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深い瞑想状態が心の中をまっさらに塗りつぶしてゆく――その局地、"無心"の中に凛はいた。
空の色が忙しなくうつろいゆく――――黒から紫、一瞬の黄金、そして青い、蒼穹へ
剣道場で一人、瞑想していた凛は頬に当たる日差しの感触に目を開いた。
夏の夜明けは早く、刹那に過ぎゆくまどろみの時間。
暗がりの中、幽玄な雰囲気の中で精神統一していた凛はゆっくりと息を吸い、そして吐き出した。
水を打ったように静かな道場。その空間での瞑想は、時の流れさえも曖昧なものに変えて一呼吸いつもより長く、と始めた精神統一は随分と長くなってしまったようだった。
最も、深夜から早朝にかけての時間も今の凛にとって一呼吸と大差ないものであったが…―――
固い板間から立ち上がる。流石に長時間の正座で脚の感覚はなかった。
痺れる脚でゆっくり歩み、道場の窓を開け放つ―――――
見上げる今日のその空は…吸い込まれそうな群青だった。
目の前は彼方、遠く、広い世界。
ふぅ
深くついた感嘆の溜息は澄み切った朝の空気の中、高い高い空に舞い上がり消えてゆく
鼓動は静かで、心もひたすら穏やかだった。それは今も見上げているこの空の水で鏡を作ったような透明で深い青のように…
もう一度、深呼吸をする。
膨らむ胸の奥の奥、普段は仕舞い込んでいる想いに指と意識で触れてみた
すぐ壊れてしまいそうな脆いガラスに覆われる……たゆむ炎。
普段は
―――私は秋人の傍にいたい、ずっと…
頬を爽やかな夏風がなぞっていく、鼻孔を擽る深緑の匂いに凛は瞳を閉じた
―――縮まらない、埋めたいと願う、あと少しの心のキョリ
―――触れて欲しいと望んで止まない、誰にも触れさせたことのない心の部分
こんなにも壊れそうなくらいに繊細で、こんなにも愛おしい。求めてやまないこの気持ち
しゅる、
結った髪紐を解く。長い黒髪がさらさらと風に流れる。白い袂も同じように横へ靡いた。
「秋人、私は一体どうしたら良いのだろうな……」
ここ数日、凛の心は冷静さと激情が複雑に絡み合った状態であった。瞑想により気持ちをリセットさせてもすぐに元通り混乱状態となる。
言葉は問いかけだが、原因は凛にはよく分かっている。たとえ、そういう経験が無くても。
―――"恋"というのは一人でするものではない、相手が居てこそ始まるものだ。だから私がいくら自らの内に篭り、自己と向き合ったところで答えを得ることはできない……そんなこと、とうの昔に分かっている。
ただ一言、『好きだ』と言えばその時確実に何かが…今まで
今までと同じ場所には立って居られないのだ。
それでも、私は近づきたい。でも、もしこのキョリが、親しい関係が遠のいてしまったら――
「…。」
一度、言葉にしてしまったら、その時全てが壊れてしまう。"始まり"と"終わり"は常に同居しているもの
それは剣での戰いと変わらない。真剣勝負に二度はない。
"一の太刀"に全てを込め"二の太刀"はない。勝負の世界に"二度目"はないのだ。
―――この恋が敗れるか、はたまたそうではないのか
恋に勝者などは無く、ただ敗者だけがあるのだから。
「秋人…私、どうすれば…」
広い道場には無我の境地を得た武士娘の影はなく、物思いに耽る深窓の令嬢がいた。
凛の迷いを紡いだ言葉と溜息もまた、高い青空へと流れ消えていくのだった。
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(なんだアレ…?)
秋人は目をしばたたかせた。美紺と以前、リトへのプレゼントを買いに出かける際使った待ち合わせ場所、時計塔の辺りには普段よりもずっと多くの人だかりがあった。
「なんだろう?アレ…めちゃくちゃキレイなお姫様がいるぞ…たまんねぇ」「なに?映画?時代劇?戦国時代かな?豪華な着物だねー、でもここ街中でしょ?カメラは?遠くから撮ってるのかしら」
人混みの中から聞こえる、ひそひそと語り合う声
(…ん?映画の撮影かなんかやってんのか?"マジカルキョーコ"とかそんな感じの…あれは時代ものじゃなかったけど)
秋人は人だかりをかきわけながら進む、約束の人物との待ち合わせ場所がその人だかりの先なのだ。その人物は早めに待ち合わせ場所で待っておかないと『秋人、男性が女性を待たせるのは紳士としてマナー違反だ』などと言って静かに教育指導を行ってくるのだ、竹刀片手に。
そしてかき分け辿り着いた中心に、目当ての人物は居た。
豪華な生地を贅沢に使っているのがひと目で分かる程、上質の輝きを放つ色鮮やかな"藍より青し"といった深い青、重ね着された和服は襟元や裾などのグラデーションが鮮やかであり、大きく広がった
待ち合わせ場所に、戦国時代のお姫様が、居た。
…―――ただその時代に則した"三角おにぎり"のような髪型ではなく、艶のある黒髪は
武士姫様には周りの喧騒など全く思慮の外であるようだった。
静かに瞳を閉じ、きゅっとその桜の花びらのような淡い色の唇も閉じ、"凛"として―――――どうやら瞑想中らしい
「お、お待たせ、凛…ずいぶん早いんだな、まだ約束の20分前だぞ?」
声をかけるのにかなりの勇気が必要となった秋人。春菜のようにどもりつつ声をかける。あえて服については、その全力の和服については触れない。指摘したらマズイと本能的に悟っていたのだ―――そしてその判断は正しい
「…お待ちしておりました。
武士姫は目を静かに開くと、はんなり柔らかく微笑んだ。
「おおう…」
再びどもる秋人。普段見ることのないそのお淑やかで優しげな微笑、と思わぬ台詞に狼狽してしまったのだ
「この度、凛は…お慕いしているお方の元へ嫁ぎたく存じます」
「そ、そうなのか」
目を閉じぽっと頬を桜色に染め上げ俯きながらつぶやく凛―――武士姫様
に再びどもってしまう秋人。凛の中では何やら設定があるらしい。
(たぶんこの人だかりの視線に精神が耐えられなかったんだろうな…別キャラを演じて乗り切ってるんだろう…あの
「ははは、それはめでたいな…ハハハ」
秋人は引きつった笑みを浮かべる。武士姫の
「凛に……どうか私に最期の想い出を下さいませんか、兄様」
思わぬ凛の言葉に、兄様こと秋人は言葉を失い固まるのだった。
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―――台詞が違うッ!凛ッ!
男は胸の裡で叫んだ。
[ 凛を……私を貰って頂けますか ]
であろう!?凛…お前は何を言っているんだ!
歯噛みをする黒い影…その影は燕尾服を着ており、いつも狐のように閉じられている瞳をキッと更に閉じている。―――天上院家執事長…九条戎であった。
そもそも凛が"武士姫"にタイムスリップしてしまっている大過半数の原因がこの男の仕業であった。
『凛、今時間はあるな?聞きたいことがあるのだ』
『?なんでしょう、父上』
―――ココ最近、我が九条家一人娘、九条凛の様子は明らかに落ち着きのないものだった。静かに"凛"とした私の自慢の娘、凛。天上院劉我様の一人娘…沙姫様に負けずとも劣らない立派な美しい
「なぜ毎日"卵焼き"なのだ?」
「え…その…」
口ごもり、視線を彷徨わせる我が娘、凛。いつでもはっきり、きっぱりとした物言いをする我が娘らしくない。
「いや、父は責めているわけではないのだよ凛、ただ…こうも毎朝…というよりほぼ3食卵ばかりはどうも…な」
「…申し訳ありません」
弱々しく頭を下げ謝る我が娘、凛。―――薄いTシャツ、押し上げる立派な胸…その上に身に着けている白いエプロンがよく似合う…きっと良き妻になれるであろうな。
(妻…か、ふむ、しかし"卵焼き"…家庭料理であるな、…確か劉我様も娘に作って貰いたい料理の一つに上げられていた…)
一口、戎は口にした。
(うむ。美味い…ふんわりと仕上がり、卵本来の旨みとやさしい出汁の味がなんとも……)
しかしテーブルで共に食事をとる凛は、どこかをぼんやりとを眺め黙々と箸を進めていた。当然、父である戎の反応を
(料理人に作らせず、わざわざ自らの腕をふるっているのだから反応くらいは気にするだろうに…はっ!まさか!?)
目の前には黙々と食事をする凛、端正な顔立ち、その口元には白い飯粒がついていた。炊きたてのそれはツヤツヤと輝いていて…凛々しい娘のそんな間抜けな姿には、なぜか色香があった。
(口元に白い粒……可愛い凛……湿った唇……物思いに浸る凛……たわわに実った2つの果実…箸を口に含んだまま呆けた様子の凛…もう女子高校生な…大きく育ったオトナな凛!!!! )
―――そうして戎は作戦を練った。カワイイ一人娘の為に血涙を堪えながら。
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「暑くないか?凛、もう夏本番って感じだよなー」
「有難う御座います。大丈夫です兄様…凛の事などお気になさらぬよう…」
微かに衣擦れの音がする中、二人で歩く…というより凛は"三歩後ろ"をしずしずと着いてきていた。
正直、歩きにくいんだが…と秋人はちらちらと振り向きながらも歩みをすすめる。
"三歩後ろを控えめについてく"
――男を前に歩かせ、 女は守られながらも男が間違えた方向に行かないか、男が弱ってはいないか、見守り…時にそっと軌道修正する。補佐する…そういう控えめでしおらしい女性に元来男は弱いものなのだ―――戎の助言その2であった。
が、それだけではない。
『何かあったら、俺が護るからお前だけでも逃げろ』
という、いざ何かあった時に、男が敵に対峙する間に後ろに逃げろという意味も含んでいるのだった。
女の特徴を表す言葉ではなく、男から大切にされている事を表している言葉でもあるのだ。
すなわち、秋人は後ろのしおらしい凛に男心を揺さぶられ、凛は秋人に"護られている"という女としての幸福感に満たされた気持ちになる……
―――流石、執事長だけあって心をもてなす演出はお得意のものだった。
「ふふふ…今ごろ凛の心の中は父への感謝の気持ちでいっぱいであろうな…」
武士姫には父のことなど霞とともに消えている。あるのは目の前の愛しの兄様の事だけだった。
しかし、当の本人たちは確かに戎の演出通りの気持ちの中にあった。が、思わぬ
武士姫は思う。この心の平穏は何だろうか―――と
そして、ふと気づく、前を歩きゆく体温。
清浄な空気の流れの中、目まぐるしく蠢く人の群れ群れ群れ、都会の喧騒…その中をふたりで規則正しい呼吸で通り過ぎてゆく―――
胸に感じるじんわりとした不思議な温かさ。
―――何も考え込む事はない。 答えなら、既にもう出ていた。
秋人の傍にいる。
こうして肉体のキョリが三歩後ろでも、1キロでも何万光年でも遙か銀河の彼方、離れていたとしても心はずっと預けてあった。目の前の背中に…
「…どうしたんだよ?凛」
大事なのは自らの意志だ、秋人の気持ちは関係ない。多少乱暴ではある…が、心はずっと楽になった。
振り向いた秋人と目が合う。―――だが、できれば今のように私を振り返り、気にかけて欲しい。
「いや、なんでもないんだ…秋人」
薄く口元を綻ばせ浮かべる微笑、穏やかな表情の凛は俯き頭をゆるゆると振った。揺れる一つに結われた長く美しい黒髪……いつもと口調が同じとなりほっとする秋人
「……いえ、なんでもありません、兄様」
自身に感じる秋人以外の好奇の視線を感じ直ぐ様、元の武士姫に戻る凛に秋人は疲れた溜息をこぼすのだった。
数多の視線を集めてしまうのは無理もなかった。凛の…武士姫の、青空に透けていくような澄んだ微笑みはそれほど魅力的だったのだから。
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「…まったく、無理やりすぎるだろう、秋人…」
「いい加減耐えられなかったんだっての…それに俺に感謝しろよ?凛だって辛かったんじゃないのか?」
人気のない場所に武士姫を連れ込んだ秋人はばしばしと頭を叩いた。調子の悪い電化製品をもとの調子に戻すように…「なにをするんです…いたっ兄様…痛いです」と頭を庇い瞳を潤ませていた武士姫だが、何度も叩かれるうちに思考のチャンネルが元の凛とした"凛"に戻り、秋人は手痛いしっぺ返し…「いい加減にしろ!痛いだろ!秋人!」と脳天にチョップを落とされた。
「それでなんだ?相談というのは…春菜と喧嘩でもしたのか?」
「いや、喧嘩はしてないんだが…」
二人は並んで座り"あんみつ"を食べていた。抹茶の苦さをほんのり甘い蜜を纏った白玉で癒やす。――――秋人は凛に自身の不安な気持ちを吐露した。
「知らない記憶…消える記憶…なんだ、そんな事か」
「なんだとはなんだ」
「随分とまた弱気なことを言うと思ったら…そんな下らない事だったとはな」
「くだらないって言うな」
「識っている事に頼りすぎなんじゃないのか?秋人、何でも自身の知識通りに物事がいくはずがない。それに人の心など、うつろって変わりゆくものだ…それは誰にも自由に操作など出来るはずもない…が、心配しなくても君と春菜の絆は揺るがない。君が繋いだ絆はそれほどまでに強いものだ―――
正直、私にはそれが羨ましい―――その言葉を凛は冷たい白玉と共に飲み込んだ。
「そうかな…」
「ああ、そうだ。…そういえば最近、古手川唯とも親しいみたいだな…彼女は随分と妄想が激しいな、私もこの間…「はっはっは!私のおにいたんへの愛はもっと激しいがな!そう!包み隠す事のないこの想いは愛しあう行為に邪魔な下着など一切身につけないこの下半身のように!」
ポイっと秋人は背後に里紗パンツ(紫)を放った。視線は凛に固定されている。暗闇に吸い込まれるように消えていく
「…今、何か居なかったか?」
「さあ、俺には何もわからなかった。」
「突然現れそして消える…奴はもう妖怪か魍魎の類だな…――――ところでこの後どうするんだ?」
「え?」
「…何も考えてなかったのか、まったく、この私を何だと思ってるんだ秋人…便利なカウンセラー、とでも考えているんじゃないのか?」
キッと秋人を睨む凛。"凛"とした凛が睨むその表情は美しさと凄みが同時に備わっていた。怖い顔…というのはこういうものなんじゃないか…と秋人の背を冷たい汗が伝う。これで「我が主…上様の
「いいか、正しい礼儀作法が紳士を形作るんだぞ。女性一人くらいエスコートできなくてどうする」
秋人から視線を外し、礼儀正しく音を立てず抹茶を飲み干す凛。和服を纏い、湯のみを手にするその姿は似合いすぎていた。
「………。」
「なんだその目は?まさか"お前、女だったのか、凛"などとは言わないよな秋人…」
「当たり前だろ。まだオレは死にたくないっての」
「…秋人、歯を食いしばれ」
―――凛、女性(
ぱちん、と秋人の額を指で弾いた凛は「此処の
(凛…お前はきっと良き妻になれると父は確信したぞ…夫を立て、影から支える貞淑な妻に…)
戎の視線の先には「わりぃな凛、いやぁ~凛は頼りになるな」と笑顔の秋人とぷいっと不機嫌そうに視線を外し「ふん、
(凛…素直になれんとはまだまだ子どもだな…大きく育ったのは胸と…身体つきだけ…というわけではないのだろうが、まだまだ"凛"とした立派な
今も戎の視線の先に居る凛は柔らかく細いラインで描かれる、自然な"女"としての凛がいた。いつもの凛は人を寄せ付けない"凛"とした佇まいでいる。だがあの男の前にいる凛は確かに"凛"としているが、どこか柔らかだ。"大和撫子"というものは清楚で美しい、凛々しいだけの女性ではない、どこか"か弱さ"をも含むもの。そう、今もあの男の前で、顔を背けはにかんだ笑みを隠す凛のように―――。
「くぅうう…凛…なんて可愛いのだ。愛らしいのだ…お前が幸せならば…父は…父は…たとえどこぞの馬の骨であろうともその恋を応援して…ぐぬぬぬ…!!おのれ西蓮寺秋人…あの男……ッ!!春だか秋だか知らんが一年の四分の一のみたいな奴に可愛い可愛い我が娘、凛を…!!くっ、やはりウチの九条凛が一番カワイイのだ!」
「フハハハ!甘い!甘いぞ九条戎よ!それは違うッ!」
「何奴ッ!?」と叫び、キッと閉じた目を更に閉じる戎…振り向くとカカカッ!と数多のスポットライトを浴びる彼の主…高台に立つ天上院劉我が居た。
「一番カワイイのは我が娘、天上院沙姫に決まっているだろう!愛らしい高飛車な笑顔は美の女神でさえも裸足で逃げ出してくれるわ!」
「馬鹿な事言うな!ウチの凛は脱いだらもっと凄いのだ!あの普段"凛"とした凛がいじらしく己の柔肌を、豊満な乳房を隠す仕草を見せてみろ!例えどのような男でも野獣と化すわ!実際、偶然見てしまった父である私でさえも理性が危なかったのだ!」
「ふん、危ない奴め…馬鹿はお前だ!大きさがなんだ!我が娘、沙姫はな!美乳
ぎゃーぎゃーと言い合う娘を溺愛しているドーターコンな父ふたり。
隠れ、密かに裏方に徹していた戎と隠れるつもりもなかった劉我。流石にこれだけ騒げば周りも武士姫への羨望の眼差しから騒ぐ男二人にも目がいってしまい…気づかれてしまう
「…何をしてるのですか、父上」
「何、言っているんですの?お父様」
父とそれぞれ呼ばれた二人の背後には武士姫と喧嘩
父二人からはスポットライトの逆光で愛しの娘たちの表情は読めない。
「「あ…」」
丁度その時ドーターコンの二人は"どちらが娘に慕われ愛されているか"について白熱した討論を繰り広げていた
「残念ですが、父上、あの"卵焼き"は将来、夫となる秋人に食べて貰う為に作った練習用ですので…あしからず」
「
ヒマ人・沙姫は監視
スッと懐から小刀を取り出す武士姫、ポキポキと拳を鳴らす喧嘩
ぎゃー!りんやめっ!おかわり!フハハハ!沙姫よ!強くなったな!この痛みがたまらない!
…と悲鳴(?)を上げた父二人は纏めて縛り上げられ路地裏の隅に放られるのだった。
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「なんだったんだ凛のやつ…先に行っておいてくれだなんて…あんな格好で目立ってまた武士姫にキャラ変わったら困るんだけどな…ん?」
ちょっと!急いでるんだってば!離して!いいじゃねえか、サインくらいさぁ~、と一人の女子高生の腕を掴む不良男、駅前の…改札口で言い合いをする二人の男女。見るに女の子の方は電車の時間を気にし、男の方は黒髪ショートの女の子の美貌…と言うよりメガネで変装した芸能人にサインを貰うということに執心らしい。…まぁどっちもあるのかも知れないが、
「ま、通りすぎても良かったけど、見ちゃったし…ここで知らんぷりしたら春菜に情けない兄だと笑われるしな…気を逸らして逃げる時間くらいは俺でも…ん!?」
秋人は確かに見てしまった。その女子高生は…
―――
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「ちょっと!しつこい!離してってば!燃やしちゃうよ!?」
「へへ、アレはCGだろ?しってるんだぜ、オレ」
違うのに!キッと目の前の男を睨む。最近の男の人ってこんなのばっかりなの?芸能人になってから好奇な目で見られるのは慣れたけど、男の人ってこういう私を押し測ってくるような、ゴシップネタを手に入れてやろうとするような、そんな下卑た目で見てくる人ばっかり、お伽話にでてくるような、格好良く私を助け、連れだしてくれるような王子様なんて、どこにも…
「なぁ、サインくら…げべぇっ!」「きゃぁ!」
ぶっ飛ばされるしつこいファン、その後ろにぶっ飛ばした男の人が―――
(え?助けられた…?男の人…かっこいい…もしかして私の王子様…?)
―――今度は私を睨んでた。
(え?な、なんで助けられた私が睨まれてるの…もしかして仲間…に、逃げなきゃ)
「おい……俺はずーっとお前に一言、言いたかったんだ…ニセ春菜め…だが俺の春菜センサーは誤魔化せんぞ、このパクリ女が!」
「へ?春菜?誰??センサー??」
「うるせぇ!パクリ!お前なんかより春菜の方がずっとカワイイんじゃい!メガネで萌え袖なんかしおってから!そんなの同じことしたら春菜の方がずっとカワイイし!足元にも及ばねぇんだよ!パクリめが!」
「ちょっ…!何よさっきから!好き放題、言いたいコト言ってくれちゃって!パクリ女!?誰よそれ!?」
「俺の妹だ!たまに猫になったり妖精だったりもする可愛すぎるウチの妹だ!」
「はぁ…?君、正気?…あ、あーあ!もしかして君が
ムッと不機嫌そうに私を睨む優しげな紫の瞳…のシスコン王子様(霧崎恭子視点)
ジトッとメガネの奥から大きな瞳で俺を睨む女子高生…ニセ春菜(秋人視点)
「だいたい秋人くん…私は別に…あ、お兄ちゃんって呼んだほうがよろこ…「お兄ちゃん言うな!春菜のニセ顔でそんな春菜と同じ呼び方すんな!」ああ、もう話にならないわね!あったまきた!燃やす!?燃えるゴミになる!?「もう春菜に萌えてんだよ!「ああもう!ウルサイ!会話にならないじゃないの!このドヘンタイ!」」
だいたいそっちがパクリなんじゃないの!?ああ!?んだとてめぇ!と、ガルル…とでも唸り声を上げそうな、顔を近づけ視線鋭く睨み合う男女。虎VS虎の図であった
険悪な雰囲気を撒き散らす二人を大勢の人が取り囲み固唾を呑んで見守る、その中に「ん?秋人くん…?」と顔を覗かせる一人の美人OLが居た
ややあって「あ、いけないっ!」と声を上げた女子高生は壁時計を見てハッとした。つられて美人OLも時計に目をやり…慌てて駆け出し改札を抜け電車に飛び乗った。
「こんなシスコンのおバカに付き合ってるヒマ無いんだった!あの電車に乗らなきゃ撮影間に合わなくなる!」
「うっせえ!誰がシスコンだ!誰が!春菜と似た顔で俺を汚く罵倒するんじゃねぇ!」
「はぁ…君、どんだけ春菜ちゃんの事好きなのよ…頭大丈夫?現実見ようね、お兄ちゃん…まぁどうでもいいけど、じゃね!ルンレン経由でお礼にサインくらいあげるわ!」
慌てた様子でローファーを踏み鳴らし走り去っていく女子高生(ニセ春菜)の背を睨みつけ、チッと舌打ちした秋人は、意識を取り戻した不良男「てめえ、よくも…げふっ」…の顔をと再び踏みつけ意識を奪うのだった。
あとには霧崎恭子が変装用につけていたメガネが残されていた。
…
―――あれ?よく考えたら"シンデレラ"に似てる?
霧崎恭子は電車の窓から流れる街並みを見つめ、独りごちた。
夢見がちな恭子は童話や絵本が好きだ。"シンデレラ"はお気に入りの童話の一つだった。
(まぁ王子様はあんな口悪くないし、シスコンでもないし、いきなり罵声浴びせたりしないし…)
「まさかねー…」
恭子はなんだか自身でもよくわからないもやもやとした気持ちを苦笑いと、流れる高層ビル群…それを隔てるガラスの窓にデコピンをすることで弾くのだった。
…弾いた拍子に炎が生まれ、窓に大穴が空き、電車が止り、結局恭子が撮影に間に合わなくなった事と、またOLもこのせいで編集部で2日目の徹夜をするハメになるのだった。…涙の余談である。
じーっ、「?お兄ちゃん?どうかした?私の顔に何かついてる?」「春菜、やっぱりお前のほうがずーっとカワイイぞ」「ふえ!?な、なに、いきなり…!?」「"お兄ちゃん大好き"って言ってみてくれ春菜」「え!?!?は、恥ずかしいよ…お兄ちゃん…も、もう…しょうがないなぁ…お、おにいちゃんだいすき…」「うむうむ」「…何をやってるんですか何を…このバカップル」との会話がとある家庭で繰り広げられたのもまた別の話。
22
「おう凛、二度目まして…用事はすんだのかよ?」
「ああ、すまない。もう済んだ…ん?何だか不機嫌な顔だな?何かあったか?」
「いや、何もない。なーんにもなかった」
「…?そうか?」
小首を傾げつつ、丁寧に着物に皺ができぬよう膝を折る凛。
「そういえば、ソレ、その着物、重かったり暑かったりしないのか?」
「…正直重いし暑い。いつ脱いでやろうかとも考えている」
だろうな、と秋人は悪戯っぽく微笑った。凛も、笑うな私だって好きで着ているわけじゃない、無理やりだったんだ、と微笑った。
凛の指定した鰻屋へ先に行っていた秋人は襖を開けて未だに武士姫仕様の凛を出迎えた。完全個室の鰻屋はとても安そうな、学生が行くような場所ではなかったが、店についた秋人は物怖じせず暖簾をくぐった、帰ったら春菜に恭子とのモヤモヤを晴らしてもらおうと色々案を練ってほとんど無意識のうちでいたのである。
「でも初の凛とのデートが鰻屋…渋いな、凛っぽいけど」
「デート…か、秋人、ほんとにそう思ってくれているのか?」
「もちろんッス」
「嘘をつけ…」
ふっと苦笑いを溢した凛はパタンとお品書きを閉じ、これを、と女将へ頷くことで示した。
「おお、かっけーッス、メニュー見ないんスか?」
「此処へは偶に父上…あの不埒者と来るからな…もう二度と来ることはないと思うが…」
スッと目を細め剣呑な眼差し…武士姫が確かに秋人の前に"凛"としていた。ゴクリと一口、お茶を含む秋人。
(父上…なんかしたのか…?どういう人なのか識らないな、まぁ凛の親なワケだし…武士っぽい人なんじゃなかろうか)
娘ラブなちょっと(?)危ない父親だとは露とも思わない秋人であった。
「秋人、鰻屋の松竹梅は鰻の大きさ、ご飯の量の違いだけなんだ。」
「へぇ、そうなのか」
「ああ、それから此処の鰻は白焼きしたものを、蒸してから再び焼く、淡白で柔らかいのが特徴だ。鰻の白焼きはあっさりとして美味いぞ、食事を終えたあとは柚子茶で、爽やかな甘さのあるお茶でしめるんだ」
「へぇー、やっぱ凛は物知りだな」
ふふっと満足そうな笑みを着物の袖口で隠す凛。素直な褒め言葉に嬉しいらしい
「夏に鰻を食べる風習があるがな、本当は鰻の旬は冬なんだ。過去、夏に鰻は売れずに――」
嬉しそうに解説を続ける凛、その姿を頼んだ鰻がくるまで秋人は微笑ましく見守っていた。
22
二人は公園へと続く並木道を歩いていた。
もう陽はとっくに落ち、街は
相も変わらず穏やかな表情の凛は、秋人の三歩後ろをついて歩いていた。
秋人も何度か振り返り、凛の様子を気にしながら歩く。凛は視線を感じる度に口元を綻ばせていた。
昼間に感じた幸福感とは別の、切なく高なっていく気持ちを凛は胸の奥に秘めていた。近づくと気持ちが伝わってしまいそうで、今も秋人の後ろを歩いている。
(秋人…)
今宵の月がうつろいゆく、それに呼応するように白が朱く染まっていく…上気していく頬、顔…
―――期待していた
月夜の晩に、二人きり。人のいない並木道。
―――秋人がいい、秋人でないと駄目だ
凛は着物の襟をぎゅっと掴んだ。
(秋人にあんなことを言ったが、自分の心さえ自由にならないとは…恋は時に頼りなく儚く、時に荒れ狂うマグマのようだ)
目の前に変わらない秋人の背中がある。手を伸ばせば届く距離に。私の傍に。
「凛?どうかしたか?」
「…いや、なんでもない。こういう着物は衣擦れの音が気になるな」
凛は伸ばしかけた腕をそっと戻した。
「まあそうだろうな、裾が地面についてるし。ズルズル引きずってるしな」
「そうだな、過去の貴人たちはこんな重い物を着ていたとは…日頃から鍛錬を怠っていなかったようだ。」
「鍛える為に着てたわけじゃないと思うけど…ま、いっか」
「ああ、先を急ごう秋人。もう遅い時間だ」
何の為にこれを着ているのか、本当は分かってる。
シンデレラをイメージしたという十二単。父上は無理やり私に着せたが、ドレスではなく和服では"かぐや姫"の方がイメージに近い
―――そういえば、月に帰ったかぐや姫はその後どうなったのだろう
ふいに思い浮かんだ疑問。胸の奥で燻る炎を誤魔化すように、私は空想を巡らせた。
(最後は物思い一つない月の世界に還っていくかぐや姫。天の衣をつけたかぐやは、育ててくれた翁や激しい愛を詠う帝のことも何とも思わなくなり月へ還り……それからどうなったのだろう)
「…秋人、かぐや姫は月に還った後どうなったのだろうな」
気づけば私は目の前の背中に問いかけていた。答えが分かる確信があった。
「また還ってくるんじゃないのか?むこうは娯楽少なそうだし、もうあっちには友達も家族も居なくて退屈しそうだし」
「…。」
「何よりこっちに残した…泣き虫が寂しいだろうし」
ララとか、ヤミだってこっちの方が居心地良さそうだろ?――と、秋人は振り返って笑った。
―――秋人…
秋人の笑顔に切なく胸が締め付けられた。
こんなに近くにいるのに、声も届かぬ程遠い人
向けられたその目は、振り返って私を見たその瞳は…私を見ていないような気がした。
だから、つい
「…兄様、凛へ大切な想い出を有難う御座います。凛は一生忘れることはないでしょう。兄様と過ごした日々は瑠璃の宝珠のように大切な想い出でした。」
「お、おう、なんだよイキナリ」
「できれば凛は一生、その中で過ごしていとう御座いました………ですが、ここでお別れです」
「そ、そうか」
頬を引き攣らせて、秋人が笑っている。
「…はい、さようなら兄様。もう逢うことはないでしょう。ですからどうか、どうかいつまでもお元気で…」
今日出会った時のように父上原案の"リンデレラ"を演じる。
振り返った笑顔には寂しさが混ざっていた。秋人にそんなものは似合わない、それに
(君の傍には君を求めてやまない者がいる、大切に思っている者がいる)
たとえ君が求めた者じゃなくても―――
鮮やかな藍がさあっと風と共に舞い上がる。
脱ぎ捨てられた衣が姫と兄を薄い影で覆っていく
薄布に包まれ、阻まれる月灯り。藍色の衣が月の視線から二人を覆い隠した。
踵を押し上げて、胸を掴んで――
二人しか居ない世界。衣の下で、重なる影を月は優しく照らしていた。
―――こうして、魔法の効果が切れる前に姫は影落ちる大地よりいと高き所へと還っていた。
でもまたいつでも逢える。逢うことの出来る御伽話の姫を、"かぼちゃの馬車"ではなく車に飛び乗り去っていく凛を、秋人は見送った。
唇には、仄かに甘い柚子の香が宿っていた。
感想・評価をお願い致します。
2016/01/10 情景描写改訂
2016/01/18 情景描写改訂
2016/01/23 情景描写改訂
2016/01/26 情景描写改訂
2016/02/03 ラストシーン変更
2016/06/03 一部構成改訂
2017/11/24 一部改訂