文久三年6月末
緒方洪庵が死去し、仁が涙を流していた頃。
洋介はと言うと洋介が関わったあの生麦一年余りが過ぎた。
ついにイギリスは重たい腰を動かし薩摩討伐に出たのである。
洋介は薩摩に浪人として入っていた。
薩摩は突如としてイギリス艦隊が現れた事に驚き市内中の浪人を集め用意をしたのである。
イギリス艦7隻、フランス艦5隻、ロシアの旧式艦10隻を錦江湾に突入させてきたのである。
イギリスの要求は犯人の引き渡しと賠償金200万ポンド及び坊津、枕崎、大隅半島の99年間の租借とイギリス、フランス、ロシア人の薩摩における永久居住権と領事裁判権確立だった。
これには島津久光も怒りを禁じえなく、更にイギリスは矢継ぎ早に2週間の猶予として鹿児島の町の沖合いに2週間の停泊を宣言したのだった。
それは事実上の2週間の海上封鎖を通告されたのと同じことであった。
洋介は戦争が起こるまでイギリスの艦内に超能力を使ったラップ音や様々な奇っ怪な現象をおこし、イギリス艦隊の士気を下げた。
元々、大義もなにもなくお付きあいで参戦しているフランス艦隊と一応、約束の一部を果たしたロシア艦隊の士気は低い。
もしも、戦闘になったら頃合いを見て海域から離脱すると言う考えしかなかった。
フランスもロシアも大してイギリスが好きではない上にイギリスが最近起こした下関事件では、双方利益を上げておりイギリスの辛勝でイギリスの艦隊が減れば相対的に自分の国がアジアへの影響力を高め、イギリスの権威が失われると予想していた。
洋介は薩摩とイギリスの戦争が始まる前に、スエズ運河予定地に居た。
つば広のシルクハットとヴェネツィアンマスクにタイムスリップ時に着ていたスーツを身につけてサン・ジェルマンと名乗りフランス側に博物学、哲学、経済学者兼資本家として参加したのだった。
運河建設担当者レセップスに錬金で作った金を200kgと交易商から黒鉛大量に買ってきてグラビガによりダイヤモンドを100kgつくりそれを渡し建設担当をさせてもらいたいと交渉したのだ。
「サン・ジェルマンさん、わかりました。補助の人員を着けます。」
レセップスはフランス人としてイギリスよりも速く長く運河を掘削しなければならなかった為にこの風変わりな投資家の要請を拒否出来なかったのである。
もはや、運河は当初の目的を忘れイギリスとフランスの列強としての意地の張り合いになっていったのであった。
そんな事とは露知らず洋介は呑気に「案外と怪しまれないものだな。」と呟いていた。
建設現場に着くと洋介は労働者にスリプガをかけて、掘削すべき場所にフレア、ファイガ、レイ・ボムを使用し楽々と掘削していった。
洋介はフランスが担当する紅海側の運河の入り口予定地から運河の横幅を700m、深さ70mに変えていった。
出た土砂の大半はイギリスのテムズ川に捨てられて水運を麻痺させる結果となった。
残りの土砂は全て金と銀と銅に変えられフランスとエジプトは財政が少し良くなったがヨーロッパの貴金属価格を下落ささふる結果をもたらした。
イギリス側(地中海側掘削地)でも洋介はスリプガを使い、川底に錬金で10万tの金を貯蔵させた。
情報修正の力を使いながら調節した量である。
翌日からイギリスはスエズ運河掘削により金の算出により金が暴落し、更に銀もフランスやエジプトの売却で下落した事で通貨は価値が下がり物価高が加速したのである。
ダイヤモンドも下落し、テムズ川も土砂が片付くまで封鎖され株価は混乱し大暴落イギリスの資本家や投資家の多くが失業したのだった。
問題はイギリスだけではすまなかった。
イギリスの金がヨーロッパに流出するとヨーロッパは軒並み物価高になってしまい未曾有の不景気に陥り、余った金の出口として北軍の戦時国債が買われたのである。
アメリカでは再び北軍が勢いを増していくがこれはまだまだ先の話である。
文久三年7月1日
「疲れた。」
そう呟くと薩摩にとった宿で寝てしまった。
洋介が寝ている間に決死隊による黒船突入が行われたが、占拠とはいかなくとも傷を負わせた。
だが、それが3か国艦隊の逆鱗に触れた。
すぐさま報復に停泊していた薩摩の船舶全てを破壊し砲台に砲撃を開始した。
砲台の火薬に引火して鹿児島の町で火災が起きていた。
ここで洋介は目覚めた。
洋介の反撃は今始まる。