“呪縛の森”――場所は第六階層の北部、普段は誰も訪れようとはしない薄暗くジメジメとした不気味な雰囲気のこの森は、中心部の原生林とは違い魔法的な効果を持つ植物が多く群生する場所だ。
極太のツル植物が蛇の様に絡まり巨大な一本の木になった様なものが空を覆う程に鬱蒼と生い茂り、紫色の粘液をまるで唾液の様にダラダラと花弁からこぼす食虫植物ならぬ“食人”植物や、見たことも無いほど毒毒しい色味のキノコ達が呼吸をしているかのように胞子をあたりにばら撒いている。空を覆う木の枝に鈴なりに
その“呪縛の森”で作戦の要ともいえる転移魔法陣及びその術式の準備を進めていたアインズの瞳は、彼方の空へと釘付けにされていた。
「なんだ…この光は…!?」
偽りの夜空をまるで逢魔が時の夕暮れの様に染め上げる不吉な赤。
僅かとたたずに消えた光は、大地を震わす轟音と全てを呑み込む衝撃波を連れてきた。
「うおっ!」
その凄まじい音と風に森は激しく揺さ振られ、少し開けた場所に居たアインズは直撃をくらい思わず両手で顔を庇った。しかしすぐに払いのけ周囲の状況を確認する。
細い木やツルは根元から見事に薙ぎ倒され、立ち残った木々もその葉を大量に落とされている。最重要の魔法陣は吹き飛ばされた枝や葉に覆われてしまっているがどうやら機能に支障は出ていないようだ。
(無事の様だな…しかしあの方角は!)
光が強く発せられた方角は、紛れもなく守護者達がローザリアと戦っていたと思われる方向だ。
一瞬の出来事ではあったが、10キロメートル以上も離れたここにまで破壊の力を及ばせたあの光を間近で受けたのならば、無事でいられる保証などないに等しい。
アインズの脳裏に最悪の事態がよぎる。
すぐさま〈
『おい!大丈夫か!?何があった!?状況を報告できる者はいるか!?おいっ誰か答えろ!!』
しかし返ってくるのはザーザーと耳障りなノイズばかりで一向に返答は無い。
奥歯をかみ砕かん勢いで歯を食いしばり、怒りの形相で雄叫びを上げる。
だがその怒りは他でもない、不甲斐ない自分自身に向けられたものだ。
「くそっ…くそが!!何度同じ過ちを繰り返すんだ、俺はっ!!!」
何度も何度も地面を足でけり上げ、抉られた地面が大量の土煙を巻き上げる。
しかしとどまらぬ激しい怒りの波は、〈精神操作無効化スキル〉に触れて強制的に鎮められる。
望まずして平常心を取り戻せたアインズは複雑ながらも状況を整理し、次の行動を考える。
『…ア…ズ様…ア…ンズ様』
その時、微かにだがはっきりと自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
『その声はアルベドだな!…全員無事か?』
はやる気持ちを抑え、冷静に、決して焦りを見せてはならない。不安は伝染する、ましてや一国の王が真っ先に不安な心を見せては部下を更に不安に陥れてしまう。だから緊急事態であろうと、心が正反対であろうと、王として堂々と何も心配させぬよう振舞う。
『は…い…。アイン…様から賜わ…《
ノイズが酷く所々聞き取り辛い部分があったが、アルベド曰くどうやら全員無事な様だ。最悪の事態を想定して擦り切れていた心に届いた朗報で、ホッと胸が撫で下ろされる。
『そうか…それは本当に良かった…。ところでアルベド、原因は分からんがノイズが酷い。このままでは情報伝達に支障が出かねない。よって〈
『畏ま…し…。我々…居…のは中…部の闘技場…南西…5㎞程…離…た“
そこでアルベドからの通信は途切れた。
第六階層はそのほぼ全てが森で覆われいるが、実は大小さまざまな森が合わせってできている。アインズが転移魔法陣を仕掛けた“呪縛の森”然り、アウラとマーレが住む巨大樹の足元にある文字通り巨大な木ばかりの“巨大樹の森”、これから向かうアルベド達が居るという“昔日の森”は緑豊かだった時の地球に存在していた植物を再現した森などなど、それぞれ呼称がついているので意外と場所を特定しやすいのだ。
アインズはアルベドに言われた“昔日の森”の位置を思い浮かべて〈
黒々と渦を巻く〈
この門をくぐればそこは“昔日の森”。即ち、戦闘区域である。潜り抜けた瞬間にローザリアと戦闘になる可能性はゼロではないし、大技を準備して待ち構えている可能性だってある。ここにきて戦闘を守護者達に任せていたツケを払う時が来たようだ。
なんにせよ、止まっている暇は無い。守護者達の状態の確認、周辺状況の確認、ローザリアの動向の確認、及び場合により戦闘…他にもやるべきことは山積みだ。
(まずは守護者達と合流することを優先しよう。保険も兼ねて…)
意を決し、出合い頭の戦闘にも対応できるよう今施せる最大限の防衛手段を自身にかけ危険地帯へと続く暗黒の門を潜り抜けた。
「こ…これは!!」
守護者達は探すまでもなくあっけない程に発見することは容易かった。彼らが決して軽症でないことも遠目から確認できる。
ついでに言えば、件の問題であるローザリアの姿は見えず、気配すらしない。
いや、今はそのどれもが
「こんなことがあり得るのか!?」
アインズは〈
――何も、ない。
――見渡す限り、何も。
―――何もかもが、
広大な焼け野原がそこには広がっていた。
発射地点と思われる場所から放射状に焼け野原は広がり、地面は半円状に抉れそれが第六階層の端まで永遠と続いている。更には直接的な被害を免れた周辺の森も、見渡す限りでは全てが炭ないし灰へとその身を変えてしまっている。
アインズはマジックキャスターという職業柄、かなりの数の魔法を習得している。そして
だがそんなアインズでさえ目の前の光景を作り出せるようなスキルや魔法は所持していない。
確かにローザリアが
故に導き出される結論は、”ただの強力な攻撃”、だったと言う事になる。
余りに壮絶すぎる光景と信じがたい結論に、足から力が抜け崩れ落ちそうになる。
それでも己の立場と使命を思い出し、なんとか自分を奮い立たせる。
(落ち着け…落ち着くんだ、自分のやるべきことを見失ってはいけない…そう、まずは守護者達と落ち合って何があったのかを聞き出さなくては…。)
焦る心を落ち着かせるため、守護者たちの下へ急ぎ向かいながら無い肺へと深く空気を吸い込む。
「うっ!?」
激しい不快感が腹から喉へとこみ上げ、思わず口を押える。
(なんだこのむせ返るような濃度の魔力残滓は…アルベドとの〈
必要性は要検証だが、やらないよりはマシだろうと魔力で汚染された空気を吸い込み過ぎないようにローブの裾を手に巻き付けて口元を抑えつつ、守護者達に向かう歩を早める。
「「アインズ様!!」」
主人の到着に心底嬉しそうな表情を浮かべる守護者達の姿は、その表情とは真逆に見るに堪えないものだった。
全身を血に濡らし、火傷、打撲、内出血等で皮膚は変色、骨折は当たり前で中には体の一部が欠損している者もいた。まさに満身創痍という言葉が体を表しているようだ。
それでも彼らは創造主と崇め奉るアインズを前にして、跪き崇拝の姿勢を崩さない。
愛しい彼らの痛々しい姿に目を背けたくなるが、彼らの努力があってこそ作戦の準備は整ったのだ。その事実を忘れてはならない。
「…皆面を上げよ、楽な姿勢をとるがよい。…よくぞ耐えた。そのように傷つきながらも己が使命を全うしたことを褒め称えよう。そなたらの働きにより、今作戦の用意は全て整った。なにより誰一人として欠けることなく生き残ったことは最大級の功績である。守護者達よ、心から感謝する。ありがとう。」
彼らにとって最大の褒美であるアインズからの盛大な賛辞の言葉に、今までずっとため込んできた恐怖や不安と言った感情が温かく融かされ
アインズは一人ひとりの前に赴き、優しく肩を抱いて感謝の言葉を述べて回る。本当に感謝しているのだ。自分のためにここまで体を張ってくれる部下たちの存在は何物にも代えがたく、その忠誠心の厚さは自分一人に向けられるのがもったいない程だ。
少し落ち着いた頃合いを見計らい、当初の目的である状況の確認を行う。
「さて諸君、辛いだろうが状況把握のためもう暫し付き合ってくれぬか。ここで何があり、ローザリアはどこへ消えたか分かる者が居れば簡潔に教えてくれ。」
アインズの問いかけにアルベドが一歩踏み出て答える。戦闘の際に装備していた漆黒の鎧姿ではなく、いつもの美しい白いドレスを身に纏っていた。愛するアインズの前では奇麗な姿で居たいという女心なのだろうか。
「はっ。では守護者を代表して統括である私が申し上げます。ローザリア様はお恥ずかしながら我々の隙をつき、広範囲による超高火力で全てを焼き払われました。目測ですが規模にしておよそ第六階層のニ割ほどの面積がこれにより消滅ないし蒸発したと思われます。ですが我々はあらかじめアインズ様より賜わりました《
アルベドの報告を受け、アインズは「ふぅむ」と少し考え込む。
「なぜ彼女はお前たちを完全に殺せる状況を見逃し東へと向かったか、心当たりはあるか?」
アインズの問いに、アルベドが少しだけ哀しみのこもった複雑な表情を浮かべる。
「確証はありませんが…恐らく“飽きた”のだと思います。」
「“飽きた”だと?」
予想外の答えが返ってきたことにアインズは少しばかり驚きを覚える。「見逃した」とか、「実は殺す余力がなかった」とかだと大変ありがたかったのだが、「飽きた」となるとこれいかに。
「はい。ローザリア様がここを去る際に、微(かす)かにですが『ツマラヌ』と確かに仰っていたのを耳にしました。」
はぁ、とため息をつきながら、アインズは困ったように片手で後頭部を撫でる。
「なるほどな…『ツマラヌ』ときたか。しかしまた随分と余裕そうな物言いをしてくれるよ、まったく。」
ナザリック最強を誇る五人を相手にしてまだ物足りないとは、感心を通り越してただただ呆れてしまう。
「彼女の気まぐれというのが非常に
「多々ございますが…恐らく可能性として一番高いのは、ローザリア様の個人領域であります『
「ふむ、アルベドもそう思うか。」
「はい。この場所からもそう遠くなく、ローザリア様と
こちらの世界に来てから用事もないため訪れたことは一度も無かったが、アルベドの言葉でかつての記憶が思い出される。
『薔薇の教会(ローゼン・チャペル)』――ローザリアが住居として最後まで使用していた彼女の守護領域。
《ユグドラシル》時代、仮想の世界でも自分の信仰を忘れたくないという強い希望から、多くの仲間たちと協力して作り上げたられた彼女の
第六階層の真東に位置するそれは、鬱蒼とした森の中に唐突に表れる聖域である。
教会の周りは奇麗に整地され、柔らかい芝生と美しい花々が絶えず咲き誇る庭が広がる。その脇には小さいながらも清水が湧き出る泉と景色を楽しむために用意されたガゼボ(日本でいう東屋)が織り成す景観は完成されたパズルのようにピッタリと嵌り合い、それはそれは美しかった。
彼女は暇さえあれば教会へ戻り、庭の手入れや、花の様子を観察したりと仮想の世界ながらも大いに生活を楽しんでいた場所だ。
そこへ破壊の化身と化した彼女が今向かっている。
アインズには全く見当がつかなかった。狂い果て、かつての心のより所までをも破壊しようというのか。
「うむ、駄目だな。考えるだけ時間の無駄だ、手持ちの情報が少なすぎる。詳細は彼女にでも直接聞くことにしよう。情報の提供感謝する。」
そう述べたあと、守護者達の前に〈
「これは第九階層の医療病棟に通じている。皆その重症の体をゆっくり休めて療養に励むがよい。此度の務め、誠に大儀であった。」
しかし守護者達は動こうとしなかった。
アインズが不思議に思い見渡すと、彼らの表情が全てを物語っていた。不安、怯え、恐怖にも似たその表情からは快くアインズの提案を受け入れられないといった思いがひしひしと伝わってきたからだ。
アインズは困ったように溜息を吐く。
アルベドが沈黙を破るように、守護者達全員の思いを代表して言葉を発した。
「お言葉ですが、それではアインズ様お一人になってしまわれます!あまりに危険ではないでしょうか!どうか、どうかご再考を!!誰かお一人でもアインズ様の壁となれるよう御傍にお付けすることをお許しください!!」
アルベドの言う事はもっともだろう。至高の41人により創造された選ばれし九人の内、五人が束になってかかっても勝てなかった相手をたった一人で相手するというのは、ハッキリ言って“愚か”としか言いようがない。ましてやナザリックの支配者たる存在の一柱が我を失ってその座から離れてしまっている今、最後の一人であるアインズさえも失ってしまってはこのナザリック地下大墳墓を統治できる人物がいなくなってしまうからだ。配下としてこれ以上に避けたい未来は無く、無礼を承知で君主に考えを改めることを具申するのは部下の鑑と言えるほど至極当然の判断だ。
何よりも、アインズの物言いから「お前たちはもう用済みだ」と言われている気がしてならなかったのだ。
創造主から必要とされなくなることは即ち、“死”と同意義でありむしろそれ以上の恐怖を彼らに与える。
《ユグドラシル》そっくりの異世界に来て、ナザリック地下大墳墓に居るすべてのキャラクターとコミュニケーションが取れるようになってもう数か月、それなりの時間を共に過ごしてきたアインズはNPC達の思考の根底にそういった共通認識があることを知り、またそれが全ての原動力となっていることも理解した。
だからこそアインズは彼らが何を考えているのか手に取るようにわかった。
―――「アインズ様が死ぬくらいなら、代わりに自分が死ぬ。」
見上げた自己犠牲の精神だ。
だがそれでは全員が生き残った意味がないのだ。それを彼らはまだ理解できていない。
「大馬鹿者が!!」
明確な怒気のこもった咆哮に、ビクリと全員が肩を震わせる。
それから静かにアインズは言葉を繋ぐ。
「もう少し冷静になれ、お前たち。よいか?今のお前たちを全員侍(はべ)らせたところで肉壁どころか弾除けにもならん。いたずらに死人を増やすだけだ。それに手負いの者と共に戦ったところで気になって集中することなどできる訳がないだろう。アンデッドの私が言うのも可笑しいが、私はナザリックに住む者の死体など誰一人として見たくはないし、出させもしない。今のお前たちにできることは私の犠牲になることではなく、しっかりと体を治し次の仕事をこなすことだ。御覧の通り、ローザリアのお陰で暫くは仕事に困らんだろうからな。」
皮肉も交えて結構良いことを言ったつもりなのだが、自己犠牲を第一に置いている彼らにはいまいちピンとこないらしく、納得できるようなできないような微妙な表情を浮かべている。
アインズは心の中で盛大に溜息をつき、とっておきの脅し文句を垂れる。
「…それとも何か?お前たちはこの私が“負ける”とでも思っているのか?」
「「め、滅相もございませんっ!!」」
精一杯不機嫌そうに言ったことが効果的だったらしく、目に見えて守護者達が慌てている。
「さぁ、話が分かったなら門が閉じる前にさっさと動け。一人で立てぬものは私が手を貸そう。」
守護者達を次々と〈
「アインズ様…あの…その…。」
珍しく口ごもる彼女は何かを言いたげに一生懸命口を動かすが、言葉がついてこない。
『モモンガを愛している』という呪いをその身に受けながら、それを事実であるかのように誰よりもアインズの事を考え、悶え、愛してきたアルベドはどうしても心配で堪らなかったのだ。そう、それはまるで戦地に赴く夫を見送る妻の様に…え?目を覚ませ?一体何を仰っているのかさっぱりですわ。
「何も心配することはない、後の一切を全て私に任せよ。必ずローザリアを止めて見せる。」
アインズの自信に満ちた言葉に何も言えなくなってしまったアルベドは最後に「どうかご無事で。」と残し、恭しく頭を下げながら門の中に姿を消した。
全員通過したことを確認し、手を軽く握るような仕草で門を閉じる。
誰もいないことを改めて確認し、凝り固まった背筋を伸ばす様に思いっきり背伸びをした。
「はーぁ、あんだけ大見得切ったんだ。…絶対に止めて見せますよ、ローザリアさん。」
ポツリと呟くように、しかし決して決意が揺らがぬように声に出して自分を奮い立たせる。
「さて『
焼け野原の先、炭と化した東の森に一本の道が作られていた。
しかしそれは道と言うよりも“正面にあった物が邪魔だからぶっ飛ばして進んだ跡”にしか見えない。
「まぁ、とても分かり易くて助かりますよ。」
アインズは〈
まるで定規を使って線を引いたかのようなその跡は、森と言う緑のキャンパスに白い絵の具で一本の線が描かれているようだった。
“
空気中には焼け野原で蔓延していたむせ返るような濃さの魔力の残滓と同じものが漂っており、ローザリアの存在が近いことを表している。
目的の場所へ近づくにつれその濃度は更に濃くなり、今では色がついて目に見えそうなほどだ。
(見えた!…ん?どうした、これは…?)
目的の教会が見えた時、同時に目的の人物も視界に捉えた。だが何やら様子がおかしい。
アインズは当初、教会へと到着した彼女はその破壊衝動のままに破壊の限りを尽くしているものだと思っていた。
ところが現実はと言えば、想像とかけ離れた姿でローザリアはそこに居た。
教会の入り口から数メートル離れた位置で無防備に立ち尽くす彼女を、地中から
余りにも異様な光景だったが、彼女が急に暴れ出すような気配は感じられなかったため、十分注意は払いつつも彼女の後方10メートルほどの位置にアインズは静かに降り立った。着陸した時、心なしかアインズの影が一瞬だけ揺らいだように見えたが、そんなことよりも目の前の光景の方が遥かに気になる。
(教会が傷つけられていないのは幸いだが、どうしてこんなことに。一体彼女に何があったんだ?)
「ヨウヤク、来タカ。」
「!!」
アインズが来ることを待ちわびていたかのような口ぶりで、突如目の前の存在が話しかけてきた。
彼女の死角とはいえ気配も殺さずに近づいたのだ、自分の存在に気が付くのは当然として、今までほぼ絶叫しか発していなかった彼女側から
「これは驚いたな…まさか言葉を解するとは思わなかったぞ。」
「ハハ、ハ言ッテクレルジャ、ナイカ。」
アインズは気安い返事で答えるが、それは彼女とコミュニケーションが取れかどうかを確かめるためだ。そして彼女はそれに答えた。会話が成立すると分かった以上、なんとしてでも彼女との会話で情報を引き出したいところだ。
「しかしまた随分と…いい趣味をしているな。君は縛られるのが好きだったのか?」
「ハハハッマサカ!ソンナ訳ナイダロウ?マンマト
表情が見えないためどういう感情なのかは定かではないが、彼女はなぜか楽しそうに話す。
「ほう?してやられたとは、私以外にもお前を罠に嵌める様な者がいたということか?」
アインズの記憶が正しければ、守護者を含め全員がアインズを残しこの第六階層から避難したはずだ。そんな中で王命に背いてまで彼女をこのような状況に陥れる様な者が居たとは考えにくい。なにより彼女を縛る存在が異過ぎる。あんな物で縛る拘束魔法は自分ですら知らない。
「ヒヒッ、アアソウサ。手ッ取リ早ク“ヤツ”ヲ黙ラセヨウト思ッテ
呆れたように言う彼女は、やはりどこか楽しそうである。
いや、それよりも重要なのは今彼女が動けないという事実を手にする事が出来た。もちろん嘘である可能性もあるが、これはまたとないチャンスである。今のうちに更に情報を引き出し、戦闘を有利に備える事が出来るだろう。
「なるほどな。さて、ここで一つ聞いておきたいんだが―――お前は
先程までの楽しげな雰囲気が、彼女からはたと消えた。沈黙が二人の間に訪れる。
ここまで彼女と会話をして気が付かない筈が無い。
彼女の発する声は紛れもなくローザリア本人そのものだ。だがその声音にかつての高潔さは無く、凛としながらも母のようであった優しさは微塵も感じ取れない。そもそも口調がまるで別人だ。
だからいま自分と言葉を交わしているのがローザリア本人でないことは一目瞭然だった。では誰なのだ?彼女の口を借り、声を借り、体まで乗っ取って好き放題している目の前の存在は、いったい“誰”だ?
アインズはその疑問に対する答えを一つだけ導き出していた。しかしそれは余りにも理解の範疇を超え過ぎている。スキルの変質は前例があるためまだ納得の余地はあった、だがこれは、もしこれが本当に答えなら、それは
(あり得るのか、本当にそんなことが…しかし…)
沈黙を先に破ったのは彼女だった。しかして以前よりも楽しそうに彼女は嗤う。
「ククッ…カカカッ!俺ガ誰カダッテ?意地悪ナ質問ヲシテクレルジャァナイカ、
その一言で、アインズはついに認めざる負えなくなってしまった。否定し続けたその答えを。
「そうか、やはりそうなんだな…貴様は―――“〈
驚愕の声でアインズはその名を叫んだ。
“スキルの自我保有化”――それが導き出した答えだった。
この異世界に来てからと言うもの、とても多くの信じがたい事柄が起きた。だがそれらのほとんどは次第に慣れたり、すぐに対応できたりする言ってしまえば取るに足らないものだった。いまなら柱に掘られた
だがこの問題はその比ではない。何故ならもしこれが実現されてしまえばもはや自分の身を完全に守ることなど事実上不可能になってしまうからだ。
保有する数百ものスキルにいつどんな時に自我が芽生え、意思を奪われ、自分が自分でなくなってしまう恐怖に怯える日々を送らなくてはならない。そしてそれは他人でも第三者でもなく自分の身の内から起こるため、防ぐ手段などありはしない。
だからアインズは祈るしかなかった。あれだけ核心めいて言った言葉をを鼻で笑う様に彼女の口から「ハズレ」と言ってくれることを。こんなバカげた考えを認めることが無いように。
「フフ、
しかし現実は非情だった。
アインズは絶望し、彼女は見事に自分の正体を見破った正解者へと称賛の拍手を送る。
(
その一点で、衝撃の事実に打ちのめされ失われかけた思考力が生気を取り戻した。
「ヒヒッ。アーァ…イイ加減
気づいた時には彼女を覆いつくす様に縛り付けていた無数の電線がボトボトと力なく
「ナンダァ?間抜ケナ面シテ、豆鉄砲ナラ売リ切レダヨ。ソレトモテメェハ俺ガイツマデモ捕マッテル馬鹿ダトデモ思ッテタノカ?」
アインズはここにきてようやく己の失態に気付かされ、心の中で大きく舌打ちをする。
情報戦を第一とするアインズは、意思疎通が困難であった相手とコミュニケーションが取れると分かった以上、当然情報を聞き出してくることはかつて仲間であった彼女なら予想していたことだろう。そしてまんまと乗せられたアインズはベラベラと喋らせる隙を作り、彼女に時間を与えてしまったのだ。
彼女は体が自由になったことをアピールするように首をバキバキと鳴らし、人体ではありえないような挙動で全身の関節を動かす。
「ッタク、クソアマガ、ガッチガチニ縛リヤガッテ…。サーテ、俺ノ正体ヲ見破ッタアインズ君ニハ“イイモノ”ヲ見セテヤロウ。」
そしておもむろに両手を合わせ、開いた。その上には、見覚えのある十字架が乗せられていた。
「それは…《
「ソ、《
トリガー・ハッピーの言う通り、それは紛れもなく《
神聖さの象徴である透き通るような純白は失われ、その身は汚泥にさらされたかのように黒く穢れ、淀んだ闇を宿していた。かつての輝きは欠片も残されていない。
ローザリアに指の関節でコツコツと表面を叩かれると、十字に交差する部分にあしらわれた深紅の薔薇が呼応するように淡く光った。
「ふあーぁ…おはようございまふ…んぁ?あれ、えーっと…メモリーの調子ガガガ…ここは誰?私はどこ?なんだか気持ち悪いのが体の中に入って来たとこまではは覚えてるんだけど…」
マーシーの発する言葉に連動して、薔薇がチカチカと点滅する。
「オウ、シカト決メ込ンデンジャネェヨ。」
ドスの効いた声で呼びかけられ、思わず小さな体をびくつかせる。
「おおっとこれはこれは、寝起きで目が眩んでおりました。ご機嫌麗しゅうございます(?)。あーその、大変申し上げにくいんですけど、一体全体
トリガー・ハッピーの雰囲気が剣呑なものに一変する。
「ア゛ァ゛?本格的ニ逝ッチマッテンノカ?テメエヲ起動デキンノハ一人シカイネエダロウガ。ソレトモ、ゴ主人様ノ顔モ覚エラレナイポンコツハ今スグ
「なんとぉっ!?」
思いがけず全てを悟ったマーシーは、ギリギリと身を締め付ける彼女の握力が耐久力の限界を超えないうちに取り急ぎ弁明する。
「はっはまさか、寝起きの
「ケッ、舌ダケハ相変ワラズヨク回ルミタイダナ。オラ、トットト
「おんやぁ?私のトランスフォームはマスターの声帯認証が
再び暴力的に体を握られ、マーシーはヒキガエルの様な呻き声を上げる。
「阿保カテメェ?誰ガヤルカヨソンナコト。…イイ加減俺ノ我慢ガ効ク内ニ言ウコト聞イテオケヨ?」
先程よりも更にドスの効いた忠告を受け、小さい体を更に小さく
「ヒエッ…ウス、サーッセンシタ。エー…オホン。それでは、改めまして…自立展開シークエンスを発動します。武器展開コードを声帯認証から
「待てっ!止まるんだ《
「4,3…およ?」
予想だにしていなかった突然の第三者の介入により、中途半端な状態で変形が止められる。
声の聞こえた方へと視覚センサーを向けるとなにやら見覚えのある骸骨が目に入った。
「おや、貴方はご主人様のお友達のモモンガさんではないですか!こんなところで会うなんて、いやはや奇遇ですねー。あれ?いや、もっと最近会ったようななかったような…?んー、まぁいいや、ご主人様に怒られちゃいますんでお話はまた後程…」
「待てと言っている!」
アインズは再度武器形態へと移行するマーシーを再び呼び止めた。
「んもう!何ですか!?お話は後でって言ったじゃないですかっ!ほらぁ!こうしてる今もご主人様が私を握る力がどんどんと強くウオオ…」
「少しでいい、話を聞いて欲しいのだ!今君が主人と言っている人物は君の本当の主人ではない!この異世界に歪められた存在が体を乗っ取り操っている!私はその存在から彼女を開放したい。君もローザリアに忠を尽くす武器ならば、私と共闘し彼女を救ってはくれないか!?お前と一緒なら必ずローザリアを取り戻せる!」
これは賭けだ。《
「
しかし返ってきたのは不気味なほど何の感情も含まれていない感嘆詞だけだった。
「なっ、それだけか?」
驚くほど呆気ない返答は流石に予想しておらず、アインズは思わず聞き返してしまった。しかしそれが仇となり、アインズの意図を汲み取ったマーシーは幾分か声のトーンを下げ、冷ややかに告げる。
「モモンガさん、何か勘違いしてませんか?」
声は冷ややかなままに、変形をゆっくりと再開させる。
「私はローザリア様に使役されるべく造られた、たった一つの
とうとう堪え切れなくなったのか、トリガー・ハッピーは大きく口を開けて盛大に嗤う。
「キハハハハッ!ダァッテサ、アインズゥ?当テガ外レタナア?」
両手を軽く広げ挑発する姿は、さも「ザマアミロ」と言っているかのようだ。
(くそっ、こいつ初めからわかっていて口を挟まなかったな…!)
何度目になるかわからない舌打ちを心の中でし、アインズは憎々し気にローザリアを睨みつける。
「当テガ外レテ声モ出ネェカ。ンジャア最後ニ冥途ノ土産デ教エテヤロウ。俺ハ少々特殊デネ、自我自体ハコッチニ来ル“前カラ”有ッタノサ。」
「なにっ!?それはどういう意味だ!」
アインズの懸念を覆す衝撃的な発言を受け、思わず食い気味に問いただす。
――――ザンッッッ!!!!
しかしトリガー・ハッピーは一瞬と言う言葉でも足りないほどの信じられない速度で距離を詰め、いつの間にか身の丈ほどもある大砲へと変形させていた《慈悲の十字架(ザ・クロス・オブ・マーシー)》を胴体へと突き付けた。
避ける隙など、何処にもない。
「言ッタダロウ?
眩いばかりの赤い光が二人を包み込み、アインズの背後にあった森は跡形も無く蒸発する。
光の収まるころには広大な焼け野原が広がり、真正面に立っていた人物は足首から下を残して全て消え去っていた。
「ケッ、ナァンダ全然大シタコトナイジャネェカ。アノ
「あーあ、見事に一面焼け野原ですねご主人様。けど、本当によかったんですか?命令通りに消し飛ばしちゃいましたけど、ご友人だったんでしょう?」
「アァ?知ラネエヨソンナモン、俺ニトッチャ全員ゴミダ。ハーツマンネ…コレカラドウシタモンカナァ。」
マーシーを元の十字架の形に戻すと、どこからともなく数珠が生え首からぶら下げた。
「ソウダナァ…ヨシ、取リ敢エズココニ居ル奴ラ全員ブッ殺シテ、ソノ後ハ外ノ世界モ
そしてそのまま腕を組み人の様に考える真似事をしながら焼け野原と化した荒れ地を歩き出した。
「ッ!?」
しかし超人的な反応速度で歩んでいた足を止めて後ろに高速の回し蹴りを放ち、すぐ背後まで迫ってきていた巨大な火球をその衝撃波で消し飛ばす。
「ナンダァ…?何処カラ撃ッテキヤガッタ」
気配も無く突然攻撃を受け、全身に鋭い緊張感が張り詰める。
臨戦態勢をとりつつ、カメレオンのようにギョロギョロと左右別々に瞳が動き回らせ、くまなく火球が飛んできたであろう方向を観察するが、容疑者となる様な人物は見つけられない。
真っ先にアインズを仕留め損ねたかと考えたが、先程の手応えは確かなものであり、依然としてヤツの足首は数十メートル後ろに残されていることからも考えにくい。
では一体誰が?気配も感じさせず一体何処から?
その瞳に映る光景の大半を占めるのは、焼け野原の只中にありながらも、神聖な輝きを放つ純白の教会、『
確証は無い、けれど直感が告げている。
「ッチ、ヤッパブッ壊シテオクベキダッタナ。」
ローザリアは再び《
「ウオッ!?」
しかし照準を合わせた途端、視界が“ERROR”の文字で赤く染まり、バスターライフルをつがえていた両腕は強力な重力に押さえつけられるかのように地面へと強制的に引きずりおろされる。
誰の所業かなど、考えるまでも無く一目瞭然。
反抗する余地を
《あなたに『
「ギギギィ!マダ抗ウカ!ローーザリアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!」
激昂の叫びをあげるトリガー・ハッピーだが、両手はおろか、気付けば両足までもが制御不能に陥り、立っていることすらままならなくなって跪くように姿勢が崩れ落ちた。
「情けない姿だなトリガー・ハッピーよ。その様子だと、まだ君の中で彼女は頑張っていると見える。」
どこからともなくもうこの世には存在しない筈の声が木霊する。
「アァ…最悪ノタイミングデ出テクルトハ、アンタモイイ神経シテルヨ、アインズゥ!」
バスターライフルでの攻撃は諦め、声の主へと自身の体に備え付けられた砲門からやたらめったらにレーザーを放った。しかしそのどれもは真正面にある筈の教会を避ける様な軌道を描いて飛び、背後へと着弾して大爆発を起こす。
「チクショウメ!!」
トリガー・ハッピーは途端に思い道理に動かなくなった体に悪態をつきつつ、前方を睨みつける。
その視線の先、教会の一番高い位置にある
「もう一つ言えば、索敵機能も働いていないな。今の攻撃で一点攻撃をしてこなかったのも、数を撃てば当たると思ったからだろう?彼女の頑張りでその算段も外れたようだが、俺の位置が分かっていたならば収束させていた筈だ。まあそれも
アインズはおもむろに懐に手を入れ、取り出したのは《
それを目にしたトリガー・ハッピーは悔し気に瞳を細める。
「《
《
それは一切“動かない”と言う事だ。所詮は使用者の皮を被った只の人形であり、【
「イツカラ入レ替ワッテヤガッタ。」
「無論、初めからだとも。お前の正体にはある程度当たりをつけて色々用意していた。もし見破られて破壊された場合は他の策を実行したまでだが、存外素直な性格をしているのだなお前は。」
だが、今回に限りそのフェイクは有効に働いたようだ。アインズの言った通り初めから彼女を〈
「少し考えればわかると思うがな。俺を殺そうとしてくる相手を馬鹿みたいにゼロ距離まで近づけると思うか?」
やれやれと言わんばかりにアインズは両手をやるせなく広げる。しかし内心はそうも言っていられなかった。
何故ならば、あの人形は現状できる全ての加護や防御を自身に掛けた状態を引き継いでいた。にもかかわらず、一瞬で吹き飛ばされてしまったのだ。彼女のステータスがいよいよ化け物じみていることの証明をまざまざと見せつけられたようなものである。
“当たれば死”こんなに分かり易い立場は《ユグドラシル》を始めた初期の頃を思い出す。
しかし今はそれと比べ物にならない状況だ。《ユグドラシル》ではたとえ死んだとしてもデスペナルティがつくだけで、本質的な死は無かった。だがこの異世界では勝手が違う可能性は大いにある。デスペナルティすら発生せずそのまま本当に死ぬのだとしたら、このナザリックを守るものとして絶対に“DETH”は避けなければならない。
「彼女の頑張りを無駄にするわけにはいかない。この好機、存分に使わせてもらう。」
反撃の狼煙をあげたアインズは、両手の間に眩いばかりの雷を奔らせる。
両手から零れ落ちた蒼雷は大気を
膨大な魔力が込められた雷はその形を
「食らうがいい、〈
豪速で放たれた雷槍は空中でいくつにも分裂し、雨の様に降り注がれる。
「ヌゥアアアッ!!小癪ナァ!」
無数の槍はトリガー・ハッピーの体を容赦なく貫き、またそれ以外の槍も深々と周りの地面へと突き刺さる。当然それだけでは終わらない、槍と槍の間を稲妻が奔り、まるで網のように張り巡らされる。
アインズが放った〈
アインズの持つ魔法の中でも上位に食い込む強力な攻撃魔法だが、これで彼女の〈
アインズは鐘楼から飛び、動けなくなったトリガー・ハッピーのすぐそばへと降り立つ。
「何とでも言うがいい。いかに圧倒的な力を手に入れようと、それが自らの制御を外れたものならば“無力”であると知れ!〈
動けないトリガー・ハッピーの背後に黒く渦巻く異次元の門が開かれる。
すかさずアインズは〈
『今だっ!!!』
「ウォオッ!?」
アインズの叫びと同時に次元の門から何本もの太い植物の
アインズも同時に門を通り抜け自分が開いた
目の前には無数の蔓により地面へと磔にされるトリガー・ハッピーの姿があった。そしてその周りを取り囲むように複数の巨大な蛇のような姿をした植物属モンスターが体から一般的な木の幹ほどもある蔓を彼女に向け伸ばしていた。
この巨大なモンスターは『プレデター・ギガ・プランツ』と呼ばれ、ここ呪縛の森の生態系の頂点に立つ存在である。Lv80代の高レベルモンスターであり、《ユグドラシル》では自然には存在しないギルドメンバーに作られたモンスターだ。
その能力は高く、攻撃力守備力共に高ステータスで、且つあらゆる弱体系スキルに耐性を持つ。スキルもそこらの同レベルMOBに比べはるかに多く所持し、その多くは毒などの状態異常系で、見た目に反しじわじわと相手を嬲り殺す様な戦い方を好む。
彼らは今回の作戦の肝とも呼べる存在であり、故にこの場所で策を実行せねばならなかった。
「ウ、グアアアアアア!!」
〈
「させんよ。」
しかしそれを見越していない訳が無いアインズは、次の手を打つ。
アインズが指を鳴らし、あらかじめ用意しておいた魔法を起動した。すると、彼女の頭上数mの位置に黄色く輝くを小さな魔法陣が現れ、大量の木の実が次々と転送されてはトリガーハッピー目掛けて落ちていく。
果汁の多い木の実であったためか、落下の衝撃でその実が破裂し辺り一面を気味の悪い紫色に染め上げる。
びちゃびちゃと全身を紫色に濡らすトリガーハッピーだが、お構いなしに抜け出そうともがき暴れるも、徐々にその動きが鈍くなっていく。最期にはピクリとも動かなくなってしまった。
「クソ…俺ニ、何ヲシタっ!!」
体は動かなくとも眼孔は鋭く赤く煌めき、アインズを睨みつける。
それにひるむ素振りもなく、アインズは軽く答える。
「なに、これだよ。」
そうして懐から取り出したのは、今もトリガーハッピーに降り注ぐ木の実の一つだった。
「“帰さずの実”。まさか知らぬわけではあるまい?」
「アア…チクショウ、チクショオオ!」
アインズの言った“帰さずの実”とはこの森に多く群生するツル植物が実をつける果実である。
呪縛の森のそこかしこに転がっており、その実は皺ひとつないツルりとした見た目をしている。このどこにでもある様ななんの変哲もない実にはある特徴がある。それは非常に
そんな虚弱な割れた実の中からは、見た目からは想像できないほど大量の果汁をあたりに一面にぶちまけるのだ。
この実が“帰さずの実”と呼ばれる所以はこの果汁にある。この紫色の果汁には『浴びた者のMPを少し奪取する。』というデバフ効果がついている。その効果の通り、木の実一つ当たりのMP奪取量は微々たるものだ、100レベルのプレイヤーにとって到底脅威とはなりえない。ただし、このデバフ効果は何重にも重なる(・・・・・・・)のだ。
たとえ一個では何ともなくとも、これが100、200と重なった時、そのMP奪取量は看過できないものになる。そして真に恐ろしいのはMP奪取ではない。この果汁はMPを一定数吸い取ると蒸発するのだが、その時とても強烈な甘い匂いを放つ。この甘い匂いはこの森の頂点に君臨するプレデター・ギガ・プランツを刺激し、招き寄せるのだ。
MPが少ない状態で、プレデター・ギガ・プランツとの戦闘を強いられるのは例え熟練のプレイヤーであったとしても勝利するのは難しい。故に、この森に入ったものを
もちろん理屈さえ分かってしまえば対策など容易なのだが、今回に限りトリガーハッピーに対して非常に有効となる。
「貴様の様に、体を動かすのにも逐一魔力を消費せねばならない者にとっては地獄の様な効果だろう。さぁ、存分に味わうがいい。」
再び指を鳴らすと先程の倍の量が魔法陣から零れ落ち、もはや雨の様である。
ここまで執拗に彼女の魔力を奪う理由は、いかに魔力を奪えると言っても一過性のものにすぎず、彼女の場合時間経過で魔力を大量に生産することが可能なため、行動を制限するためには継続的にこの果汁を浴びせ続けなければならないからだ。
「さて、頃合いか。」
うんともすんとも言わなくなったトリガーハッピーの姿を確認し、アインズは作戦を次の段階へと移行させる。
「皆これより魔法陣を起動する、私の掛け声と同時に彼女の拘束を解け。安心しろ、もう奴は動けん。でなければお前たちの大事な触手が溶け落ちてしまうからな。」
アインズは片膝をつき、両手を地面へとつけると魔力を地面に描かれた魔法陣へと流した。
「物質転送魔法陣起動準備、第二階層から第六階層までの臨時バイパスを形成、初期転送座標を第五十八トラップルームの底面へ固定、開通後は第六層に形成したループ機構へ移行させ、終了命令まで継続。ギルドリーダー権限にてこれらの一時的変更を承認する。」
アインズから流れ出る魔力は、水が細いホゾをなぞる様に魔法陣の模様へと流れ込み、その姿を徐々に露わにしていく。それは地面だけではなく空中にも表れ、合わせ鏡のようにトリガーハッピーを挟み込む。
全ての模様に魔力が流れ込んだ時、魔法陣はトリガー・ハッピーの頭上にある小さな魔法陣と同様に黄色く輝き、辺りを明るく照らした。
「転送魔法陣形成完了。これより起動する、皆準備はいいか!」
アインズの問いかけに、周囲のプレデター・ギガ・プランツ達は無言で頷き同意を示した。
「よし、ではゆくぞ!カウントダウン、3、2、1…魔法陣起動!!」
掛け声と同時に拘束が解かれ、直後に上空の魔法陣から滝の如く透明な液体が降り注いだ。
「
耳を
この透明な液体こそ、あらゆる物質を溶かし消滅させる《ユグドラシル》最強の酸、〈極酸〉である。そしてあらゆる攻撃を受け付けない鉄壁の彼女が持つ唯一の弱点。
酸耐性を高めるための体表を覆う液体金属が存在しない今の彼女に、この弱点だけに特化した攻撃を防御する術はない。
「アアアアアアアアアアアアッ!!!」
身をよじり、もがき苦しむ姿は思わず目を背けたくなる光景だった。
酸の滝は容赦なく彼女の体を溶かし、犯し、蹂躙していく。
「オノレ!…オノレッ!!…オノレェエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!!貴様ダケハコロシテヤル!殺シテヤルゾ!!モモンガァアアアアアアアアアアアアアア!!」
憎しみと憤怒に満ちた叫びを最後に、糸の切れた人形の如く全身から力が抜け、ガシャリと音を立てながら力なく地面へと這いつくばった。
「…。」
アインズは無言のまま魔法陣を停止させ、ゆっくりとトリガーハッピーの下へと歩み寄る。
目に映る彼女の体は酸による浸食で赤黒く錆び、所々穴が開いて見えるばかりか右腕は肩から外れ落ち、両足は膝から下の骨格が溶けて無くなり、露出した電線からは火花が散っていた。
「〈
アインズの魔法によりローザリアの体が薄緑色の光に包まれ、全身に付着していた酸が全て排除された。
ボロボロの彼女を抱き上げ、最後の行程を実行する。
「起きてください、ローザリアさん。〈
ローザリアの額に当てられたアインズの人差し指からパリッと一瞬電気が放たれ、同時に彼女の体が小さく跳ねる。
完全に〈
少しして、暗く光が灯ていなかった瞳に若草色の輝きが明滅する。
「ア、イ…ンズ…さ、ん…?」
掠れ、蚊の鳴くような小さな声。
しかしそれは紛れも無く、疑う余地も無く、待ち焦がれたローザリアのものだった。
アインズの胸に熱い感情がこみ上げる。この気持ちだけは抑制されてほしくないと願うばかりだ。
「あぁ…おかえりなさい、ローザリアさん。」
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次回で2章最終話となります。