」
スカートの裾を摘まんでヒラヒラと揺するエリス先輩。
制服姿ではラケットを振っただけで、女性として大変な事態になる気がする。人の目が無いから大丈夫という訳にはいかない。靴だってローファーだし、コートに立つこと自体が問題だ。
助けを乞うようにアリサ先輩を見ると、先輩はやれやれといった表情で言った。
「仕方ないわね。少しだけでいいから、付き合って貰ってもいい?」
「っ・・・・・・と、止めないんですね」
「フフ、ごめんなさい。でも貴女だって、割と乗り気のように見えるわよ」
「え?」
「女子にしては、かなり薄く握るのね」
気付いた時には、慣れ親しんだ形でラケットを握っていた。ヤナギスポーツで展示品を取っては握るを繰り返していたせいか、当たり前のように握ってしまっていた。
結局私はスカートの下からジャージを履いて袖を捲り上げ、多少の躊躇いはありつつもシューズはアリサ先輩の物に履き替えた。何ともちぐはぐな出で立ちではあるけど、制服にローファーよりは遥かにマシだ。
「ラケットだけはどうにもならないわね。エリスのだと、少し重いかしら」
「いえ。軽過ぎるぐらいですけど、多分大丈夫です」
「・・・・・・軽い?重いじゃなくて?」
感覚を思い出しながら、少しだけ腰を入れて一振り。ブランクのせいで慣れるまで時間は掛かるだろうけど、なんだかんだ言って、アリサ先輩が言った通りなのだろう。
今だけはこの高揚感と、胸の奥底から込み上げてくる衝動に身を任せよう。そう思い、私はコート上でラケットを構えた。
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屋上スペースが全生徒へ開放されているという点は、杜宮学園の数ある特徴の一つ。高所の危険性を考慮して立ち入りを禁止する学校がほとんどの中、杜宮は厳重な管理の下、放課後までその利用が許されている。昼時は青空の下で昼食を取る生徒で賑わい、放課後には度々応援団の熱烈なエールが夕焼けに溶け込んでいく。
そして5月11日の16時過ぎ。応援団の活動が無く、珍しく人気の少ない屋上の一画に、声を潜めて話し合いをする四人の生徒らの姿があった。
「じゃあ遠藤の言っていたことは、間違いじゃなかったんだな」
「ええ。あれは地盤沈下ではなく、異界化による二次的な被害ね」
アキの記憶は正しく、異変は照明器具のガラス部位の破裂から始まった。窓ガラスの崩壊も含めて、その全てが異界化による影響。あの場にアスカが居たことも偶然ではなく、異界化を察知した結果だった。
「でもアスカ先輩。異界化を分かっていたなら、どうして声を掛けてくれなかったんですか?」
「それ程の脅威性を感じなかったからよ。忘れて欲しくないのだけれど、私は今までずっと一人で事態の解決に当たってきたの。あなた達は一時的な協力者に過ぎないわ」
「分かってるっての。でも報道の規制もそうだけど、よくあの場に居合わせた全員を対処できたな。相当な人数だったんじゃねえのか?」
「事情聴取で集められた際に、集団でね。それ程手間も掛からなかったわ」
騒ぎを荒立てない為に、アスカが取った対応は二つ。
一つ目は報道通り地盤沈下が原因とされるよう、影から圧力を掛けたこと。そして二つ目が、念を押して当事者の記憶の一部を消去したことだった。コウが言うように異界化が発生した時間には、四十名超の人間が異変を目の当たりにしていた。その一人一人へ術式を掛けていては大変な時間を要するのだが、事情聴取で一つの場所へ集められた機会を利用して、アスカは集団に対して記憶の消去を試みていた。
消された記憶は、異界化が関わる部分のみ。被害に遭った者達は、屋内で異音がしたから避難した、程度にしか覚えていない。ガラスが割れたという点も、建屋を外から見て知り得た情報だった。
「それで、遠藤先輩の記憶が消されていないことについては、どう説明する訳?プロにしては少し詰めが甘いんじゃない?」
「・・・・・・術式にミスは無かった。もしかしたら遠藤さんは、霊的な資質が高いのかもしれないわね。そういった事例は過去にも報告されているわ」
「遠藤の件はともかく、柊の見解を聞かせてくれ。あれが異界化の影響ってんなら、かなり大きな被害が出ちまってる。再発する可能性はあんのか?」
コウの問いに、アスカはゆっくりと首を縦に振った。肯定を意味するアスカの仕草に対し、三人の表情が険しさを増していく。
「昨日の異界化は副次的な物と見て、まず間違いないでしょう。元凶は他にいると考えた方がいいわ」
「・・・・・・アオイさんの時と、同じですね」
「あの被害の規模で、本命じゃねえってのかよっ・・・・・・」
アスカが異界の主を仕留めた際に、頭上へぼんやりと浮かんだ『別世界』。神様アプリ絡みの事件と同じで、真の元凶は別に存在するというアスカの考察に、間違いは無かった。そのエルダーグリードを倒さなければ、再び同様の被害が出る可能性は極めて高い。状況は既に、予断を許さない所まで押し迫っていた。
「とりあえず、一旦整理した方がいいんじゃない。物が勝手に壊れるっていう現象は、初めて聞く話でもないよね。所謂ポルターガイスト現象って、実は異界化が原因だったりするの?」
ポルターガイスト現象を引き合いに出したユウキに、アスカは再び首を縦に振った。
物体の移動、発光現象、ラップ音。現代科学では説明が付かない超常現象とされる物は、報道にあるよう見えない要素が複雑に絡み合って生まれた、当たり前の自然現象であることが多い。騒音や振動等は、原因の大部分を占めている。
一方で異界化が関わっているケースも決して少なくはない。1900年代からポルターガイストの事例が急増したのも、分析科学の発達だけが要因ではないのだ。
「そう考えると、今度は何が起こるのか予測が付かないですね」
「まずは情報を集めましょう。あの場所、あの時間に、異界化を引き起こしたキッカケがあった筈よ。それさえ見い出せば、被害を未然に防ぐことができるわ」
アスカがサイフォンを操作し、異界化発生の状況についてまとめていく。
場所は杜宮市民体育館。日時は5月10日、16時52分。杜宮杯テニス大会の準決勝が終わった後の出来事。居合わせた人間はスポーツ大会なだけあって若い世代が多かったものの、高齢の参加者や関係者もいた。
「準決勝の直後ってのが気になるな。なあ柊、準決勝に残った選手が何らかの形で関わっていた、って可能性はあると思うか?」
「何とも言えないけど・・・・・・取っ掛かりとしては悪くないわね。現時点では情報が少なすぎるし、二手に分かれて該当者の聞き込みから始めましょう」
「なら全員市内在住だね。実業団所属の社会人と大学生、聖アストライア女学院の女子生徒に、それとあそこの二人」
ユウキが屋上からグラウンドを見下ろして、当の二人を指で差し示す。幸運にも該当者のうち二名は、今日もテニスコートで部活動に励んでいる。一方でコートの脇には、もう一人の女子生徒の姿もあった。
「あれって・・・・・・遠藤先輩、ですか?」
「だな。ちょうどいい、遠藤からも改めて話を聞いておくとしようぜ。ユウキ、一緒に来い」
「嫌だ。あいつは嫌だ」
「じゃあユウキ君は私と一緒に女学院へ行く?相当浮いちゃうと思うけど」
「・・・・・・ああもう分かったよっ。それと郁島、名前で呼ばないでくんない」
「そう言われてもなぁ。なら、ユウ君とか?」
「何でそうなるんだよ!?どいつもこいつも!」
メンバー編成は自然と決まった。聖アストライア女学院には女子組、校内の二人には男子組。会社員と大学生については時間の都合上、日を改めて後日尋ねるという形に収まった。
「別行動を取る前に、一つだけ言っておくわ」
コウとユウキ、ソラが校内に繋がる扉へ向かおうとしたところで、アスカが呼び止める。三人が振り返ると、アスカは腕を組みながら、神妙な面持ちで静かに言った。
「今回の事件だけど、おそらく異界化が発生する瞬間に、周囲の気温が一気に低下すると思うの」
「気温が、ですか?」
「ええ。先日に異界化が発生した際にも、館内の温度が急激に下がったのよ。おそらく氷点下を下回っていたでしょう。もし同様の現象が起きたら、異界化の前触れと考えていいわ」
「・・・・・・成程ね。異界化の予測にも、その辺りが関わっているって感じかな」
「流石は四宮君。理解が早くて助かるわ」
「ま、待ってくれ。分かるように説明してくれよ」
異界化予測の仕組みは単純ではなく、様々な情報を元にして可能性を割り出す予測プログラムとして活用されている。異界化に関わるとされる膨大な情報が蓄積された今だからこそ可能な、言わば結社の集大成。気温変動はその一因として知られていた。
異界化が発生する際に、何が起きるのか。気温が上がることもあればその逆もあり、変わらないこともある。気温一つ取っても一定の傾向は見られないのだが、データは残っている。そういった情報を総合的に処理をした結果が、異界化予測だった。
但し例外があった。異界化を一括りにするのではなく、元凶へと的を絞れば話は変わる。
「傾向は掴み辛いのだけど、特定の種のグリードが関わっている場合には、似たような変化が起きることが多いのよ。気温低下と昨日に仕留めたグリードから考えて、元凶の主も予測が付いているの」
「種って言うと妖精型とか、そんなだったか。なら今回のはどんなグリードなんだ?」
「・・・・・・『死人憑き』。そう呼ばれているわ」
死人憑き。穏やかではないその名に、三人の背筋に悪寒が走る。アスカは構わずに続けた。
「ポルターガイストが心霊現象の一種として扱われているのは、根底に理由がある。幽霊屋敷とか、そういった話は聞いたことがあるでしょう」
「あ、あるにはあるけどよ。お前、何が言いたいんだ?」
「心を強く持ちなさい。あなた達の前に、たとえ何が顕れたとしても・・・・・・決して動じては駄目。今回の事件に協力してくれるのなら、絶対に忘れないで」
―――経験者からの、忠告よ。
言い終えたアスカの表情は何処か物悲しく、寒々しかった。彼女の本意を汲み取れないでいた三人は、無言で歩を進めるアスカの背中を見詰めながら、何かを想わずにはいられなかった。
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一旦女子組と分かれたコウとユウキらは、目的の人物がいるテニスコートへと向かいながら、先程のアスカの台詞と態度について触れていた。
「柊先輩っていつもあんな感じなの?」
「肝心な部分を喋ってくれねえところは相変わらずっつーか。でもまあ、今回は特別なんじゃねえのかな」
死人憑き。経験者の忠告。そしてあの態度。
多くを語ってくれなかった一方で、黒々とした予感めいた物はあった。どうやっても負の方向にしか行きようのないキーワードから考えれば、普段と変わらない思わせ振りな言動の中に、何かしらの事情があるであろうことは容易に想像することができていた。
「とりあえず、今はテニス部の二人に・・・・・・って。あれ、遠藤か?」
「へえ、中々様になってるじゃん。そんじゃ先輩、後は任せた」
「馬鹿。お前も来るんだよ」
やがて辿り着いたテニスコート上でラケットを振るうアキの姿に、二人の目が釘付けとなる。制服にジャージという服装を訝しみつつ、器用にエリスの打球を返すアキの立ち振る舞いに、彼女がテニス経験者であることはすぐに理解できていた。
「あら、見学者?珍しいわね」
「どうもコンチハッス。えーと、少し話を聞いてもいいッスか?」
アキの後ろ、コートからやや離れた場所に立っていたリサに、コウが声を掛ける。
話の取っ掛かりとして、コウは自分達がアキの知り合いであること、そして偶然通り掛かったところでテニスに興じるアキを見つけたことをリサへと語った。リサも女子テニス部の現状や、アキが何故ラケットを握っているのかを説明すると、ユウキが言った。
「テニスは知らないけど、遠藤先輩の腕前はどうなの?パッと見は結構上手いっぽいけど」
「ブランクの影響でしょうね。初めは足取りも覚束なかったけど、段々と思い出してきたみたい。かなりやっていたんじゃないかしら。でも・・・・・・何か変ね」
「変?」
ユウキが聞き返すと、リサは首を傾げてしまう。リサも明確な答えを持ってはいなかった。その違和感は、アキがエミリとテレジアへ抱いたそれによく似ていた。
ラケットの扱いは見事なものだし、身体もよく動いている。借り物のラケットとブランクを考慮しても、過去に相当な練習を積んでいたと見ていい。しかし何かが引っ掛かるのだが、その正体が分からない。未経験者のコウとユウキにとっては、おかしいと感じることすらできないでいた。
「あの、エリス先輩。そろそろ強打してもいいですか?」
「ドンドン来ーい。全部返してやるから」
次第に感覚を取り戻しつつあったアキが声を張って言った。エリスが山なりの緩いボールを上げると、着地点で身構えていたアキがラケットを大きく掲げ、打球は放たれた。
―――その姿を、コウとユウキは口を半開きにして見詰めていた。
「おおおぉぉるああぁあっ!!!」
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「・・・・・・なあユウキ」
「何さ」
「あいつ女だよな」
「多分。でも流石にガチムチ過ぎるでしょ、色々と」
二人があらぬ疑いを抱きたくなるのも無理はなかった。打球の速度、スウィングスピード、そして何より声。打球の瞬間に大声を漏らすテニス選手はそう珍しくはなかったのだが、アキの場合は余りにも極端だった。
「そうか・・・・・・そうだったのね」
一方のリサは、呆れ顔を浮かべるコウとユウキとは真逆の表情を浮かべていた。
ある程度統一されたフォームが目立つ女子とは違い、男子は選手によって異なるスウィングを見せることが多い。多少の粗さや癖は個性として見なされ、男女間には必ずある程度の違いが生じる。
それは身体の作りが異なっているからだ。骨格が違えば、筋肉の付き方も違う。近付きはすれど性別の差があって当然の世界で、アキのフォームは余りにも男性的過ぎた。リサの目には、不自然を貫き通して身体を無理強いする姿としか、映っていなかった。
―――軽過ぎるぐらいですけど、多分大丈夫です。
「ま、まさかあの子っ・・・・・・!」
導き出された、一つの可能性。リサはコートへ割って入り、アキの右腕を強引に押さえた。
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不意に右腕を取られてしまい、思わず前のめりの姿勢になる。振り返ると、険しい顔付きで私の右腕を凝視する、アリサ先輩が立っていた。
「おいアリサ、何で止めるんだよ。折角良い感じだったってのに。すげえよ、遠藤は本物だ」
不満を溢すエリス先輩の声が耳に届いていないのか、アリサ先輩は答えない。代わりに言葉ではなく、視線で私に問い質してくる。その態度を見て、私も察した。
気付かれてしまったか。もし気付くとするなら、この人が先だと思ってはいた。思いの外早くて驚いてしまったけど、流石はアリサ先輩といったところだろう。
「ねえ遠藤さん。貴女、もしかして」
私は苦笑いをして、右肘を擦った。その仕草を見たエリス先輩も、事情へ行き着いた様子だった。
「と、遠藤、アンタ・・・・・・肘が、悪いのか?」
「大丈夫です。お医者さんは、もう完治してるって言ってました。痛みもありません」
それが答えだった。私の右肘は、確かに一度壊れている。リハビリの甲斐もあって既に治ってはいるし、ラケットを握ってもいいと医師から許可を貰ってはいた。もう半年以上も前の話だ。
「一つ質問だけど、貴女は誰にテニスを教わったの?部活動?」
「部活動ではなくて・・・・・・私のテニスは、お兄ちゃんの物です」
「兄貴譲りか。通りで男子みたいなフォームな訳だ。兄貴は現役なのか?」
「いえ。もういません」
「は?」
「亡くなりました。半年前に」
―――ピシッ。
言うやいなや、何かが割れたような音が聞こえた。同時に妙な肌寒さを感じて、捲っていた袖を直すと―――眩暈がした。5月11日の記憶は、そこで途絶えてしまっていた。